毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 ドアが閉まって、黄色い電車が動き出す。

 窓の向こうで、湊が改札のほうへ歩いていくのが見えた。降りてからは、一度も振り返らない。ああいうやつだと知っている。

 高瀬律は、つり革にぶら下がったまま、スマホを見ているふりをした。

 画面は消えたままだった。

 消えた画面に、にやけてもいない、泣いてもいない、男の顔が映っていた。


 ――言うたなあ、俺。

 ほんまに言うたなあ。





 夏が終わる前に言う、と決めたのは、八月の半ばだった。

 きっかけは、たぶん、左目だ。

 眠い日は左目だけ二重になる男が、こっちの言った「見とったら分かるやん」に、あんな顔をした。語尾が崩れて、耳が赤くて、意地で小倉トーストを完食した。

 あの日、帰りの地下鉄で思った。

 あかん。これ、ボケの皮かぶせとく意味が、もう分からへん。


 そもそも、いつからかぶせとったんやったか。

 ……初日や。思い出すまでもない。

 エビフライの取り調べで笑いが起きた、あの昼休み。笑いの真ん中で、あいつは一瞬だけ、石みたいに固まった。あれは、笑われ慣れてへん体のこわばり方やった。

 次の瞬間、あいつは自分で戻ってきた。「今の、何がおもしろいんだよ」。真顔で、逃げんと、こっちの間合いに踏み込んできた。

 あのとき、思った。

 ――この返し、もう一回聞きたい。

 恋とか、そんな上等なもんとちゃう。明日もあの席に行こ。それくらいのことやった。次の日から毎朝聞いた「湊、朝メシ何?」は、半分は挨拶で、もう半分は確認やった。あの固まり方をした男が、今日もちゃんと喋れる日かどうか。

 確認はいつの間にか点呼になって、点呼はいつの間にか、これになった。


 最初の作戦は八月最後の週だった。

 いつものアンモナイトで、「夏終わる前に、ひとつ聞いてええ?」まで言うて、ネタ帳を閉じた。

 言えたのは、そこまでだった。

 顔を上げた湊が、まっすぐこっちを見ていた。警戒はしてへん。ただ、続きを待っとる、無防備な顔やった。

 その顔を見た瞬間、喉の奥で言葉が回れ右をした。

 口から出たのは、ネタの順番の話だった。モーニングを先にするかどうか。誰にも、逃げたとは分からへん。

 分からへんまま、三日引きずった。

 三日の間に、湊は二回「なんかあった?」と聞いてきた。二回とも「なんもないで」と返した。嘘は言うてへん。あったのは「なんか」やのうて、全部や。

 三日目の夜、中学からのツレ・湯浅に、電話で言われた。

『あんた、舞台でスベった話は三十分できるのに、なんでそれだけよう言わんの?』

 うるさい正論やった。

 かっこ悪。天下の高瀬律が、たった一人の相方に、たった四文字が言えへんとは。





 ほんで、今日や。

 夏最後の栄。オアシス21の屋根がオレンジになるのを二人で見て、ホームに降りて、電車を待った。

 言うなら今日やと思っていた。思っていただけで、口はまた回れ右の準備をしていた。

 そこへ、湊が言った。

「お前、好きなやつおる?」

 ――もろた、と思た。

 どこからどう見てもフェアやない扉の開き方やったけど、開いた扉には入る主義や。漫才で鍛えた反射神経が、こういうときだけ真面目に仕事をする。

「おるで」

 即答できたのは、二週間ぶんの助走があったからだ。

 重く言うて、あかんかったら、コンビが終わる。あの教室の毎朝が終わる。一緒に帰る十五分が終わる。それは、あかん。それだけは絶対にあかん。

 せやから、ボケの形にする。

「俺、湊のこと好きやで」

 いつもの高さ。いつもの速さ。練習したとおりの、日常の声。

 風が吹いて、湊の前髪が浮いて、落ちた。

 数秒あって――湊は吹き出した。

「……何そのボケ」


 想定内だった。

 笑ってくれたおかげで、明日も相方でいられる。助かった。

 想定内やのに。

 なんでこんな、胸の真ん中に、風穴が開いとんねん。


「ボケちゃうけど」
「はいはい」
「ほんまやって」

 二回まで言い直して、そこでやめた。三回目を言ったら、声が外れそうだった。

 せやから、笑うとこちゃうねんけどなあ、で止めた。

 我ながら、ようできた困り顔やったと思う。





 電車の中では、普段どおりを演じた。

 地下鉄に景色がないことに文句を言って、時間割の話をした。

 湊の返事は、二回に一回、遅れていた。

 話半分やったやろ、と聞いたら、聞いてた、と返ってきた。

 嘘の下手な男や。

 その下手さに、ちょっとだけ救われた。ゼロではない、ということだけ、確かめられたから。





 家に帰って、部屋の電気をつけて、ベッドに沈んだ。

 スマホを開く。

 ホーム画面には、受理通知のはがきの写真がある。

 ――ホーム画面にするなよ。

 言われた日から、ずっとホーム画面にしている。バレたら死ぬほどいじられる。せやから、一生バレへんように持っておく。それくらいは許されるやろ。

 湯浅から、通知が来た。

『例のん、今日やったんちゃうん?』
『言うた』
『ほんで』
『笑われたわ』
『……せやろな。あんたの言い方やと、そうなるわ』
『俺の言い方の何があかんねん』
『全部や。ほんで、やめるんか?』

 指が止まらなかった。

『やめへんよ』

 送ってから、自分の文字を見た。

 やめへんよ。

 せや。やめへん。

 スマホを枕元に置いて、天井を見た。窓の外で、夏の終わりの虫が鳴いていた。大阪の虫も名古屋の虫も、鳴き方はたぶん一緒や。一緒やのに、この街で聞くほうが、なんでかよう聞こえる。

 明日からも、日常の声で言う。

 急かすのは、なしや。怒るのも、なしや。

 ……なしや、で。





 翌朝、教室に入って、服部の椅子を逆向きにして座った。

 湊が来た。目が合った。

 いつもの声、いつもの速さ。

「湊、朝メシ何?」
「……米」

 上出来や。

 今日も点呼は取れた。ほな、始めよか――長い長い、包囲戦を。