チャイムが鳴り終わっても、教室のざわめきはすぐには消えない。
県立八雲台高校、二年三組。始業式から一週間がたって、新しい教科書の匂いも、席の当たり外れの騒ぎも一段落して、教室の空気は去年と同じ温度に戻りつつあった。
水野湊は、その温度が気に入っていた。
誰の視界の真ん中にもいない。窓から見える景色と同じくらい普通で、景色と同じくらい、誰の記憶にも残らない。十四歳のある日から、湊はずっと、そういう席を選んで生きてきた。
その平和は、あと一日で終わる。
「なあ水野、聞いた? 転校生」
前の席の服部陽太が、椅子ごと振り返ってくる。四月の二週目、なんの変哲もない月曜の朝だった。
「聞いてない」
「明日からうちのクラス来るらしいぞ。しかも大阪から」
「へえ」
「反応うすっ。大阪だぞ、大阪。おもしろいんじゃないの、大阪の奴って」
「偏見だろ。大阪の人間が全員おもしろかったら、大阪の学校は授業にならんわ」
「今のちょっとおもしろかったな」
「うるさい」
「で、男? 女?」
「知らん。なんで俺に聞くんだよ」
「男らしいよ」
「じゃあなおさらどうでもいい」
我ながら可愛げのない返事だと思う。でも、本当にどうでもよかった。
名古屋で生まれて、名古屋で育って、このまま地元の大学へ行って、名古屋で就職する。
夢とか目標とか、そういうまぶしいものは特にない。ないことを恥ずかしいと思ったこともない。
友達はいる。多くはない。真面目でも不良でもない。
昨日と同じ今日が来て、今日と同じ明日が来る。湊はそれで別に、困っていなかった。
◇
「ほら、入れ」
翌朝のホームルーム。担任の日比野が連れてきた転校生は、教室の空気を三秒で持っていった。
「高瀬律です。大阪から来ました」
黒板に書かれた名前の横で、転校生はぺこりと頭を下げた。それから顔を上げて、心底申し訳なさそうに付け足した。
「始業式ならまだしも、一週間ずれてからの転校って、めっちゃ半端でごめんな?」
教室がどっと笑った。
謝るところ、そこか。
「クラス全員の名前と顔は今日中に覚えるんで。皆も俺のこと覚えてな。以上です」
「はい拍手ー。高瀬、席は窓際の一番後ろな」
拍手は、初日の転校生に向けられるものにしては明らかに大きかった。
「じゃあ、何か高瀬に質問あるやつー」
日比野が雑に仕切ると、あちこちから手が挙がった。これも初日にしては珍しい。
「大阪の人って、やっぱり皆おもしろいんですか?」
「そういう教育を受けとるからな」
「受けてないでしょ」
「なんでバレたん?」
また笑いが起きる。
「好きな食べ物は?」
「たこ焼き……って言うと思たやろ。普通にカレーです」
「なんでこの時期に転校なんですか?」
「親父の転勤や。単身赴任案もあってんけど、家族会議で親父が負けてな。負けた親父を連れて、家族全員で来ました」
「彼女はいるんですか?」
「おらんよ。大阪に置いてきた彼女もおらん」
「聞いてないことまで答えた」
誰かがつっこんで、教室がまた沸いた。
ベタだな、と湊は思った。思ったくせに、口の端が緩みかけて、慌てて頬杖で隠した。
◇
昼休み。
購買から戻ると、湊の席の前――つまり服部の席の椅子が、なぜか逆向きになっていた。
座っているのは転校生だった。背もたれを抱きかかえるようにして、こっちを見ている。
「湊やんな?」
「……は?」
「水野湊。みなと。ええ名前やなあ思て」
「なんで下の名前なんだよ」
「呼びやすいやん」
「初対面だろ」
「せやで。初対面の記念に呼んどこ思て」
「記念の使い方おかしいだろ」
言い返しながら席に着くと、転校生――高瀬律は、机にぐっと身を乗り出してきた。
近い。
「近いわ」
「めっちゃ言われるわ」
「直せよ」
至近距離で目が合った。……睫毛、長いなこいつ。
それだけ思って、目を逸らした。
「なあ、それより。ひとつ聞いてええ?」
「絶対くだらない質問だろ」
「名古屋ってほんまにエビフライばっか食うん?」
「食わんわ。大阪の人間が毎日たこ焼き食っとるんと一緒にすんな」
「ほな食ってへんの?」
「昨日食ったけど」
「食っとるやん」
どっ、と笑いが起きた。
弁当を広げていた近くの奴らが、こっちを見て笑っていた。
一瞬、背中の芯が冷えた。
――笑われた。
そう思って体が固まりかけて、けれど、すぐに気づいた。
違う。この笑いは、湊に刺さってくる種類のものじゃない。テレビを見ながら笑うときの、あの無責任で、あったかい笑い方だ。
「今の、何がおもしろいんだよ」
「分からん。湊がおもろいんちゃう?」
「俺は事実しか言ってない」
「その事実がおもろいねん」
高瀬は満足そうに笑って、背もたれに顎を乗せた。
「なあ、湊。名古屋って、ええとこ?」
「……普通」
「ほな、その普通、おいおい教えてもらうわ」
勝手に決めるな、と言いかけたところで、パンをくわえた服部が戻ってきた。
「――で。なんで俺の席に高瀬がおるの?」
「あ、すまんな。ちょっと借りとった」
「借りとった、じゃなくてさあ。てかお前、なんで水野の下の名前知っとるの?」
「朝のうちに名簿で覚えてん」
「……全員?」
「全員」
高瀬は、こともなげに言った。
「こわ」
引き気味の服部をよそに、高瀬は当たり前みたいに湊を見た。
「覚えるやろ、普通。これから一年、同じ教室におる人らやのに」
「さっきのホームルームで『今日中に覚える』って言ってなかった?」
「あれは謙遜や」
「謙遜の使い方おかしいだろ」
言ってから、しまった、と思った。さっきと同じ返しだ。
高瀬がにやりと笑う。
「湊、それ二回目やで」
「うるさいわ」
変な奴。というのが、二日目を待たずに下された評価だった。
なんというか、ペースが狂う。会話の間合いを、全部向こうに握られている感じがする。
悔しいのは――その間合いが、妙に喋りやすいことだった。
◇
午後、高瀬は宣言どおり、すれ違うクラスメイトを次々に名前で呼んだ。
「真野さんやんな? さっきはプリントありがとうな」
「え、もう覚えたの!?」
廊下の向こうで、女子の驚く声と笑い声が上がる。
六時間目、ふと視線を感じて窓際の後ろを見ると、高瀬がこっちを見ていた。
目が合うと、悪びれもせず小さく手を振ってくる。
授業中に何をやってるんだ、あいつは。
無視して黒板に向き直る。頬が少しあつい気がしたのは、四月にしては日差しが強いせいだ。そういうことにした。
人懐っこいというか、距離が近いというか。あれが大阪標準なのか、それとも。
どうでもいいか、と湊は頬杖をついた。
◇
帰り道、一人で歩きながら、ふと昼の会話を思い出して、思い出した自分に舌打ちした。
――食っとるやん、って何だ。
人を、証拠隠滅に失敗した犯人みたいに。あれじゃ取り調べだ。
大体、昨日の夕食がエビフライだったのはたまたまだ。月に一回あるかないかだ。名古屋人は毎日エビフライなんか食わない。食わない、はずだ。
……頼むから、今日の夕食はエビフライ以外であってくれ。
我ながら、なんの祈りだこれは。
それから、もうひとつ。
……嫌じゃなかった。
あの瞬間、たしかにそう思った。皆が笑って、その真ん中に自分の声があって、それが、嫌じゃなかった。
人前で目立つのは苦手なはずだ。笑い声には、あまりいい思い出がない。
体育館。マイク。三十秒。――やめだ。この件の再生は、三秒で強制終了すると決めている。
視線が集まると、今でも背中の芯のあたりが硬くなる。それくらい、あの日の笑い声は長く効いている。
なのに、だ。
「……いや、ないわ」
声に出して打ち消して、湊は歩く速度を上げた。
玄関を開けると、油の跳ねる音がした。
嫌な予感がした。この音は、揚げ物の音だ。
「おかえり。今日エビフライだで」
台所から母の声がした。
「……嘘だわ」
「なにが」
「なんでもない」
「なに、あんた嫌いだった?」
「嫌いとは言っとらん」
食っとるやん。
脳内で、覚えたての関西弁が再生された。
うるさい。黙れ。誰が食うか。
――食卓に着いて、湊は無言で箸を取った。
その夜のエビフライは、腹が立つほどうまかった。
◇
翌朝。
教室のドアを開けると、湊の席の前の椅子が、もう逆向きにセットされていた。
「おはよ、湊。今日の朝メシ何?」
「なんでお前が当たり前みたいに座ってんだよ」
「ちなみに俺は食パンやった。たこ焼きちゃうで」
「聞いてない」
「ほんで湊は? 朝メシ」
「……食パン」
「一緒やん」
なんでちょっとうれしそうなんだよ。
この男――毎日来る気だ。
断っておくが、嫌だとは言っていない。
……言っていないことに気づいて、湊は少し嫌になった。
県立八雲台高校、二年三組。始業式から一週間がたって、新しい教科書の匂いも、席の当たり外れの騒ぎも一段落して、教室の空気は去年と同じ温度に戻りつつあった。
水野湊は、その温度が気に入っていた。
誰の視界の真ん中にもいない。窓から見える景色と同じくらい普通で、景色と同じくらい、誰の記憶にも残らない。十四歳のある日から、湊はずっと、そういう席を選んで生きてきた。
その平和は、あと一日で終わる。
「なあ水野、聞いた? 転校生」
前の席の服部陽太が、椅子ごと振り返ってくる。四月の二週目、なんの変哲もない月曜の朝だった。
「聞いてない」
「明日からうちのクラス来るらしいぞ。しかも大阪から」
「へえ」
「反応うすっ。大阪だぞ、大阪。おもしろいんじゃないの、大阪の奴って」
「偏見だろ。大阪の人間が全員おもしろかったら、大阪の学校は授業にならんわ」
「今のちょっとおもしろかったな」
「うるさい」
「で、男? 女?」
「知らん。なんで俺に聞くんだよ」
「男らしいよ」
「じゃあなおさらどうでもいい」
我ながら可愛げのない返事だと思う。でも、本当にどうでもよかった。
名古屋で生まれて、名古屋で育って、このまま地元の大学へ行って、名古屋で就職する。
夢とか目標とか、そういうまぶしいものは特にない。ないことを恥ずかしいと思ったこともない。
友達はいる。多くはない。真面目でも不良でもない。
昨日と同じ今日が来て、今日と同じ明日が来る。湊はそれで別に、困っていなかった。
◇
「ほら、入れ」
翌朝のホームルーム。担任の日比野が連れてきた転校生は、教室の空気を三秒で持っていった。
「高瀬律です。大阪から来ました」
黒板に書かれた名前の横で、転校生はぺこりと頭を下げた。それから顔を上げて、心底申し訳なさそうに付け足した。
「始業式ならまだしも、一週間ずれてからの転校って、めっちゃ半端でごめんな?」
教室がどっと笑った。
謝るところ、そこか。
「クラス全員の名前と顔は今日中に覚えるんで。皆も俺のこと覚えてな。以上です」
「はい拍手ー。高瀬、席は窓際の一番後ろな」
拍手は、初日の転校生に向けられるものにしては明らかに大きかった。
「じゃあ、何か高瀬に質問あるやつー」
日比野が雑に仕切ると、あちこちから手が挙がった。これも初日にしては珍しい。
「大阪の人って、やっぱり皆おもしろいんですか?」
「そういう教育を受けとるからな」
「受けてないでしょ」
「なんでバレたん?」
また笑いが起きる。
「好きな食べ物は?」
「たこ焼き……って言うと思たやろ。普通にカレーです」
「なんでこの時期に転校なんですか?」
「親父の転勤や。単身赴任案もあってんけど、家族会議で親父が負けてな。負けた親父を連れて、家族全員で来ました」
「彼女はいるんですか?」
「おらんよ。大阪に置いてきた彼女もおらん」
「聞いてないことまで答えた」
誰かがつっこんで、教室がまた沸いた。
ベタだな、と湊は思った。思ったくせに、口の端が緩みかけて、慌てて頬杖で隠した。
◇
昼休み。
購買から戻ると、湊の席の前――つまり服部の席の椅子が、なぜか逆向きになっていた。
座っているのは転校生だった。背もたれを抱きかかえるようにして、こっちを見ている。
「湊やんな?」
「……は?」
「水野湊。みなと。ええ名前やなあ思て」
「なんで下の名前なんだよ」
「呼びやすいやん」
「初対面だろ」
「せやで。初対面の記念に呼んどこ思て」
「記念の使い方おかしいだろ」
言い返しながら席に着くと、転校生――高瀬律は、机にぐっと身を乗り出してきた。
近い。
「近いわ」
「めっちゃ言われるわ」
「直せよ」
至近距離で目が合った。……睫毛、長いなこいつ。
それだけ思って、目を逸らした。
「なあ、それより。ひとつ聞いてええ?」
「絶対くだらない質問だろ」
「名古屋ってほんまにエビフライばっか食うん?」
「食わんわ。大阪の人間が毎日たこ焼き食っとるんと一緒にすんな」
「ほな食ってへんの?」
「昨日食ったけど」
「食っとるやん」
どっ、と笑いが起きた。
弁当を広げていた近くの奴らが、こっちを見て笑っていた。
一瞬、背中の芯が冷えた。
――笑われた。
そう思って体が固まりかけて、けれど、すぐに気づいた。
違う。この笑いは、湊に刺さってくる種類のものじゃない。テレビを見ながら笑うときの、あの無責任で、あったかい笑い方だ。
「今の、何がおもしろいんだよ」
「分からん。湊がおもろいんちゃう?」
「俺は事実しか言ってない」
「その事実がおもろいねん」
高瀬は満足そうに笑って、背もたれに顎を乗せた。
「なあ、湊。名古屋って、ええとこ?」
「……普通」
「ほな、その普通、おいおい教えてもらうわ」
勝手に決めるな、と言いかけたところで、パンをくわえた服部が戻ってきた。
「――で。なんで俺の席に高瀬がおるの?」
「あ、すまんな。ちょっと借りとった」
「借りとった、じゃなくてさあ。てかお前、なんで水野の下の名前知っとるの?」
「朝のうちに名簿で覚えてん」
「……全員?」
「全員」
高瀬は、こともなげに言った。
「こわ」
引き気味の服部をよそに、高瀬は当たり前みたいに湊を見た。
「覚えるやろ、普通。これから一年、同じ教室におる人らやのに」
「さっきのホームルームで『今日中に覚える』って言ってなかった?」
「あれは謙遜や」
「謙遜の使い方おかしいだろ」
言ってから、しまった、と思った。さっきと同じ返しだ。
高瀬がにやりと笑う。
「湊、それ二回目やで」
「うるさいわ」
変な奴。というのが、二日目を待たずに下された評価だった。
なんというか、ペースが狂う。会話の間合いを、全部向こうに握られている感じがする。
悔しいのは――その間合いが、妙に喋りやすいことだった。
◇
午後、高瀬は宣言どおり、すれ違うクラスメイトを次々に名前で呼んだ。
「真野さんやんな? さっきはプリントありがとうな」
「え、もう覚えたの!?」
廊下の向こうで、女子の驚く声と笑い声が上がる。
六時間目、ふと視線を感じて窓際の後ろを見ると、高瀬がこっちを見ていた。
目が合うと、悪びれもせず小さく手を振ってくる。
授業中に何をやってるんだ、あいつは。
無視して黒板に向き直る。頬が少しあつい気がしたのは、四月にしては日差しが強いせいだ。そういうことにした。
人懐っこいというか、距離が近いというか。あれが大阪標準なのか、それとも。
どうでもいいか、と湊は頬杖をついた。
◇
帰り道、一人で歩きながら、ふと昼の会話を思い出して、思い出した自分に舌打ちした。
――食っとるやん、って何だ。
人を、証拠隠滅に失敗した犯人みたいに。あれじゃ取り調べだ。
大体、昨日の夕食がエビフライだったのはたまたまだ。月に一回あるかないかだ。名古屋人は毎日エビフライなんか食わない。食わない、はずだ。
……頼むから、今日の夕食はエビフライ以外であってくれ。
我ながら、なんの祈りだこれは。
それから、もうひとつ。
……嫌じゃなかった。
あの瞬間、たしかにそう思った。皆が笑って、その真ん中に自分の声があって、それが、嫌じゃなかった。
人前で目立つのは苦手なはずだ。笑い声には、あまりいい思い出がない。
体育館。マイク。三十秒。――やめだ。この件の再生は、三秒で強制終了すると決めている。
視線が集まると、今でも背中の芯のあたりが硬くなる。それくらい、あの日の笑い声は長く効いている。
なのに、だ。
「……いや、ないわ」
声に出して打ち消して、湊は歩く速度を上げた。
玄関を開けると、油の跳ねる音がした。
嫌な予感がした。この音は、揚げ物の音だ。
「おかえり。今日エビフライだで」
台所から母の声がした。
「……嘘だわ」
「なにが」
「なんでもない」
「なに、あんた嫌いだった?」
「嫌いとは言っとらん」
食っとるやん。
脳内で、覚えたての関西弁が再生された。
うるさい。黙れ。誰が食うか。
――食卓に着いて、湊は無言で箸を取った。
その夜のエビフライは、腹が立つほどうまかった。
◇
翌朝。
教室のドアを開けると、湊の席の前の椅子が、もう逆向きにセットされていた。
「おはよ、湊。今日の朝メシ何?」
「なんでお前が当たり前みたいに座ってんだよ」
「ちなみに俺は食パンやった。たこ焼きちゃうで」
「聞いてない」
「ほんで湊は? 朝メシ」
「……食パン」
「一緒やん」
なんでちょっとうれしそうなんだよ。
この男――毎日来る気だ。
断っておくが、嫌だとは言っていない。
……言っていないことに気づいて、湊は少し嫌になった。
