毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 高瀬律は、本当に毎日来た。


「湊、朝メシ何?」
「米」
「渋いな。ちなみに俺はホットケーキやった」
「聞いてない」

 毎朝、湊の席の前の椅子は逆向きにセットされている。持ち主である服部はといえば、三日目にはもう抗議をやめて、朝は隣の席に避難するようになった。

「俺の椅子の所有権、どこいったんだろうな」
「知らん。取り返せよ」
「無理だろ。あいつのほうが早く登校しとるもん」

 誰とでも喋る。誰にでも笑う。名前を呼び間違えない。

 ただ、昼になると必ず、湊の前の席に戻ってくる。渡り鳥の帰巣本能みたいに。





 その日は、二時間目の終わりに事件が起きた。

「なあ湊。さっきから皆が言うとる『放課』って、何なん?」
「……何って、これだけど」
「これ?」
「今。この時間」

 湊は教室を指差した。廊下に出ていく奴、寝る奴、購買のプリンを食う奴。授業と授業の間の、なんでもない十分間。

「授業と授業の間が、放課」
「え、待って」

 高瀬は真顔になった。

「ほな『放課後』は?」
「学校が終わったあとだけど」
「おかしいやろ!? 放課が休み時間なんやったら、放課後は『休み時間のあと』……つまり授業やん。名古屋人、放課後て言いながら授業始まっとるやん」
「そういう理屈で言葉を使ってるんじゃないんだよ。昔からこうなの」
「名古屋、時間の名前からしてボケとるやん」
「ボケとらんわ、普通だわ」
「今も出とるで」
「何が」
「名古屋」
「……は?」

 なんの話だ。時間の名前の話をしていたはずだが。

 周りで聞いていた連中が、なぜか一斉に吹き出した。湊以外の全員が分かっている、という顔だった。

「いや、ええわ」

 高瀬は妙に満足そうに笑って、それ以上は言わなかった。

「そのうち分かる」
「何がだよ」

 湊は舌打ちして教科書を開いた。





 昼の購買は、戦場である。

 四時間目の終わりのチャイムと同時に廊下を最短ルートで抜け、階段は外側から二段飛ばし。これで購買到着はクラスで三番以内。ここまでやって、ようやく「あれ」が買える。

「なんでそんな殺気立っとるん?」

 なぜかついてきた高瀬が、人混みの後ろでのんきに言った。

「いいから見てろ」

 人の波をかき分けて、湊は最後の一個を確保した。小倉マーガリンのコッペパン。この購買で一番早く売り切れる、湊の定番だった。

「それ、何なん?」
「小倉マーガリン」
「…………あんこに、マーガリン?」
「そうだけど」
「待って待って。あんこは飯かおやつか、はっきりしい」
「知らん。うまいからいい」
「大阪人もあんこは好きやで? せやけど、パンにあんことマーガリン塗って毎日食べたりはせえへんて」
「頼んでない情報だな」
「で、それ毎日食っとるん?」
「毎日じゃない」
「週何回?」
「………………四回」
「ほぼ毎日やん」
「取り調べかよ」
「自白が早くて助かるわ」

 高瀬はしばらく小倉マーガリンを凝視していたが、やがて意を決したように言った。

「ひと口くれへん?」
「は? 嫌だよ」
「名古屋の食文化への理解を深めたいねん。転校生の社会勉強や」
「理屈がうさんくさいんだよ」

 言いながら、結局ちぎって渡してしまうあたり、我ながらどうかしていると思う。受け取るとき、ちぎった指先が一瞬だけ高瀬の手のひらに触れた。人の体温というのは、思ったより高い。

 高瀬はひと口かじって、しばらく黙った。それから、世界の真理に触れたような顔で言った。

「…………うまいやん」
「だろ」

 なぜか、湊が勝った気分になった。

「……ちなみに名古屋には、トーストにあんこ乗せる『小倉トースト』ってのもあるけど」
「もうええって。名古屋のあんこ、自由すぎるやろ」

 高瀬は手の中の残りを見つめていた。





 四月が終わりに近づいた。高瀬が転校してきて、そろそろ三週間になる。

 その間にも、あの男は名古屋につまずき続けた。購買の味噌カツサンドに真顔になり、日直だった湊の「窓の鍵かっといて」に「鍵を、買う……?」と三十秒停止した。そのたびに湊が説明し、教室のどこかで誰かが笑った。

 それが、二年三組の日常になりつつあった。


 その日の五時間目は数学だった。

 湊がこの授業を苦手にしている理由は二つある。ひとつは数学そのもの。もうひとつは、間違えた生徒を五秒ほど無言で見つめてから「……まあ、座れ」と言う、あの教師の間の取り方だ。あの五秒で寿命が縮む。

 今日に限って、当てられた。今日に限って、解けない問題だった。

 教室に流れる沈黙。例の五秒。

「……まあ、座れ」

 死んだ。

 席に着いて、湊はシャーペンの頭を噛んだ。


 放課になってすぐ、前の椅子がくるりと回った。

「湊、さっきシャーペン噛んどったな」
「……見てたのかよ」
「見えるねん。俺、窓際の一番後ろやろ。教室ぜんぶ見えんねん」
「見るなよ」
「行き詰まると噛むやろ、あれ」
「噛んでない」
「歯形ついとるで」

 手元のシャーペンを見た。ついていた。

「取り調べやめろって言ってるだろ」
「自白はよ」

 くそ、と思いながらシャーペンを筆箱にしまう。この男の目は、どうなっているんだ。





 六時間目のあとだった。

 黒板消しの位置がどうとかいう、心底どうでもいい言い合いを高瀬とやっていて、周りがいつものように笑っていたときだ。

 近くの席の真野が、ぽつりと言った。

「あの二人、漫才みたいだよね」

 教室の数人がうなずいた。うなずくな。

「漫才じゃない。ただの口げんかだろ」
「そういうとこだよ」

 真野は大真面目だった。高瀬は隣でにやにやしている。

「漫才師扱いされてもうたな、湊」
「されてない」

 そのときの湊は、本気でそう思っていた。

 漫才なんて、テレビの中の、喋りのプロがやるものだ。自分たちのこれは、ただの――なんだろう。名前をつけるほどのものでもない、何かだ。





 その日の締めくくりは、掃除の時間だった。

 湊の班の当番は男子三人。そのうち二人が、モップを置いたまま消えた。戻ってきたときには、二人ともパックのジュースをくわえていた。

 机を一人で全部運び終えたあとだった。

「……お前らさあ」

 自分でも、声が低くなるのが分かった。

「人が床拭いとる間、ずっとジュース買いに行っとったんか。机も全部俺が運んどるんだわ。だったら最初から当番代われって話だわ」

 二人が顔を見合わせて、ごめんて、と気の抜けた謝り方をした。それにまた腹が立つ。

 そのときだった。

 教室の後ろでほうきを持ったまま、高瀬が言った。

「湊、怒ると急に名古屋なるよな」
「……は?」
「今の、めっちゃ名古屋弁やった」
「出てない」
「『運んどるんだわ』て言うとった」
「言っと……」

 言いかけて、止まった。

 自分の口が、勝手に「とら」の形になっていた。

「……言っとらん」
「今、言うたばっかりやで」

 顔が熱くなった。

 ――昼の「今も出とるで」を思い出す。てっきり、いつものわけの分からんボケだと思っていた。

 ボケじゃなかった。

「……俺、いつもああなのか?」
「普段のは誤差や。怒ったときが本番やねん」
「服部、俺って方言あるか?」
「え? あー……言われてみれば、たまに出とるよな」
「出とるって何だよ」
「お前もな」
「……」

 裏切り者に囲まれている。

 黙り込んだ湊を見て、高瀬が笑った。

 ばかにする笑い方じゃなかった。珍しい生き物を見つけて、うれしくてたまらない――そういう顔だった。

「なんで隠すん? ええのに」
「隠してない。もともと喋ってない」
「湊のそれ、標準語のつもりやったん?」
「うるさい。ほうき動かせ」

 高瀬は笑ったまま、素直にほうきを動かし始めた。

 その横顔を見ながら、湊はひそかに決意した。二度とこいつの前で怒らない。絶対にだ。





 その夜、ベッドで天井を見ながら、湊は考えていた。

 怒ると名古屋になる、らしい。自分が。十六年間気づかなかったことを、転校して三週間の男に見抜かれた。

 ……いや、あいつが見すぎなんだ。

 シャーペンの歯形。パンの購入頻度。怒ったときの語尾。なんでそんなところばかり見ているんだ。

 そこまで考えて、ふと、別のことに気づいた。

 高瀬律は、誰にでもよく喋る。誰のこともよく見ている。

 でも――思い返してみれば、あいつが人の嫌がる話題に踏み込んだところを、一度も見たことがない。

 成績の話。家の話。女子たちの、なんだか複雑そうな人間関係。踏んだら痛い場所を、あの男は絶対に踏まない。あの距離の近さで、だ。

 方言いじりは、さんざんしてくるくせに。

 ……つまりあれは、踏んでも痛くない場所だと分かった上で、踏んでいる。

 こいつ、実は――

 考えかけて、やめた。

 転校生一人のことを寝る前に考えている、という事実のほうが、なんとなく負けな気がしたからだ。

 寝よう。目を閉じる。

 ……布団の中で、明日の朝メシをどう答えるか、候補を三つまで絞ってから寝た。