ドアが閉まって、黄色い電車が動き出す。
窓の向こうで、湊が改札のほうへ歩いていくのが見えた。降りてからは、一度も振り返らない。ああいうやつだと知っている。
高瀬律は、つり革にぶら下がったまま、スマホを見ているふりをした。
画面は消えたままだった。
消えた画面に、にやけてもいない、泣いてもいない、男の顔が映っていた。
――言うたなあ、俺。
ほんまに言うたなあ。
◇
夏が終わる前に言う、と決めたのは、八月の半ばだった。
きっかけは、たぶん、左目だ。
眠い日は左目だけ二重になる男が、こっちの言った「見とったら分かるやん」に、あんな顔をした。語尾が崩れて、耳が赤くて、意地で小倉トーストを完食した。
あの日、帰りの地下鉄で思った。
あかん。これ、ボケの皮かぶせとく意味が、もう分からへん。
そもそも、いつからかぶせとったんやったか。
……初日や。思い出すまでもない。
エビフライの取り調べで笑いが起きた、あの昼休み。笑いの真ん中で、あいつは一瞬だけ、石みたいに固まった。あれは、笑われ慣れてへん体のこわばり方やった。
次の瞬間、あいつは自分で戻ってきた。「今の、何がおもしろいんだよ」。真顔で、逃げんと、こっちの間合いに踏み込んできた。
あのとき、思った。
――この返し、もう一回聞きたい。
恋とか、そんな上等なもんとちゃう。明日もあの席に行こ。それくらいのことやった。次の日から毎朝聞いた「湊、朝メシ何?」は、半分は挨拶で、もう半分は確認やった。あの固まり方をした男が、今日もちゃんと喋れる日かどうか。
確認はいつの間にか点呼になって、点呼はいつの間にか、これになった。
最初の作戦は八月最後の週だった。
いつものアンモナイトで、「夏終わる前に、ひとつ聞いてええ?」まで言うて、ネタ帳を閉じた。
言えたのは、そこまでだった。
顔を上げた湊が、まっすぐこっちを見ていた。警戒はしてへん。ただ、続きを待っとる、無防備な顔やった。
その顔を見た瞬間、喉の奥で言葉が回れ右をした。
口から出たのは、ネタの順番の話だった。モーニングを先にするかどうか。誰にも、逃げたとは分からへん。
分からへんまま、三日引きずった。
三日の間に、湊は二回「なんかあった?」と聞いてきた。二回とも「なんもないで」と返した。嘘は言うてへん。あったのは「なんか」やのうて、全部や。
三日目の夜、中学からのツレ・湯浅に、電話で言われた。
『あんた、舞台でスベった話は三十分できるのに、なんでそれだけよう言わんの?』
うるさい正論やった。
かっこ悪。天下の高瀬律が、たった一人の相方に、たった四文字が言えへんとは。
◇
ほんで、今日や。
夏最後の栄。オアシス21の屋根がオレンジになるのを二人で見て、ホームに降りて、電車を待った。
言うなら今日やと思っていた。思っていただけで、口はまた回れ右の準備をしていた。
そこへ、湊が言った。
「お前、好きなやつおる?」
――もろた、と思た。
どこからどう見てもフェアやない扉の開き方やったけど、開いた扉には入る主義や。漫才で鍛えた反射神経が、こういうときだけ真面目に仕事をする。
「おるで」
即答できたのは、二週間ぶんの助走があったからだ。
重く言うて、あかんかったら、コンビが終わる。あの教室の毎朝が終わる。一緒に帰る十五分が終わる。それは、あかん。それだけは絶対にあかん。
せやから、ボケの形にする。
「俺、湊のこと好きやで」
いつもの高さ。いつもの速さ。練習したとおりの、日常の声。
風が吹いて、湊の前髪が浮いて、落ちた。
数秒あって――湊は吹き出した。
「……何そのボケ」
想定内だった。
笑ってくれたおかげで、明日も相方でいられる。助かった。
想定内やのに。
なんでこんな、胸の真ん中に、風穴が開いとんねん。
「ボケちゃうけど」
「はいはい」
「ほんまやって」
二回まで言い直して、そこでやめた。三回目を言ったら、声が外れそうだった。
せやから、笑うとこちゃうねんけどなあ、で止めた。
我ながら、ようできた困り顔やったと思う。
◇
電車の中では、普段どおりを演じた。
地下鉄に景色がないことに文句を言って、時間割の話をした。
湊の返事は、二回に一回、遅れていた。
話半分やったやろ、と聞いたら、聞いてた、と返ってきた。
嘘の下手な男や。
その下手さに、ちょっとだけ救われた。ゼロではない、ということだけ、確かめられたから。
◇
家に帰って、部屋の電気をつけて、ベッドに沈んだ。
スマホを開く。
ホーム画面には、受理通知のはがきの写真がある。
――ホーム画面にするなよ。
言われた日から、ずっとホーム画面にしている。バレたら死ぬほどいじられる。せやから、一生バレへんように持っておく。それくらいは許されるやろ。
湯浅から、通知が来た。
『例のん、今日やったんちゃうん?』
『言うた』
『ほんで』
『笑われたわ』
『……せやろな。あんたの言い方やと、そうなるわ』
『俺の言い方の何があかんねん』
『全部や。ほんで、やめるんか?』
指が止まらなかった。
『やめへんよ』
送ってから、自分の文字を見た。
やめへんよ。
せや。やめへん。
スマホを枕元に置いて、天井を見た。窓の外で、夏の終わりの虫が鳴いていた。大阪の虫も名古屋の虫も、鳴き方はたぶん一緒や。一緒やのに、この街で聞くほうが、なんでかよう聞こえる。
明日からも、日常の声で言う。
急かすのは、なしや。怒るのも、なしや。
……なしや、で。
◇
翌朝、教室に入って、服部の椅子を逆向きにして座った。
湊が来た。目が合った。
いつもの声、いつもの速さ。
「湊、朝メシ何?」
「……米」
上出来や。
今日も点呼は取れた。ほな、始めよか――長い長い、包囲戦を。
窓の向こうで、湊が改札のほうへ歩いていくのが見えた。降りてからは、一度も振り返らない。ああいうやつだと知っている。
高瀬律は、つり革にぶら下がったまま、スマホを見ているふりをした。
画面は消えたままだった。
消えた画面に、にやけてもいない、泣いてもいない、男の顔が映っていた。
――言うたなあ、俺。
ほんまに言うたなあ。
◇
夏が終わる前に言う、と決めたのは、八月の半ばだった。
きっかけは、たぶん、左目だ。
眠い日は左目だけ二重になる男が、こっちの言った「見とったら分かるやん」に、あんな顔をした。語尾が崩れて、耳が赤くて、意地で小倉トーストを完食した。
あの日、帰りの地下鉄で思った。
あかん。これ、ボケの皮かぶせとく意味が、もう分からへん。
そもそも、いつからかぶせとったんやったか。
……初日や。思い出すまでもない。
エビフライの取り調べで笑いが起きた、あの昼休み。笑いの真ん中で、あいつは一瞬だけ、石みたいに固まった。あれは、笑われ慣れてへん体のこわばり方やった。
次の瞬間、あいつは自分で戻ってきた。「今の、何がおもしろいんだよ」。真顔で、逃げんと、こっちの間合いに踏み込んできた。
あのとき、思った。
――この返し、もう一回聞きたい。
恋とか、そんな上等なもんとちゃう。明日もあの席に行こ。それくらいのことやった。次の日から毎朝聞いた「湊、朝メシ何?」は、半分は挨拶で、もう半分は確認やった。あの固まり方をした男が、今日もちゃんと喋れる日かどうか。
確認はいつの間にか点呼になって、点呼はいつの間にか、これになった。
最初の作戦は八月最後の週だった。
いつものアンモナイトで、「夏終わる前に、ひとつ聞いてええ?」まで言うて、ネタ帳を閉じた。
言えたのは、そこまでだった。
顔を上げた湊が、まっすぐこっちを見ていた。警戒はしてへん。ただ、続きを待っとる、無防備な顔やった。
その顔を見た瞬間、喉の奥で言葉が回れ右をした。
口から出たのは、ネタの順番の話だった。モーニングを先にするかどうか。誰にも、逃げたとは分からへん。
分からへんまま、三日引きずった。
三日の間に、湊は二回「なんかあった?」と聞いてきた。二回とも「なんもないで」と返した。嘘は言うてへん。あったのは「なんか」やのうて、全部や。
三日目の夜、中学からのツレ・湯浅に、電話で言われた。
『あんた、舞台でスベった話は三十分できるのに、なんでそれだけよう言わんの?』
うるさい正論やった。
かっこ悪。天下の高瀬律が、たった一人の相方に、たった四文字が言えへんとは。
◇
ほんで、今日や。
夏最後の栄。オアシス21の屋根がオレンジになるのを二人で見て、ホームに降りて、電車を待った。
言うなら今日やと思っていた。思っていただけで、口はまた回れ右の準備をしていた。
そこへ、湊が言った。
「お前、好きなやつおる?」
――もろた、と思た。
どこからどう見てもフェアやない扉の開き方やったけど、開いた扉には入る主義や。漫才で鍛えた反射神経が、こういうときだけ真面目に仕事をする。
「おるで」
即答できたのは、二週間ぶんの助走があったからだ。
重く言うて、あかんかったら、コンビが終わる。あの教室の毎朝が終わる。一緒に帰る十五分が終わる。それは、あかん。それだけは絶対にあかん。
せやから、ボケの形にする。
「俺、湊のこと好きやで」
いつもの高さ。いつもの速さ。練習したとおりの、日常の声。
風が吹いて、湊の前髪が浮いて、落ちた。
数秒あって――湊は吹き出した。
「……何そのボケ」
想定内だった。
笑ってくれたおかげで、明日も相方でいられる。助かった。
想定内やのに。
なんでこんな、胸の真ん中に、風穴が開いとんねん。
「ボケちゃうけど」
「はいはい」
「ほんまやって」
二回まで言い直して、そこでやめた。三回目を言ったら、声が外れそうだった。
せやから、笑うとこちゃうねんけどなあ、で止めた。
我ながら、ようできた困り顔やったと思う。
◇
電車の中では、普段どおりを演じた。
地下鉄に景色がないことに文句を言って、時間割の話をした。
湊の返事は、二回に一回、遅れていた。
話半分やったやろ、と聞いたら、聞いてた、と返ってきた。
嘘の下手な男や。
その下手さに、ちょっとだけ救われた。ゼロではない、ということだけ、確かめられたから。
◇
家に帰って、部屋の電気をつけて、ベッドに沈んだ。
スマホを開く。
ホーム画面には、受理通知のはがきの写真がある。
――ホーム画面にするなよ。
言われた日から、ずっとホーム画面にしている。バレたら死ぬほどいじられる。せやから、一生バレへんように持っておく。それくらいは許されるやろ。
湯浅から、通知が来た。
『例のん、今日やったんちゃうん?』
『言うた』
『ほんで』
『笑われたわ』
『……せやろな。あんたの言い方やと、そうなるわ』
『俺の言い方の何があかんねん』
『全部や。ほんで、やめるんか?』
指が止まらなかった。
『やめへんよ』
送ってから、自分の文字を見た。
やめへんよ。
せや。やめへん。
スマホを枕元に置いて、天井を見た。窓の外で、夏の終わりの虫が鳴いていた。大阪の虫も名古屋の虫も、鳴き方はたぶん一緒や。一緒やのに、この街で聞くほうが、なんでかよう聞こえる。
明日からも、日常の声で言う。
急かすのは、なしや。怒るのも、なしや。
……なしや、で。
◇
翌朝、教室に入って、服部の椅子を逆向きにして座った。
湊が来た。目が合った。
いつもの声、いつもの速さ。
「湊、朝メシ何?」
「……米」
上出来や。
今日も点呼は取れた。ほな、始めよか――長い長い、包囲戦を。
