それ、ボケだと思っとった。

 高瀬律は、本当に毎日来た。

「湊、朝メシ何?」
「米」
「渋いな。ちなみに俺はホットケーキやった」
「聞いてない」
 毎朝、湊の席の前の椅子は逆向きにセットされている。持ち主である服部はといえば、三日目にはもう抗議をやめて、朝は隣の席に避難するようになった。
「俺の椅子の所有権、どこいったんだろうな」
「知らん。取り返せよ」
「無理だろ。あいつのほうが早く登校しとるもん」
 転校から一週間かそこらで、高瀬律という男は完全に教室の風景になじんでいた。
 誰とでも喋る。誰にでも笑う。名前を呼び間違えない。
 ただ、昼になると必ず、湊の前の席に戻ってくる。渡り鳥の帰巣本能みたいに。



 その日は、二時間目の終わりに事件が起きた。
「なあ湊。さっきから皆が言うとる『放課』って、何なん?」
「……何って、これだけど」
「これ?」
「今。この時間」
 湊は教室を指差した。廊下に出ていく奴、寝る奴、購買のプリンを食う奴。授業と授業の間の、なんでもない十分間。
「授業と授業の間が、放課」
「え、待って」
 高瀬は真顔になった。
「ほな『放課後』は?」
「学校が終わったあとだけど」
「おかしいやろ!? 放課が休み時間なんやったら、放課後は『休み時間のあと』……つまり授業やん。名古屋人、放課後て言いながら授業始まっとるやん」
「そういう理屈で言葉を使ってるんじゃないんだよ。昔からこうなの」
「名古屋、時間の名前からしてボケとるやん」
「ボケとらんわ、普通だわ」
「今も出とるで」
「何が」
「名古屋」
「……は?」
 なんの話だ。時間の名前の話をしていたはずだが。
 周りで聞いていた連中が、なぜか一斉に吹き出した。湊以外の全員が分かっている、という顔だった。
「いや、ええわ」
 高瀬は妙に満足そうに笑って、それ以上は言わなかった。
「そのうち分かる」
「何がだよ」
 湊は舌打ちして教科書を開いた。



 昼の購買は、戦場である。
 四時間目の終わりのチャイムと同時に廊下を最短ルートで抜け、階段は外側から二段飛ばし。これで購買到着はクラスで三番以内。ここまでやって、ようやく「あれ」が買える。
「なんでそんな殺気立っとるん?」
 なぜかついてきた高瀬が、人混みの後ろでのんきに言った。
「いいから見てろ」
 人の波をかき分けて、湊は最後の一個を確保した。小倉マーガリンのコッペパン。この購買で一番早く売り切れる、湊の定番だった。
「それ、何なん?」
「小倉マーガリン」
「…………あんこに、マーガリン?」
「そうだけど」
「待って待って。あんこは飯かおやつか、はっきりしい」
「知らん。うまいからいい」
「大阪人もあんこは好きやで? せやけど、パンにあんことマーガリン塗って毎日食べたりはせえへんて」
「頼んでない情報だな」
「で、それ毎日食っとるん?」
「毎日じゃない」
「週何回?」
「………………四回」
「ほぼ毎日やん」
「取り調べかよ」
「自白が早くて助かるわ」
 そして今回も、こっちに勝ち目がない。
 高瀬はしばらく小倉マーガリンを凝視していたが、やがて意を決したように言った。
「ひと口くれへん?」
「は? 嫌だよ」
「名古屋の食文化への理解を深めたいねん。転校生の社会勉強や」
「理屈がうさんくさいんだよ」
 言いながら、結局ちぎって渡してしまうあたり、我ながらどうかしていると思う。受け取るとき、ちぎった指先が一瞬だけ高瀬の手のひらに触れた。人の体温というのは、思ったより高い。
 高瀬はひと口かじって、しばらく黙った。それから、世界の真理に触れたような顔で言った。
「…………うまいやん」
「だろ」
 なぜか、湊が勝った気分になった。
「……ちなみに名古屋には、トーストにあんこ乗せる『小倉トースト』ってのもあるけど」
「もうええって。名古屋のあんこ、自由すぎるやろ」
 あんこの奥行きにやられた顔で、高瀬は手の中の残りを見つめていた。



 四月が終わりに近づいた。高瀬が転校してきて、そろそろ三週間になる。
 その間にも、あの男は名古屋につまずき続けた。購買の味噌カツサンドに真顔になり、日直だった湊の「窓の鍵かっといて」に「鍵を、買う……?」と三十秒停止した。そのたびに湊が説明し、教室のどこかで誰かが笑った。
 それが、二年三組の日常になりつつあった。

 その日の五時間目は数学だった。
 湊がこの授業を苦手にしている理由は二つある。ひとつは数学そのもの。もうひとつは、間違えた生徒を五秒ほど無言で見つめてから「……まあ、座れ」と言う、あの教師の間の取り方だ。あの五秒で寿命が縮む。
 今日に限って、当てられた。今日に限って、解けない問題だった。
 教室に流れる沈黙。例の五秒。
「……まあ、座れ」
 死んだ。
 席に着いて、湊はシャーペンの頭を噛んだ。

 放課になってすぐ、前の椅子がくるりと回った。
「湊、さっきシャーペン噛んどったな」
「……見てたのかよ」
「見えるねん。俺、窓際の一番後ろやろ。教室ぜんぶ見えんねん」
「見るなよ」
「行き詰まると噛むやろ、あれ」
「噛んでない」
「歯形ついとるで」
 手元のシャーペンを見た。ついていた。
「取り調べやめろって言ってるだろ」
「自白はよ」
 くそ、と思いながらシャーペンを筆箱にしまう。この男の目は、どうなっているんだ。



 六時間目のあとだった。
 黒板消しの位置がどうとかいう、心底どうでもいい言い合いを高瀬とやっていて、周りがいつものように笑っていたときだ。
 近くの席の真野が、ぽつりと言った。
「あの二人、漫才みたいだよね」
 教室の数人がうなずいた。うなずくな。
「漫才じゃない。ただの口げんかだろ」
「そういうとこだよ」
 真野は大真面目だった。高瀬は隣でにやにやしている。
「漫才師扱いされてもうたな、湊」
「されてない」
 そのときの湊は、本気でそう思っていた。
 漫才なんて、テレビの中の、喋りのプロがやるものだ。自分たちのこれは、ただの――なんだろう。名前をつけるほどのものでもない、何かだ。



 その日の締めくくりは、掃除の時間だった。
 湊の班の当番は男子三人。そのうち二人が、モップを置いたまま消えた。戻ってきたときには、二人ともパックのジュースをくわえていた。
 机を一人で全部運び終えたあとだった。
「……お前らさあ」
 自分でも、声が低くなるのが分かった。
「人が床拭いとる間、ずっとジュース買いに行っとったんか。机も全部俺が運んどるんだわ。だったら最初から当番代われって話だわ」
 二人が顔を見合わせて、ごめんて、と気の抜けた謝り方をした。それにまた腹が立つ。
 そのときだった。
 教室の後ろでほうきを持ったまま、高瀬が言った。
「湊、怒ると急に名古屋なるよな」
「……は?」
「今の、めっちゃ名古屋弁やった」
「出てない」
「『運んどるんだわ』て言うとった」
「言っと……」
 言いかけて、止まった。
 自分の口が、勝手に「とら」の形になっていた。
「……言っとらん」
「今、言うたばっかりやで」
 顔が熱くなった。
 ――昼の「今も出とるで」を思い出す。てっきり、いつものわけの分からんボケだと思っていた。
 ボケじゃなかった。こいつはあのとき、もう気づいていたのだ。
 十六年間、自分は標準語を喋って生きてきたと思っていた。その確信が、掃除の時間にあっさり崩れた。
「……俺、いつもああなのか?」
「普段のは誤差や。怒ったときが本番やねん」
 断言だった。断言できるほど、見られていたということだ。
「服部、俺って方言あるか?」
「え? あー……言われてみれば、たまに出とるよな」
「出とるって何だよ」
「お前もな」
「……」
 裏切り者に囲まれている。
 黙り込んだ湊を見て、高瀬が笑った。
 ばかにする笑い方じゃなかった。珍しい生き物を見つけて、うれしくてたまらない――そういう顔だった。
「なんで隠すん? ええのに」
「隠してない。もともと喋ってない」
「湊のそれ、標準語のつもりやったん?」
「うるさい。ほうき動かせ」
 高瀬は笑ったまま、素直にほうきを動かし始めた。
 その横顔を見ながら、湊はひそかに決意した。二度とこいつの前で怒らない。絶対にだ。



 その夜、ベッドで天井を見ながら、湊は考えていた。
 怒ると名古屋になる、らしい。自分が。十六年間気づかなかったことを、転校して三週間の男に見抜かれた。
 ……いや、あいつが見すぎなんだ。
 シャーペンの歯形。パンの購入頻度。怒ったときの語尾。なんでそんなところばかり見ているんだ。
 そこまで考えて、ふと、別のことに気づいた。
 高瀬律は、誰にでもよく喋る。誰のこともよく見ている。
 でも――思い返してみれば、あいつが人の嫌がる話題に踏み込んだところを、一度も見たことがない。
 成績の話。家の話。女子たちの、なんだか複雑そうな人間関係。踏んだら痛い場所を、あの男は絶対に踏まない。あの距離の近さで、だ。
 方言いじりは、さんざんしてくるくせに。
 ……つまりあれは、踏んでも痛くない場所だと分かった上で、踏んでいる。
 こいつ、実は――
 考えかけて、やめた。
 転校生一人のことを寝る前に考えている、という事実のほうが、なんとなく負けな気がしたからだ。
 寝よう。目を閉じる。
 ……布団の中で、明日の朝メシをどう答えるか、候補を三つまで絞ってから寝た。