毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 決勝の夜の家は静かだった。

 夕飯は、何も聞かれずにから揚げだった。エビフライじゃないあたりに、母なりの気の使い方が全部出ていた。姉は一回だけ「あんた」と言いかけて、やめて、から揚げを一個くれた。うちの家族の慰め方は、だいたい油ものでできている。

 いつもの角の「来年の話、してええ?」は、結局、律のほうから取り下げた。「――やっぱ今日はやめとくわ。今日は、今日の話だけしたい」。そう言って、いつもの変な手の振り方で帰っていった。

 風呂を出て、部屋の電気を消して、ベッドに転がったところで、スマホが鳴った。

 律。

 着信画面の名前を三秒見てから、湊は出た。

「何」
『何、て。出るの遅いわ。三コールて何やねん』
「風呂上がりなんだよ」
『頭も拭かんと出てくれたんや』
「なんで分かるんだよ」
『音で分かる。まだ、ぽたぽた言うとる』

 「言うとらん」と返しながら、タオルを頭に乗せた。電話の向こうで、笑う気配がした。

 それから少しの間、今日の話をした。

 最優秀賞をとった定規とコンパスが、賞状をどっちが持ち帰るかで、じゃんけんを七回もやり直していたこと。日比野が帰りのロビーで審査員より長い講評をぶって、服部に録画されていたこと。同じロビーで真野が「来年は横断幕作る」と言い出して、誰も止めなかったこと。

「……で、何の用だよ。明日も会うだろ」
『用がなかったら電話したらあかんの?』
「そうは言ってない」
『ほな、ええやん』

 ええやん、で終わるかと思った。

 終わらなかった。電話の向こうで、律が一回、息を吸った。

『なあ、湊。頼みがあるねん』
「嫌な予感しかしないんだが」
『五分だけ、ボケなしで喋ってええ?』


 ……五分だけ、何だって?


『ボケ禁止。つっこみも禁止。五分たったら終わり。タイマーはこっちでかける』
「何だよそれ」
『制度や』
「……手ぇ握るだけの休憩の、電話版か」
『せや。制度第二号や』

 断る理由を探した。三秒探して、見つからなかった。見つからなかったというのは嘘で、探すふりをしただけだった。

「……五分だけだぞ」
『ありがとな。ほな――いくで』

 ぴ、と小さい電子音がした。本当にタイマーをかけたらしい。

 そこから、律の声が変わった。

 一月のアンモナイトで一度だけ聞いた、あのテンポの落ちた声――その、さらに先まで落ちた速さだった。

『今日な、舞台で言うたやろ。ほんまのやつ』
「……ああ」
『あれ、何百人おる場所やから言えたんとちゃうで。あそこでなら、笑いに逃げられるから言えたわけでもない。……いや、ちょっとはあるな。あの一拍で、客、笑うたやろ。沈黙のボケの続きや思て。あの笑い声の下やったから言えた分は、ある。ごめん、さっきのは嘘になる』

 訂正まで、ゆっくりだった。

「……分かっとった。俺だけ、あの笑いに乗っとらん」
『せや。お前だけ乗らんかった。せやから、届いた』
『ほんまはな、ずっと決めとってん。決勝の舞台で言うて、お前が「知っとるわ」て返してくれたら、その日の夜は、ボケなしのやつを言う、て。せやから今日のこれは、予定どおりや』
「……用意周到かよ」
『つっこみ禁止や』
「今のはつっこみじゃない。感想だ」
『ほな続けるで』

 律は続けた。

『ホームで言うた日な。ほんまは、めちゃくちゃ怖かってん。笑うてくれてよかった、てあのときはほんまに思た。……思たけど、部屋帰ってから、ちょっとだけ死ぬかと思た』
「…………」
『ほんで、今日の楽屋のやつな』
「……あれは」
『あれは勢いや。謝らんで。謝らんけど……心臓は、まだちょっとおかしい』

 こっちもだ、とは言わなかった。ボケ禁止の時間に、これ以上の自白を重ねたら、五分がもたない。

『最後にもう一個だけ。さっき舞台の袖でな、怖いもんがおらんかった、て顔しとった。あれ見て俺、今日いちばんうれしかってん。優勝より、そっちが欲しかったんかもしれん』
『来年の話はな、今日はせえへん。進路とか、大阪とか、そういうのは今日はなしや。今日は、もっと大事な話や』

 そして律は、一回だけ、間を置いた。

 舞台では絶対にやらない長さの間だった。

『俺は、水野湊のことが、好きです』

 敬語だった。

『ずっと好きでした。たぶん、これからも、ずっと好きです』

 冗談の速さでも、様式の軽さでもない、丸腰の言葉が三つ、順番に落ちてきた。

 三つめが落ちきったあたりで、心臓がおかしくなった。耳が熱い。スマホを持つ手に汗をかいて、右手から左手に持ち替えて、持ち替えたことを後悔した。声を出したら震えるのが分かっているから、出せない。頭のタオルを目の下まで引き下ろして、下ろしてから、電話の相手に見えるわけがないことに気づいた。

 電話でよかった。

『……以上や。ほな、残り時間は湊の番な』
「は? 聞いてない」
『制度やから』
「制度の説明に俺の番なんてなかっただろ」
『第二条や。今作った』
「今作るな」

 言い返して、気づいた。電話の向こうが静かになっている。

 律は、待っていた。せかさず、茶化さず、ただ待っていた。

 湊は天井を見た。

 言葉を探した。漫才なら半秒で出る言葉が、今日は一つも出てこない。

 沈黙が怖くない相手は、こいつが初めてだった。

「……最初は、迷惑だった」
『うん』
「――嘘だ。今のは嘘。最初から、たぶん、嫌じゃなかった」
『うん』
「お前が来てから、笑い声が、怖くなくなった」
『うん』

 うん、だけが返ってくる。

 最後のひとつを、湊は息ごと吐き出した。

「好きだ。ボケじゃなく、本気で。……でら好きだ」

 電話の向こうで、息をのむ音がした。

 それから、長い沈黙が来た。

 電話の向こうで規則正しく、けれど少しだけ速く続いている呼吸だけが、今夜の音の全部だった。

 ――ぴぴ、ぴぴ、と。

 タイマーが鳴った。

『……五分や』
「五分だな」
『制度、終了します』

 その瞬間、二人同時だった。

『今のは録音しとくべきやったわ!』
「消せ。データごと消せ。存在ごと消せ」
『録音してへんて。……記憶からは消えへんけどな』
「最悪だ」
『一言一句、一生もんや』
「その単語の在庫、何個あるんだよ」

 笑った。電話の向こうでも笑っていた。

 五分だけ皮を脱いで、五分たったら、二人ともちゃんと、いつもの皮をかぶり直せた。

『ほな、切るわ。……また明日な、湊』

 また明日な、が、いつもより一段、柔らかかった。

「おう。また明日」

 通話が切れて、部屋が静かになった。

 湊はスマホを胸の上に置いて、暗い天井を見た。顔が熱いのは、風呂のせいではもうなかった。

 制度第二号は、またそのうち使われる。次がいつかは知らない。

 ただ、五分は短い、と思ってしまったことだけは、当分あいつには言わないでおく。