高校三年の春、クラス替えの掲示の前で、律は世界の終わりみたいな顔をした。
「……離された」
「離されたな」
三年で、初めて別のクラスになった。
なったところで、どうということはなかった。翌朝には、律は当たり前の顔で湊のクラスに現れて、服部の椅子を逆向きにして座った。三年になっても、くじ運のいたずらか、服部は湊の前の席だった。
「なんで別クラスになっても、うちのクラスの、しかも俺の椅子なんだよ」
「指定席やからな」
「お前の教室はあっちだろ」
「あっちは職場や。こっちが家や」
「学校を何だと思っとるんだ」
服部は文句を言いながら、ちゃんと隣の席に避難した。この一年で、あの椅子はもう、そういう椅子になっていた。
「ほんで湊、朝メシ何?」
「米」
「渋いなあ。三年になっても渋い」
点呼も続いていた。
聞くところによると、律は向こうのクラスでも三日で人気者になったらしい。らしい、というのは、昼と放課後はこっちにいて、向こうでの律を湊はほとんど見ていないからだ。
一年前なら、それが気になった。俺の知らない律、と数えて、勝手にムカついていた。
今は、別にいい。どうせ夜に全部喋るからだ。向こうのクラスの誰がおもしろいとか、担任のあだ名が何に決まったとか、頼んでもいない報告が毎日来る。
◇
四月の終わり、進路調査票が配られた。
その日の放課後、アンモナイトの窓際の席で、二人はテーブルにそれぞれの紙を広げて、コーヒーを挟んでいた。マスターは相変わらず無口で、化石は相変わらず一億年黙っている。
律の調査票が、テーブルの上で少しこっちを向いていた。
第二希望の欄に、大阪の大学の名前が見えた。
見えた、とだけ言っておく。
「湊は? やっぱ地元なん?」
「地元。家から通えるとこ」
「せやろなあ」
律は笑って、コーヒーをひと口飲んだ。
「俺な、大阪のとこも書いてん」
自分から言った。隠さない、と決めた言い方だった。
「湯浅がうるさいねん。はよ帰ってこい、こっちの大学来い、て」
「……そうか」
「そうか、て。それだけなん?」
「それだけじゃないけど」
一年前の湊なら、ここで会話を畳んでいた。じゃあ別々だな、で終わらせて、痛くないふりをして、シャーペンの頭でも噛んでいた。
畳まなかった。
「漫才、どうすんの?」
「続けたい。湊は?」
「……続けたい」
「ほな、それが先や」
それから律は、思い出したみたいに調査票を持ち上げて、くるりとこっちへ向けた。
「ほら。第一希望」
第一希望の欄には、名古屋の大学の名前があった。
「……見せなくていいんだわ、そういうのは」
「見とったやろ、さっき。第二希望のとこだけ」
「見てない」
「湊、お前ほんまに分かりやすいな」
見抜かれていた。盗み見たことから、その中身まで。
「大阪のは保険や。湯浅の顔も立つしな。第一は、こっちや。……理由は聞くなよ」
「聞いてない」
「漫才が先や、言うたやろ」
「だから聞いてないって」
「顔が聞いとるわ」
悔しいので、コーヒーを飲んだ。いつもより濃い味がした。
律は調査票を伏せて、代わりにノートを開いた。
おろしたてのノートだった。表紙には癖の強い字で「食っとるやん 二号」。一号は、決勝までのひと月で残りのページを使い切って、今は湊の部屋の棚にいる。はがきも、掲示の写真も、下手なたこも全部、あの一冊に閉じてある。
「今年のグランプリ、いつから動く?」
「六月応募だろ。ネタは前倒しで作る」
「せやな。今年は優勝やし」
「軽く言うな。定規とコンパスは卒業したけど、また誰か出てくるんだぞ」
「出てきたら倒すだけや」
二号の一ページ目には、律が貼った定規とコンパスの賞状の写真がある。目標物、だそうだ。その下に、湊は日付と「三年生、始動」とだけ書いた。律が横から、たこを描き足した。一ページ目から署名入りだった。
それから律は、ふと真顔になって言った。
「なあ。もし俺が第一希望落ちて、大阪行くことになったら、どうする?」
「……新幹線で五十分だろ」
「調べたん?」
「調べてない。常識だわ」
「今の、ボケ? 本気?」
「さあな」
「またそれや」
笑い合って、その先は決めなかった。
第一希望は、こっち。それでも、受かるかどうかは別の話で、来年の今ごろ二人がどの街にいるかは、まだ誰にも分からない。
会計のとき、マスターが初めて、自分から聞いた。
「……今年も、出るのか」
「出ます」
「出るで」
声が重なった。
マスターの口元が、わずかに動いた。笑ったのだと思う。一億年に一回の顔だった。
◇
連休の初日、律が家に来た。
来た、というか、押しかけられた。発端は前の日の帰り道の「一号、元気にしとる?」だった。元気も何も、ノートだ。そう言ったら、「ほな見舞いに行くわ」と決まった。人の部屋を病室みたいに言うな。
玄関で母親が「あらあら」と言い、廊下で姉が「へえ、珍しいこともあるもんだわ」と言った。どっちも余計だった。
部屋に入るなり、律はまっすぐ棚へ行った。
「おお、おった。一号や」
棚から一号を、両手で下ろす。骨董品でも扱う手つきだった。
「大げさなんだよ」
「大げさちゃうで。俺らの一年目が、全部この一冊に入っとるんやで」
ベッドに腰かけて、律は一ページ目から順にめくり始めた。「漫才」の二文字。はがきと掲示の写真。招き猫にういろう、バナナ扱いの黄色い電車、プールじゃない屋根。最後のほうに、決勝ネタの完成稿。ところどころで笑い、ところどころで、妙に静かになった。
「なあ、ここ」
律が開いて見せたのは、十月の末で一回止まった、あの白紙の手前のページだった。
「ここで止まっとった二か月な、俺、何回も思とってん。このノートの続き、もう書かれへんのかもしれん、て」
「……書けただろ、結局」
「せやな。書けたな」
白紙だったはずのその先には、今は一月の日付と、再開の一行目が入っている。律はそこを指で一回なでて、それから、こっちを見ずに言った。
「二号も、ちゃんと最後まで埋めよな。三号も、四号も」
「何十年やる気だよ、漫才」
「一生もんや言うたやろ」
窓の外で、連休の子どもの声がしていた。部屋の中は、ページをめくる音だけだった。
二人きりの部屋、というものに途中で気づいて、湊は急に、足の置き場に困った。当の律はけろっとした顔で人のベッドに座り、人の枕を勝手に背もたれにしている。
「……お前、遠慮というものがないのか」
「あるよ。使いどころを選んどるだけや」
「今が使いどころだろ」
「今は、ちゃう」
律は枕をぽんと元に戻して、代わりに、自分の隣をぽんとたたいた。
……座った。悔しいことに、座ってしまった。
肩と肩が触れる距離で、二人でノートの続きをめくった。どの舞台よりも、心臓に悪い距離だった。
半分を過ぎたあたりで、隣の重さが変わった。
見ると、律が肩に頭を預けて、寝ていた。
連休の初日に人の家へ押しかけて、人のベッドで、人の肩で、この男は寝ている。文句の在庫は十個くらいあった。ひとつも使わなかった。
一年間、見られる側だった。
初めて、こっちが見る番だった。
寝顔は、ただの同い年の男のものだった。前髪が一筋、眉にかかっている。直してやる理由はないし、直さない理由もなかったので、指で横にどけた。
起きなかった。……少しだけ調子に乗って、もう一回だけ、前髪を直した。
「……見とったやろ」
目を閉じたまま、律が言った。
「見てない」
「見とったら分かるやん」
薄目を開けて、にやりと笑う顔に、枕を押しつけた。この男は寝ていても油断ならない。一年ぶんの教訓だった。
夕方、部屋を出る間際に、律が振り返った。
「今日、ようやく分かったわ」
「何が」
「お前が普段、どの机でネタ考えとるか。窓のとこのあれやろ」
「……だったら何だよ」
「これからは思い浮かべられるやん。ネタ帳の向こうの湊」
「気持ち悪いこと言うな」
「はいはい。ほな俺、下行くわ。お母さんが、夕飯エビフライにするて言うとった。俺のぶんもあるらしいわ」
「聞いてないんだが!?」
階段を下りていく笑い声を追いかけながら、湊は思った。この男はどこでも、こうやって指定席を増やしていく。
……まあ、いい。うちのエビフライは、うまい。
◇
帰り道は、春だった。
一年と、少し。数えるのをやめるくらい歩いた道を、今日も二人で歩く。
いつからか、角までの数分だけ手をつなぐのが標準装備になった。最初にやったのは律だが、毎日の制度にしたのがどっちだったかは、もう裁判でも確定しない。
桜はとっくに散って、いつもの角の街灯の根元に、色の抜けた花びらが一枚張りついていた。
角の手前で、律が少しだけ歩調をゆるめた。
「湊」
「何」
「俺、卒業しても相方でいたい」
「恋人じゃなくて?」
「両方」
「欲張りだな」
「嫌?」
湊は少し考えた。
考えるふりをした、が正しい。答えはとっくに決まっていて、ただ、即答してやるのがなんとなく悔しかっただけだ。
「……まあ、ええよ」
「今の名古屋?」
「うるさい」
「もう一回言うて」
「絶対言わん」
言ってから、湊は三秒考えた。
考えて、答えの代わりに、つないだままの手を引いて、空いたほうの手で律の襟をつかんだ。
一秒だけ、口をふさいだ。
「……これで文句ないだろ」
「…………」
律が、固まっていた。
あの高瀬律が、口を開けたまま、何も言えずにいた。
「……ずるいわ、名古屋」
「知らん。日頃の行いだろ」
律が笑った。
春の夕方の、いつもの角で、いつもの顔で。
「ほな、また明日な。相方で恋人」
「長いんだよ、肩書きが」
「一生もんやからな」
また一生もんと言った。何回目かは、もう数えていない。
律は角をまっすぐ、駅のほうへ歩いていく。湊は坂を上る。いつもの解散だった。
坂の途中で、下から声が追いかけてきた。
「湊ー。もう一回だけー」
「言わんて!」
言ってから、気づいた。
言わん「て」。
……これは、どっちの「て」だ。生まれつき隠しとった名古屋のか、誰かさんから移った大阪のか。
まあ、いい。責任はそっちにある。
ポケットの中で、スマホが震えた。
『帰ったら電話してええ?』
返事は打たずに、しまった。どうせ、返事をする前にかかってくる。そういう男だと知っている。
坂の上で振り返ると、律はまだ角にいて、こっちに向かって変な手の振り方をしていた。夕日で、顔はよく見えない。
夢とか目標とか、そういうまぶしいものは、たぶん今もない。
ただ、明日もあいつと喋る。あさっても喋る。
どこまでがボケで、どこからが本気か。
――知っとるわ。全部、本気だ。最初から、ずっと。
「……離された」
「離されたな」
三年で、初めて別のクラスになった。
なったところで、どうということはなかった。翌朝には、律は当たり前の顔で湊のクラスに現れて、服部の椅子を逆向きにして座った。三年になっても、くじ運のいたずらか、服部は湊の前の席だった。
「なんで別クラスになっても、うちのクラスの、しかも俺の椅子なんだよ」
「指定席やからな」
「お前の教室はあっちだろ」
「あっちは職場や。こっちが家や」
「学校を何だと思っとるんだ」
服部は文句を言いながら、ちゃんと隣の席に避難した。この一年で、あの椅子はもう、そういう椅子になっていた。
「ほんで湊、朝メシ何?」
「米」
「渋いなあ。三年になっても渋い」
点呼も続いていた。
聞くところによると、律は向こうのクラスでも三日で人気者になったらしい。らしい、というのは、昼と放課後はこっちにいて、向こうでの律を湊はほとんど見ていないからだ。
一年前なら、それが気になった。俺の知らない律、と数えて、勝手にムカついていた。
今は、別にいい。どうせ夜に全部喋るからだ。向こうのクラスの誰がおもしろいとか、担任のあだ名が何に決まったとか、頼んでもいない報告が毎日来る。
◇
四月の終わり、進路調査票が配られた。
その日の放課後、アンモナイトの窓際の席で、二人はテーブルにそれぞれの紙を広げて、コーヒーを挟んでいた。マスターは相変わらず無口で、化石は相変わらず一億年黙っている。
律の調査票が、テーブルの上で少しこっちを向いていた。
第二希望の欄に、大阪の大学の名前が見えた。
見えた、とだけ言っておく。
「湊は? やっぱ地元なん?」
「地元。家から通えるとこ」
「せやろなあ」
律は笑って、コーヒーをひと口飲んだ。
「俺な、大阪のとこも書いてん」
自分から言った。隠さない、と決めた言い方だった。
「湯浅がうるさいねん。はよ帰ってこい、こっちの大学来い、て」
「……そうか」
「そうか、て。それだけなん?」
「それだけじゃないけど」
一年前の湊なら、ここで会話を畳んでいた。じゃあ別々だな、で終わらせて、痛くないふりをして、シャーペンの頭でも噛んでいた。
畳まなかった。
「漫才、どうすんの?」
「続けたい。湊は?」
「……続けたい」
「ほな、それが先や」
それから律は、思い出したみたいに調査票を持ち上げて、くるりとこっちへ向けた。
「ほら。第一希望」
第一希望の欄には、名古屋の大学の名前があった。
「……見せなくていいんだわ、そういうのは」
「見とったやろ、さっき。第二希望のとこだけ」
「見てない」
「湊、お前ほんまに分かりやすいな」
見抜かれていた。盗み見たことから、その中身まで。
「大阪のは保険や。湯浅の顔も立つしな。第一は、こっちや。……理由は聞くなよ」
「聞いてない」
「漫才が先や、言うたやろ」
「だから聞いてないって」
「顔が聞いとるわ」
悔しいので、コーヒーを飲んだ。いつもより濃い味がした。
律は調査票を伏せて、代わりにノートを開いた。
おろしたてのノートだった。表紙には癖の強い字で「食っとるやん 二号」。一号は、決勝までのひと月で残りのページを使い切って、今は湊の部屋の棚にいる。はがきも、掲示の写真も、下手なたこも全部、あの一冊に閉じてある。
「今年のグランプリ、いつから動く?」
「六月応募だろ。ネタは前倒しで作る」
「せやな。今年は優勝やし」
「軽く言うな。定規とコンパスは卒業したけど、また誰か出てくるんだぞ」
「出てきたら倒すだけや」
二号の一ページ目には、律が貼った定規とコンパスの賞状の写真がある。目標物、だそうだ。その下に、湊は日付と「三年生、始動」とだけ書いた。律が横から、たこを描き足した。一ページ目から署名入りだった。
それから律は、ふと真顔になって言った。
「なあ。もし俺が第一希望落ちて、大阪行くことになったら、どうする?」
「……新幹線で五十分だろ」
「調べたん?」
「調べてない。常識だわ」
「今の、ボケ? 本気?」
「さあな」
「またそれや」
笑い合って、その先は決めなかった。
第一希望は、こっち。それでも、受かるかどうかは別の話で、来年の今ごろ二人がどの街にいるかは、まだ誰にも分からない。
会計のとき、マスターが初めて、自分から聞いた。
「……今年も、出るのか」
「出ます」
「出るで」
声が重なった。
マスターの口元が、わずかに動いた。笑ったのだと思う。一億年に一回の顔だった。
◇
連休の初日、律が家に来た。
来た、というか、押しかけられた。発端は前の日の帰り道の「一号、元気にしとる?」だった。元気も何も、ノートだ。そう言ったら、「ほな見舞いに行くわ」と決まった。人の部屋を病室みたいに言うな。
玄関で母親が「あらあら」と言い、廊下で姉が「へえ、珍しいこともあるもんだわ」と言った。どっちも余計だった。
部屋に入るなり、律はまっすぐ棚へ行った。
「おお、おった。一号や」
棚から一号を、両手で下ろす。骨董品でも扱う手つきだった。
「大げさなんだよ」
「大げさちゃうで。俺らの一年目が、全部この一冊に入っとるんやで」
ベッドに腰かけて、律は一ページ目から順にめくり始めた。「漫才」の二文字。はがきと掲示の写真。招き猫にういろう、バナナ扱いの黄色い電車、プールじゃない屋根。最後のほうに、決勝ネタの完成稿。ところどころで笑い、ところどころで、妙に静かになった。
「なあ、ここ」
律が開いて見せたのは、十月の末で一回止まった、あの白紙の手前のページだった。
「ここで止まっとった二か月な、俺、何回も思とってん。このノートの続き、もう書かれへんのかもしれん、て」
「……書けただろ、結局」
「せやな。書けたな」
白紙だったはずのその先には、今は一月の日付と、再開の一行目が入っている。律はそこを指で一回なでて、それから、こっちを見ずに言った。
「二号も、ちゃんと最後まで埋めよな。三号も、四号も」
「何十年やる気だよ、漫才」
「一生もんや言うたやろ」
窓の外で、連休の子どもの声がしていた。部屋の中は、ページをめくる音だけだった。
二人きりの部屋、というものに途中で気づいて、湊は急に、足の置き場に困った。当の律はけろっとした顔で人のベッドに座り、人の枕を勝手に背もたれにしている。
「……お前、遠慮というものがないのか」
「あるよ。使いどころを選んどるだけや」
「今が使いどころだろ」
「今は、ちゃう」
律は枕をぽんと元に戻して、代わりに、自分の隣をぽんとたたいた。
……座った。悔しいことに、座ってしまった。
肩と肩が触れる距離で、二人でノートの続きをめくった。どの舞台よりも、心臓に悪い距離だった。
半分を過ぎたあたりで、隣の重さが変わった。
見ると、律が肩に頭を預けて、寝ていた。
連休の初日に人の家へ押しかけて、人のベッドで、人の肩で、この男は寝ている。文句の在庫は十個くらいあった。ひとつも使わなかった。
一年間、見られる側だった。
初めて、こっちが見る番だった。
寝顔は、ただの同い年の男のものだった。前髪が一筋、眉にかかっている。直してやる理由はないし、直さない理由もなかったので、指で横にどけた。
起きなかった。……少しだけ調子に乗って、もう一回だけ、前髪を直した。
「……見とったやろ」
目を閉じたまま、律が言った。
「見てない」
「見とったら分かるやん」
薄目を開けて、にやりと笑う顔に、枕を押しつけた。この男は寝ていても油断ならない。一年ぶんの教訓だった。
夕方、部屋を出る間際に、律が振り返った。
「今日、ようやく分かったわ」
「何が」
「お前が普段、どの机でネタ考えとるか。窓のとこのあれやろ」
「……だったら何だよ」
「これからは思い浮かべられるやん。ネタ帳の向こうの湊」
「気持ち悪いこと言うな」
「はいはい。ほな俺、下行くわ。お母さんが、夕飯エビフライにするて言うとった。俺のぶんもあるらしいわ」
「聞いてないんだが!?」
階段を下りていく笑い声を追いかけながら、湊は思った。この男はどこでも、こうやって指定席を増やしていく。
……まあ、いい。うちのエビフライは、うまい。
◇
帰り道は、春だった。
一年と、少し。数えるのをやめるくらい歩いた道を、今日も二人で歩く。
いつからか、角までの数分だけ手をつなぐのが標準装備になった。最初にやったのは律だが、毎日の制度にしたのがどっちだったかは、もう裁判でも確定しない。
桜はとっくに散って、いつもの角の街灯の根元に、色の抜けた花びらが一枚張りついていた。
角の手前で、律が少しだけ歩調をゆるめた。
「湊」
「何」
「俺、卒業しても相方でいたい」
「恋人じゃなくて?」
「両方」
「欲張りだな」
「嫌?」
湊は少し考えた。
考えるふりをした、が正しい。答えはとっくに決まっていて、ただ、即答してやるのがなんとなく悔しかっただけだ。
「……まあ、ええよ」
「今の名古屋?」
「うるさい」
「もう一回言うて」
「絶対言わん」
言ってから、湊は三秒考えた。
考えて、答えの代わりに、つないだままの手を引いて、空いたほうの手で律の襟をつかんだ。
一秒だけ、口をふさいだ。
「……これで文句ないだろ」
「…………」
律が、固まっていた。
あの高瀬律が、口を開けたまま、何も言えずにいた。
「……ずるいわ、名古屋」
「知らん。日頃の行いだろ」
律が笑った。
春の夕方の、いつもの角で、いつもの顔で。
「ほな、また明日な。相方で恋人」
「長いんだよ、肩書きが」
「一生もんやからな」
また一生もんと言った。何回目かは、もう数えていない。
律は角をまっすぐ、駅のほうへ歩いていく。湊は坂を上る。いつもの解散だった。
坂の途中で、下から声が追いかけてきた。
「湊ー。もう一回だけー」
「言わんて!」
言ってから、気づいた。
言わん「て」。
……これは、どっちの「て」だ。生まれつき隠しとった名古屋のか、誰かさんから移った大阪のか。
まあ、いい。責任はそっちにある。
ポケットの中で、スマホが震えた。
『帰ったら電話してええ?』
返事は打たずに、しまった。どうせ、返事をする前にかかってくる。そういう男だと知っている。
坂の上で振り返ると、律はまだ角にいて、こっちに向かって変な手の振り方をしていた。夕日で、顔はよく見えない。
夢とか目標とか、そういうまぶしいものは、たぶん今もない。
ただ、明日もあいつと喋る。あさっても喋る。
どこまでがボケで、どこからが本気か。
――知っとるわ。全部、本気だ。最初から、ずっと。
