二月のホールは、十月の予選より天井が高かった。
楽屋には、各県の予選を抜けてきたコンビの名前が並んでいた。香盤表の中に「食っとるやん(くっとるやん)」の六文字を見つけて、律が「ふりがな、今回も現役や」と笑った。
客席には、来てくれた顔がある。取材班を自称する服部。真野と、クラスの何人か。生徒の引率という名目を勝ち取ってきた日比野。あの人は絶対に、引率がしたいんじゃなくて客をやりたいだけだ。それから、『暇だから行くわ』とだけ送ってきた近藤茜。暇なやつが二月の朝からホールまで来るか。
出番前、舞台袖の暗がりで、先にネタを終えた定規とコンパスの二人と行き合った。
三年生の二人は、汗ひとつかいていなかった。今日も三分間、図面どおりに客席を制圧してきた顔だった。
すれ違いざま、背の高いほう――決勝の香盤表に名字まで刷ってあったから覚えた、戸田が足を止めた。
「予選、袖で見とったよ。お前らの漫才、嫌いじゃない」
それだけ言って、二人は行ってしまった。
「……今の、宣戦布告?」
「ちゃうやろ。あれは先輩の置き土産や」
律は笑って、それから、こっちの顔をのぞきこんだ。
「湊。緊張しとる?」
「しとる」
「せやろな。俺もや」
「……珍しいな。認めるのか」
「認めるよ。最初からずっとしとるよ。相方の前で言わんかっただけや」
手の内を全部見せた男は、そのくせ、幕の向こうの光を見る目だけは予選より落ち着いていた。
その横顔を見て、湊はひとつ決めた。
「律」
「ん?」
「ネクタイ、曲がっとるぞ」
律が、こっちを見た。
律は一度まばたきをして、それから、目だけで笑った。
「……制服にネクタイ、ないやろ」
「じゃあ安心だな」
「それ、俺のやつやん」
「借りた。返さん」
律は声を出さずに笑って、それから、ないネクタイを直すみたいに自分の首元を一回さわった。
「……効くなあ、これ」
「だろ。六月に効いた」
客席のざわめきが、幕の向こうで波の音みたいに鳴っている。
怖いか、と自分の胸に聞いてみた。
中学の体育館で笑われた日から、ずっと居座っていたあの冷たいやつを、探した。
――いなかった。
どこにも、いなかった。
「行こか、相方」
「おう」
◇
「エントリーナンバー八番――『食っとるやん』!」
コンビ名がホールに響いた。
エビフライの会話が、十か月かけて、ここまで来た。感慨はそこまでにして、湊はセンターマイクへ歩いた。照明は熱い。もう、まぶしくはない。
「どうもー、食っとるやんです。お願いします」
「コンビ名の由来、よう聞かれるんですけどね。こいつが転校初日の俺を取り調べたんが始まりです」
「取り調べたのはお前だろ。人の飯の回数を数えるな」
「ほんで決勝ですよ。今日は俺、決めてきました。真面目にやります」
「お前が真面目にやるって言うと、何かの前フリにしか聞こえないんだよな」
「それや! うちの相方、俺が何言うてもボケや思うんです」
「実際ボケだろ」
「ちゃうときもあるやろ! たとえばですよ。俺が『今日ええ天気やな』て言うたら?」
「何かの前フリだろ」
「『宿題やった?』」
「引っかけ問題だろ」
「『熱あるから、今日休む』」
「仮病のボケ、弱いな」
「ほんまに熱あってん!」
「次の日ぴんぴんしてただろ」
「治ったんや! 人の回復力をボケ扱いすな!」
笑いが来る。手前から奥まで、波が立つ。
律のボケは今日も半歩遠くに来る。腕を全力で伸ばす。届く。その繰り返しが、たまらなく気持ちよかった。
「分かった。ほな俺、今から何も言わへん」
律が口を閉じた。腕を組んで、黙る。
一秒。二秒。三秒。
「……長いな、このボケ」
「黙っててもあかんのかい!」
「間が長いのはボケなんだよ。漫才の常識だろ」
「漫才の常識を日常に持ちこむな!」
「日常で漫才しとるのはお前だろ」
客席が温まっていく。頭の中で、三分の砂時計の砂が落ちる。
「だいたいな、皆さん聞いてくださいよ。こいつの日頃の行いなんです」
「何や」
「転校初日、『クラス全員の名前、今日中に覚える』って言ったんですよ」
「言うた」
「昼までに覚えとった」
「がんばった」
「『がんばった』で済むか。人間の速度じゃないんだわ」
「ほんまのこと言うただけやん!」
「あと毎朝、人の朝メシを聞いてくる。十か月、ほぼ毎日」
「確認や」
「確認の頻度が刑事なんだよ」
「ほな今ここで一回だけ聞くけど。湊、今日の朝メシ何?」
「舞台の上で取り調べるな」
「答えられへんの?」
「……エビフライ」
「朝からエビフライて。……まあええわ、食っとるやん!」
最前列の見知った顔ぶれが先にひっくり返って、笑いが後ろへ広がった。
「――と見せかけて、嘘だ。米だった」
「今のはボケなんかい!」
「どうだ。どっちがボケか分からんのは、つらいだろ」
「…………」
「今の間もボケか?」
「ちゃうわ! しみじみしとってん!」
笑いがかぶさる。律が頭を抱えて、客席に向き直った。
「あかん、このままやと俺、一生信じてもらえへん。ほなテストや」
「テスト?」
「今から三つ言う。一個だけほんま。どれがほんまか、自分で当ててみ」
「乗ってやる」
「一、俺は大阪で野球部やった。二、好きな食べ物はカレー。三、名古屋、めっちゃ好きや」
「二」
「正解。……三は?」
「ボケだろ」
「ほんまやて! 好きやて!」
「一個だけって言ったのはお前だろ。一問目でルールが崩れとるんだが」
「……次いくで。一、俺は宿題を毎回ちゃんとやっとる。二、俺は毎朝六時に起きて走っとる。三、こいつが今週シャーペン噛んだ回数、数えとる」
「三」
「正解。十四回や」
「数えるな! ……多いな」
「なんで三が分かったん?」
「一番気持ち悪いのが本当なんだよ、お前は」
笑いが、足元から来た。
そして、台本どおりの最後のブロックが来た。
「ほな最後。一、ほんまは俺、名古屋生まれや。二、俺はエビフライが嫌いや。三、俺はこいつのことが好きや」
客席が、少しだけざわついた。笑いの手前の、期待の形をしたざわめきだった。
三番の一行を台本に書いたのは、湊だ。書いた本人が、それにボケだろと返す段取りだった。
「一と二はボケだな」
「せやな。ほんで、三は?」
「……三もボケだろ」
「全部ボケにすな! 一個はほんまや言うたやろ!」
どっ、と来た。ここまでで一番大きかった。
律は、三本立てていた指を下ろして、マイクから一歩離れた。テストは終わり、という構えの解き方だった。それから客席に向かって、困った顔で両手を広げた。
「こいつね、俺が好きって言うても信じてくれへんのですよ」
「当たり前だわ。お前の日頃の行いを反省しろ」
また笑いが起きる。
「ほな、今ここで言うたるわ」
「何」
「好きやで」
――一拍。
台本では、ここに間はない。三択の三番と同じ速さで、同じ軽さで言う。そう決めて、何十回も練習した。
律は、一拍置いた。
客席が笑った。さっきの沈黙の続きだと思ったのだろう。何百人の笑い声が、その一拍をボケとして受け取って、通り過ぎていった。
その笑い声の下で、湊だけが分かった。
律は今、本気で言っている。
考えるより先に、口が動いた。
湊は少しだけ笑って、言った。
「……知っとるわ」
会場が、沸いた。
隣で律が、わざとらしく天を仰いだ。ボケが狙いどおりにウケたときの、いつもの仕草だった。今日のそれは、顔を隠す用だったのかもしれない。
三分間で一番大きい笑いだった。客席には、ボケの完成形に見えたらしい。
見えていればいい。これは二人だけの秘密で、その秘密が今、ホールいっぱいにウケている。
「……ほんで、今の、信じたん?」
「さあな」
「さあなて!」
「続きは楽屋で話せ。もうええわ」
「どうもありがとうございましたー!」
頭を下げた。拍手が床から返ってきた。
◇
結果発表までの三十分は、予選の三倍長かった。
楽屋の隅で、律はずっと膝を揺らしていた。湊はその膝を二回たたいて止めた。三回目に揺れ出したときは、もう止めなかった。人のことを言えないくらい、自分の手も冷たかったからだ。
結果発表は、出番を終えた組が並ぶ舞台袖で聞いた。
最優秀賞は定規とコンパスだった。
特番出演の権利も、賞状と一緒に向こうへ行った。始まりの動機だったはずのそれが、今は二番目に悔しいことなのが、我ながら不思議だった。
順当だった。順当だと分かる程度には、二人とも彼らの漫才を見てきた。設計と精度で、正面から負けた。
悔しかった。
悔しい、というのがどういう感情か、湊は今日、初めて本当に知った気がした。
隣の律は、賞状を持つ定規とコンパスを、まばたきもせずに見ていた。
「……悔しいなあ」
「悔しいな」
「来年は勝つで」
来年。
その二文字を、律は当たり前みたいに言った。湊は横顔を見たが、律は舞台を見たままだった。
講評で、審査員の一人がマイクを持った。技術の話、構成の話。それから、最後にひと言だけ、付け足した。
「エントリー八番の『食っとるやん』。技術ではまだ及びません。ですが――今日一番、二人でいる意味があったコンビでした」
客席のどこかで、服部が変な声を出したのが聞こえた。
湊は、隣を見なかった。見たら、顔が崩れる気がした。
代わりに律の手が、暗がりでこっちの袖を、一回だけつまんで離れた。
夏の大須と同じ手だった。
◇
撤収の楽屋で、少しだけ、二人きりになった。
服部から『日比野の感想大会につかまった』と連絡が来ていて、荷物をまとめるのは二人だけだった。
かばんを閉じたところで、律が言った。
「なあ、湊。舞台で言うたやろ」
「何を」
「続きは楽屋で、て」
「……言ったのは俺だけどな」
「ほな、続きや」
言い切りだった。疑問形は、なかった。
狭い楽屋の、パイプ椅子と長机の間で、律は動かなかった。動かないまま、半歩分だけ近かった。教室でネタ帳をのぞきこんでくる、いつものあの距離。
「……続きって、何だよ」
「知らんの?」
「……知っとるわ」
「ほな、ええやん」
どっちが先に動くかの根比べは、三秒ほどあった。漫才なら長すぎる間で、これには、ちょうどよかった。
どっちが先に動いたのかは、分からなかった。一生、水掛け論になるやつだ。
目を閉じる直前まで見えていたのは、近すぎてピントの合わない、まぬけな相方の顔だった。
唇は、二月の廊下の温度をしていた。触れている一秒か、二秒のあいだに、それが体温に変わった。かばんの持ち手を握ったままの自分の右手。頬の横に、遠慮がちに触れて離れた律の指。自分の心臓の音。近すぎる呼吸。
頭は追いつかなかった。追いつかなくて、よかった。
悔しさの味がした。今日の全部の味がした。
離れてすぐ、律が一度だけ、額を合わせてきた。合わせて、すぐ離れた。二度目はしない、という顔だった。
それから、律が言った。
「……初めてのくせに、堂々としとるな」
「お前もだろ」
「俺は三分ネタで場数踏んどるからな」
「関係あるのか、それ」
「分からん。ないかもしれん」
あとは、いつもの速度だった。顔が熱いのはお互いさまだったので、指摘はどちらもしなかった。
◇
帰り道は夜だった。
二月の空気は刺すみたいに冷たくて、吐く息ばかりが白くて、二人ともコートのポケットに手を突っこんで歩いた。
「悔しいなあ」
「それ今日五回目だぞ」
「五十回は言うで。悔しいもん」
「……そういえばお前、あいつらの賞状、撮っとったろ」
「せや。来年の目標物や。次のネタ帳の一ページ目に貼るねん」
「趣味悪いなあ」
「執念や」
「……俺もだわ」
悔しい。負けた。なのに、胸のどこかが変に満ちている。
二人でいる意味があった、という言葉が、ポケットの中のカイロみたいにまだあたたかい。賞状より、あれが欲しかったのかもしれなかった。
スマホが震えた。茜からだった。
『今日のが一番おもしろかったわ。三回の中で』
三回。
中二の体育館。六月の体育館。今日のホール。
……数えとったのか、あいつも。
返信は『そうか』とだけ打った。素っ気なさは、幼なじみへの正式な礼儀だった。
いつもの角が近づいてくる。
角の手前で、律が少しだけ歩調をゆるめた。
「なあ、湊」
「何」
「来年の話、してええ?」
白い息が、街灯の光の中で一回ほどけて、消えた。
来年。
三年生。進路。大阪。
聞きたいことと、聞くのが怖いことが、その二文字の中に全部入っていた。
楽屋には、各県の予選を抜けてきたコンビの名前が並んでいた。香盤表の中に「食っとるやん(くっとるやん)」の六文字を見つけて、律が「ふりがな、今回も現役や」と笑った。
客席には、来てくれた顔がある。取材班を自称する服部。真野と、クラスの何人か。生徒の引率という名目を勝ち取ってきた日比野。あの人は絶対に、引率がしたいんじゃなくて客をやりたいだけだ。それから、『暇だから行くわ』とだけ送ってきた近藤茜。暇なやつが二月の朝からホールまで来るか。
出番前、舞台袖の暗がりで、先にネタを終えた定規とコンパスの二人と行き合った。
三年生の二人は、汗ひとつかいていなかった。今日も三分間、図面どおりに客席を制圧してきた顔だった。
すれ違いざま、背の高いほう――決勝の香盤表に名字まで刷ってあったから覚えた、戸田が足を止めた。
「予選、袖で見とったよ。お前らの漫才、嫌いじゃない」
それだけ言って、二人は行ってしまった。
「……今の、宣戦布告?」
「ちゃうやろ。あれは先輩の置き土産や」
律は笑って、それから、こっちの顔をのぞきこんだ。
「湊。緊張しとる?」
「しとる」
「せやろな。俺もや」
「……珍しいな。認めるのか」
「認めるよ。最初からずっとしとるよ。相方の前で言わんかっただけや」
手の内を全部見せた男は、そのくせ、幕の向こうの光を見る目だけは予選より落ち着いていた。
その横顔を見て、湊はひとつ決めた。
「律」
「ん?」
「ネクタイ、曲がっとるぞ」
律が、こっちを見た。
律は一度まばたきをして、それから、目だけで笑った。
「……制服にネクタイ、ないやろ」
「じゃあ安心だな」
「それ、俺のやつやん」
「借りた。返さん」
律は声を出さずに笑って、それから、ないネクタイを直すみたいに自分の首元を一回さわった。
「……効くなあ、これ」
「だろ。六月に効いた」
客席のざわめきが、幕の向こうで波の音みたいに鳴っている。
怖いか、と自分の胸に聞いてみた。
中学の体育館で笑われた日から、ずっと居座っていたあの冷たいやつを、探した。
――いなかった。
どこにも、いなかった。
「行こか、相方」
「おう」
◇
「エントリーナンバー八番――『食っとるやん』!」
コンビ名がホールに響いた。
エビフライの会話が、十か月かけて、ここまで来た。感慨はそこまでにして、湊はセンターマイクへ歩いた。照明は熱い。もう、まぶしくはない。
「どうもー、食っとるやんです。お願いします」
「コンビ名の由来、よう聞かれるんですけどね。こいつが転校初日の俺を取り調べたんが始まりです」
「取り調べたのはお前だろ。人の飯の回数を数えるな」
「ほんで決勝ですよ。今日は俺、決めてきました。真面目にやります」
「お前が真面目にやるって言うと、何かの前フリにしか聞こえないんだよな」
「それや! うちの相方、俺が何言うてもボケや思うんです」
「実際ボケだろ」
「ちゃうときもあるやろ! たとえばですよ。俺が『今日ええ天気やな』て言うたら?」
「何かの前フリだろ」
「『宿題やった?』」
「引っかけ問題だろ」
「『熱あるから、今日休む』」
「仮病のボケ、弱いな」
「ほんまに熱あってん!」
「次の日ぴんぴんしてただろ」
「治ったんや! 人の回復力をボケ扱いすな!」
笑いが来る。手前から奥まで、波が立つ。
律のボケは今日も半歩遠くに来る。腕を全力で伸ばす。届く。その繰り返しが、たまらなく気持ちよかった。
「分かった。ほな俺、今から何も言わへん」
律が口を閉じた。腕を組んで、黙る。
一秒。二秒。三秒。
「……長いな、このボケ」
「黙っててもあかんのかい!」
「間が長いのはボケなんだよ。漫才の常識だろ」
「漫才の常識を日常に持ちこむな!」
「日常で漫才しとるのはお前だろ」
客席が温まっていく。頭の中で、三分の砂時計の砂が落ちる。
「だいたいな、皆さん聞いてくださいよ。こいつの日頃の行いなんです」
「何や」
「転校初日、『クラス全員の名前、今日中に覚える』って言ったんですよ」
「言うた」
「昼までに覚えとった」
「がんばった」
「『がんばった』で済むか。人間の速度じゃないんだわ」
「ほんまのこと言うただけやん!」
「あと毎朝、人の朝メシを聞いてくる。十か月、ほぼ毎日」
「確認や」
「確認の頻度が刑事なんだよ」
「ほな今ここで一回だけ聞くけど。湊、今日の朝メシ何?」
「舞台の上で取り調べるな」
「答えられへんの?」
「……エビフライ」
「朝からエビフライて。……まあええわ、食っとるやん!」
最前列の見知った顔ぶれが先にひっくり返って、笑いが後ろへ広がった。
「――と見せかけて、嘘だ。米だった」
「今のはボケなんかい!」
「どうだ。どっちがボケか分からんのは、つらいだろ」
「…………」
「今の間もボケか?」
「ちゃうわ! しみじみしとってん!」
笑いがかぶさる。律が頭を抱えて、客席に向き直った。
「あかん、このままやと俺、一生信じてもらえへん。ほなテストや」
「テスト?」
「今から三つ言う。一個だけほんま。どれがほんまか、自分で当ててみ」
「乗ってやる」
「一、俺は大阪で野球部やった。二、好きな食べ物はカレー。三、名古屋、めっちゃ好きや」
「二」
「正解。……三は?」
「ボケだろ」
「ほんまやて! 好きやて!」
「一個だけって言ったのはお前だろ。一問目でルールが崩れとるんだが」
「……次いくで。一、俺は宿題を毎回ちゃんとやっとる。二、俺は毎朝六時に起きて走っとる。三、こいつが今週シャーペン噛んだ回数、数えとる」
「三」
「正解。十四回や」
「数えるな! ……多いな」
「なんで三が分かったん?」
「一番気持ち悪いのが本当なんだよ、お前は」
笑いが、足元から来た。
そして、台本どおりの最後のブロックが来た。
「ほな最後。一、ほんまは俺、名古屋生まれや。二、俺はエビフライが嫌いや。三、俺はこいつのことが好きや」
客席が、少しだけざわついた。笑いの手前の、期待の形をしたざわめきだった。
三番の一行を台本に書いたのは、湊だ。書いた本人が、それにボケだろと返す段取りだった。
「一と二はボケだな」
「せやな。ほんで、三は?」
「……三もボケだろ」
「全部ボケにすな! 一個はほんまや言うたやろ!」
どっ、と来た。ここまでで一番大きかった。
律は、三本立てていた指を下ろして、マイクから一歩離れた。テストは終わり、という構えの解き方だった。それから客席に向かって、困った顔で両手を広げた。
「こいつね、俺が好きって言うても信じてくれへんのですよ」
「当たり前だわ。お前の日頃の行いを反省しろ」
また笑いが起きる。
「ほな、今ここで言うたるわ」
「何」
「好きやで」
――一拍。
台本では、ここに間はない。三択の三番と同じ速さで、同じ軽さで言う。そう決めて、何十回も練習した。
律は、一拍置いた。
客席が笑った。さっきの沈黙の続きだと思ったのだろう。何百人の笑い声が、その一拍をボケとして受け取って、通り過ぎていった。
その笑い声の下で、湊だけが分かった。
律は今、本気で言っている。
考えるより先に、口が動いた。
湊は少しだけ笑って、言った。
「……知っとるわ」
会場が、沸いた。
隣で律が、わざとらしく天を仰いだ。ボケが狙いどおりにウケたときの、いつもの仕草だった。今日のそれは、顔を隠す用だったのかもしれない。
三分間で一番大きい笑いだった。客席には、ボケの完成形に見えたらしい。
見えていればいい。これは二人だけの秘密で、その秘密が今、ホールいっぱいにウケている。
「……ほんで、今の、信じたん?」
「さあな」
「さあなて!」
「続きは楽屋で話せ。もうええわ」
「どうもありがとうございましたー!」
頭を下げた。拍手が床から返ってきた。
◇
結果発表までの三十分は、予選の三倍長かった。
楽屋の隅で、律はずっと膝を揺らしていた。湊はその膝を二回たたいて止めた。三回目に揺れ出したときは、もう止めなかった。人のことを言えないくらい、自分の手も冷たかったからだ。
結果発表は、出番を終えた組が並ぶ舞台袖で聞いた。
最優秀賞は定規とコンパスだった。
特番出演の権利も、賞状と一緒に向こうへ行った。始まりの動機だったはずのそれが、今は二番目に悔しいことなのが、我ながら不思議だった。
順当だった。順当だと分かる程度には、二人とも彼らの漫才を見てきた。設計と精度で、正面から負けた。
悔しかった。
悔しい、というのがどういう感情か、湊は今日、初めて本当に知った気がした。
隣の律は、賞状を持つ定規とコンパスを、まばたきもせずに見ていた。
「……悔しいなあ」
「悔しいな」
「来年は勝つで」
来年。
その二文字を、律は当たり前みたいに言った。湊は横顔を見たが、律は舞台を見たままだった。
講評で、審査員の一人がマイクを持った。技術の話、構成の話。それから、最後にひと言だけ、付け足した。
「エントリー八番の『食っとるやん』。技術ではまだ及びません。ですが――今日一番、二人でいる意味があったコンビでした」
客席のどこかで、服部が変な声を出したのが聞こえた。
湊は、隣を見なかった。見たら、顔が崩れる気がした。
代わりに律の手が、暗がりでこっちの袖を、一回だけつまんで離れた。
夏の大須と同じ手だった。
◇
撤収の楽屋で、少しだけ、二人きりになった。
服部から『日比野の感想大会につかまった』と連絡が来ていて、荷物をまとめるのは二人だけだった。
かばんを閉じたところで、律が言った。
「なあ、湊。舞台で言うたやろ」
「何を」
「続きは楽屋で、て」
「……言ったのは俺だけどな」
「ほな、続きや」
言い切りだった。疑問形は、なかった。
狭い楽屋の、パイプ椅子と長机の間で、律は動かなかった。動かないまま、半歩分だけ近かった。教室でネタ帳をのぞきこんでくる、いつものあの距離。
「……続きって、何だよ」
「知らんの?」
「……知っとるわ」
「ほな、ええやん」
どっちが先に動くかの根比べは、三秒ほどあった。漫才なら長すぎる間で、これには、ちょうどよかった。
どっちが先に動いたのかは、分からなかった。一生、水掛け論になるやつだ。
目を閉じる直前まで見えていたのは、近すぎてピントの合わない、まぬけな相方の顔だった。
唇は、二月の廊下の温度をしていた。触れている一秒か、二秒のあいだに、それが体温に変わった。かばんの持ち手を握ったままの自分の右手。頬の横に、遠慮がちに触れて離れた律の指。自分の心臓の音。近すぎる呼吸。
頭は追いつかなかった。追いつかなくて、よかった。
悔しさの味がした。今日の全部の味がした。
離れてすぐ、律が一度だけ、額を合わせてきた。合わせて、すぐ離れた。二度目はしない、という顔だった。
それから、律が言った。
「……初めてのくせに、堂々としとるな」
「お前もだろ」
「俺は三分ネタで場数踏んどるからな」
「関係あるのか、それ」
「分からん。ないかもしれん」
あとは、いつもの速度だった。顔が熱いのはお互いさまだったので、指摘はどちらもしなかった。
◇
帰り道は夜だった。
二月の空気は刺すみたいに冷たくて、吐く息ばかりが白くて、二人ともコートのポケットに手を突っこんで歩いた。
「悔しいなあ」
「それ今日五回目だぞ」
「五十回は言うで。悔しいもん」
「……そういえばお前、あいつらの賞状、撮っとったろ」
「せや。来年の目標物や。次のネタ帳の一ページ目に貼るねん」
「趣味悪いなあ」
「執念や」
「……俺もだわ」
悔しい。負けた。なのに、胸のどこかが変に満ちている。
二人でいる意味があった、という言葉が、ポケットの中のカイロみたいにまだあたたかい。賞状より、あれが欲しかったのかもしれなかった。
スマホが震えた。茜からだった。
『今日のが一番おもしろかったわ。三回の中で』
三回。
中二の体育館。六月の体育館。今日のホール。
……数えとったのか、あいつも。
返信は『そうか』とだけ打った。素っ気なさは、幼なじみへの正式な礼儀だった。
いつもの角が近づいてくる。
角の手前で、律が少しだけ歩調をゆるめた。
「なあ、湊」
「何」
「来年の話、してええ?」
白い息が、街灯の光の中で一回ほどけて、消えた。
来年。
三年生。進路。大阪。
聞きたいことと、聞くのが怖いことが、その二文字の中に全部入っていた。
