毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 あの薄いいら立ちに名前をつけないまま、九月は、新ネタ作りと過去ネタの磨き直しで流れていった。

 そして、十月の土曜。市内のホールは高校生であふれていた。

 東海高校生お笑いグランプリ、愛知県予選。

 受付でもらった香盤表には、四十二組のコンビ名がびっしり印刷されていた。学ラン、ブレザー、ジャージ、そろいのシャツ。廊下のあちこちでネタ合わせの声がして、どこを向いても、誰かがボケて、誰かがつっこんでいた。

「なあ湊、見てみ」

 律が香盤表の一点を指した。

 ――二十八番、食っとるやん(くっとるやん)。

「印刷されると、あらためてひどい名前だな」
「ええ名前やろ。四十二組で一番ふりがな要らんのに、一番ふりがな振られとるで」
「自慢になってない」

 言いながら、湊はその六文字から、しばらく目が離せなかった。

 エビフライの会話が、印刷物になっている。





 出番前、舞台袖は薄暗くて、ほこりと照明の熱の匂いがした。

 順番待ちの間、袖から他のコンビのネタが見えた。

 レベルは、正直、ばらばらだった。緊張で最初のボケを飛ばして固まってしまう一年生もいれば、立ち姿だけで場数の違いが分かる組もいた。

 そして、二十七番だった。

「――続いては、『定規とコンパス』」

 名前は前から香盤表で見つけていた。三年生の二人組。ネタは「三年生の進路相談」だと、あとで知った。

 二人が出ていった瞬間、客席の空気が変わった。

 ひと言目で笑いが起きた。ふた言目で、その笑いが次のフリになった。

「三者面談ってあるだろう。あれ、三者いなくないか?」
「いるだろ。お前と、親と、担任」
「俺の発言時間を計ったことがある。四十分の面談で、合計四十秒だった」
「面談を計測するなよ」
「残りの三十九分二十秒は、担任とお袋が俺の知らない俺の話で盛り上がって、最後にこっちを見て『な?』って言う」
「同意だけ求めるな。……で、進路は決まったのか?」
「二人が決めてくれた」
「自分の進路だろ」

 ボケの角度、つっこみの声量、間の長さ。全部が図面から起こしたみたいに正確で、一秒も無駄がない。四十秒、三十九分二十秒。数字で刻むボケが、定規で引いたみたいに等間隔に笑いを起こしていく。笑いが「起きる」んじゃない。「起こされる」のだ。設計したとおりの位置で、設計したとおりの大きさで。

 三分間、客席は制圧されていた。

 拍手の中を戻ってくる二人と、袖ですれ違う。汗ひとつかいていなかった。

 隣で律がぼそっと言った。

「あれ、たぶんネタ書いとるほうが天才やな。……湊と一緒や」
「は? 何か言ったか」
「なんでもない。ほら、次や」

 考える間もなく、係の人に背中を押された。





 ――どうもー、「食っとるやん」です。

 センターマイクの前に立ったとき、湊の心臓はちゃんとうるさかった。うるさかったが、文化祭のときとは種類が違った。

 客の顔が見える。

 照明も、マイクも、隣の男が半歩近くに立つ癖も、もう知っている。

「コンビ名で笑われるんですけど、これ実話でして」
「こいつが転校初日、名古屋人はエビフライばっか食っとると思っとったんです」
「実際食っとったやん」
「一回な!? 一回の実績で名前にされたんだわ」

 最初の笑いが来た。文化祭より深い、知らない人たちの笑いだった。

「ほんで俺、間違っとったら悪いから、毎朝確認しとるんです。『湊、朝メシ何?』て」
「皆さん、これが取り調べです。転校の翌日から毎日ですよ」
「事実確認や」
「『昨日は食ったのか』『おとといは』『週に何回だ』って、頻度まで聞かれたからな」
「頻度は大事やろ」
「刑事の聞き方なんだよ。途中でカツ丼出てくるかと思ったんだわ」
「名古屋やったらエビフライやろな」
「取り調べる側が差し入れの心配をするな」

 客席の手前のほうから順に、波みたいに笑いが広がっていく。

「ほんで今度はこいつが俺に『放課、暇?』て聞いてきてん。……放課て何や」
「休み時間のことだわ」
「名古屋だけなんですよ、それ! ほな放課後は何やねん」
「ほ、放課後は放課後だわ」

 噛んだ。頭が一瞬白くなって、その直後、律が客席へ何か短く言った。笑いは、むしろ大きくなった。何を言ったのかを聞き取る余裕は、そのときはなかった。

「ややこしいわ! 転校生に説明書つけとけ!」

 ――笑わせている。俺たちが、今。

 二人の実話だけで三分を埋める新しい台本は、うまく回った。律のボケは会場の広さに合わせて半歩大きくなり、湊の返しは、いつもの教室の距離のままでよかった。

「まあ、その取り調べがなかったら、このコンビもなかったんですけどね」
「美談にするな。俺は今も毎日、取り調べられとる側なんだわ」
「ほな最後、本日の確認いきますよ。昨日の晩メシは?」
「…………エビフライ」
「食っとるやん! どうもありがとうございましたー!」

 三分はまた体感三十秒だった。

 最後の「食っとるやん!」まで、ちゃんと届いた。


 結果はロビーの掲示だった。

 通過は四組、順位つきで貼り出される。人だかりの後ろから、律が首を伸ばす。

「……あった。あったで、湊」

 二十八番、食っとるやん。

 一番上には、定規とコンパス。

 律は派手に騒がなかった。代わりに、握った拳をこっちへ突き出してきた。

「二月や」
「二月だな」

 拳を合わせた。それだけで、今日は十分だった。

 律はそれから、掲示板をスマホで撮った。

「また証拠品かよ、律」
「せや。ネタ帳に貼るんや。はがきの隣や」

 一ページ目が、どんどん物々しくなっていくノートだった。


 週明けの教室は、ちょっとした祭りだった。日比野は「そうか」と言ったきり口元がゆるみっぱなしで、服部は「取材班続投な」と勝手に決め、真野は「決勝っていつ? 見に行ける?」と身を乗り出した。

 二月。東海地区決勝。

 カレンダーの先に、初めて具体的な日付が生まれた。

 日比野はついでに、旧視聴覚室の鍵の手配までしてくれた。決勝まで使っていい、と話が通っているらしい。お笑い好きの担任を持つと、こういうところだけは早い。





 そのころには、あれはもう、日常になっていた。

 たとえば昼休み。逆向きの椅子で弁当を食いながら、律が言う。

「この卵焼き、うまいな。あと湊、好きやで」
「卵焼きと同列に言うな」

 たとえば帰りのホーム。電光掲示板を見上げて、言う。

「次、五分後か。……好きやで」
「時刻表みたいに言うな」

 たとえば旧視聴覚室。ネタ帳にペンを走らせている横で、言う。

「そこのつっこみ、もう半歩強くてええな。あと好きやで」
「赤ペンみたいに言うな」

 一回だけ、危なかった日がある。

 弁当の途中の「好きやで」に、口が勝手に「お」の形になった。おう、でも、俺も、でも、続きはどっちでもあり得る形だった。慌てて茶で流しこんだ。

「今、何か言いかけたやろ」
「言ってない」
「ふうん」

 隣で服部が、箸を止めて変な顔をしていた。その日以来、弁当の日は茶を二本買うことにしている。

 様式、と呼んでいいと思う。あの夏のホームの一件は、こうして毎日すり減らされて、ただの持ちネタになった。それでいい。それがいい。

 返す言葉を毎回少しずつ変えているのは、単なるつっこみ側の職業意識であって、他意はない。ないったら、ない。





 十月の終わりの放課後だった。

 旧視聴覚室で、決勝へ向けた新ネタのたたき台を書いていた。窓の外はもう暗くなりかけていて、二人とも少し疲れていた。

 ネタ帳をのぞきこんでいた律がふっと言った。

「ここの返し、湊っぽくてええわ。……好きやで」

 いつもの様式。いつもの角度。

 だから湊もいつもの調子で返した。

「何回同じボケ擦るん」
「せやからボケちゃうって」
「じゃあ何」
「告白」
「軽すぎるわ」
「重く言うたら信じんの?」


 声が、低かった。

 疑問形なのに、疑問に聞こえなかった。

 顔を上げると、律はまっすぐこっちを見ていた。笑っていなかった。怒鳴るわけでも、机をたたくわけでもない。ただ、いつもあるはずの「次のボケ」が、来ない。

 湊は返す言葉を探した。

 見つからなかった。つっこみが、初めて出てこなかった。

 どれくらいの沈黙だったのか。数秒だったと思う。数秒が、あんなに長いとは知らなかった。

 先に目をそらしたのは、律だった。

「……今日、ここまでにしよか」

 律はネタ帳を閉じて、かばんに入れて、「ほな」と部屋を出ていった。いつもと同じ挨拶なのに、ドアの閉まる音だけが、いつもより静かだった。

 一人残った旧視聴覚室で、湊は自分の足元を見た。

 床は、あるのに。

 初めて、揺れた。





 次のネタ合わせから、何かが狂い始めた。

 律がボケる。湊が返す。返せてはいる。

 でも、遅い。

 律の言葉を受け取ってから、頭の中で一回、検品するようになっていた。これは普通に返していいやつか。これは「あれ」の続きじゃないか。検品には、時間がかかる。きっかり、半秒。

 半秒は漫才では致命傷だ。

 律は何も言わなかった。

 言わなかったが、湊の返しが遅れるたび、ボケを一個、易しいやつに差し替えているのが分かった。分かってしまうから、余計に遅れた。

 ネタ帳は、予選の掲示の写真を貼ったきり、新しいページが進んでいなかった。

 予選のすぐあとには、書きたいことがいくらでもあったのに。

 ペンが止まっているのは、俺のせいだ。それだけは、はっきりしていた。





 その日の帰り道は無言の割合が多かった。

 日暮れが日ごとに早くなる。学校を出たときにはもう、街灯がついていた。いつもなら十五分の道のりに、律のボケが十個は転がる。今日は、二個だった。二個とも、湊の返しは半秒遅れた。

 いつもの角が見えてきたところで、律が足を止めた。

「湊」
「何」

 夕暮れの逆光で、表情はよく見えなかった。

 律は静かな声で言った。

「最近、俺の目ぇ見て喋ってへんな」


 図星だった。