毎日『好きやで』と言ってくる相方の言葉を、ぜんぶボケだと思ってた。

 ぱたん、と閉じたネタ帳の上に、律は両手を置いた。

「……聞きたいことって」

 湊の声は、自分でも分かるくらい半端に揺れた。

 夕方のアンモナイトには、他に客がいなかった。ジャズと、製氷機の音だけがしている。

 律はたっぷり三秒ためてから、言った。

「ネタの順番なんやけど。モーニング、先のほうがええと思う?」
「…………」
「いや、真面目な話やで。つかみのすぐあとにモーニング持ってきたら、後半、エビフライまで一直線やん。どう思う?」
「……ああ。うん。順番な」

 湊は水をひと口飲んだ。飲んでから、自分がなんで今、水を飲んだのか分からなかった。

「悪くないと思う。モーニング先」
「やんな。俺もそう思とってん」

 律は満足そうにネタ帳を開き直して、会議は五分で終わった。議事録には「モーニング繰り上げ」とだけ書いた。書くことが、他になかったからだ。

 なんだ、そんなことか。

 そう思った。たしかに思った。思ったのだが――同じ言葉のすぐ裏に、別の感触が貼りついていた。

 なんだ。そんなことか。

 安心したのと拍子抜けしたのが、同時に来ていた。

 拍子抜け、の意味が分からない。じゃあ俺は、何を聞かれると思っていたんだ。

 その先は考えなかった。正確には、考えなかったことにした。


 その日の帰り、律は角までの道すがら、ずっと新しい順番の話をしていた。モーニングを前に出すなら、つかみの入り方も変えなあかん。ほんなら味噌はどこへ置くんや。真剣な顔で指を折って、ネタの地図を組み替えていく。

 相方の顔だった。

 いつもの角で「ほな」と別れて、坂を上りながら、湊は思った。

 ネタの順番であんな真剣な顔をする奴が、まさかな。

 まさか、で止めておいた。





 八月最後の日曜、二人は栄にいた。夏休みのネタ探し、最終回だった。

 収穫は少なかった。夏の終わりの栄は相変わらずの人混みで、ネタになりそうなものはあらかた採集済みだった。湊が宿題の進捗を三回聞いて、律が三回とも話をそらした。

 夕方、オアシス21の下で、水の屋根がオレンジ色に染まっていくのを眺めながら休んだ。

「予選、あと一か月半か」
「せやなあ。三分て、ほんま一瞬やで」
「文化祭で学んだだろ」
「体感三十秒やったもんなあ」
「ネタは今の形でいけると思う。モーニング先にしてから、つながりがよくなった」
「せやろ。あれはええ判断やったわ」

 どっちの判断だったのかは、もう曖昧になっている。二人で決めたことはだいたいそうなる。

「二学期始まったら、ネタ合わせいつやる?」
「放課後。あとは朝」
「朝!? 湊、朝弱いやん」
「モーニング食いたいだけの案を出すな」
「ばれたか」

 そういう話をしながら日が落ちるのを待って、駅へ向かった。

 地下鉄へ降りる階段で、律は妙に上機嫌だった。

「夏、もう終わりやなあ」
「終わりだな」
「ええ夏やったわ。ネタ帳もだいぶ埋まったし」
「九月のお前は宿題で死ぬけどな」
「その話は九月にしよ」

 改札を抜けて、ホームへ降りる。

 夕方のホームは、休日帰りの人で、ほどほどに埋まっていた。電光掲示板の次発の文字。トンネルの奥から届く、生ぬるい風。

 次の電車まで、まだ数分あった。


 ――聞くつもりは、なかった。夏が終わる日だったからか。服部の「好きなんじゃね?」が、あれからずっと頭の隅に居座っていたからか。

 たぶん、両方だった。

「なあ、律」
「ん?」
「お前、好きなやつおる?」


「おるで」


 即答だった。

 一瞬、胸がざわついた。ざわついた自分に、もう一段ざわついた。

「へえ」
「誰か聞かへんの?」
「別に」

 聞けよ、と頭の中の誰かが言った。聞くな、と別の誰かが言った。

 アナウンスが電車の接近を告げた。

「湊」
「何」

 律の声は、いつもと同じ高さで、いつもと同じ速さで。


「俺、湊のこと好きやで」


 風が来た。

 トンネルの奥から押し出される、電車の前触れの風。前髪が浮いて、落ちた。

 数秒、沈黙。


 それから、湊は吹き出した。

「……何そのボケ」
「ボケちゃうけど」
「はいはい」
「ほんまやって」
「次のネタに使う?」

 言いながら、湊はちゃんと笑えていた。笑えている、はずだった。頬の内側だけが、変にこわばっていた。

 律は――困ったように、笑った。

「これ、笑うとこちゃうねんけどなあ」

 黄色い電車がホームに滑り込んできた。





 車内の律は妙に普段どおりだった。

 つり革にぶら下がって、窓の外の暗さに「地下鉄、景色ゼロやな」と文句を言ってくる。

「なあ、二学期って最初の授業何からやったっけ」
「……数学」
「うわ、最悪や。いきなり例の五秒の先生やん」
「……そうだな」
「湊」
「何」
「今、話半分やったやろ」
「聞いてた。数学だろ」
「ふうん」

 律はそれ以上は追わずに、窓の外の暗闇へ目を戻した。

 告白、というものをした人間の顔では、なかった。

 ほら見ろ、と湊は思った。

 冗談だ。当たり前だ。あいつはああいう奴だ。「好きやで」なんて、あの男にとっては「おはよう」の亜種でしかない。真に受けるほうがどうかしている。

 ……と、心の中で三回唱えた。

 三回も唱える必要がどこにあったのかは、考えなかった。

 先に降りるのは湊だった。ドアの前に立つと、背中に声が飛んでくる。

「ほな、また学校でな」
「おう」

 振り返ると、律はもう、つり革にぶら下がったままスマホを見ていた。

 ドアが閉まる。黄色い電車が律ごと行ってしまう。

 何もかもいつもどおりだった。

 駅から地上に出て、いつもの角を、今日は一人で通り過ぎた。坂の途中で、さっきのホームの数秒が、もう一回だけ再生された。

 たかが、ひと言だ。ネタ帳の一行にもならない、いつもの調子の、短い台詞だ。

 なのに、招き猫より、ういろうより、この夏のどの一行より、鮮明だった。

 消し方が分からなかった。





 夕飯の席で、箸が二回止まった。

「湊、箸止まっとるよ」

 母親に言われて、我に返った。

「……食っとるわ」
「あんた今日、栄まで行っとったんでしょ。疲れた顔しとるがね」
「別に」

 姉がスマホから顔も上げずに口を挟んだ。

「どうせまた相方と何かあったんだわ」
「何もない」
「返事早っ。あんた、図星のときほど返事が早いんだわ」
「うるさい」

 米を口へ運ぶ。味はあまりしなかった。


 その夜、湊はベッドで天井を見ていた。

 ――俺、湊のこと好きやで。

 再生される。声の高さ。速さ。風。電光掲示板の白。

 やめろ。再生するな。

 寝返りを打つ。枕の位置を直す。目を閉じる。

 ――好きやで。

 目を開けた。だめだ。今日の天井は、あいつの味方をしている。

 起き上がって、机のネタ帳を開いた。

 一ページ目。「漫才」の二文字と、下手なたこと、「食っとるやん様」のはがき。めくれば、招き猫と、ういろうと、黄色い電車。九割は自分の字で、ところどころに、例の読めない字。

 どのページも、笑えることしか書いていない。この夏に変なことなんて、何ひとつなかった。ノートが証拠だ。

 ……証拠。

 証拠って、何だ。俺はさっきから、何の裁判をやっとるんだ。

 ネタ帳を閉じて、湊は結論を出した。

 あれは冗談だ。

 もし万一、冗談じゃなかったら――

 その仮定は、途中で打ち切った。冗談じゃなかった場合に困るのが誰なのか、考え始めると、朝まで眠れない気がしたからだ。

 電気を消して、布団をかぶる。

 翌朝には、処理は完了していた。

 完了したことにしていた。





 二学期初日の教室は、長い始業式が終わると、日焼けの報告会になった。

 律はいつもどおりだった。

 朝、服部の椅子を当たり前の顔で逆向きにして座り、第一声はこうだった。

「湊、朝メシ何?」
「……米」
「渋いなあ。俺はパンとゆで卵。ああ、アンモナイト恋しいわ」
「夏の間、毎日おっただろ」
「毎日おったから恋しいねん」

 周りの誰かが笑って、服部が「俺の椅子、二学期も返ってこないのか」と天井を仰いで、二年三組の日常が回り出す。

 帰りのホームルームでは、日比野が「予選、来月だぞ」と、担任というより関係者の顔で念を押した。真野が「ネタ見せてよ」と急かして、律が「本番までお楽しみや」ともったいぶった。

 文化祭の前と、同じ顔ぶれで、同じ騒がしさだった。

 拍子抜けするほど、何も変わらなかった。

 なのに、気がつけば、シャーペンの頭を噛んでいた。

 行き詰まってもいないのに、だ。

 何も変わらないことに、薄く、薄くいら立っている自分がいる。

 なんでだ。

 冗談で、済んだのに。済んで、よかったはずなのに。

 シャーペンの歯形が、その日、またひとつ増えた。