毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 十一月の頭、律が妙にそわそわしながら言った。

「湊、土曜って空いとる?」
「ネタ合わせだろ」
「それがな、ちょっと変更や。大阪から湯浅と奥村が遊びに来るねん」
「……誰」
「中学からのツレ。ほんで、や」

 律は椅子の背もたれに顎を乗せて、にやりとした。

「俺のツレに、俺の相方見せたいねん」
「見せもんじゃないんだわ」
「ええやん。向こうも会いたい言うとるし」
「なんで向こうが俺を知っとるんだよ」
「そら喋るやろ、相方のことくらい」
「何を喋ったんだよ」
「ええことだけや」
「余計に不安なんだよ」

 当たり前みたいに言うな。当たり前みたいに言われると、断る理由が見つからなくなるんだよ。

 椅子を奪われて隣に避難していた服部が「土曜、俺も呼ばれてない?」と割りこんで、「呼ばれてへん」と即答されていた。





 土曜の名駅は人の川だった。

 待ち合わせはナナちゃん人形の前。初めて見上げた律が「でっか」と言ったきり黙った、あの巨大なマネキンの足元は、今日も待ち合わせの人間で埋まっている。

「おー、律!」

 人の川の向こうから手を振ってきた二人組が、湯浅と奥村だった。

 二人はまず、頭上のナナちゃんを見上げて固まった。

「うわ、でっか。何これ」
「ナナちゃんや」
「ちゃん付けのサイズちゃうやろ」
「服も季節で替わるんやで。今は冬支度や」
「詳しいな、お前」
「地元やからな」

 地元。

 七か月で地元と言い切った男の隣で、湊は妙な気分になった。ナナちゃんのサイズにつっこむのは、春に律がやったことだ。今のあいつは、説明する側に立っている。

 そこからが速かった。

「お前、なんや、生きとったんかい」
「生きとるわ。二か月ぶりやで」
「二か月も連絡よこさんかったやろ」
「送ったやん、写真」
「たこ焼きの写真だけな。文面なしの」
「文面より雄弁やろ」
「何がやねん」

 速い。

 湊の知っている律の会話より、半拍速い。ボケとつっこみの区別も、どっちが投げてどっちが受けるかの取り決めも、ない。三人が同時に喋って、同時に笑う。

「ほんで、この人が例の?」

 湯浅がこっちを見た。

「せや。相方の湊」
「……水野です」
「聞いとるで、めっちゃ。エビフライの人やろ」
「昨日食ったけどの人や」
「その紹介やめてくれ」

 もう一人が続けた。

「あと、写真の人や」
「写真?」
「こいつの送ってくる写真な、半分あんたが写っとるもん。ネタ帳と、たこと、あんた」
「おい、奥村」

 律が奥村の脇腹を小突いた。声が半音高かった。初めて聞く高さだった。

 二人が同時に噴き出した。初対面の人間が、こっちの一番古い持ちネタを知っている。

 それが変にくすぐったかった。





 昼は、湯浅たちの希望で味噌カツになった。

「うわ、濃っ。何これ、うまっ」
「せやろ。名古屋、味は正義やねん」
「律、お前もう名古屋側なん?」
「両方や。両方のうまさが分かる男や」
「ずるいやつ」

 食いながらも、三人のラリーは止まらなかった。

「そういえばあれ、どうなったん? 例の、二年の」
「あー、あれな。結局あかんかったらしいで」
「マジか。ほな賭け、俺の勝ちやん」
「いや待てや、あれはノーカンや言うたやろ」
「言うてへん言うてへん」
「文化祭のときも同じこと言うて逃げたやん、お前」
「あれとこれとは別や」
「な、湊くんもそう思うやろ?」
「……せやな」

 言ってから、口の中に変な味が残った。誰の言葉を借りとるんだ、俺は。

「しっかし、湊くんが例のつっこみかあ。律の言うとおり、ええ声しとるわ」
「せやろ」
「体育館の話、聞いたときはどうなるか思たけど――」
「奥村」

 律の声が一段低くなった。

 奥村は「あ」という顔をして、味噌カツを口に放りこんだ。話は次の瞬間には別の伝説に移っていて、笑い声はそのまま続いた。

 体育館の話。

 箸が一瞬止まった。

 ……文化祭のことかもしれない。あれなら、律が土産話にしていてもおかしくない。

 そのはずなのに、味噌汁の味が、少しの間しなかった。

 ……誰の話だ。なんの賭けだ。そして、どの体育館の話だ。

 分からない。分からないのに、三人の呼吸だけで笑いの位置は分かる。ここで笑うところだ、というのが分かるから、湊も一応笑う。

 ボケは飛び交っているのに、湊の返しを待っている人間が、この席にはいない。あの半秒どころじゃない。字幕が、丸ごと追いつかない。

 ――俺の知らない律が、目の前で笑っている。

 湊といるときより、関西弁が濃い。速い。中学から積み上げた符丁で、三行おきに過去の事件が飛び出す。梅田のどこかの店。誰かの部活の伝説。湊が一枚も持っていない、思い出のカードゲーム。

 それを、疎外とまでは言わない。三人とも感じはよかったし、湯浅は時々こっちに「なあ?」と話を振ってくれた。

 ただ、振られた話に乗るたび、自分の関西弁もどきのあいづちが、偽物くさく聞こえた。





 夕方、新幹線の改札の前で、湯浅がふと言った。

「律、はよ大阪帰ってこいや。向こうの奴らも待っとるで」

 軽い調子だった。別れ際の、定型文みたいな。

 律は笑った。

「ほな向こう着いたら点呼取っとき。こっちは二月、大会やねん。東海地区の決勝や」
「ほう。ほな決勝終わったら、ついでに大阪も寄れや」
「考えとくわ」

 考えとくわ。

 笑ったまま、それだけだった。

 受け流したのか。はぐらかしたのか。それとも、本当に考えるのか。

 いつもなら分かる。律の「考えとくわ」が本気か冗談かくらい、聞き分けられる耳になっている。

 初めて、読めなかった。

「湊くんも、またな。こいつのつっこみ係、ようやっとるわ」
「係ちゃう、相方や。言うたやろ」
「はいはい」

 改札へ向かいかけた湯浅が、ふと足を戻して、律に聞こえない声の大きさで言った。

「なあ、湊くん。あいつ、大阪おった頃より楽しそうやで。あんたの前やと、顔がちゃうもん」
「……は?」
「ほな。相方くん、また」

 二人は改札の向こうへ消えていった。

 見送ったあと、律が伸びをして言った。

「な、ええやつらやろ」
「……そうだな」

 本当に、そう思った。感じのいい、おもしろい、律とよく似た速さの二人だった。

 だから困っているんだ、とは言わなかった。





 帰りの地下鉄は妙に静かだった。

 律は窓の外の暗闇を見ていて、湊は律の横顔を見ないようにしていた。

「楽しかったなあ、今日」
「……そうだな」
「湯浅な、ああ見えて泣き虫やねん。中学の卒業式、一番泣いとった」
「ふうん」
「奥村は逆に卒業式で笑うてもうて怒られた男や」
「ふうん」
「……湊?」
「聞いとる」

 聞いとる、と言った自分の声が、思ったより硬かった。

 湊の駅で、律も当たり前の顔をして一緒に降りた。送る、とは言わなかった。

 夜のいつもの角まで、無言だった。

 街灯の下で、律が「ほな」と言いかけたときだった。

「……お前」

 口が、勝手に開いた。

「大阪、帰りたい?」

 律が振り返った。

「なんで?」
「別に」
「湊、今日めっちゃ名古屋弁やな」
「うるさい」

 律は、笑わなかった。

 いつもならここで笑う。名古屋出た、と言って、こっちが怒って、それで終わる。その様式のはずだった。

 律は真顔のまま、静かに言った。

「帰りたないよ」
「なんで」
「お前がおるから」


 ――まただ。

 また、冗談みたいに言う。

 こんな、夜道で、真顔で、そんな台詞を。軽いのか重いのか分からない声で。

 胸の奥で何かがきしんで、それがうれしさなのか怒りなのか、湊にはもう区別がつかなかった。区別がつかないことに、腹が立った。

「……そういうとこだぞ、お前」
「どういうとこや」
「知らん」

 背を向けた瞬間、手首をつかまれた。

 一秒。

 力はすぐゆるんで、離れた。

「……なんでもない。気ぃつけてな」

 振り向かないまま、声だけ聞いた。いつもの高さに戻りそこねた、半端な声だった。

 湊は坂を上った。振り返らなかった。

 振り返ったら、街灯の下の律がどんな顔をしているのか、見てしまう。





 部屋に戻って、電気もつけずにベッドに座った。

 かばんからネタ帳がのぞいていた。先週、律が「やっぱり書く係が持っとき」と返してきたやつだ。

 開く。招き猫。ういろう。黄色い電車。九割は自分の字で、ところどころに、読めない律の字。ページの端には、字は書けないくせに、たこの絵だけ増えていく。八本の足が全部違う方向に曲がった、相変わらず下手なたこ。

 こんなもの描いてる暇があったら字の練習をしろ、と言ったら、「たこは俺の署名や」と言っていた。

 署名。

 ……胸が痛い、と思った。

 なんで痛いのかを調べたら、名前がついてしまう。あの夜のホームからずっと逃げ回っているものに、追いつかれてしまう。

 代わりに、昼間の三人の笑い声を思い出した。俺の知らない、大阪ぶんの律。「はよ帰ってこいや」。「考えとくわ」。読めなかった横顔。

 なんかムカつく。

 向こうの十何年と、こっちの七か月。並べる数字でもないのに、並べてしまった。

 誰に対してなのかは、知らん。今日はもう、店じまいだ。

 ネタ帳を閉じて、湊は布団をかぶった。閉じる寸前、ページの隅のたこと目が合った気がした。





 週明けの放課後、旧視聴覚室。

 ネタ合わせは三十分で終わった。

 律がボケる。湊が返す。形の上では、いつもの手順だった。

 でも、一度も笑いが起きなかった。

 律のボケは軽さが足りなくて、湊の返しは遅れた上に強すぎた。噛み合わないまま、どちらも「もう一回」と言わなくなって、沈黙が来た。

 途中で一回、律が「あのな、昨日湯浅がな」と言いかけて、やめた。

 やめた理由を聞けなかった。

 結成してから、初めてのことだった。

「……今日は、ここまでにしよか」
「そうだな」

 いつもなら、ここで「ほな帰りにアンモナイト寄ろか」が来る。今日は来なかった。

 律がネタ帳を閉じた。

 ぱたん、という音だけが、夕方の旧視聴覚室に響いた。

 何かの蓋が、閉まる音に聞こえた。