五月の連休が明けた教室は、全体的に電池が切れていた。
連休は、いつも特に何もしない。どこへも行かず、誰とも会わず、それをもったいないとも思わない。……というのが、去年までだった。今年はなぜか三日目あたりで変な物足りなさに気づいて、気づかなかったことにした。
誰もが休みの続きの顔をしている。そこへ担任の日比野が、六時間目のロングホームルームで爆弾を置いた。
「文化祭のクラス企画、今日決めるぞー。決まるまで帰さん」
六月の文化祭まで、あと一か月ちょっと。教室のあちこちから、うめき声とも返事ともつかない音が上がった。
お化け屋敷は「準備が地獄」で沈み、縁日は「隣のクラスとかぶった」で沈み、クラス映画は「編集できる奴がいない」で沈んだ。定番の案がひととおり出ては、面倒くさいのひと言で海の底へ消えていく。日比野は教卓で腕を組んだまま、助け舟を出す気配もない。
そんな中、誰かが言った。
「たこ焼き屋は? うち、本場の人おるし」
教室中の視線が、窓際の一番後ろに集まった。
「待て待て待て」
視線を集めた高瀬が手を振った。
「俺、たこ焼き作られへんで」
「え、大阪の人なのに?」
「大阪人が全員たこ焼き焼けるんやったら、大阪の街は今ごろたこ焼き屋で埋まっとるわ」
「埋まってるんじゃないの?」
「埋まってへんわ。……まあ、まあまあ埋まっとるけど」
「埋まってるのかよ」
思わず口を挟んだら、教室がどっと笑った。
まただ。また、この流れだ。
結局、企画はたこ焼き屋で決まった。焼くのは調理実習の成績がいい連中で、高瀬は「本場の人」として呼び込み担当にされた。本人は「詐欺やて」とぼやいていたが、まんざらでもなさそうだった。
「呼び込みだけじゃ暇でしょ」と真野が言えば、「ほな合間に大阪弁講座やるわ」と高瀬がボケて、「たこ焼き屋でやる授業じゃないんだよ」と湊が返す。そのたびに教室が笑って、ホームルームはいつになく進みが良かった。
そこで終わっていれば、平和なホームルームだった。
書記の真野が黒板を消しながら、思い出したように言った。
「ねえ、それとは別にさ。水野と高瀬、漫才やれば?」
「やらん」
考えるより先に、口をついて出た。
「ステージ企画、毎年あるでしょ。あの二人なら絶対ウケるって」
「やらん」
高瀬も、ひらひらと手を振って笑った。
「俺も漫才なんかやったことないで」
それで流れるはずだった。流れてくれるはずだった。
「ああ、そういえば」
教壇で出席簿をそろえながら、日比野が余計なことを言った。
「ちょうど今年、高校生のお笑いコンテストがあるらしいぞ。東海高校生お笑いグランプリ。テレビ局がやるやつだ。最優秀賞を取ると、特番に出られるって話だ」
教室がざわついた。
「テレビだって」「すご」「水野、出れば?」「エビフライのやつやってよ」
視線が集まる。笑い混じりの、悪意のない視線が。
――体育館。
スタンドマイクの、細長い影。
自分のものじゃないみたいに遠く聞こえた、あの笑い声。
一瞬で、口の中が乾いた。
「やらない」
思ったより、低い声が出た。
「絶対にやらない」
教室の温度が、すっと下がった。冗談の続きを待っていた顔が、戸惑いに変わっていくのが分かる。しまった、と思ったが、声はもう戻せなかった。
なんであんな言い方しかできないんだ、と自分でも思う。もっと軽く流せばよかった。「俺なんかが出てもスベるって」とか、笑いながら言う手だって、いくらでもあったはずだ。
でも、あの視線の集まり方は駄目だった。理屈じゃなかった。
「まあ、無理強いするもんでもないしな。はい、この話は終わり。たこ焼きの係決めるぞー」
日比野が雑に流してくれて、教室の空気は何事もなかったように動き出した。
ただ一人。
高瀬だけが、頬杖をついて、じっとこっちを見ていた。
「一回くらい、やってみてもええんちゃう?」
「やらない」
「そっか」
あっさり引いた。
◇
その日の放課後は、気が重かった。
ホームルームの空気を思い出すたび、胃の奥がざらつく。明日には忘れられているだろうか。それとも「水野はあの話題でガチギレする」枠で定着するんだろうか。
昇降口で靴を履き替えていると、下駄箱の陰から声がした。
「湊」
声のしたほうを見て、思わず半歩引いた。いつからいたんだ。
「……何」
「俺とコンビ組まへん?」
「断っただろ」
「漫才ちゃうで」
「じゃあ何」
高瀬は真顔で言った。
「一緒に帰るコンビ」
「……意味分からんわ」
高瀬は笑った。どこまでが冗談なのか分からない、いつもの笑い方だった。
「帰り、途中まで一緒やろ。こないだ、湊が坂のとこ曲がるん見かけてん。俺、あそこから先、駅までまっすぐやし」
「見てんじゃねえよ」
「ほな、行こか」
断る理由を探しているうちに、隣に並ばれていた。
帰り道は、しょうもない話しかしなかった。
「なあ、今日の夕飯なんやと思う?」
「知らん」
「エビフライちゃう?」
「うちを何だと思ってるんだよ」
「エビフライの家」
「違うわ」
「ほな何の家なん?」
「普通の家だわ」
途中の自販機で、高瀬はいちごオレを買った。見た目に似合わなさすぎて、つっこむ気力も出なかった。
「なあ、名古屋って喫茶店多ない?」
「そうか?」
「学校から駅まで歩く間だけで四軒あるで。大阪より多い気がするわ」
「数えてんじゃねえよ」
「気になるやん。今度どっか入ってみよ」
「なんで俺も入る前提なんだよ」
文句は言うのに、断る言葉はどこからも出てこなかった。
十五分かそこらの距離が、妙に短かった。
坂の手前の分かれ道で、高瀬は片手を上げた。ここで湊は坂を上り、高瀬はまっすぐ駅へ向かう。
「ほな、また明日」
「おう」
返してから、気づいた。
なんで俺は、当たり前みたいに「また明日」の返事をしたんだ。
玄関を開けると、母が台所から顔を出した。
「おかえり。今日コロッケだで」
「……セーフ」
「なにが?」
「なんでもない」
何がセーフなのか、自分でもよく分からなかった。
いや。分かっていたけれど、考えたくなかった。
◇
それから、毎日だった。
朝は逆向きの椅子で朝メシの報告を聞かされ、放課後になると、昇降口で自然に目が合う。並んで、坂の手前まで歩く。話すのは、しょうもないことばかりだ。昨日のテレビ。購買の新作パン。大阪ではこうだった、名古屋ではこうだ、の言い合い。
「一緒に帰るコンビ」の活動実績だけが、着々と積み上がっていった。
気づけば、坂の手前の分かれ道には名前までついていた。「いつもの角」。命名は高瀬で、湊が承認した覚えはない。
雨の日もあった。高瀬が傘を忘れ、湊があきれて入れてやり、「肩ぬれとるで」「お前がでかいからだわ」と言い合いながら坂まで歩いた。翌日、高瀬はわざわざ礼だと言って、大阪のばあちゃんから届いたというあめを一粒くれた。一粒。
「一粒かよ」
「大阪の味や。味わって食べとき」
教室では服部に「最近、毎日一緒に帰っとるよな」と、にやにやしながら言われた。
「方向が同じなだけだわ」
「はいはい」
解散の話は、どちらからも出なかった。
その日も、いつもの坂の手前だった。
「なあ、湊」
「何」
「文化祭って、ほんまは何がそんなに嫌なん?」
――半歩。
いつもより半歩だけ、深い場所に足を置かれたのが分かった。
湊は前を向いたまま、少し黙った。夕方の風が、二人の間を抜けていった。
「……別に。人前が好きじゃないだけ」
「そっか」
高瀬はそれ以上、聞かなかった。
代わりに明日の小テストの話を始めた。ヤマの張り方が壊滅的に下手で、聞いているだけで赤点の音がした。
「なあ、そこ絶対出えへんと思うで」
「お前の絶対ほど信用できないものはないんだよ」
「ひどない?」
笑って、つっこんで、いつもの帰り道に戻った。
分かれ道で手を振る背中を見送りながら、湊は思った。
あの引き際の良さは、何なんだろう。
距離感はめちゃくちゃなくせに、線を引く場所だけは、いつも正確だ。
踏み込まれなかったことにほっとして――それから、ほっとした自分に、ほんの少しだけがっかりした。
なんだ、この感じ。
誰かに話したいことなんて、あの日から一度もなかったはずなのに。
――この「なんだ」の正体を知るより先に、事件のほうが来た。
連休は、いつも特に何もしない。どこへも行かず、誰とも会わず、それをもったいないとも思わない。……というのが、去年までだった。今年はなぜか三日目あたりで変な物足りなさに気づいて、気づかなかったことにした。
誰もが休みの続きの顔をしている。そこへ担任の日比野が、六時間目のロングホームルームで爆弾を置いた。
「文化祭のクラス企画、今日決めるぞー。決まるまで帰さん」
六月の文化祭まで、あと一か月ちょっと。教室のあちこちから、うめき声とも返事ともつかない音が上がった。
お化け屋敷は「準備が地獄」で沈み、縁日は「隣のクラスとかぶった」で沈み、クラス映画は「編集できる奴がいない」で沈んだ。定番の案がひととおり出ては、面倒くさいのひと言で海の底へ消えていく。日比野は教卓で腕を組んだまま、助け舟を出す気配もない。
そんな中、誰かが言った。
「たこ焼き屋は? うち、本場の人おるし」
教室中の視線が、窓際の一番後ろに集まった。
「待て待て待て」
視線を集めた高瀬が手を振った。
「俺、たこ焼き作られへんで」
「え、大阪の人なのに?」
「大阪人が全員たこ焼き焼けるんやったら、大阪の街は今ごろたこ焼き屋で埋まっとるわ」
「埋まってるんじゃないの?」
「埋まってへんわ。……まあ、まあまあ埋まっとるけど」
「埋まってるのかよ」
思わず口を挟んだら、教室がどっと笑った。
まただ。また、この流れだ。
結局、企画はたこ焼き屋で決まった。焼くのは調理実習の成績がいい連中で、高瀬は「本場の人」として呼び込み担当にされた。本人は「詐欺やて」とぼやいていたが、まんざらでもなさそうだった。
「呼び込みだけじゃ暇でしょ」と真野が言えば、「ほな合間に大阪弁講座やるわ」と高瀬がボケて、「たこ焼き屋でやる授業じゃないんだよ」と湊が返す。そのたびに教室が笑って、ホームルームはいつになく進みが良かった。
そこで終わっていれば、平和なホームルームだった。
書記の真野が黒板を消しながら、思い出したように言った。
「ねえ、それとは別にさ。水野と高瀬、漫才やれば?」
「やらん」
考えるより先に、口をついて出た。
「ステージ企画、毎年あるでしょ。あの二人なら絶対ウケるって」
「やらん」
高瀬も、ひらひらと手を振って笑った。
「俺も漫才なんかやったことないで」
それで流れるはずだった。流れてくれるはずだった。
「ああ、そういえば」
教壇で出席簿をそろえながら、日比野が余計なことを言った。
「ちょうど今年、高校生のお笑いコンテストがあるらしいぞ。東海高校生お笑いグランプリ。テレビ局がやるやつだ。最優秀賞を取ると、特番に出られるって話だ」
教室がざわついた。
「テレビだって」「すご」「水野、出れば?」「エビフライのやつやってよ」
視線が集まる。笑い混じりの、悪意のない視線が。
――体育館。
スタンドマイクの、細長い影。
自分のものじゃないみたいに遠く聞こえた、あの笑い声。
一瞬で、口の中が乾いた。
「やらない」
思ったより、低い声が出た。
「絶対にやらない」
教室の温度が、すっと下がった。冗談の続きを待っていた顔が、戸惑いに変わっていくのが分かる。しまった、と思ったが、声はもう戻せなかった。
なんであんな言い方しかできないんだ、と自分でも思う。もっと軽く流せばよかった。「俺なんかが出てもスベるって」とか、笑いながら言う手だって、いくらでもあったはずだ。
でも、あの視線の集まり方は駄目だった。理屈じゃなかった。
「まあ、無理強いするもんでもないしな。はい、この話は終わり。たこ焼きの係決めるぞー」
日比野が雑に流してくれて、教室の空気は何事もなかったように動き出した。
ただ一人。
高瀬だけが、頬杖をついて、じっとこっちを見ていた。
「一回くらい、やってみてもええんちゃう?」
「やらない」
「そっか」
あっさり引いた。
◇
その日の放課後は、気が重かった。
ホームルームの空気を思い出すたび、胃の奥がざらつく。明日には忘れられているだろうか。それとも「水野はあの話題でガチギレする」枠で定着するんだろうか。
昇降口で靴を履き替えていると、下駄箱の陰から声がした。
「湊」
声のしたほうを見て、思わず半歩引いた。いつからいたんだ。
「……何」
「俺とコンビ組まへん?」
「断っただろ」
「漫才ちゃうで」
「じゃあ何」
高瀬は真顔で言った。
「一緒に帰るコンビ」
「……意味分からんわ」
高瀬は笑った。どこまでが冗談なのか分からない、いつもの笑い方だった。
「帰り、途中まで一緒やろ。こないだ、湊が坂のとこ曲がるん見かけてん。俺、あそこから先、駅までまっすぐやし」
「見てんじゃねえよ」
「ほな、行こか」
断る理由を探しているうちに、隣に並ばれていた。
帰り道は、しょうもない話しかしなかった。
「なあ、今日の夕飯なんやと思う?」
「知らん」
「エビフライちゃう?」
「うちを何だと思ってるんだよ」
「エビフライの家」
「違うわ」
「ほな何の家なん?」
「普通の家だわ」
途中の自販機で、高瀬はいちごオレを買った。見た目に似合わなさすぎて、つっこむ気力も出なかった。
「なあ、名古屋って喫茶店多ない?」
「そうか?」
「学校から駅まで歩く間だけで四軒あるで。大阪より多い気がするわ」
「数えてんじゃねえよ」
「気になるやん。今度どっか入ってみよ」
「なんで俺も入る前提なんだよ」
文句は言うのに、断る言葉はどこからも出てこなかった。
十五分かそこらの距離が、妙に短かった。
坂の手前の分かれ道で、高瀬は片手を上げた。ここで湊は坂を上り、高瀬はまっすぐ駅へ向かう。
「ほな、また明日」
「おう」
返してから、気づいた。
なんで俺は、当たり前みたいに「また明日」の返事をしたんだ。
玄関を開けると、母が台所から顔を出した。
「おかえり。今日コロッケだで」
「……セーフ」
「なにが?」
「なんでもない」
何がセーフなのか、自分でもよく分からなかった。
いや。分かっていたけれど、考えたくなかった。
◇
それから、毎日だった。
朝は逆向きの椅子で朝メシの報告を聞かされ、放課後になると、昇降口で自然に目が合う。並んで、坂の手前まで歩く。話すのは、しょうもないことばかりだ。昨日のテレビ。購買の新作パン。大阪ではこうだった、名古屋ではこうだ、の言い合い。
「一緒に帰るコンビ」の活動実績だけが、着々と積み上がっていった。
気づけば、坂の手前の分かれ道には名前までついていた。「いつもの角」。命名は高瀬で、湊が承認した覚えはない。
雨の日もあった。高瀬が傘を忘れ、湊があきれて入れてやり、「肩ぬれとるで」「お前がでかいからだわ」と言い合いながら坂まで歩いた。翌日、高瀬はわざわざ礼だと言って、大阪のばあちゃんから届いたというあめを一粒くれた。一粒。
「一粒かよ」
「大阪の味や。味わって食べとき」
教室では服部に「最近、毎日一緒に帰っとるよな」と、にやにやしながら言われた。
「方向が同じなだけだわ」
「はいはい」
解散の話は、どちらからも出なかった。
その日も、いつもの坂の手前だった。
「なあ、湊」
「何」
「文化祭って、ほんまは何がそんなに嫌なん?」
――半歩。
いつもより半歩だけ、深い場所に足を置かれたのが分かった。
湊は前を向いたまま、少し黙った。夕方の風が、二人の間を抜けていった。
「……別に。人前が好きじゃないだけ」
「そっか」
高瀬はそれ以上、聞かなかった。
代わりに明日の小テストの話を始めた。ヤマの張り方が壊滅的に下手で、聞いているだけで赤点の音がした。
「なあ、そこ絶対出えへんと思うで」
「お前の絶対ほど信用できないものはないんだよ」
「ひどない?」
笑って、つっこんで、いつもの帰り道に戻った。
分かれ道で手を振る背中を見送りながら、湊は思った。
あの引き際の良さは、何なんだろう。
距離感はめちゃくちゃなくせに、線を引く場所だけは、いつも正確だ。
踏み込まれなかったことにほっとして――それから、ほっとした自分に、ほんの少しだけがっかりした。
なんだ、この感じ。
誰かに話したいことなんて、あの日から一度もなかったはずなのに。
――この「なんだ」の正体を知るより先に、事件のほうが来た。
