毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 文化祭が二週間後に迫って、放課後の教室は工作室みたいになっていた。

 二年三組の企画は、予定どおりたこ焼き屋。屋号は多数決で「たこ焼き三組」に決まり、そのひねりのなさに高瀬が一人で頭を抱えていた。

「もうちょいあったやろ。『たこたこ軒』とか『粉もん御殿』とか」
「どっちも却下されてたな」
「名古屋、ネーミングの心が死んどる」
「放課後まで名古屋批評するな」

 準備は、それなりに楽しかった。それなりに、というのは、隣で転校生が三十分に一回は停止するからだ。

 実行委員の「B紙もらってきて」には「なんの暗号なん?」と停止し、看板の下書きが終わって教室のレイアウトに入ったところで、二度目が来た。

「そこの机、つっとってー」
「……吊る?」

 高瀬はしばらく、無言で天井を見上げた。

「どこに吊るん?」
「運ぶってことだわ」
「名古屋、日本語のルールどこいったん」

 看板作りでは、高瀬が「任しとき」とマジックを握り、たこのマスコットを描いた。出来上がったのは、たこというより宇宙から来た何かだった。

「下手すぎるだろ」
「味があるやろ」
「味しかない」

 結局その宇宙だこは、真野の「逆に目立つ」の一声で採用された。高瀬は「せやろ」と胸を張り、湊は最後まで納得がいかなかった。


 そんなある日のホームルームで、日比野が言った。

「あー、それから。ステージ企画の出演枠がひとつ余っとるらしい。有志で出たい奴がいたら職員室まで」

 教室は無反応だった。軽音部の連中はもう申し込んでいるし、ダンスをやる女子たちも別枠で出る。湊も当然、聞き流した。





 三日後の昼休み。購買帰りに何気なく見た、渡り廊下の「文化祭ステージ企画・出演一覧」。軽音部、ダンス同好会、三年の有志バンド、演劇部――その一番下に、見慣れた字面があった。


 【二年三組 水野湊・高瀬律(漫才)】


 パンを落としそうになった。

 二度見して、三度見して、それでも文字は消えなかった。

 しかも、話はもう広まっていた。廊下ですれ違った隣のクラスの奴に「漫才出るんだって?」と言われ、階段では知らない女子たちに「楽しみにしてるね」と声をかけられた。

 外堀どころか、本丸まで埋まっている。

 教室に戻ると、当の男はいつもの逆向きの椅子で、のんきに菓子パンを食っていた。

「おい」
「ん? なんかあったん?」
「掲示板」
「ああ、出しといたで」

 けろりとした顔で言った。出しといたで、じゃない。

「なんで勝手に決めるんだて!」
「あ、名古屋出た」
「今そこじゃない!」

 教室のあちこちで笑いが起きた。いつもの漫才が始まったと思ったのだろう。

 ちなみに「二度とこいつの前で怒らない」と決めたのは、つい先月のことだった。決意は一か月ももたなかった。

 だが、違った。今回は、笑いごとじゃなかった。

 声の震えで、自分でも分かった。今、俺は本気で怒っている。

「取り消してこい。今すぐ」

 教室の笑いが、遅れて引いていった。

 高瀬の顔から、すっと表情が消えた。

「……悪かった」

 まっすぐこっちを見て、言った。

「断られたら消すつもりやってん、ほんまは。締め切りが昨日で、名前だけ先に書いてしもて――いや、ちゃうな。これ全部言い訳や」

 それから高瀬は、少しだけ声を落とした。

「ほんまのこと言うとな。あんとき湊、嫌や言うたけど……ほんの一瞬だけ、迷った顔しとったから。いけると思てん。俺の読み違いや」

 迷ってない、と言い切れない自分がいた。それが、また腹立たしかった。

 高瀬は立ち上がった。

「ほんまに嫌なんやな。分かった。一緒に取り消しに行こ」

 そこまでが、早かった。守りに入らない謝り方だった。

 振り上げた怒りの、下ろす場所がなくなった。





 職員室の日比野は、湯飲みを片手に一覧表を眺めて、あっさり言った。

「別にいいぞ、辞退しても」
「え、いいんですか」
「ただし」

 湯飲みが、こつんと机に置かれた。

「枠はもう埋まっとる。プログラムの印刷は明後日だ。辞退するなら、代わりの出し物を自分で見つけてこい。ステージに穴を開けるわけにはいかんからな」
「そこまで面倒みる義理、ないでしょ」
「一覧に名前が載っとるのはお前らだ。……それにな」

 日比野は湯飲みを取り直して、ずずっとすすった。

「俺は割と、楽しみにしとった」
「知りませんよ」

 言い返したものの、勝ち目はどこにもなかった。

 誰がこの状況を作ったんだと隣をにらむと、犯人は神妙な顔で頭を下げていた。頭を下げながら、目だけでこっちを見た。

 廊下に出て、二人で壁にもたれた。

「詰んだ……」
「なあ、湊」
「何」
「一回だけ、やらへん?」
「……」
「一回だけや。一回やって、伝説つくって、きれいにやめたらええ」
「伝説って何だよ」
「さあ。つくってから考えよ」
「順番がおかしいんだよ」

 つっこみながら、湊は自分の声から怒りが抜けていくのを感じていた。詰んでいるからだ。詰んでいるから、仕方なく。

「……一回だけだからな」
「よっしゃ」

 高瀬の顔が、ぱっと明るくなった。

 こいつのこういう顔は、ずるいと思う。

 ――その日の夕方には、「あいつら結局やるらしいぞ」という話が学年の隅々まで届いていた。発信源は、考えるまでもなかった。





 その帰り道は、どちらが言い出すでもなく、いつもの道を一本外れた。

 途中の文房具屋で、高瀬が突然ノートを買った。表紙が無駄に立派な、B5の大学ノートだった。

「形から入るタイプかよ」
「大事やで、形。中身まだないんやから」
「自覚あったのか」

 初めて通る細い路地に、その店はあった。

 古い木の扉。色あせたひさし。扉の横の看板に、四角い字でこうあった。


 ――喫茶アンモナイト。


「なんなんこの店名。化石やん」
「見りゃ分かる」
「入ってみよか」
「は?」
「作戦会議や。漫才、どうやるか決めなあかんやろ」

 やるとなったら早い男だった。

 高瀬が扉を押すと、からん、と鈴が鳴った。

 中は薄暗くて、古い木の匂いがした。壁一面のレコード。年季の入ったカウンター。その隅に、両手で抱えるほどの大きさの、渦巻き模様の石が鎮座していた。

 白髪のマスターが、無言でおしぼりを二つ置いた。

「ブレンド二つください。……なあマスター、それ、ほんまもんなん?」

 マスターはうなずいた。それだけだった。

「何年前のなん?」
「……一億年」
「一億!?」

 会話はそれで終わった。マスターは奥へ引っ込み、サイフォンの音だけが響いた。

 窓際の席に落ち着くと、水のグラスの底まで冷たかった。低く流れる古いジャズは、会話の邪魔をしない音量だった。

 一億年、と高瀬が繰り返した。

「一億年前の石の隣で、俺ら十六年の悩みを相談すんの、ちょっとおもろいな」
「悩みっていうか、お前がまいた種だけどな」
「めっちゃええ店やん……」

 高瀬が小声で言った。珍しく、圧倒されていた。

 メニューは手書きだった。ブレンド、カフェオレ、クリームソーダ、小倉トースト。端のほうに小さく「おかわり半額」とあり、高瀬が「良心の塊や」と拝んだ。

 コーヒーはブレンド一杯三百円だった。高校生の財布にも優しい。味は、正直よく分からなかったが、うまい気がした。

 高瀬はメニューを眺めて、また停止した。

「なあ、この『モーニング』て何? コーヒーの値段でトーストとゆで卵付くて書いてあるで。誤植やろ」
「誤植じゃない。名古屋の喫茶店は、朝はだいたいそれだ」
「……なんで?」
「知らん」
「……今度の土曜、朝ここ来るで。この目で確かめなあかん」
「なんの使命感だよ」

 それから二人で、さっき買ったノートを開いた。高瀬が表紙にマジックで「ネタ帳」と書いた。字も、たこ同様に癖が強かった。

「で……ネタて、どうやって書くんや?」
「俺が知るか」
「お前、国語の成績ええやん」
「国語の授業で漫才は書かん」

 二人で白紙を見つめた。十分ほど見つめて、一行も進まなかった。

「なあ湊。ちなみになんやけど」
「何」
「一回だけて、ほんまに一回だけなん?」
「当たり前だろ」
「そっかー」

 高瀬は残念そうでもなく笑って、ノートの端に、また下手なたこを描いた。

 カウンターの隅から、一億年前の化石が、黙ってこっちを見ていた。





 店を出ると、外はもう夕方だった。

 路地の出口で、高瀬がふいに立ち止まった。

「湊」
「何」
「今日、俺に本気で怒ったやろ」
「……悪かったよ、あれは言い過ぎ――」
「いや」

 高瀬は首を振った。それから、なぜか少し笑った。

「湊が俺に本気で怒ったん、初めてやなと思て」
「……なんで笑ってんだよ」
「さあ。なんでやろな」

 怒られてうれしそうな顔。……この顔は、二度目だ。

 一度目は掃除の時間、ほうきを持ったまま笑っていた、あの顔だった。ただ、今日のは、半歩だけ違って見えた。何が違うのかは、分からなかった。

 変な奴、の記録がまた更新された。

 ――ただ。

 「初めてやな」と言ったあの声がやけに柔らかかったことは、記録しないでおいた。