蝉の鳴き声が教場の窓を叩く。
この教室では五十人以上の中学生が夏期講習を受けており、私は冷や汗を掻きながらホワイトボードにマーカーを滑らせた。
夏期講習中、各教場の講師がミックスされてランダムに県内の別の教場に配置される。私がいるこの教場は、普段私が勤務している北九州市の辺境地にある田舎の教場と違い、福岡市博多区の看板教場だ。そして、私が今授業をしている優秀層が集うこのクラスは、この大きな教場にのみ設置されている。塾講師一年目の私にとっては初めての経験だった。
板書を終えて振り返ると、生徒たちが一生懸命にホワイトボードの文字を模写している姿が視界に入ってきた。私が日頃から担当している教場のクラスは、比較的勉強が苦手な子たちが集まっている。こんなにも集中して授業を受けている生徒の姿を見るのは新鮮だった。そして同時に、こんなにも緊張感の漂う授業も初めてだった。
名前も知らない生徒たちを見渡してから、私は一度深呼吸した。口を開こうとすると、私はいつも喉が掠れてしまう。喉を開くためのルーティーンだった。
「では、そろそろ話し始めますね。まず、今回皆さんに覚えてほしい単元の名前は『現在完了形』といいます」
今日の授業に臨む前に、みっちりと板書計画はたててあった。ホワイトボードを振り返らずとも、背後に書かれてある内容はしっかり頭に入っている。私は生徒たちに向かい合ったまま話を進めた。私が説明している間、誰一人として下を向くことはなかった。私は確かな手応えを感じたまま単元の導入の話を終えた。
「では、これから演習に入ってもらいます。なにか質問がある人はいますか?」
この質問は、あくまで定型文として使う。私がいつも担当している教場では、私の確認を聞かないまま生徒たちは演習に入る。だから、真っ直ぐに手を挙げる生徒がいたことに一瞬たじろいでしまった。
「あ、えっと、ではそこの……」
「東屋です」
「東屋くんですね。質問ですか?」
「はい。文法的な質問なんですが、現在完了形のhaveって品詞はなんですか?」
レベルの高い質問に、私は反応に遅れを取ってしまった。けれど、私は咳払いをしてからすぐに答えた。
「助動詞です」
「そうなんですね。じゃあ、どうして助動詞の後ろに過去分詞がくるんですか? 普通、助動詞の後ろって原形動詞がきますよね?」
東屋くんの質問に、嫌な汗が額から流れるのが分かった。東屋くんの質問に対する答えを、私は持ち合わせていなかった。けれど、生徒に対して知らないと答える勇気が出なかった。にもかかわらず気の利いたことも言えなかった私は、東屋くんと睨めっこしたまま固まってしまった。
東屋くんは失望したように溜息を吐いた。
「夏期講習って、なんで別の教場の先生がくるんですかね? 多分、その先生の力量でどの教場に配属されるか決まってますよね? 正直、この教場でいつも英語を担当してくれている八戸先生の授業が僕は一番好きです。毎年、別の教場から来た先生にちょっとした質問をするといつもこういう反応をされるんです。ちなみに、僕たちは中二ですけど、このクラスのカリキュラムは進みが速いので現在完了形はすでに八戸先生から習っています」
東屋くんの発言に、他の生徒たちがクスクスと笑いを洩らした。確かに、夏期講習中は一学期に習った内容の復習となっている。私は情けないやら恥ずかしいやらで、足が震え出した。
「ちなみに、僕の質問に対する回答ですが、諸説ありという前提で聞いてください。元々haveはお馴染みの一般動詞で、昔の英語ではhave・目的語・過去分詞という用法がありました。ですが、語順の変化が起きて目的語は動詞の後ろにくる必要が出てきて、動詞の派生単語である過去分詞が目的語の前にくるようになったらしいです。八戸先生の受け売りですが」
得意げにそう言ってみせた東屋くんは、それから私の顔を見ることもなく演習を始めた。東屋くんの姿に追従するように嘲笑は一気に霧散し、上位クラスとしての貫禄を見せつけるようにみんなが黙々とテキストに向き合い始めた。
泣いちゃダメだ。
水中で目を開けたみたいに視界が濁ってきた。けれど、生徒の前で泣いてはいけない。どれだけ惨めでも、これは私の実力不足が招いたことだった。生徒への説明の仕方は常に研究している自負があるけれど、思い出してみれば自分自身の知識を深めるための勉強を怠っていた。私の浅はかさを見抜かれただけ。東屋くんのせいにしてはいけない。生徒にこんなことを言わせてしまった私に落ち度がある。
みんなが顔を下げていることを確認して、私は勢いよく目元を拭った。
授業の後半は、演習問題で難度の高かった問題の解説をし、最後に小テストをして授業を締めくくった。授業終了のチャイムが天使のラッパみたいに思えた。
休憩時間特有の騒々しい声の間を縫って、私は教室から飛び出した。
「ぷはぁ……」
息苦しかった教室の空気から解放されて、私は思わず息を吐いた。急いでトイレに駆け込み、震える足を叩いた。それから洗面台の鏡を見ると、ひどく疲れ切った自分の顔が映っていた。恥ずかしいことに、目が赤くなっていた。生徒たちも気づいていたかもしれないと思うと、どうにかなってしまいそうだった。
ぐったりした状態でトイレから出ると、きょろきょろと辺りを見渡している女子生徒がいた。眼鏡をかけたショートカットの小柄な女の子だった。いかにも真面目そうなその風貌は、さっき私が担当していたクラスにいた子だった。
その子と目が合うと、途端に笑顔になって私の方へと小走りでやって来た。
「あの、平塚先生、ですよね?」
「……え? あ、うん。名前覚えてくれたんだ」
「はい。あの、私すごく英語が苦手で。平塚先生が初歩の部分から丁寧に説明してくれたおかげで今まで分かっていなかったところが分かりました! 八戸先生はすごい先生なんですけど、基礎の部分はみんなが知っている前提で授業を進めるのでたまについていけないことがあって。なので、今日の授業はすごくためになりました。私、先生の授業が好きです!」
「……ありがとう」
ダメだ。今度は違う意味で泣きそうになってしまった。
タイミング良く授業開始のチャイムが鳴ってくれたおかげで、生徒に涙を見せずに済んだ。その子は深々と私に頭を下げてから、駆け足で教室へと戻って行った。
職員室に戻ると、この教場の責任者が苦笑しながら私に声をかけた。
「うちの生徒、きつい子いるでしょう」
「……そうですね。でも、理不尽なことを言われたわけではないです。これからも精進していきます」
「いやぁ、真面目な新卒がいてくれてなによりだよ」
私は責任者に頭を下げて教場を後にした。
夏期講習中は事前に各教師に与えられたコマ数を日毎に分散してシフトが組まれる。丸一日を教場で過ごす日もあれば、私みたいに夏期講習の後半戦に授業が集中しているなどして偏りがある場合は今日みたいに早い段階で直帰することができる。時間を確認すると十五時を少し過ぎた頃だった。
冷房のきいていた教室からいきなり炎天下に出たことで、急速に身体から汗が噴き出してきた。疲れ切った身体にかなり堪えた。
「甘いものが食べたい」
こうやって心身ともに疲れた日には、猛烈に甘いものが食べたくなる。この際、体型のことなんて気にしていられない。普段働いている県境の田舎の教場では、食べに行こうにもお洒落なカフェなんて近くには存在していない。こうやって栄えた場所に遠出したときこそ、新しい発見をして気分転換をしたい。
『静香が先生だったらいいのにな』
懐かしい声が、ふと頭をよぎった。不意に涙が込み上げてきた。急いで人通りの少ない路地に入って少しだけ泣いた。それからしばらくして目元を拭い、携帯で近くに喫茶店がないか調べた。
十五分ほどして、マップで調べた喫茶店に到着した。店内に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でてきた。外との気温の落差で寒いくらいだった。
「いらっしゃいませ」
カウンターから若い女性の声がした。その声に聞き覚えのあった私は、思わず女性の方を振り返った。そして、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「実里……」
辛うじて喉から絞り出されたか細い声が出た。
凝視していると、店員さんである女性が怪訝そうに私に視線を向けた。
「お客様?」
ありえない。ここに実里がいるなんてありえない。だって、実里は……。
「あの、大丈夫ですか?」
「……へ?」
店員さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。その顔は、間違いなく高校時代の親友だった実里のもので間違いなかった。
私は思わず仰け反り、店員さんから数歩後退った。
「あ、えっと……」
気まずさから視線を彷徨わせていると、店員さんの胸元にある名札が目に入った。
「……篠塚?」
「あ、はい。篠塚と申します」
実里の苗字は、沖島だったはず。つまり、今私の目の前にいるこの人は、偶然にも実里の顔にそっくりなだけ? いや、そっくりなんてレベルじゃない。もはやドッペルゲンガーとしか思えなかった。
「お客様、具合が悪かったりしますか?」
「……え、あ、いえ。大丈夫です。普通のお客です」
「……ふふっ、そうでしたか。では、お好きな席にどうぞ」
顔に親しみがあるだけの見ず知らずの人に笑われてしまったことで突然恥ずかしさが込み上げてきた。頭を下げて謝罪し、私はそそくさとガラス張りの壁に面した二人掛けの席に座った。
蒸気した顔を冷ましていると、先ほどの店員さんがお冷を持ってきてくれた。やっぱり、実里に似ている。店員さんは恭しく頭を下げた後、
「ご注文が決まりましたら、そちらのベルでお呼びください」
と私に微笑みかけてきた。それから頭を下げると、店員さんはカウンターの方へと戻って行った。確かに見た目は実里にそっくりだけれど、所作は上品で元気溌剌な性格だった実里とは似ても似つかない。
あの店員さんが気掛かりではあったけれど、一先ずメニューを開くことにした。
「……これって」
メニュー表に載せられたある品に目を奪われた。
「抹茶パンケーキ……」
そう呟いて、もう一度店員さんの方を振り返った。厨房に入ったのか、カウンターには姿がなかった。
もう一度メニュー表に視線を落とすと、実里との思い出が蘇った。
「やっぱ静香って教え方分かりやすいね!」
実里の家で定期テストの勉強をしていると、実里が満面の笑顔を浮かべた。
「そんなことないよ。それに、教えられるのは英語だけだから」
「いやぁ、英語できるの羨ましいなぁ。他の科目はできるけど、どうしても英語だけはねぇ。ほんと、アイアムジャパニーズなのになんで英語なんて勉強しなきゃいけないんだよぉ」
実里が頬を膨らませながらテーブルに突っ伏した。
「共通語だから仕方ないよ」
私の言葉に唸りながら、実里が上目遣いで顔を上げた。
「静香が先生だったらいいのにな」
「え?」
「中学の時、英語の先生と折り合いが悪くてさぁ。おまけに説明もちんぷんかんぷんだったから、余計に英語アレルギーが酷くなったんだよね」
「……そういえば、私は中学の時の英語の先生、好きだったな」
「やっぱ、先生との相性って大事だよね! あと教え方も!」
思い出して腹が立ったのか、実里が不機嫌そうに唇を尖らせた。
「そうだね」
私が笑いながらそう言うと、実里が「あっ!」と思い出したように突然立ち上がった。
「十五時だ! 三時のおやつ作るね!」
実里はそう言い残してドタバタと部屋から出て行った。
実里の家にお邪魔したときはいつもお菓子やデザートを作ってくれる。私は女子力がなくて料理もまともに作れないけど、実里が作った料理には何回も舌を巻いてきた。素人目で見ても、実里の腕は確かだと分かる。
私はいつも通り、実里が作ってくれるおやつを楽しみにしながら一人で勉強を続けた。しばらくして、実里が部屋に焼き立てのパンケーキを運んできてくれた。
「わ、美味しそう。緑色のパンケーキって珍しいね」
「前に静香が抹茶が好きだって言ってたから、混ぜてみたんだ」
「……覚えてくれてたんだ」
「もっちろん! 喫茶店をオープンしたとき、静香の好きなメニューは絶対に入れるって決めてるんだ! 喫茶店を開いたら食べてもらうね!」
実里の言葉に、自分の顔が綻ぶのが分かった。
実里は高校を卒業したら、専門学校に通って料理の腕を磨くつもりらしい。そして、卒業した後は自分で喫茶店を開くのが夢なのだそう。
「あ、飲み物持ってくるの忘れてた。ちょっと待ってて」
実里は再びドタバタと部屋を飛び出した。一階のキッチンから、ミキサーで何かを混ぜる音が聞こえてきた。それから実里は部屋に戻って来た。
「はい、静香の好きなバナナジュース」
実里がテーブルの上にバナナジュースの入ったコップを二つ並べた。
「いつもありがとう。わざわざ私の好きなものに合わせてくれて」
「私もバナナジュース好きだよ! 流石に毎朝飲む静香には負けるけど」
実里がニヤリとした。
私は恥ずかしくなって咳払いを一つした。
「いただきます」
「どうぞ」
そのときに食べた抹茶のパンケーキは、人生で食べたどのパンケーキよりも美味しかった。
「……これ、すっごく美味しい」
「えへへ、でしょ? 初めて挑戦したけど、我ながら中々の力作」
「もし実里が夢を叶えたら、食べに行くね」
「うん! 一番に静香を招待するよ!」
「ありがとう」
あまりの美味しさに黙々と食べ続けていると、普段は見せない神妙な面持ちで、実里が私を見つめてきた。
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「……えっ。あ、えっと」
物をはっきりと言う性格の実里にしては珍しく、もじもじとしながら実里は私に訊いた。
「静香って、将来の夢とかあるの?」
「……え?」
「ほら、私は静香に夢の話いっぱいするけど、思い出してみれば静香からはそういう話聞いたことないなーって」
「……あー。私は実里と違って明確に夢が決まってないね」
「そ、そっか」
「でも、実里のおかげでちょっと興味を持ったことならあるかも」
「えっ! なになに?」
実里が目を輝かせながら私の方へ身を乗り出してきた。純度百パーセントの笑顔で私の回答を待ち侘びる実里に、大層なことでもないのに思わせぶりに発言してしまったことに照れ臭くなった。けれど、私は勇気を出して実里に言った。
「先生っていいかも……と思ってみたり」
私の答えが意外だったのか、実里は目を丸くした。社交性のない私が口にしていいような職業ではなかったと後から正気が身体を駆け巡って顔が熱くなってきた。
「や、やっぱり聞かなかったことに」
「すっごくいいじゃん!」
「……え」
「実里、教え方上手だし、優しいし、絶対向いてるよ!」
そのときの実里の笑顔は、生涯忘れることはないと思う。
結局、大学で教職課程を踏んだものの、直接子どもたちの入試の合否に携わる塾講師になる道を選んだ。先生になった話を実里に聞かせたかった。実里から夢を叶えた話を聞きたかった。一緒にお酒を飲んで、これからについて語り合いたかった。
高校を卒業した実里は専門学校に通い始めて半年してから、交通事故で亡くなった。
滲んだ視界を拭って、私はベルを押した。店員さんはすぐにやって来てくれた。
「ご注文をお伺いします」
笑顔を向けてくれる店員さんの顔は、やっぱり実里にしか見えない。
「この、抹茶パンケーキを一つ」
「抹茶パンケーキがおひとつですね」
「それと、バナナジュースが一つ」
私がメニュー表を指さすと、店員さんが静かになった。見上げると、神妙な表情で私のことを見ていた。
「……あの」
気まずくなって声を掛けようとすると、店員さんはハッとした様子で頭を下げた。
「すみません。その二つを頼む人が珍しくて」
「……子どもっぽすぎましたかね」
「いえいえ! 私も、その二つがお気に入りのメニューなんです」
上品な笑顔でそう言うと、店員さんは「すぐにお持ちしますね」と厨房に戻って行った。
なんだか狐につままれた気分で店員さんを見送った後、私は携帯を取り出して英語について気になったことを調べた。自分では分かったつもりになっていただけで、まだまだ掘り下げが足りていなかった。他の単元にも、私の理解が及んでいない箇所があるだろう。入社してからある程度時間が経ったからといって慢心していた部分があったと思う。いずれ異動があって上位クラスが設置された教場に配属されたときでもしっかりとした指導ができるように日々研鑽していかないといけない。
「そうだ。デザートを食べた感想を三十語以上で書く英作文を生徒に出してみてもいいかも」
携帯に思いついた内容をメモして過ごしていると、店員さんが注文した品を給仕してくれた。確かに店内は混んでいないけれど、思った以上に早くてびっくりした。
「ごゆっくりどうぞ」
店員さんに頭を下げてから、私はテーブルの上に置かれた抹茶のパンケーキを見下ろした。なんとなく、懐かしい気持ちになった。
「いただきます」
抹茶のパンケーキの欠片をフォークで一口含んだ。
「……美味しい」
実里が作ってくれた抹茶のパンケーキと似ていて、私が好きな濃い味だった。仄かな苦味もあって、波打ち際で押し寄せてくる波みたいに舌の上が抹茶の味で広がっていく。それから、バナナジュースを一口飲んだ。疲れていた心身に抹茶の苦味とバナナの甘さが染み渡る。
無我夢中で何度もパンケーキを口に運んだ。あまりに夢中だったからか、側まで来ていた店員さんに声を掛けられるまでその存在に気づいていなかった。
「お客様、大丈夫ですか?」
見上げると、店員さんが心配そうにハンカチをこちらに差し出していた。
「……え?」
「なにか悲しいことでもありましたか?」
店員さんの質問の意図が分からず、私は自分の顔を確認するためにガラスの方を振り返った。
「……あれ? どうして」
ガラスに映った自分の顔が、幼い子どもみたいに表情を崩して涙を流していた。
「よかったら使ってください」
「……すみません。ありがとうございます」
店員さんからハンカチを受け取って、涙を拭った。
「洗って返します」
「お客様に差し上げます」
「いえ、そんな……」
「…………あの、お客様」
「なんでしょう」
「他のお客様がいらっしゃらないのでお訊ねしたいのですが」
店員さんの言葉を受けて店内を見渡すと、確かに先ほどまでいたお客さんはすでに帰ったらしく、この場には私と店員さんの二人しかいなかった。
「沖島実里、という名前に身に覚えはありますか?」
思ってもみなかった質問に、私は固まってしまった。真剣な表情で私を見つめる店員さんになにも答えられないでいると、店員さんは狼狽えるように頭を下げた。
「すみません、人違いだったみたいです」
「……あっ、すみません。びっくりしただけで。実里のことは知っています。やっぱり、あなたは実里と関係があるんですね」
私がそう言うと、店員さんは目を見開いた。
「あ、あなたが!」
突然身を乗り出してきた店員さんが私の手を握ってきた。その姿が、実里と重なって見えた。
「あ、ご、ごめんなさい。私ったら、つい」
「あ、いえいえ。あの、もしかして、私のことを知ってるんですか?」
「はい。実は、実里は双子の姉なんです」
「……えっ。ええええ!」
姿が似ているとは思っていたけれど、まさか血縁関係にあるとは思ってもみなかった。ていうか、実里から双子の妹がいるなんて話、聞いたこともなかった。
「あなたは、平塚静香さんですよね?」
「……はい、そうです。どうして私の名前を?」
「実里からは静香さんの話をいつも聞いていました。人生で一番の親友ができたって。この喫茶店に来店されてバナナジュースと抹茶パンケーキを同時に頼む女性がいたら、毎回顔を凝視してしまうんです。もしかしたら、静香さんかもしれないって。先ほどは不躾に顔をまじまじと見てしまってすみませんでした」
「……私の好みも実里から聞いていたんですね」
店員さんは口元に手を当てながら控えめに笑った。その様子を見て耳まで熱くなるのが分かった。
「実里が喫茶店を開きたがっていたのは知っているかと思います。実は、私たち二人で喫茶店を経営しようと思っていたんです。お客様として来店した静香さんを驚かせるために、実里は私の存在を隠し続けていました」
「……実里らしいですね」
「静香さんが頼んだその二つのメニューは、姉の希望で実現したものです」
その言葉に、私は食べかけの抹茶のパンケーキとバナナジュースに視線を向けた。
「一生懸命パンケーキを食べながら涙を流す姿を見て、直観的に静香さんだって思ったんです」
店員さん……篠塚さんが目尻に滲んだ涙を拭いながら言った。
「あの、実里と苗字が違いますよね?」
「実は、両親が離婚していまして。実里は父に、私は母について行くことにしました」
そういえば、実里は父子家庭だった。
「母の方は再婚して、今の父の苗字に変わりました。それに伴って、私も」
「そういうことだったんですね」
「実里とは仲が良かったんですけど、両親のことはどちらも大好きだったので、二人で話し合ってそれぞれ離れて暮らすことにしたんです。これが中学三年生のときの話です」
全然、知らなかった。実里とは高校時代に出会った。思い返してみれば、実里から昔の話を聞くことはほとんどなかった。実里はずっと、将来のことについて話をしていた印象がある。もしかすると、暗い話が嫌いだった実里は、あえて私には話さないようにしていたのかもしれない。
「離れて暮らしながらも、私と実里は連絡を取り合っていました。その日学校でなにがあったとか、そういう些細なことまで。そうやって連絡を取り合う中で、実里から静香さんの存在を教えてもらいました」
「そう、だったんですね」
「いつもはメッセージでのやり取りだったんですが、実里がはしゃいで電話を掛けてきたときがあって。静香さんにも夢ができた、って」
あの日、目を輝かせながら私の夢を応援してくれた実里の姿が思い出された。不覚にも、また涙が出てきてしまった。
「すみません」
「いいえ」
ハンカチで私が涙を拭うのを、篠塚さんが穏やかな表情で見守ってくれた。
「実里がきっかけなんです」
「……え?」
「実里と勉強したとき、嬉しそうに私の説明を聞いてくれたから、私は誰かにものを教えることに興味を持ったんです」
「……そうでしたか。静香さんにそう言ってもらえた実里は、きっと天国で喜んでいると思います」
「想像できますね」
私と篠塚さんは、お互いに顔を見合わせて笑った。
お会計を済ませると、篠塚さんがお店の外まで見送ってくれた。
「お仕事、頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。篠塚さんも」
「はい」
「また、来ますね。実里の夢を叶えたこの喫茶店で元気をもらいに。くじけそうになったときに、実里に背中を押してもらおうと思います」
「ぜひ、お待ちしています」
「実里の話、また聞かせてください」
私の言葉に、篠塚さんは深々と頭を下げた。私は会釈をしてから喫茶店を後にした。
最寄り駅までの道中、教場の前を通った。すると、教場の入口で誰かに声を掛けられた。
「平塚先生!」
聞き覚えのある声に振り返ると、私の授業を褒めてくれたショートカットの女の子がこちらに手を振っていた。そして、その隣には腕を組んで私から顔を背けた東屋くんの姿があった。内心、げっ、と思ってしまった。
「ほら、ちゃんと自分で言いなよ」
ショートカットの女の子が東屋くんの背中を押した。東屋くんはバランスを崩して私の方へとよろけた。東屋くんは振り返って女の子を睨むと、諦めたようにこちらに向き直って頭を下げた。
「さっきは嫌な言い方してすみませんでした」
「……え?」
東屋くんの謝罪に思わず拍子抜けした声を上げた。
「挑発するような口の利き方をしました」
「あ、あぁ。それは全然いいんだけど、ずっとここで待ってたの?」
「今は休み時間なので」
「でも、教場内にいないから帰ったとか思わなかったの?」
「東屋くん、先生が教場を出た後に駅とは反対方向に向かって歩いて行くのが窓から見えたらしいんです」
「……今日は電車で来たっていう話を授業中にしてたので、ここで待っていれば戻って来るかもしれないと思って。タクシーで帰る可能性もありましたけど」
「それで、わざわざ謝るためにここで待ってたの?」
私が訊くと、東屋くんは照れ臭そうに頷いた。
「ちゃんと、授業聞いてくれてたんだね。ありがとう」
「大体の先生は嫌な言い方したらむくれるけど、平塚先生は傷ついてるように見えて言い過ぎたって思った」
「そっか。東屋くんは良い子だね。ちゃんと謝ってくれてありがとう。もう気にしてないよ。あ、そうだ。さっきの東屋くんの質問なんだけど」
「え?」
「ほら、haveの後ろに過去分詞がくる理由ってやつ」
「……あぁ」
「東屋くんは語順の変化が起きたからって言ったよね?」
「はい」
「そもそもどうして語順の変化が起きたのかは知ってる?」
「……いいえ」
東屋くんは首を横に振った。
「昔は名詞や代名詞の格の数が今よりも多かった。だから、語順は今よりも自由に調整することができた。でも、格の数が減ったことで、SVOみたいに語順をある程度固定しないと文法が破綻するようになったみたい」
「……なるほど」
「質問に答えられなかったのが悔しくて調べちゃった」
「気にしてないって言ったのに」
「ふふ、大人の見栄を張っちゃった」
私が笑うと、東屋くんは意を決したように口を開いた。
「一番好きなのは八戸先生の授業ですが、一番わかりやすいのは平塚先生でした。その、元々英語が苦手だったんで」
顔を赤くしながらそう言った東屋くんに、女の子が肘で小突いて「やるね」と笑った。人は見かけによらない関係性を持っているみたいだった。
「夏期講習の間、よろしくね」
私がそう言うと、二人は揃って頷いてくれた。
二人の笑顔が、実里の笑顔と重なって見えた気がした。
この教室では五十人以上の中学生が夏期講習を受けており、私は冷や汗を掻きながらホワイトボードにマーカーを滑らせた。
夏期講習中、各教場の講師がミックスされてランダムに県内の別の教場に配置される。私がいるこの教場は、普段私が勤務している北九州市の辺境地にある田舎の教場と違い、福岡市博多区の看板教場だ。そして、私が今授業をしている優秀層が集うこのクラスは、この大きな教場にのみ設置されている。塾講師一年目の私にとっては初めての経験だった。
板書を終えて振り返ると、生徒たちが一生懸命にホワイトボードの文字を模写している姿が視界に入ってきた。私が日頃から担当している教場のクラスは、比較的勉強が苦手な子たちが集まっている。こんなにも集中して授業を受けている生徒の姿を見るのは新鮮だった。そして同時に、こんなにも緊張感の漂う授業も初めてだった。
名前も知らない生徒たちを見渡してから、私は一度深呼吸した。口を開こうとすると、私はいつも喉が掠れてしまう。喉を開くためのルーティーンだった。
「では、そろそろ話し始めますね。まず、今回皆さんに覚えてほしい単元の名前は『現在完了形』といいます」
今日の授業に臨む前に、みっちりと板書計画はたててあった。ホワイトボードを振り返らずとも、背後に書かれてある内容はしっかり頭に入っている。私は生徒たちに向かい合ったまま話を進めた。私が説明している間、誰一人として下を向くことはなかった。私は確かな手応えを感じたまま単元の導入の話を終えた。
「では、これから演習に入ってもらいます。なにか質問がある人はいますか?」
この質問は、あくまで定型文として使う。私がいつも担当している教場では、私の確認を聞かないまま生徒たちは演習に入る。だから、真っ直ぐに手を挙げる生徒がいたことに一瞬たじろいでしまった。
「あ、えっと、ではそこの……」
「東屋です」
「東屋くんですね。質問ですか?」
「はい。文法的な質問なんですが、現在完了形のhaveって品詞はなんですか?」
レベルの高い質問に、私は反応に遅れを取ってしまった。けれど、私は咳払いをしてからすぐに答えた。
「助動詞です」
「そうなんですね。じゃあ、どうして助動詞の後ろに過去分詞がくるんですか? 普通、助動詞の後ろって原形動詞がきますよね?」
東屋くんの質問に、嫌な汗が額から流れるのが分かった。東屋くんの質問に対する答えを、私は持ち合わせていなかった。けれど、生徒に対して知らないと答える勇気が出なかった。にもかかわらず気の利いたことも言えなかった私は、東屋くんと睨めっこしたまま固まってしまった。
東屋くんは失望したように溜息を吐いた。
「夏期講習って、なんで別の教場の先生がくるんですかね? 多分、その先生の力量でどの教場に配属されるか決まってますよね? 正直、この教場でいつも英語を担当してくれている八戸先生の授業が僕は一番好きです。毎年、別の教場から来た先生にちょっとした質問をするといつもこういう反応をされるんです。ちなみに、僕たちは中二ですけど、このクラスのカリキュラムは進みが速いので現在完了形はすでに八戸先生から習っています」
東屋くんの発言に、他の生徒たちがクスクスと笑いを洩らした。確かに、夏期講習中は一学期に習った内容の復習となっている。私は情けないやら恥ずかしいやらで、足が震え出した。
「ちなみに、僕の質問に対する回答ですが、諸説ありという前提で聞いてください。元々haveはお馴染みの一般動詞で、昔の英語ではhave・目的語・過去分詞という用法がありました。ですが、語順の変化が起きて目的語は動詞の後ろにくる必要が出てきて、動詞の派生単語である過去分詞が目的語の前にくるようになったらしいです。八戸先生の受け売りですが」
得意げにそう言ってみせた東屋くんは、それから私の顔を見ることもなく演習を始めた。東屋くんの姿に追従するように嘲笑は一気に霧散し、上位クラスとしての貫禄を見せつけるようにみんなが黙々とテキストに向き合い始めた。
泣いちゃダメだ。
水中で目を開けたみたいに視界が濁ってきた。けれど、生徒の前で泣いてはいけない。どれだけ惨めでも、これは私の実力不足が招いたことだった。生徒への説明の仕方は常に研究している自負があるけれど、思い出してみれば自分自身の知識を深めるための勉強を怠っていた。私の浅はかさを見抜かれただけ。東屋くんのせいにしてはいけない。生徒にこんなことを言わせてしまった私に落ち度がある。
みんなが顔を下げていることを確認して、私は勢いよく目元を拭った。
授業の後半は、演習問題で難度の高かった問題の解説をし、最後に小テストをして授業を締めくくった。授業終了のチャイムが天使のラッパみたいに思えた。
休憩時間特有の騒々しい声の間を縫って、私は教室から飛び出した。
「ぷはぁ……」
息苦しかった教室の空気から解放されて、私は思わず息を吐いた。急いでトイレに駆け込み、震える足を叩いた。それから洗面台の鏡を見ると、ひどく疲れ切った自分の顔が映っていた。恥ずかしいことに、目が赤くなっていた。生徒たちも気づいていたかもしれないと思うと、どうにかなってしまいそうだった。
ぐったりした状態でトイレから出ると、きょろきょろと辺りを見渡している女子生徒がいた。眼鏡をかけたショートカットの小柄な女の子だった。いかにも真面目そうなその風貌は、さっき私が担当していたクラスにいた子だった。
その子と目が合うと、途端に笑顔になって私の方へと小走りでやって来た。
「あの、平塚先生、ですよね?」
「……え? あ、うん。名前覚えてくれたんだ」
「はい。あの、私すごく英語が苦手で。平塚先生が初歩の部分から丁寧に説明してくれたおかげで今まで分かっていなかったところが分かりました! 八戸先生はすごい先生なんですけど、基礎の部分はみんなが知っている前提で授業を進めるのでたまについていけないことがあって。なので、今日の授業はすごくためになりました。私、先生の授業が好きです!」
「……ありがとう」
ダメだ。今度は違う意味で泣きそうになってしまった。
タイミング良く授業開始のチャイムが鳴ってくれたおかげで、生徒に涙を見せずに済んだ。その子は深々と私に頭を下げてから、駆け足で教室へと戻って行った。
職員室に戻ると、この教場の責任者が苦笑しながら私に声をかけた。
「うちの生徒、きつい子いるでしょう」
「……そうですね。でも、理不尽なことを言われたわけではないです。これからも精進していきます」
「いやぁ、真面目な新卒がいてくれてなによりだよ」
私は責任者に頭を下げて教場を後にした。
夏期講習中は事前に各教師に与えられたコマ数を日毎に分散してシフトが組まれる。丸一日を教場で過ごす日もあれば、私みたいに夏期講習の後半戦に授業が集中しているなどして偏りがある場合は今日みたいに早い段階で直帰することができる。時間を確認すると十五時を少し過ぎた頃だった。
冷房のきいていた教室からいきなり炎天下に出たことで、急速に身体から汗が噴き出してきた。疲れ切った身体にかなり堪えた。
「甘いものが食べたい」
こうやって心身ともに疲れた日には、猛烈に甘いものが食べたくなる。この際、体型のことなんて気にしていられない。普段働いている県境の田舎の教場では、食べに行こうにもお洒落なカフェなんて近くには存在していない。こうやって栄えた場所に遠出したときこそ、新しい発見をして気分転換をしたい。
『静香が先生だったらいいのにな』
懐かしい声が、ふと頭をよぎった。不意に涙が込み上げてきた。急いで人通りの少ない路地に入って少しだけ泣いた。それからしばらくして目元を拭い、携帯で近くに喫茶店がないか調べた。
十五分ほどして、マップで調べた喫茶店に到着した。店内に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でてきた。外との気温の落差で寒いくらいだった。
「いらっしゃいませ」
カウンターから若い女性の声がした。その声に聞き覚えのあった私は、思わず女性の方を振り返った。そして、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「実里……」
辛うじて喉から絞り出されたか細い声が出た。
凝視していると、店員さんである女性が怪訝そうに私に視線を向けた。
「お客様?」
ありえない。ここに実里がいるなんてありえない。だって、実里は……。
「あの、大丈夫ですか?」
「……へ?」
店員さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。その顔は、間違いなく高校時代の親友だった実里のもので間違いなかった。
私は思わず仰け反り、店員さんから数歩後退った。
「あ、えっと……」
気まずさから視線を彷徨わせていると、店員さんの胸元にある名札が目に入った。
「……篠塚?」
「あ、はい。篠塚と申します」
実里の苗字は、沖島だったはず。つまり、今私の目の前にいるこの人は、偶然にも実里の顔にそっくりなだけ? いや、そっくりなんてレベルじゃない。もはやドッペルゲンガーとしか思えなかった。
「お客様、具合が悪かったりしますか?」
「……え、あ、いえ。大丈夫です。普通のお客です」
「……ふふっ、そうでしたか。では、お好きな席にどうぞ」
顔に親しみがあるだけの見ず知らずの人に笑われてしまったことで突然恥ずかしさが込み上げてきた。頭を下げて謝罪し、私はそそくさとガラス張りの壁に面した二人掛けの席に座った。
蒸気した顔を冷ましていると、先ほどの店員さんがお冷を持ってきてくれた。やっぱり、実里に似ている。店員さんは恭しく頭を下げた後、
「ご注文が決まりましたら、そちらのベルでお呼びください」
と私に微笑みかけてきた。それから頭を下げると、店員さんはカウンターの方へと戻って行った。確かに見た目は実里にそっくりだけれど、所作は上品で元気溌剌な性格だった実里とは似ても似つかない。
あの店員さんが気掛かりではあったけれど、一先ずメニューを開くことにした。
「……これって」
メニュー表に載せられたある品に目を奪われた。
「抹茶パンケーキ……」
そう呟いて、もう一度店員さんの方を振り返った。厨房に入ったのか、カウンターには姿がなかった。
もう一度メニュー表に視線を落とすと、実里との思い出が蘇った。
「やっぱ静香って教え方分かりやすいね!」
実里の家で定期テストの勉強をしていると、実里が満面の笑顔を浮かべた。
「そんなことないよ。それに、教えられるのは英語だけだから」
「いやぁ、英語できるの羨ましいなぁ。他の科目はできるけど、どうしても英語だけはねぇ。ほんと、アイアムジャパニーズなのになんで英語なんて勉強しなきゃいけないんだよぉ」
実里が頬を膨らませながらテーブルに突っ伏した。
「共通語だから仕方ないよ」
私の言葉に唸りながら、実里が上目遣いで顔を上げた。
「静香が先生だったらいいのにな」
「え?」
「中学の時、英語の先生と折り合いが悪くてさぁ。おまけに説明もちんぷんかんぷんだったから、余計に英語アレルギーが酷くなったんだよね」
「……そういえば、私は中学の時の英語の先生、好きだったな」
「やっぱ、先生との相性って大事だよね! あと教え方も!」
思い出して腹が立ったのか、実里が不機嫌そうに唇を尖らせた。
「そうだね」
私が笑いながらそう言うと、実里が「あっ!」と思い出したように突然立ち上がった。
「十五時だ! 三時のおやつ作るね!」
実里はそう言い残してドタバタと部屋から出て行った。
実里の家にお邪魔したときはいつもお菓子やデザートを作ってくれる。私は女子力がなくて料理もまともに作れないけど、実里が作った料理には何回も舌を巻いてきた。素人目で見ても、実里の腕は確かだと分かる。
私はいつも通り、実里が作ってくれるおやつを楽しみにしながら一人で勉強を続けた。しばらくして、実里が部屋に焼き立てのパンケーキを運んできてくれた。
「わ、美味しそう。緑色のパンケーキって珍しいね」
「前に静香が抹茶が好きだって言ってたから、混ぜてみたんだ」
「……覚えてくれてたんだ」
「もっちろん! 喫茶店をオープンしたとき、静香の好きなメニューは絶対に入れるって決めてるんだ! 喫茶店を開いたら食べてもらうね!」
実里の言葉に、自分の顔が綻ぶのが分かった。
実里は高校を卒業したら、専門学校に通って料理の腕を磨くつもりらしい。そして、卒業した後は自分で喫茶店を開くのが夢なのだそう。
「あ、飲み物持ってくるの忘れてた。ちょっと待ってて」
実里は再びドタバタと部屋を飛び出した。一階のキッチンから、ミキサーで何かを混ぜる音が聞こえてきた。それから実里は部屋に戻って来た。
「はい、静香の好きなバナナジュース」
実里がテーブルの上にバナナジュースの入ったコップを二つ並べた。
「いつもありがとう。わざわざ私の好きなものに合わせてくれて」
「私もバナナジュース好きだよ! 流石に毎朝飲む静香には負けるけど」
実里がニヤリとした。
私は恥ずかしくなって咳払いを一つした。
「いただきます」
「どうぞ」
そのときに食べた抹茶のパンケーキは、人生で食べたどのパンケーキよりも美味しかった。
「……これ、すっごく美味しい」
「えへへ、でしょ? 初めて挑戦したけど、我ながら中々の力作」
「もし実里が夢を叶えたら、食べに行くね」
「うん! 一番に静香を招待するよ!」
「ありがとう」
あまりの美味しさに黙々と食べ続けていると、普段は見せない神妙な面持ちで、実里が私を見つめてきた。
「どうしたの? 私の顔に何かついてる?」
「……えっ。あ、えっと」
物をはっきりと言う性格の実里にしては珍しく、もじもじとしながら実里は私に訊いた。
「静香って、将来の夢とかあるの?」
「……え?」
「ほら、私は静香に夢の話いっぱいするけど、思い出してみれば静香からはそういう話聞いたことないなーって」
「……あー。私は実里と違って明確に夢が決まってないね」
「そ、そっか」
「でも、実里のおかげでちょっと興味を持ったことならあるかも」
「えっ! なになに?」
実里が目を輝かせながら私の方へ身を乗り出してきた。純度百パーセントの笑顔で私の回答を待ち侘びる実里に、大層なことでもないのに思わせぶりに発言してしまったことに照れ臭くなった。けれど、私は勇気を出して実里に言った。
「先生っていいかも……と思ってみたり」
私の答えが意外だったのか、実里は目を丸くした。社交性のない私が口にしていいような職業ではなかったと後から正気が身体を駆け巡って顔が熱くなってきた。
「や、やっぱり聞かなかったことに」
「すっごくいいじゃん!」
「……え」
「実里、教え方上手だし、優しいし、絶対向いてるよ!」
そのときの実里の笑顔は、生涯忘れることはないと思う。
結局、大学で教職課程を踏んだものの、直接子どもたちの入試の合否に携わる塾講師になる道を選んだ。先生になった話を実里に聞かせたかった。実里から夢を叶えた話を聞きたかった。一緒にお酒を飲んで、これからについて語り合いたかった。
高校を卒業した実里は専門学校に通い始めて半年してから、交通事故で亡くなった。
滲んだ視界を拭って、私はベルを押した。店員さんはすぐにやって来てくれた。
「ご注文をお伺いします」
笑顔を向けてくれる店員さんの顔は、やっぱり実里にしか見えない。
「この、抹茶パンケーキを一つ」
「抹茶パンケーキがおひとつですね」
「それと、バナナジュースが一つ」
私がメニュー表を指さすと、店員さんが静かになった。見上げると、神妙な表情で私のことを見ていた。
「……あの」
気まずくなって声を掛けようとすると、店員さんはハッとした様子で頭を下げた。
「すみません。その二つを頼む人が珍しくて」
「……子どもっぽすぎましたかね」
「いえいえ! 私も、その二つがお気に入りのメニューなんです」
上品な笑顔でそう言うと、店員さんは「すぐにお持ちしますね」と厨房に戻って行った。
なんだか狐につままれた気分で店員さんを見送った後、私は携帯を取り出して英語について気になったことを調べた。自分では分かったつもりになっていただけで、まだまだ掘り下げが足りていなかった。他の単元にも、私の理解が及んでいない箇所があるだろう。入社してからある程度時間が経ったからといって慢心していた部分があったと思う。いずれ異動があって上位クラスが設置された教場に配属されたときでもしっかりとした指導ができるように日々研鑽していかないといけない。
「そうだ。デザートを食べた感想を三十語以上で書く英作文を生徒に出してみてもいいかも」
携帯に思いついた内容をメモして過ごしていると、店員さんが注文した品を給仕してくれた。確かに店内は混んでいないけれど、思った以上に早くてびっくりした。
「ごゆっくりどうぞ」
店員さんに頭を下げてから、私はテーブルの上に置かれた抹茶のパンケーキを見下ろした。なんとなく、懐かしい気持ちになった。
「いただきます」
抹茶のパンケーキの欠片をフォークで一口含んだ。
「……美味しい」
実里が作ってくれた抹茶のパンケーキと似ていて、私が好きな濃い味だった。仄かな苦味もあって、波打ち際で押し寄せてくる波みたいに舌の上が抹茶の味で広がっていく。それから、バナナジュースを一口飲んだ。疲れていた心身に抹茶の苦味とバナナの甘さが染み渡る。
無我夢中で何度もパンケーキを口に運んだ。あまりに夢中だったからか、側まで来ていた店員さんに声を掛けられるまでその存在に気づいていなかった。
「お客様、大丈夫ですか?」
見上げると、店員さんが心配そうにハンカチをこちらに差し出していた。
「……え?」
「なにか悲しいことでもありましたか?」
店員さんの質問の意図が分からず、私は自分の顔を確認するためにガラスの方を振り返った。
「……あれ? どうして」
ガラスに映った自分の顔が、幼い子どもみたいに表情を崩して涙を流していた。
「よかったら使ってください」
「……すみません。ありがとうございます」
店員さんからハンカチを受け取って、涙を拭った。
「洗って返します」
「お客様に差し上げます」
「いえ、そんな……」
「…………あの、お客様」
「なんでしょう」
「他のお客様がいらっしゃらないのでお訊ねしたいのですが」
店員さんの言葉を受けて店内を見渡すと、確かに先ほどまでいたお客さんはすでに帰ったらしく、この場には私と店員さんの二人しかいなかった。
「沖島実里、という名前に身に覚えはありますか?」
思ってもみなかった質問に、私は固まってしまった。真剣な表情で私を見つめる店員さんになにも答えられないでいると、店員さんは狼狽えるように頭を下げた。
「すみません、人違いだったみたいです」
「……あっ、すみません。びっくりしただけで。実里のことは知っています。やっぱり、あなたは実里と関係があるんですね」
私がそう言うと、店員さんは目を見開いた。
「あ、あなたが!」
突然身を乗り出してきた店員さんが私の手を握ってきた。その姿が、実里と重なって見えた。
「あ、ご、ごめんなさい。私ったら、つい」
「あ、いえいえ。あの、もしかして、私のことを知ってるんですか?」
「はい。実は、実里は双子の姉なんです」
「……えっ。ええええ!」
姿が似ているとは思っていたけれど、まさか血縁関係にあるとは思ってもみなかった。ていうか、実里から双子の妹がいるなんて話、聞いたこともなかった。
「あなたは、平塚静香さんですよね?」
「……はい、そうです。どうして私の名前を?」
「実里からは静香さんの話をいつも聞いていました。人生で一番の親友ができたって。この喫茶店に来店されてバナナジュースと抹茶パンケーキを同時に頼む女性がいたら、毎回顔を凝視してしまうんです。もしかしたら、静香さんかもしれないって。先ほどは不躾に顔をまじまじと見てしまってすみませんでした」
「……私の好みも実里から聞いていたんですね」
店員さんは口元に手を当てながら控えめに笑った。その様子を見て耳まで熱くなるのが分かった。
「実里が喫茶店を開きたがっていたのは知っているかと思います。実は、私たち二人で喫茶店を経営しようと思っていたんです。お客様として来店した静香さんを驚かせるために、実里は私の存在を隠し続けていました」
「……実里らしいですね」
「静香さんが頼んだその二つのメニューは、姉の希望で実現したものです」
その言葉に、私は食べかけの抹茶のパンケーキとバナナジュースに視線を向けた。
「一生懸命パンケーキを食べながら涙を流す姿を見て、直観的に静香さんだって思ったんです」
店員さん……篠塚さんが目尻に滲んだ涙を拭いながら言った。
「あの、実里と苗字が違いますよね?」
「実は、両親が離婚していまして。実里は父に、私は母について行くことにしました」
そういえば、実里は父子家庭だった。
「母の方は再婚して、今の父の苗字に変わりました。それに伴って、私も」
「そういうことだったんですね」
「実里とは仲が良かったんですけど、両親のことはどちらも大好きだったので、二人で話し合ってそれぞれ離れて暮らすことにしたんです。これが中学三年生のときの話です」
全然、知らなかった。実里とは高校時代に出会った。思い返してみれば、実里から昔の話を聞くことはほとんどなかった。実里はずっと、将来のことについて話をしていた印象がある。もしかすると、暗い話が嫌いだった実里は、あえて私には話さないようにしていたのかもしれない。
「離れて暮らしながらも、私と実里は連絡を取り合っていました。その日学校でなにがあったとか、そういう些細なことまで。そうやって連絡を取り合う中で、実里から静香さんの存在を教えてもらいました」
「そう、だったんですね」
「いつもはメッセージでのやり取りだったんですが、実里がはしゃいで電話を掛けてきたときがあって。静香さんにも夢ができた、って」
あの日、目を輝かせながら私の夢を応援してくれた実里の姿が思い出された。不覚にも、また涙が出てきてしまった。
「すみません」
「いいえ」
ハンカチで私が涙を拭うのを、篠塚さんが穏やかな表情で見守ってくれた。
「実里がきっかけなんです」
「……え?」
「実里と勉強したとき、嬉しそうに私の説明を聞いてくれたから、私は誰かにものを教えることに興味を持ったんです」
「……そうでしたか。静香さんにそう言ってもらえた実里は、きっと天国で喜んでいると思います」
「想像できますね」
私と篠塚さんは、お互いに顔を見合わせて笑った。
お会計を済ませると、篠塚さんがお店の外まで見送ってくれた。
「お仕事、頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。篠塚さんも」
「はい」
「また、来ますね。実里の夢を叶えたこの喫茶店で元気をもらいに。くじけそうになったときに、実里に背中を押してもらおうと思います」
「ぜひ、お待ちしています」
「実里の話、また聞かせてください」
私の言葉に、篠塚さんは深々と頭を下げた。私は会釈をしてから喫茶店を後にした。
最寄り駅までの道中、教場の前を通った。すると、教場の入口で誰かに声を掛けられた。
「平塚先生!」
聞き覚えのある声に振り返ると、私の授業を褒めてくれたショートカットの女の子がこちらに手を振っていた。そして、その隣には腕を組んで私から顔を背けた東屋くんの姿があった。内心、げっ、と思ってしまった。
「ほら、ちゃんと自分で言いなよ」
ショートカットの女の子が東屋くんの背中を押した。東屋くんはバランスを崩して私の方へとよろけた。東屋くんは振り返って女の子を睨むと、諦めたようにこちらに向き直って頭を下げた。
「さっきは嫌な言い方してすみませんでした」
「……え?」
東屋くんの謝罪に思わず拍子抜けした声を上げた。
「挑発するような口の利き方をしました」
「あ、あぁ。それは全然いいんだけど、ずっとここで待ってたの?」
「今は休み時間なので」
「でも、教場内にいないから帰ったとか思わなかったの?」
「東屋くん、先生が教場を出た後に駅とは反対方向に向かって歩いて行くのが窓から見えたらしいんです」
「……今日は電車で来たっていう話を授業中にしてたので、ここで待っていれば戻って来るかもしれないと思って。タクシーで帰る可能性もありましたけど」
「それで、わざわざ謝るためにここで待ってたの?」
私が訊くと、東屋くんは照れ臭そうに頷いた。
「ちゃんと、授業聞いてくれてたんだね。ありがとう」
「大体の先生は嫌な言い方したらむくれるけど、平塚先生は傷ついてるように見えて言い過ぎたって思った」
「そっか。東屋くんは良い子だね。ちゃんと謝ってくれてありがとう。もう気にしてないよ。あ、そうだ。さっきの東屋くんの質問なんだけど」
「え?」
「ほら、haveの後ろに過去分詞がくる理由ってやつ」
「……あぁ」
「東屋くんは語順の変化が起きたからって言ったよね?」
「はい」
「そもそもどうして語順の変化が起きたのかは知ってる?」
「……いいえ」
東屋くんは首を横に振った。
「昔は名詞や代名詞の格の数が今よりも多かった。だから、語順は今よりも自由に調整することができた。でも、格の数が減ったことで、SVOみたいに語順をある程度固定しないと文法が破綻するようになったみたい」
「……なるほど」
「質問に答えられなかったのが悔しくて調べちゃった」
「気にしてないって言ったのに」
「ふふ、大人の見栄を張っちゃった」
私が笑うと、東屋くんは意を決したように口を開いた。
「一番好きなのは八戸先生の授業ですが、一番わかりやすいのは平塚先生でした。その、元々英語が苦手だったんで」
顔を赤くしながらそう言った東屋くんに、女の子が肘で小突いて「やるね」と笑った。人は見かけによらない関係性を持っているみたいだった。
「夏期講習の間、よろしくね」
私がそう言うと、二人は揃って頷いてくれた。
二人の笑顔が、実里の笑顔と重なって見えた気がした。

