十二月の教室で、湊はひとつ、皮肉な発見をした。
律の見分け方が完璧になっていた。
教壇の前で誰かをいじって笑わせている律。あれは「誰にでも」の律だ。声の高さも、間の取り方も、距離も、全部が営業用の明るさでできている。
うまいもんだと思う。半年前の湊なら、あれが律の全部だと思っただろう。
今は分かる。あれは律の玄関だ。玄関までは、誰でも入れる。
その先に、声が半音下がる部屋があった。肩が触れる距離と、こっちだけを見る目と、「見とったら分かるやん」があった。
あった、と過去形で数えられるようになったから、分かるのだ。
一度だけ、終業式の朝、教室の入り口で目が合った気がした。
律はコンマ一秒で視線を外して、営業用の明るさに戻った。
気のせい、ということにした。そういうことにしないと、教室で普通の顔ができなかった。
終業式の日、日比野に廊下で呼び止められた。
「例の返事、年明けの登校日までには聞かせてくれ」
「……はい」
「水野」
「はい」
「まあ、なんだ」
日比野は何かを言いかけて、結局、職員室のほうへ歩いていった。
励ましだったのか、説教だったのか。言いかけてやめる大人の背中は、ずるいと思った。
その日、机の中のネタ帳だけ、かばんに移して持ち帰った。開ける気はまだなかった。
◇
冬休みは静かだった。
去年までの冬休みと、同じ静かさがある。去年までの自分は、それを別に何とも思っていなかった。
宿題をやる。飯を食う。年が明ける。姉に「辛気くさい」と言われる。母親に「アンモナイトさん、行かんの?」と聞かれて、「行かん」とだけ返す。
服部からは、大みそかに『生きてる?』とだけ来た。『生きてる』と返したら、『高瀬にも同じの送ったら同じ返事来た』と返ってきた。
余計なことを、と思った。
同じ返事、の四文字を、しばらく見ていた。
律からの連絡は、なかった。こっちからも、しなかった。既読すらつかない画面より、何も送っていない画面のほうが、まだ呼吸ができた。
夜だけが、長かった。
一月の頭、その長い夜のひとつで、湊はスマホを開いた。
見るつもりはなかった。ないまま、指が動画のフォルダを開いていた。
最初は服部の撮った文化祭だった。
六月の体育館。画面の中の自分は、ひどい顔で立っている。緊張で、口の端が固まっている。
そして律が台本にないボケを入れる。
『……あ、そや。皆さんすんません、こいつ今めっちゃ緊張してます』
客席が笑う。画面の中の湊が『言うな!』と返し、間を置かずに『……言うなて!』と重ねる。二段目で、体育館が揺れる。
隠しとった語尾が出た瞬間に、一番大きい笑いが来ている。
あのとき、湊は救われた。それは覚えている。
律はあのボケを入れる直前、一回だけ、こっちの顔を見ている。
客席じゃなく。マイクでもなく。相方の顔色を、確認している。
あれはボケじゃなかった。浮き輪だった。
思い出すことがもうひとつあった。
あの日、出番の直前の舞台袖で、律は「湊。俺のネクタイ、曲がっとる?」と聞いてきた。
制服にネクタイはない。「……制服にネクタイないだろ」と返したら、「ほな安心や」と笑われて、それで肩の力が抜けて、そのまま舞台に出た。
緊張がほどけたのは偶然だと思っていた。
偶然なわけが、なかった。
次は、予選の日に服部が撮っていた動画だった。取材班は、宣言どおり続投していたらしい。
三分間。何十回も合わせたネタだから、どこで何が来るかは全部分かっている。
分かっているはずのものが、初めて見るものみたいに見えた。
湊が一か所、噛んでいる。『放課後は放課後だわ』が『ほ、放課後は放課後だわ』になった、あの箇所。あのときは冷や汗で、直後に律が何を言ったのか、聞き取る余裕もなかった。
直後、律がこう言っている。
『すんません、今の俺の前フリが悪かったわ』
悪くない。前フリは完璧だった。噛んだのはこっちだ。
客席は「前フリのせいにするな」という顔で笑って、湊の噛みは、なかったことになっている。
……お前、そんなことまでやっとったのか。
その目で見始めると、もう、全部がそうだった。
律のボケは、速球に見えて、全部こっちの胸元に来ている。
最後に、練習中にふざけて回していたスマホの動画があった。
旧視聴覚室。回しっぱなしで忘れていたやつだ。画面の隅で、湊がネタ帳を相手にうなっている。ここのつっこみが決まらない、と言って、頭を抱えている。
その斜め後ろで、律が、こっちを見ていた。
ボケの顔でも、営業用の明るさでもなく――ただ、静かに、大事そうに見ていた。
カメラが回っていることを、律は忘れている。
動画はそこで終わっていなかった。
画面の中の湊が「ジュース買ってくる」と席を立って、フレームから消える。
残った律は、しばらくネタ帳をながめてから、誰もいない部屋で、ぽつりと言った。
『好きやで』
言ってから、首をかしげる。
『……ちゃうな。もっと真面目に。……好きやで。……あかん、同じや』
もう一回。もう一回。何度やっても、同じ高さで、同じ速さで出てくる。
最後に律は、天井を仰いで、笑った。
『あかん。もう、癖になってもうてるわ』
そこで廊下から足音がして、律は何事もない顔でネタ帳を閉じた。
動画はそこで終わっていた。
湊は動画を止めた。
止めて、しばらく天井を見た。
◇
机の中から持ち帰ったまま、開けずにいたネタ帳を、開いた。
一ページ目には、「漫才」の二文字と、はがきと、予選の掲示を撮った写真。
めくれば、ういろう。招き猫。バナナ呼ばわりされかけた黄色い電車。プールじゃない屋根。九割は自分の字。ページの隅には、八本足の署名。
書きこみは十月の終わりで止まっていた。
最後のページの続きは、白紙だった。めくってもめくっても白紙で、その白さが、止まったままの二か月だった。
あの夏、この一冊は笑えるものしか載っていないノートだった。
このくだらない断片のひとつひとつを、あいつは隣で喋っていた。
――俺はずっとほんまのことしか言うてへん。
あの日の声が再生された。
こっちが冗談の棚に放りこんでいただけで、あいつは一度も、冗談の顔をしていなかったのかもしれなかった。いや――冗談の顔で言うことでしか、隣にいられなかったのか。俺が、笑って流し続けたから。
湊は、誰もいない部屋で、ひとりごとを言った。
「……ボケだと思っとった。全部」
◇
スマホを持つ手が少し震えた。
文面を打っては、消した。
『ごめん』――違う。謝る中身を言えないくせに、先に謝るのはずるい。消す。
『大会のことだけど』――違う。大会の話がしたいんじゃない。消す。
『この前は言いすぎた。お前の言い方が悪いって言ったけど、俺のほうこそ』――長い。長いし、これを文字で送るのは、一番違う。消す。
深呼吸をひとつして、湊は結局、一番短いのを打った。
『話がある。アンモナイト。明日十時』
送信した瞬間から、心臓がうるさかった。
既読は三分でついた。
三分が、三十分に感じられた。画面を見つめたまま、返ってくる百通りの返事を想像した。スタンプだけだったらどうする。軽口だったら。無視だったら。
返信はひと言だった。
『行くわ』
スタンプもなかった。軽口もなかった。
その素っ気なさに、湊は少し安心して、それから、同じぶんだけ怖くなった。
眠れない夜になるかと思ったが、意外と眠れた。けんかをしてから初めて、夢を見ないで朝が来た。
◇
一月の朝は晴れていた。
十時五分前。喫茶アンモナイトの前で、湊は一回だけ深呼吸をした。
ドアを押す。頭の上で、聞き慣れた鈴が鳴る。
豆の匂い。ジャズ。カウンターの奥のマスター。
そして、窓際のいつもの席に――先に来て、待っていたのは、律のほうだった。
律の見分け方が完璧になっていた。
教壇の前で誰かをいじって笑わせている律。あれは「誰にでも」の律だ。声の高さも、間の取り方も、距離も、全部が営業用の明るさでできている。
うまいもんだと思う。半年前の湊なら、あれが律の全部だと思っただろう。
今は分かる。あれは律の玄関だ。玄関までは、誰でも入れる。
その先に、声が半音下がる部屋があった。肩が触れる距離と、こっちだけを見る目と、「見とったら分かるやん」があった。
あった、と過去形で数えられるようになったから、分かるのだ。
一度だけ、終業式の朝、教室の入り口で目が合った気がした。
律はコンマ一秒で視線を外して、営業用の明るさに戻った。
気のせい、ということにした。そういうことにしないと、教室で普通の顔ができなかった。
終業式の日、日比野に廊下で呼び止められた。
「例の返事、年明けの登校日までには聞かせてくれ」
「……はい」
「水野」
「はい」
「まあ、なんだ」
日比野は何かを言いかけて、結局、職員室のほうへ歩いていった。
励ましだったのか、説教だったのか。言いかけてやめる大人の背中は、ずるいと思った。
その日、机の中のネタ帳だけ、かばんに移して持ち帰った。開ける気はまだなかった。
◇
冬休みは静かだった。
去年までの冬休みと、同じ静かさがある。去年までの自分は、それを別に何とも思っていなかった。
宿題をやる。飯を食う。年が明ける。姉に「辛気くさい」と言われる。母親に「アンモナイトさん、行かんの?」と聞かれて、「行かん」とだけ返す。
服部からは、大みそかに『生きてる?』とだけ来た。『生きてる』と返したら、『高瀬にも同じの送ったら同じ返事来た』と返ってきた。
余計なことを、と思った。
同じ返事、の四文字を、しばらく見ていた。
律からの連絡は、なかった。こっちからも、しなかった。既読すらつかない画面より、何も送っていない画面のほうが、まだ呼吸ができた。
夜だけが、長かった。
一月の頭、その長い夜のひとつで、湊はスマホを開いた。
見るつもりはなかった。ないまま、指が動画のフォルダを開いていた。
最初は服部の撮った文化祭だった。
六月の体育館。画面の中の自分は、ひどい顔で立っている。緊張で、口の端が固まっている。
そして律が台本にないボケを入れる。
『……あ、そや。皆さんすんません、こいつ今めっちゃ緊張してます』
客席が笑う。画面の中の湊が『言うな!』と返し、間を置かずに『……言うなて!』と重ねる。二段目で、体育館が揺れる。
隠しとった語尾が出た瞬間に、一番大きい笑いが来ている。
あのとき、湊は救われた。それは覚えている。
律はあのボケを入れる直前、一回だけ、こっちの顔を見ている。
客席じゃなく。マイクでもなく。相方の顔色を、確認している。
あれはボケじゃなかった。浮き輪だった。
思い出すことがもうひとつあった。
あの日、出番の直前の舞台袖で、律は「湊。俺のネクタイ、曲がっとる?」と聞いてきた。
制服にネクタイはない。「……制服にネクタイないだろ」と返したら、「ほな安心や」と笑われて、それで肩の力が抜けて、そのまま舞台に出た。
緊張がほどけたのは偶然だと思っていた。
偶然なわけが、なかった。
次は、予選の日に服部が撮っていた動画だった。取材班は、宣言どおり続投していたらしい。
三分間。何十回も合わせたネタだから、どこで何が来るかは全部分かっている。
分かっているはずのものが、初めて見るものみたいに見えた。
湊が一か所、噛んでいる。『放課後は放課後だわ』が『ほ、放課後は放課後だわ』になった、あの箇所。あのときは冷や汗で、直後に律が何を言ったのか、聞き取る余裕もなかった。
直後、律がこう言っている。
『すんません、今の俺の前フリが悪かったわ』
悪くない。前フリは完璧だった。噛んだのはこっちだ。
客席は「前フリのせいにするな」という顔で笑って、湊の噛みは、なかったことになっている。
……お前、そんなことまでやっとったのか。
その目で見始めると、もう、全部がそうだった。
律のボケは、速球に見えて、全部こっちの胸元に来ている。
最後に、練習中にふざけて回していたスマホの動画があった。
旧視聴覚室。回しっぱなしで忘れていたやつだ。画面の隅で、湊がネタ帳を相手にうなっている。ここのつっこみが決まらない、と言って、頭を抱えている。
その斜め後ろで、律が、こっちを見ていた。
ボケの顔でも、営業用の明るさでもなく――ただ、静かに、大事そうに見ていた。
カメラが回っていることを、律は忘れている。
動画はそこで終わっていなかった。
画面の中の湊が「ジュース買ってくる」と席を立って、フレームから消える。
残った律は、しばらくネタ帳をながめてから、誰もいない部屋で、ぽつりと言った。
『好きやで』
言ってから、首をかしげる。
『……ちゃうな。もっと真面目に。……好きやで。……あかん、同じや』
もう一回。もう一回。何度やっても、同じ高さで、同じ速さで出てくる。
最後に律は、天井を仰いで、笑った。
『あかん。もう、癖になってもうてるわ』
そこで廊下から足音がして、律は何事もない顔でネタ帳を閉じた。
動画はそこで終わっていた。
湊は動画を止めた。
止めて、しばらく天井を見た。
◇
机の中から持ち帰ったまま、開けずにいたネタ帳を、開いた。
一ページ目には、「漫才」の二文字と、はがきと、予選の掲示を撮った写真。
めくれば、ういろう。招き猫。バナナ呼ばわりされかけた黄色い電車。プールじゃない屋根。九割は自分の字。ページの隅には、八本足の署名。
書きこみは十月の終わりで止まっていた。
最後のページの続きは、白紙だった。めくってもめくっても白紙で、その白さが、止まったままの二か月だった。
あの夏、この一冊は笑えるものしか載っていないノートだった。
このくだらない断片のひとつひとつを、あいつは隣で喋っていた。
――俺はずっとほんまのことしか言うてへん。
あの日の声が再生された。
こっちが冗談の棚に放りこんでいただけで、あいつは一度も、冗談の顔をしていなかったのかもしれなかった。いや――冗談の顔で言うことでしか、隣にいられなかったのか。俺が、笑って流し続けたから。
湊は、誰もいない部屋で、ひとりごとを言った。
「……ボケだと思っとった。全部」
◇
スマホを持つ手が少し震えた。
文面を打っては、消した。
『ごめん』――違う。謝る中身を言えないくせに、先に謝るのはずるい。消す。
『大会のことだけど』――違う。大会の話がしたいんじゃない。消す。
『この前は言いすぎた。お前の言い方が悪いって言ったけど、俺のほうこそ』――長い。長いし、これを文字で送るのは、一番違う。消す。
深呼吸をひとつして、湊は結局、一番短いのを打った。
『話がある。アンモナイト。明日十時』
送信した瞬間から、心臓がうるさかった。
既読は三分でついた。
三分が、三十分に感じられた。画面を見つめたまま、返ってくる百通りの返事を想像した。スタンプだけだったらどうする。軽口だったら。無視だったら。
返信はひと言だった。
『行くわ』
スタンプもなかった。軽口もなかった。
その素っ気なさに、湊は少し安心して、それから、同じぶんだけ怖くなった。
眠れない夜になるかと思ったが、意外と眠れた。けんかをしてから初めて、夢を見ないで朝が来た。
◇
一月の朝は晴れていた。
十時五分前。喫茶アンモナイトの前で、湊は一回だけ深呼吸をした。
ドアを押す。頭の上で、聞き慣れた鈴が鳴る。
豆の匂い。ジャズ。カウンターの奥のマスター。
そして、窓際のいつもの席に――先に来て、待っていたのは、律のほうだった。
