毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 鈴の音が背中で鳴りやんだ。

 窓際のいつもの席に、律は座っていた。

 年をまたいで初めて正面から見る顔は、少し眠そうだった。よく寝た人間の眠さじゃなくて、寝られなかった人間の眠さだった。鏡を見なくても分かる。こっちも同じ顔をしている。

 律は湊に気づくと、口を開けかけて、でも何も言わずに、向かいの椅子を顎で示した。

 テーブルの端には、空になったカップがひとつ、先に置いてあった。こっちが十時五分前に着いて、それより先に来て待っていて、そのうえこれだ。あいつは一体、何時からここにいたんだ。

 座る。マスターが、何も聞かずにコーヒーを二つ置いていった。頼んでいないモーニングのトーストとゆで卵も、当たり前の顔で付いてきた。

 それきり、沈黙だった。

 あれだけ喋ってきた二人だった。四月からの九か月、沈黙のほうが珍しかった。

 その二人の間に、今、店のジャズだけが流れている。

 カウンターの上では、一億年前の化石が黙っている。あっちは一億年の沈黙で、こっちはまだ五分。なのに、体感はいい勝負だった。

 律が「なあ」と口を開きかけた。

「待って。先、言わせて」

 止めてしまった。呼び出したのはこっちだ。先に喋る義務も、こっちにある。

 用意してきた言葉は、たくさんあった。ごめんとか、あのときのは、とか。順番も考えてきた。全部、喉の手前で蒸発した。

 残ったのは、一番手前のひと言だけだった。

「大会、出る?」


 律は答えなかった。

 コーヒーをひと口飲んで、カップを置いて、こっちを見た。

 答えない、という答えだった。それだけでは足りんやろ、と目が言っていた。

「……俺、お前と漫才したい」
「……それだけ?」
「それだけじゃない」

 言ってしまってから、続きの言葉を探した。

 探して、見つからなくて、見つからないまま口が動いた。

「俺、お前がおらんくなるん嫌だわ」


「うん」


「大阪帰るとかも嫌だし」


「うん」


「他のやつとコンビ組むのも嫌」


「うん」


「あと……好きとか言わんくなったのも、なんか、でら嫌だった」


 律が、初めて笑った。

「今のでらって言うた?」
「そこ拾うな!」
「いや、かわええな思って」
「そういうとこだて!」

 言ってから、気づいた。

 テンポが、戻っている。

 半秒の遅れも、胸の中の検品も、どこにもなかった。

 律は、ひとしきり笑ってから、笑うのをやめた。

 カップを置いて、まっすぐこっちを見た。

「湊」
「何」
「好きやで」


 いつもと同じ四文字だった。弁当のときの。ホームのときの。赤ペンのときの。

 でも今度は、湊も笑わなかった。

「……知っとる」
「返事は?」
「俺も好き」
「聞こえへん」
「二回言わせんな」

 律が笑った。

「俺、何十回言うたと思っとんねん」
「お前が軽すぎるんだわ」

 窓の外は一月の光だった。

 店のジャズが、さっきよりよく聞こえた。耳まで、仲直りしたらしい。


 トーストを半分かじったところで、律が、ぽつりと言った。

「……俺もな、ちょっとだけ反省しててん」
「何を」
「重く言うの、怖かってん」

 律はカップの中を見ていた。

「重く言うて、それであかんかったら、相方まで終わるやろ。せやから軽く言うてた。何回でも言えるように。何回でも、流してもらえるように。……ようは、俺もびびっとってん」

 テンポの落ちた、言い切りの声だった。

「見とったら分かるやん、って言いたいところだけど」
「うん」
「全然分からんまま、九か月見とった」
「せやろ」

 律は顔を上げて、短く笑った。

「俺の、唯一の隠し芸やねん」
「趣味の悪い芸だわ」
「もうやらんよ」

 短く言って、律はトーストの残りを口に放りこんだ。

 放りこんで、飲みこんで――それから律は、宿題をもうひとつ拾い上げた。

「あとな。けんかのとき、言うてくれたやろ。体育館の話」

 トーストをつかんだ手が、一回止まった。あの日、一番ひどいタイミングで撃った弾を、こいつは逃げずにテーブルの上へ戻してきた。

「あれ、湊の言うとおりや。喋っとったん、俺や」

 律は一回、カップを置いた。

「文化祭の前な、相談してん。相方が昔、舞台で笑われたことがあって、本番でまた固まったらどうしたらええんや、て。……相談のつもりやった。けど、お前の一番痛い話を、お前に聞かんと人に渡した。それは、あかんかったと思とる」

 冗談の顔は、どこにもなかった。

「ごめん」

 九か月で、初めて聞く「ごめん」だった。

 こいつも間違えるのだと分かった、それだけの話だった。それだけのことで、ずいぶん息がしやすくなった。

「……こっちこそだわ」
「え」
「味噌カツのときから、気づいとった。気づいとって、何も聞かんと黙っとって、そんで一番ひどい日に、一番ひどい撃ち方をした。……だから、おあいこだわ」
「おあいこて」
「おあいこなんだわ。あと、固まったときの対策なら、次からは本人に聞け」
「せやな。……ほんまやな」





 それから二人とも、急に忙しくなった。照れというものを処理するには、実務が一番だった。

「決勝、あと一か月やで」
「分かってる」
「新ネタや。今からや」
「分かってるって」

 かばんからネタ帳を出した。十月末で止まっていたページを、一枚めくる。白紙が続く。その白紙の最初のページを、手のひらで一回ならした。

「テーマ、決めよか」

 律がそう言って、二人同時に口を開いた。

「相方が何言うてもボケに聞こえる、てどうや」
「相方が何言ってもボケに聞こえる、はどうだ」

 目が合った。

 三秒黙って、二人同時に吹き出した。

「……お前、それ」
「せやから言うたやろ。俺はずっとほんまのことしか言うてへんて。ほんで湊は、ずっとボケや思て聞いとってん。これ以上のネタ、どこにあるんや」
「自分たちで言ってて悲しくならないか、それ」
「ならへんよ。もう伝わったもん」

 さらっと言うな、そういうことを。

 湊は目を伏せて、ノートの白紙に一行目を書いた。手元が狂って、字が跳ねた。指のせいにした。


 三十分ほど進んだところで、律がペンを置いた。

「あかん、五分休憩。手ぇ握るだけの休憩や」
「何だよその制度」
「今できた新制度や」
「……五分だけだぞ」

 テーブルの下で、五分。

 ネタは一行も進まなかったが、文句はどちらからも出なかった。マスターは豆をひいていた。手が止まっていた気がするが、確認はしないことにした。


 打ち合わせは昼過ぎまで続いた。

 構成は湊。ボケは律。あの夏と同じ分担で、あの夏より深いところから、二人の一年が弾になって出てくる。

 エビフライ。放課。モーニング。取り調べ。どれを舞台に上げて、どれを二人だけのものにしておくか。

「左目のくだりは?」
「入れない」
「即答やん」
「あれは……客に見せるやつじゃない」
「……せやな。しまっとこ」

 律はあっさり同意して、ノートの端に小さく線を引いた。

「ほな、これはルールにしよか。舞台に上げるもんと、二人だけのもんは、分ける」
「おう」
「これ、ぜんぶ入れたら三分に収まらんな」
「一年ぶんだからな」
「ええ一年やったなあ」
「……まだ終わってないだろ。決勝が残ってる」
「せやな」

 律はにやりとして、ノートの端に、下手なたこを描き足した。





 帰り際、レジで財布を出したら、マスターは首を横に振って、コーヒー二杯ぶんしか受け取らなかった。律が先に飲んでいた一杯めは、伝票のどこにもなかったことになっていた。

「……決まったか」

 それだけ言って、奥へ戻っていった。

 店を出てから、律が言った。

「あの人、ほんまに大事なとこしか喋らんな」
「客の会話は全部聞いてるけどな」
「せやで。俺らの一年、あの席から全部見られとってんで」
「……急に恥ずかしくなること言うな」
「あとな、湊」

 律は前を向いたまま、一段、声を落とした。

「この一か月半な、一人で来ても、コーヒー、二つ置かれてん」
「…………」
「せやから俺、逃げられへんかってん。この店からも、お前からも」

 何も言えなかった。代わりに、次にあの店に行ったら、コーヒーを一杯多く頼もうと決めた。理由は聞かれても言わない。

 一月の空気は冷たくて、吐いた息が白かった。いつもの角までの道を、二人分の白い息が並んで歩いた。

 去年の五月、この道は「一緒に帰るコンビ」の結成場所だった。

 コンビは、まだ解散していない。当分、する予定もない。

 角に着いて、律が拳を突き出してきた。

 予選の日と同じやつだ。合わせようとして、湊の拳が届く寸前――律の手が、ひらいた。

 拳は手のひらになって、そのまま湊の手を握った。

「……こっちに変更や」
「勝手に決めるな」
「嫌か?」
「……嫌とは、言っとらん」

 冬の手だった。冷たくて、なのに、握った内側だけがすぐあたたかくなった。

 離れる直前、どっちが握ったのか分からないまま、力が一回だけ強くなった。

 それから律は、いつもの「ほな」を言いかけて、途中でやめた。

「……また明日な」

 言い直した。

「おう。また明日」

 手はそこでようやく離れた。

 坂を上りながら、一回だけ振り返った。律はまだ角に立っていて、こっちを見ていて、見つかったのが恥ずかしかったのか、変な手の振り方をした。

 変な奴。

 俺の相方で、恋人になった、変な奴。





 週明け、湊は一人で職員室へ行った。

「決勝、出ます」

 日比野は「おう」とだけ言って、引き出しから例の書類を出した。

 何も聞かなかった。ただ、書類を渡してくる日比野の口元は、ゆるんでいるのを隠せていなかった。

「ネタは、新しいのか?」
「はい」
「そうか」

 それだけの会話だった。それだけの会話の間、ずっと機嫌がよさそうだった。お笑い好きの担任は、今、日本で一番気の早い客だった。


 教室に戻ると、服部の椅子が、逆向きになっていた。

 ひと月半ぶりの逆向きだった。持ち主は隣の席に避難しながら、「やっと定位置だな、俺の椅子」と、うれしそうに文句を言った。

 真野は「おかえり」とだけ言った。何が、とは言わなかった。

 触ってはいけなかった場所が、ただの席に戻った日だった。





 放課後の旧視聴覚室に、掛け合いの声が戻ってきた。

 律がボケる。湊が返す。遅れない。検品もしない。

 ひとつだけ、前と違うところがあった。

 律のボケが、半歩遠くに来る。取りやすい胸元じゃなくて、全力で腕を伸ばして、ぎりぎり届く高さに。

 信用された、ということだと思う。悪くなかった。

 休憩中、ノートの新しいページの一番上に、湊はネタのタイトルを書いた。

 ――「相方が何言ってもボケに聞こえる」。

 横から律が手を伸ばして、タイトルの下に、癖の強い字で書き足した。

 ――作・食っとるやん。

「作って書くやつがあるか。漫才師だぞ」
「ええやん。一生もんの一本目やで」

 また一生もんと言っている。

 今度はつっこまなかった。

 決勝まで、あと一か月だった。