毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 十一月の終わり、ネタ合わせは修理工場になっていた。

 どこが壊れているのかは、二人とも分かっていない。分かっていないふりをしていた。

 律がボケる。湊の返しが半秒遅れる。

 遅れた分を埋めようと、律がフォローのボケを重ねる。重ねられた分、湊はさらに構えてしまって、次の返しがまた遅れる。

「……ちゃうな。今のとこ、もっかいやろ」
「ああ」

 もっかい、は今日で何回目だろう。

 新ネタは一か月前から一行も進んでいない。決勝は二月。カレンダーだけが正確に減っていく。

 原因をどちらも口にしなかった。

 口にしたら、それは漫才の話ではなくなる。二人とも、それだけは分かっていたからだ。

 たとえば、こうだ。

「ナナちゃん人形な、あれ夜中に歩いとると思うねん」
「……歩かないだろ」

 遅い。遅い上に、返しがただの否定だった。

 春の湊なら、歩いたら朝のニュースになっとるわ、くらいは出た。

「せやな。歩かんな」

 律が自分でボケを畳む。

 ボケた側に畳ませる。漫才で一番、やってはいけないことだった。





 その日の休憩中だった。

 窓際で水を飲んでいた律が、夕日を見ながら、ぽつりと言った。

「湊」
「何」
「好きやで」

 いつものトーンだった。

 弁当のときの。ホームのときの。赤ペンのときの。あの、何百回目かの軽さだった。

 いつもなら返せた。様式は生きていたから。

 でも、今日のは。

 噛み合わない練習の真ん中で、読めない横顔のまま、それでも変わらない軽さで放られたそれは。

「……そういうの、もうやめてくれん?」


 言ってしまった。


 律がゆっくりこっちを向いた。

「そういうのて、何や」
「好きだの何だの、冗談で言うやつ。もういい。ネタが飛ぶ」
「冗談で言うたことは、一回もないで」
「じゃあなんで毎回笑って言うんだよ。本気なら、本気だって分かるように言えばいいだろ」
「言うたやん。夏に。ホームで」
「あんなの――」

 あんなの、信じられるわけないだろ。あの軽さで。あの顔で。

 それに、と喉の奥で、別のやつが言う。お前は俺の一番痛い話を、俺のおらんところで人に渡しとっただろ。あの味噌カツ屋の「体育館の話」。問い詰めもしなかったくせに、こういうときだけ数に入れるのはずるいと、自分でも分かっていた。分かっていて、もう止まらなかった。

「何回言わせんねん」
「知らんがね!」
「俺はずっとほんまのことしか言うてへん!」
「ほんまのことしか言わんやつが、俺の体育館の話を他人に喋るのかよ」


 旧視聴覚室が、しんとした。

 律が声を荒らげたのを、初めて聞いた。怒鳴った形のままの口に、次の言葉だけが、どこにもなかった。

 言うつもりはなかった。一番深いところに沈めていた弾を、一番ひどいタイミングで、撃ってしまった。

 律の言い分は、正しい。あいつは嘘を言ったことがない。ボケでも、あの「好きやで」でも、思っていないことを言ったことは、たぶん一度もない。

 でも、こっちの言い分も正しいはずだ。ほんまのことなら、ほんまのことに聞こえる言い方をしてくれ。冗談と同じ声で本気を言われて、どうやって見分けろっていうんだ。

 どっちも、たぶん、幼かった。

 でもそのときの湊に分かったのは、心臓がうるさいことと、引っ込みがつかないことだけだった。

「……ほな、もう言わんわ」

 律は静かにそう言って、かばんを取った。

「言わんかったら、ネタ、飛ばへんのやろ」

 ドアが閉まった。

 机の上に、ネタ帳が置き去りになっていた。

 湊は、拾わなかった。拾ったら負けな気がした。何に負けるのかは、分からなかった。

 窓の外は、もう暗かった。夕日は、あの「好きやで」のあたりで終わっていた。

 誰もいない旧視聴覚室で、自分の呼吸の音だけが大きかった。

 春まで、放課後はただの放課後だった。それでよかったはずなのに、そこへどうやって戻るのか、もう思い出せなかった。





 冷戦、というやつが始まった。


 朝、服部の椅子は前を向いたままだった。

 誰も逆向きにしない椅子は、ただの椅子だった。

 一度だけ、放課後に見た。教室を出ていく律が、あの椅子の背に手をかけて――かけただけで、行ってしまった。見なかったふりをした。


 「湊、朝メシ何?」が、なくなった。


 教室では、最低限の会話はした。プリントを回す。「おう」。日直の連絡。「分かった」。

 周りは、気づいていた。真野がこっちと律を三往復見て、何か言いかけて、やめた。教室の空気に、触ってはいけない場所がひとつ増えていた。


 ある朝、机の中に、購買の小倉マーガリンが一個、入っていた。

 メモも名前もなかった。前の日は、四時間目が長引いて、買いそびれていた。

 誰の仕業かは、考えるまでもなかった。人のパンの購入頻度が週四回だと突き止めた男は、この学校に一人しかいない。

 昼になっても、食えなかった。放課後になっても、食えなかった。

 結局かばんに入れて持ち帰って、夜、机の上に置いたまま、しばらく見ていた。

 口をきかないくせに。

 口をきかないくせに、こういうことだけ、するな。


 放課後の律は、誰よりも早く教室を出ていくようになった。

 アンモナイトに一人で行っているのか。それとも、もう行っていないのか。

 どっちだとしても、あの店の記憶は、コンビ名が決まった日の笑い声とセットで襲ってくる。冷戦中の人間が聞いていい音ではない。


 律は、皆の前では普段どおりだった。よく喋って、よく笑わせていた。

 その笑い声を背中で聞きながら、湊は思った。

 ああ、あれが「誰にでも」の律だ。

 八か月かけてようやく、区別がつくようになった。全部なくなってみれば、あるときとの違いは嫌になるほど分かった。

 失ってから分かるって、一番ダサいやつだろ。

 分かっていても、謝り方が分からなかった。何を謝るのかも、分からなかった。悪いのはあいつの軽さだ、という理屈を、まだ手放せなかった。


 夜、スマホの写真を遡ってしまうことが増えた。

 受理はがきの写真。『一生もんの記念やで』。

 消さなくてよかったと思う。消しておけばよかった、とも思う。どっちも本音で、どっちにも決められないまま、画面を消す。





 数日後の放課後、湊は一人で旧視聴覚室へ行った。

 ネタ帳は、机の上にそのままあった。ほこりが薄く積もり始めていた。

 開かずに、かばんに入れた。

 開けなかった。開いたら、招き猫だの黄色い電車だの、あの夏がページごと飛び出してくる。今それを食らったら、立っていられる自信がなかった。

 教室に戻って、机の中に押しこんだ。


「なあ、水野」

 帰り際、服部に呼び止められた。

「高瀬と、何かあった?」
「……何も」
「何もで、あれはないだろ」
「何もだよ」

 服部はしばらく黙って、俺の椅子返せとも言わずに、「そっか」とだけ言った。

 何があった、に答えられる中身が、本当になかった。けんかの原因を一行で言おうとすると、「あいつが好きだと言うから」になってしまう。それは原因の説明としておかしいだろ。おかしいのに、それ以外の説明が見つからなかった。





 その週の土曜、坂の下のコンビニの前で、近藤茜と会った。

 小学校からの幼なじみは、肉まんの袋を提げたまま、こっちの顔を三秒見た。

「うわ、ひどい顔」
「うるさいわ」
「なんかあった?」
「何もないわ」
「ふうん」

 茜は信じていない顔で、それでも深追いはしてこなかった。その代わり、別れ際に、ひと言だけ置いていった。

「あんた、中学のときより顔が生きとったのにね、最近」
「……何だよそれ」
「文化祭のあとくらいからだわ。ずっと」
「……なんで知っとるんだよ、うちの文化祭」
「行ったの。よその学校でも入れるでしょ、あれ」
「聞いてないぞ」
「言っとらんもん」

 茜は肉まんの袋を提げ直して、少しだけ迷ってから、続けた。

「私さ、中二のあの体育館で、心配そうな顔しかできん側だったの。あんた、あれが一番嫌そうだったでしょ。だから六月は、黙って行って、黙って笑って帰ったの。……客として、普通におもしろかったわ」
「…………」
「んじゃ」

 肉まんの袋が遠ざかっていく。

 誰のおかげでだよ、と思って、思ってしまってから、湊はコンビニの前でしばらく動けなかった。

 あの日の最前列の泣きそうな顔が、六月の客席のどこかで、普通に笑っていたらしい。知らないうちに、返せない借りが、また一枚増えていた。

 肉まんを買うつもりだったのに、何も買わずに帰った。





 十二月に入る直前、職員室に呼ばれた。

 暖房の効いた職員室は、眠たい匂いがした。それなのに、呼ばれた理由を察した瞬間から、手だけが冷えていた。

 日比野は、いつもの気の抜けた顔をしていなかった。

「単刀直入に聞くぞ」

 一枚の書類が、机に置かれた。東海地区決勝の、出場確認のやつだった。

「最近のお前ら見とりゃ、だいたい分かる。詳しくは聞かん」
「……はい」
「東海地区決勝、出場辞退するか?」


 辞退。

 その二文字は思ったより冷たい音をしていた。

 出ます、と言えばよかった。言えば、少なくとも書類の上では何も終わらない。

 でも、出てどうする。今の俺たちの漫才は、半秒ズレたままの、あれは漫才ですらない何かだ。あの舞台に、あの「定規とコンパス」のいる決勝に、あれを持っていくのか。

 それとも、辞退か。

 辞退したら――もう、放課後に旧視聴覚室へ行く理由がなくなる。

 一緒に帰る理由も。

 朝の点呼も。

 相方、という言葉も。

「……少し、考えさせてください」

 声がかすれた。

 日比野は何も言わずに、書類を引き出しにしまった。「急がんでええ」とだけ言った。急がなきゃいけない締め切りがどこかの欄にあるはずなのに、それは言わなかった。


 その日、家に帰って、湊は机の中のネタ帳のことを考えた。

 持って帰ることすら、できなかったノート。

 九割は自分の字のくせに、どのページを思い出しても、全部あいつの声で読める。

 明日、机の中からなくなっていればいいのに、と思った。思ってから、なくなったら困るくせに、と自分につっこんだ。

 つっこみだけは、まだ生きていた。相手がいないだけで。

 ……返事は、まだできそうになかった。