毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 十二月の教室で、湊はひとつ、皮肉な発見をした。

 律の見分け方が完璧になっていた。

 教壇の前で誰かをいじって笑わせている律。あれは「誰にでも」の律だ。声の高さも、間の取り方も、距離も、全部が営業用の明るさでできている。

 うまいもんだと思う。半年前の湊なら、あれが律の全部だと思っただろう。

 今は分かる。あれは律の玄関だ。玄関までは、誰でも入れる。

 その先に、声が半音下がる部屋があった。肩が触れる距離と、こっちだけを見る目と、「見とったら分かるやん」があった。

 あった、と過去形で数えられるようになったから、分かるのだ。

 一度だけ、終業式の朝、教室の入り口で目が合った気がした。

 律はコンマ一秒で視線を外して、営業用の明るさに戻った。

 気のせい、ということにした。そういうことにしないと、教室で普通の顔ができなかった。


 終業式の日、日比野に廊下で呼び止められた。

「例の返事、年明けの登校日までには聞かせてくれ」
「……はい」
「水野」
「はい」
「まあ、なんだ」

 日比野は何かを言いかけて、結局、職員室のほうへ歩いていった。

 励ましだったのか、説教だったのか。言いかけてやめる大人の背中は、ずるいと思った。

 その日、机の中のネタ帳だけ、かばんに移して持ち帰った。開ける気はまだなかった。





 冬休みは静かだった。

 去年までの冬休みと、同じ静かさがある。去年までの自分は、それを別に何とも思っていなかった。

 宿題をやる。飯を食う。年が明ける。姉に「辛気くさい」と言われる。母親に「アンモナイトさん、行かんの?」と聞かれて、「行かん」とだけ返す。

 服部からは、大みそかに『生きてる?』とだけ来た。『生きてる』と返したら、『高瀬にも同じの送ったら同じ返事来た』と返ってきた。

 余計なことを、と思った。

 同じ返事、の四文字を、しばらく見ていた。

 律からの連絡は、なかった。こっちからも、しなかった。既読すらつかない画面より、何も送っていない画面のほうが、まだ呼吸ができた。

 夜だけが、長かった。


 一月の頭、その長い夜のひとつで、湊はスマホを開いた。

 見るつもりはなかった。ないまま、指が動画のフォルダを開いていた。


 最初は服部の撮った文化祭だった。

 六月の体育館。画面の中の自分は、ひどい顔で立っている。緊張で、口の端が固まっている。

 そして律が台本にないボケを入れる。

『……あ、そや。皆さんすんません、こいつ今めっちゃ緊張してます』

 客席が笑う。画面の中の湊が『言うな!』と返し、間を置かずに『……言うなて!』と重ねる。二段目で、体育館が揺れる。

 隠しとった語尾が出た瞬間に、一番大きい笑いが来ている。

 あのとき、湊は救われた。それは覚えている。

 律はあのボケを入れる直前、一回だけ、こっちの顔を見ている。

 客席じゃなく。マイクでもなく。相方の顔色を、確認している。

 あれはボケじゃなかった。浮き輪だった。

 思い出すことがもうひとつあった。

 あの日、出番の直前の舞台袖で、律は「湊。俺のネクタイ、曲がっとる?」と聞いてきた。

 制服にネクタイはない。「……制服にネクタイないだろ」と返したら、「ほな安心や」と笑われて、それで肩の力が抜けて、そのまま舞台に出た。

 緊張がほどけたのは偶然だと思っていた。

 偶然なわけが、なかった。


 次は、予選の日に服部が撮っていた動画だった。取材班は、宣言どおり続投していたらしい。

 三分間。何十回も合わせたネタだから、どこで何が来るかは全部分かっている。

 分かっているはずのものが、初めて見るものみたいに見えた。

 湊が一か所、噛んでいる。『放課後は放課後だわ』が『ほ、放課後は放課後だわ』になった、あの箇所。あのときは冷や汗で、直後に律が何を言ったのか、聞き取る余裕もなかった。

 直後、律がこう言っている。

『すんません、今の俺の前フリが悪かったわ』

 悪くない。前フリは完璧だった。噛んだのはこっちだ。

 客席は「前フリのせいにするな」という顔で笑って、湊の噛みは、なかったことになっている。

 ……お前、そんなことまでやっとったのか。

 その目で見始めると、もう、全部がそうだった。

 律のボケは、速球に見えて、全部こっちの胸元に来ている。


 最後に、練習中にふざけて回していたスマホの動画があった。

 旧視聴覚室。回しっぱなしで忘れていたやつだ。画面の隅で、湊がネタ帳を相手にうなっている。ここのつっこみが決まらない、と言って、頭を抱えている。

 その斜め後ろで、律が、こっちを見ていた。

 ボケの顔でも、営業用の明るさでもなく――ただ、静かに、大事そうに見ていた。

 カメラが回っていることを、律は忘れている。

 動画はそこで終わっていなかった。

 画面の中の湊が「ジュース買ってくる」と席を立って、フレームから消える。

 残った律は、しばらくネタ帳をながめてから、誰もいない部屋で、ぽつりと言った。

『好きやで』

 言ってから、首をかしげる。

『……ちゃうな。もっと真面目に。……好きやで。……あかん、同じや』

 もう一回。もう一回。何度やっても、同じ高さで、同じ速さで出てくる。

 最後に律は、天井を仰いで、笑った。

『あかん。もう、癖になってもうてるわ』

 そこで廊下から足音がして、律は何事もない顔でネタ帳を閉じた。

 動画はそこで終わっていた。


 湊は動画を止めた。

 止めて、しばらく天井を見た。





 机の中から持ち帰ったまま、開けずにいたネタ帳を、開いた。

 一ページ目には、「漫才」の二文字と、はがきと、予選の掲示を撮った写真。

 めくれば、ういろう。招き猫。バナナ呼ばわりされかけた黄色い電車。プールじゃない屋根。九割は自分の字。ページの隅には、八本足の署名。

 書きこみは十月の終わりで止まっていた。

 最後のページの続きは、白紙だった。めくってもめくっても白紙で、その白さが、止まったままの二か月だった。

 あの夏、この一冊は笑えるものしか載っていないノートだった。

 このくだらない断片のひとつひとつを、あいつは隣で喋っていた。

 ――俺はずっとほんまのことしか言うてへん。

 あの日の声が再生された。

 こっちが冗談の棚に放りこんでいただけで、あいつは一度も、冗談の顔をしていなかったのかもしれなかった。いや――冗談の顔で言うことでしか、隣にいられなかったのか。俺が、笑って流し続けたから。

 湊は、誰もいない部屋で、ひとりごとを言った。


「……ボケだと思っとった。全部」





 スマホを持つ手が少し震えた。

 文面を打っては、消した。

『ごめん』――違う。謝る中身を言えないくせに、先に謝るのはずるい。消す。
『大会のことだけど』――違う。大会の話がしたいんじゃない。消す。
『この前は言いすぎた。お前の言い方が悪いって言ったけど、俺のほうこそ』――長い。長いし、これを文字で送るのは、一番違う。消す。

 深呼吸をひとつして、湊は結局、一番短いのを打った。


『話がある。アンモナイト。明日十時』


 送信した瞬間から、心臓がうるさかった。

 既読は三分でついた。

 三分が、三十分に感じられた。画面を見つめたまま、返ってくる百通りの返事を想像した。スタンプだけだったらどうする。軽口だったら。無視だったら。

 返信はひと言だった。


『行くわ』


 スタンプもなかった。軽口もなかった。

 その素っ気なさに、湊は少し安心して、それから、同じぶんだけ怖くなった。

 眠れない夜になるかと思ったが、意外と眠れた。けんかをしてから初めて、夢を見ないで朝が来た。





 一月の朝は晴れていた。

 十時五分前。喫茶アンモナイトの前で、湊は一回だけ深呼吸をした。

 ドアを押す。頭の上で、聞き慣れた鈴が鳴る。

 豆の匂い。ジャズ。カウンターの奥のマスター。

 そして、窓際のいつもの席に――先に来て、待っていたのは、律のほうだった。