毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 春休みは、初日から律に予約されていた。

 前の日の夜、いつもの電話の終わりぎわに、あいつは言った。

『なあ、明日空いとる?』
「ネタ合わせだろ」
『ちゃう』
「じゃあネタ帳の買い出しか」
『ちゃう。……あのな、湊。俺ら、一回もデートしてへんの、気づいとった?』


 ……デート。


 その三文字は、聞き慣れたどの単語より破壊力があった。ネタ合わせなら百回やった。一緒に帰った回数なら、もう数えていない。でも、デートと名前のついた外出は、たしかに、一回もない。

「……ネタ探しなら何回もしてるだろ。夏とか」
『それや。それが問題やねん』

 電話の向こうで、律は真剣だった。

『あれ全部、ネタ探しやってん。招き猫も、黄色い電車も、行き先が最初からネタ帳やった。せやから明日は、検証や』
「何のだよ」
『俺らはデートができるんか、それとも何をやってもネタ探しになるんか。この目で確かめなあかん』
「なんの使命感だよ」





 三月の大須は春休みの人間で混んでいた。

 集合は商店街の入り口。律は五分前に来ていて、湊を見つけると、変な手の振り方をした。

「ほな、開始や。本日のルールを発表します」
「ルールがあるのかよ」
「一、ネタ帳は持ってきたけど、開かへん。二、おもろいこと言うても、採用禁止。三――」
「三は」
「……三は、今考えとる」
「舞台で三択のルール崩した男が、まだルール作るのかよ」
「あれは崩したんちゃう。増やしてん」
「増やした上に未完成なんだよ」

 言ってから、しまった、と思った。

「今の、採用禁止やで」
「裁定が早いんだよ」
「ほらな。開始三十秒でこれや」

 律は満足そうに笑って、歩き出した。


 三月の人混みも夏に負けていなかった。

 角を曲がったところで、律の手が、当たり前の顔でこっちの手を取った。

「……おい」
「迷子防止や」
「高校生だぞ」
「大須は広いからな」
「理屈が小学生なんだよ」

 振りほどかなかった。理由は検証しない。今日は、そういう日ではないらしいので。

 夏は、袖だった。

 同じ人混みで、あのときこいつは、はぐれないための言い訳みたいに、シャツの袖だけをつまんで歩いた。人前では、決勝の日の暗がりでも、まだ袖だった。今は手のひらごとある。





 昼はたこ焼きにした。

「名古屋のたこ焼きを、大阪人が審査したる」
「審査するな。普通に食え。どうせ大阪じゃ毎日食ってるんだろ」
「食わんわ。一緒にすな」
「……それ、俺の初日の台詞だぞ」
「せやで。一回言うてみたかってん」

 ひと口食って、律は黙った。長い沈黙だった。

「……どうなんだよ」
「うまい、と言いたない自分がおる」
「素直に負けを認めろ」
「負けてへん。これはこれや。たこ焼きは多様性や」
「都合のいいときだけ多様性を持ち出すな」

 言い合っているうちに、隣のベンチの親子連れが笑っていた。

 あ、と二人同時に固まった。

「……今の、ウケたな」
「ウケてもうたな」
「デートの検証中にウケてどうする」
「せやねん。俺らの日常、燃費がよすぎんねん」

 食後、律がソフトクリームを二つ買ってきた。頼んでいない。

「なんで二つなんだよ」
「片方は俺のや」
「そうじゃなくて。俺は頼んどらん」
「デートやからな。おごりは検証項目や」
「おごりの検証って何だよ」
「言うとくけど、次は湊の番やで」
「次があるのかよ」

 言ってから、次がある前提で怒っていることに気づいた。律がにやにやしていたので、ソフトクリームで口を塞いだ。自分の口をだ。

 検証結果は、悪化の一途をたどった。ネタ探しをしていないのに、ネタのほうから寄ってくる。

 ……これはもう、デートではないのかもしれなかった。





 夕方、招き猫の前まで来た。

 夏と同じ場所に、同じ猫がいた。季節だけが入れ替わって、招き猫の右手は今日も上がったままだった。

「あの夏ぶりやな」
「『名古屋の人らはあれ拝むん?』の猫な」
「せや。ほんで俺、あのあと、こっそり拝んどってん。商売繁盛と、もうひとつ」
「聞いてないぞ」
「言うてへんもん。……もうひとつのほうは、今も言わん。もう聞いてもろたから、言う必要がない」

 ……それも、検証しない。今日はそういう日ではないので。

 律はスマホを出して、写真を一枚だけ撮った。招き猫と、笑っている男と、その隣の仏頂面。

 撮ってから、かばんに手を入れて、買ったばかりの新しいネタ帳を出した。表紙にはまだ、何も書いていない。一ページ目にあいつらの賞状の写真だけを貼った、と先週自慢されたやつだ。

「おい、ルール一」
「分かっとる」

 律はノートを開かなかった。開かないまま、表紙をしばらく見て、それから、かばんに戻した。

「今日のは、書かへん」
「……いいのか。たこ焼きの多様性、あれ普通に使えるだろ」
「使えるな。使えるけど、書かへん」

 律は招き猫を見上げたまま、言った。

「舞台に上げるもんと、二人だけのもんを分ける、て決めたやろ。一月に、アンモナイトで」
「……ああ」
「今日のは、丸ごと後者や」
「…………」
「ほな、検証終了。結果を発表します」
「聞いてやる」
「本日は――デートでした」
「認定が雑なんだわ」
「ええねん。審査員は俺やから」

 異議は、申し立てなかった。





 帰りはいつもの角まで戻ってきた。

 日が伸びて、六時の空がまだ明るい。春はこういうところが油断ならない。

「ほな、また明日な」
「明日も来るのかよ」
「春休みやで。毎日が放課や」
「授業がないなら、それはただの休みなんだよ」
「細かい男はもてへんで」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「あ、そや。ルールの三、決まったで」
「今かよ」
「三――また今度も、やること」
「ルールっていうか、予約だろそれ」
「せや。予約や」

 律はにやりとして、それから、ちらっと周りを見た。

 見たな、と思ったときには、もう近かった。

 一瞬だけ。挨拶みたいな、軽いやつ。

「……ここ、外だぞ」
「誰も見てへん。見とったんは湊だけや」
「屁理屈にもなっとらん」
「ほな、また明日」

 角をまっすぐ、駅のほうへ。いつもの解散。いつもより足取りの軽い背中だった。

 坂を上りながら、湊は今日一日を、頭の中で一回だけ再生した。

 ネタ帳には、何も残らない。

 こっちだけは、誰にも見せない。