月と天秤の死律(オーダー)

 あの夜のことを、私は長い間、夢だったのだと思っていた。

 覚えているのは、月と、銀髪の少年と、夜空いっぱいに咲いた光の花。それから、耳の奥で鳴った鈴の音。
 その先の記憶だけが、どうしても思い出せない。
 両親の腕の中で目を覚ました私は、どうやってあの路地を出たのか、自分でも説明することができなかった。幼い頃は、それがずっと不思議だった。

 それでも日々は過ぎていく。
 学校へ通い、友人ができ、楽しいことが増えていけば、子どもの頃の不思議な記憶なんて、案外簡単に日常へ埋もれてしまう。
 大人になった頃には、あの夜のことも、昔読んだおとぎ話の一場面みたいに遠くなっていた。

 ――あの夜と同じ色を、もう一度見るまでは。


「ミカなら、うまくまとめられるだろ」

 終業を告げる(かね)まで、あと五分。本当に、あと五分だった。

 帰り支度を始めていた私の机へ、カエルム商会の商会主ローデンが分厚い書類の束を置いた。どさり、と重たい音を立てて積み上がった契約書の一番上には、黄色い札が貼られている。
 そこには赤い文字で、『明朝(みょうちょう)、第一(しょう)まで』と書かれていた。

東側浮遊港(ひがしがわふゆうこう)との荷受け契約ですか?」
「ああ。先方が土壇場(どたんば)で条件を変えてきた。今夜中に整理しておいてくれ」
「……ずいぶん、ありますね」
「ミカなら早いだろ?」

 疑問形ではあったけれど、どうやら私の返事を待つつもりはないらしい。もっとも、こういうことは今に始まった話ではなかった。
 ローデンを囲む光は、こちらへ身を預けるようにゆったりと広がっていた。ただ、その縁にだけ、薄い灰色が小さく滲《にじ》んでいる。

「あー……」
 私は黄色い札を指先で持ち上げ、もう一度そこに書かれた文字を眺めた。
 明朝、第一(しょう)まで。
 今から始めれば、おそらく終わる。ただし、帰れる頃には日付が変わっているかもしれない。

 黙って考え込んでいると、ローデンを包んでいた黄緑色の端がわずかに濁り、さっきまで緩やかだった光が小刻みに揺れ始めた。
 その変化を見た瞬間、口は考えるより先に、いつもの答えを選んでいた。
「承知しました」
 書類へ一度だけ視線を落とし、それから顔を上げて笑う。
 すると、ローデンの周囲が柔らかなオレンジ色へ変わり、ふわりと広がった。同時に耳の奥で、金庫の鍵が閉まるときのような小さな金属音が鳴る。
 ——かちり、と。
 誰かへ責任を預け終えた人間は、ときどき、こんな音を鳴らす。
「悪いな。助かるよ」
「お任せください」
 私が笑えば、ローデンも満足そうに笑った。そのまま軽い足取りで自分の席へ戻っていく後ろ姿を見送りながら、私は胸の奥の重さを吐き出すように、小さく息をついた。

 私はカエルム商会で、交易に関わる契約や交渉を担当している。

 仕入れ値を決め、浮遊港(ふゆうこう)へ届く荷物を確認し、取引先の商会と条件を()り合わせる。売る者と買う者、それぞれが求めるものの間に立ち、双方が納得できる落としどころを探すのが私の仕事だった。

 人の感情を色と音で感じ取れる私の力は、この世界では恩寵(おんちょう)と呼ばれている。

 炎を自在に扱う者もいれば、触れた物に残った記憶を夢として見る者や、遠く離れた音まで拾う者もいる。何のために、なぜそんな力が人間へ与えられたのかについては古くからさまざまな説があるらしい。けれど、少なくともカエルム商会では、その由来を気にする者などほとんどいなかった。

 大切なのは、仕事に使えるかどうか。その点で言えば、私の恩寵(おんちょう)は交渉という仕事と相性がよかった。

 相手がどんな答えを期待しているのか、こちらがどこまで条件を譲れば満足するのか。あと一言踏み込めば席を立ってしまうのか。もちろん、心そのものが読めるわけではない。それでも色や音を見ていれば、そのくらいのことなら何となく察することができる。

『分かりました』
『大丈夫です』
『こちらで何とかします』

 相手の色を見ながら、その三つを使い分けていれば、大抵のことは丸く収まった。
 取引先は怒らないし、商会主は困らないし、同僚たちからも頼りにされる。

 誰も不機嫌にはならない。
 ――そう、私以外は。
 相手が望む答えを先回りし、その期待に沿う言葉を選ぶ。そんなことを繰り返しているうちに、自分が本当は何を望んでいるのかだけが、いつからか分からなくなっていた。

「ミカさん、お先に」
 声をかけられて顔を上げると、仲間たちはもう帰り支度を終えていた。
「お疲れさまです」
「また、ローデンに頼まれたの?」
 一人が私の机に積み上げられた契約書を見て、(あき)れたように苦笑する。
「まあ……いつものことなので」
「それ、いつものことで済ませていい量じゃないと思うけど」
「大丈夫ですよ」
 そう答えると、彼女の周囲に浮かんでいた心配の緑色が、少しだけ薄くなった。
「そういえば、まだ例の盗賊(シーフ)、捕まってないらしいよ」
 もう一人が、思い出したように声を落とした。
「西側の住宅区に出るっていう?」
「それ。昨日は中央水路の近くにも出たって。夜警隊(やけいたい)が巡回を増やしてるみたい」
「ミカも遅くなるなら、大通りで帰りなよ」
「はい。気をつけます」
 二人を見送ってから、私は窓の向こうへ目を向けた。

 夕日が、冠都(かんと)アルシエラを囲む雲海(うんかい)へゆっくりと沈もうとしていた。商会の向かいには、上半分の崩れた古い石塔が一本だけ残されている。その表面には、片方の翼を失った人のようなものが彫られている。

 顔も長い年月で削られ、誰を(かたど)ったものなのか、今となっては知る者もいない。アルシエラには、ああした古い遺跡が街のあちこちへ当たり前のように残っていた。
 子どもの頃なら、きっと足を止めて見上げていただろう。
 けれど、毎日目にしていれば、それもいつしか景色の一部になる。
 私は窓から目を離すと、机の上に残された書類へ視線を戻した。

 やがて室内の魔灯(まとう)が一つ、また一つと消えていき、最後には私の机の上だけに明かりが残った。


 カエルム商会を出た頃には、街の(かね)が日付の変わる刻を告げようとしていた。乗合馬車の最終便は、とっくに終わっている。
「……まあ、そうですよね」
 誰に言うでもなく呟き、鞄を抱え直した。

 昼間なら商人や荷車で埋め尽くされている中央大路も、この時刻になると驚くほど広く感じられる。建物の隙間から見える雲海(うんかい)は、月明かりを受けて白く流れ、まるで昼間とは別の街を歩いているようだった。

 本当なら、同僚に言われたとおり大通りを使って帰るつもりだった。けれど中央水路へ続く橋の一部が崩れ、夜警隊(やけいたい)によって道が封鎖されている。

 迂回して別の大通りへ出ることもできたけれど、それでは家へ着くのがさらに遅くなってしまう。少し迷った末、私は住宅区を横切る細い道へ入った。

 燐灯(りんとう)の数が少なくなり、建物と建物の間に闇が増えていく。 古いい石造りのアーチをくぐると、湿った風が頬を撫でた。
 雨が近いのか、空気にはわずかに水の匂いが混じっている。

「……疲れた」
 (こぼ)れた声は、自分で思っていたより弱かった。
 このまま家へ帰って、少し眠って、朝になったらまた商会へ行く。
 ローデンが安心する答えを言って。
 取引先の機嫌を損ねない言葉を選んで。
 誰かの色を見て。誰かの音を聞く。
 明日も、その次の日も。
 (――私は、いつまでこうするんだろう)
 不意に浮かんだ疑問に、自分で答えることはできなかった。
 人が何を望んでいるのかなら、色を見れば分かる。
 なのに、自分が何を望んでいるのかだけは、どうしてこんなにも分からないのだろう。
 答えを探そうとした、そのときだった。
「動くな」
 背後から、低い男の声がした。同時に、背中へ硬く尖ったものが押し当てられる。
「騒ぐな。金を出せ」
 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。

 最近この一帯で、深夜の通行人を狙った強盗が続いていることは知っていた。つい数時間前にも同僚たちから気をつけるよう言われたばかりだった。

 それなのに、実際に自分の背中へ刃を当てられると、知識なんて何の役にも立たない。心臓だけが嫌なくらい速く脈打つ。
「聞こえなかったのか」
「……聞こえています」
「なら早くしろ」
 男の周囲で、濁った黄色が激しく明滅していた。焦りや恐怖に追い詰められた人の色。この人自身も何かに怯えている。
 そんなことまで分かるのに、自分の指先は震えていた。
 逃げなければならない。助けを呼ばなければ。

 そう思うほど身体は強張っていき、思うように動いてくれない。それどころか、こんな状況で頭へ浮かんだのは、明朝までに提出しなければならない契約書のことだった。
 もし怪我をすれば、商会へ報告しなければならない。取引先にも事情を説明し、また相手の色を見ながら、機嫌を損ねない言葉を探して――。

(……こんなときまで)

 自分でも呆れてしまう。

(……もういっそ、このまま――)

 そう思った瞬間だった。
 街から、すべての音が消えた。
 
「……え?」
 遠くを走る馬車の車輪音も、家々の向こうから漏れていた話し声も、どこかで鳴いていた夜鳥《やちょう》の鳴き声すらも聞こえない。この路地だけがアルシエラから切り離され、世界の外へ置き去りにされたみたいだった。

 聞こえるのは、自分の呼吸と背後にいる男の荒い息遣いだけ。
 その静けさを、私は知っていた。
 どこで――と考えた直後、暗がりの向こうに漂う一つの色へ目が止まる。
 灰色へ、ほんの少し青を落としたような色。
 冷たく澄んでいるのに、見ているとどこか寂しくなる。
 胸の奥が、ひどく懐かしい痛み方をした。
 ――あの夜と同じ色だ。
 雲の切れ間から月が覗き、細い路地へ白い光を落とす。
 その月明かりの中に、一人の少年が立っていた。

 足元まで届く黒いローブに、月光を溶かしたような銀色の髪。深海を思わせるコバルトブルーの瞳。そして、その手には三日月のように大きく湾曲した鎌が握られている。

 息が止まった。
 見間違えるはずがない。
 ――あの夜の少年だ。
 ずっと昔、祝祭の夜に迷い込んだ路地で見た。
 いつしか夢だったのだと思うようになっていた、あの銀髪の少年。

「な、なんだ……お前」
 背後の男が声を震わせた。
 背中から刃が離れたかと思うと、男は私を乱暴に押しのけ、少年へ向き直る。
「来るな……!」
 男の身体から濁った黄色が噴き出し、耳の奥で甲高い警報音が鳴る。逃げ場を失った人間の恐怖の音だった。

 それを向けられても、少年は表情一つ変えない。ただ鎌の石突きを石畳へ落とすと、硬質な音が静まり返った路地へ一度だけ響いた。

死亡予定時刻(ターミナス)、零刻《れいこく》十三分。執行(リリース) 対象(たいしょう)、識別番号《コード》四七七一」
「何を言って――」

 少年の前へ、一冊の黒い手帳が音もなく浮かび上がった。
 革張りの表紙には、三日月と天秤を組み合わせた銀色の紋章。
 それを見た瞬間、胸の奥がまた小さく疼く。
 黒い手帳は誰も触れていないのに金具を外し、ひとりでにページを開いた。
 青白い文字が浮かび上がる。

死籍照合(クロスチェック)――開始(レシト)

 一拍遅れて、次の文字が灯った。

魂紋(トゥルーネーム)――一致(マッチ)

 そして。

執行許可(クリアランス)――承認(グラント)

「ふざけるな!」

 男が叫び、少年へ向かって駆け出した。
 けれど少年は退かなかった。

「――終焉ノ刻(タイムリミット)だ」

 鎌が振るわれた。
 三日月の刃が月明かりをなぞるような弧を描き、男の胸元を通り抜けた。
 血は流れなかった。
 代わりに、男の身体の中心から淡い光が浮かび上がった。
 ――執行(リリース)。  
 その光を見た瞬間、胸の奥で長いあいだ眠っていた何かが目を覚ました。
 私は、この先を知っている。
 光はもっと高く昇っていく。
 屋根を越え、浮遊船(ふゆうせん)を越え、雲海(うんかい)のさらに上まで駆け上がり――最後には、夜空いっぱいに花を咲かせる。
 あの夜に見たように。
 ――そうなるはずだった。

「……え?」

 真っ直ぐ空へ昇っていた光が、不意に大きく揺れた。
 軌道が突然横へ逸れ、まるで見えない糸に絡め取られたかのように、魂の輪郭が歪んでいく。そこへ、金色の火花が混じった。
 魂は何度も夜空へ昇ろうとした。けれど、そのたびに何かに引き戻される。
 咲こうとしているのに、咲くことを許されていない。

 ――違う。あの夜の花火とは、何かが違う。
 魂の光へ、黄色や群青、赤といったさまざまな色が(にじ)んでいく。けれど、その中に一色だけ、どうしても馴染(なじ)まないものがあった。
 
「待って!」

 考えるより先に声が出た。
 少年の鎌が止まり、深い青の瞳が初めてこちらを向いた。

「その人、おかしいです」
「……何?」
「金色だけ、その人のものじゃない」

 少年の目が鋭く細められた。
 直後、散りかけていた魂が激しく歪む。半透明の表面へ黒い筋が浮かび、 それらが互いに(つな)がりながら、一つの紋章を形作っていく。

 三日月と天秤。
 先ほど黒い手帳で見たものによく似ていた。
 ただし――上下が逆だった。

「これは、死印(スティグマ)……なのか?」

 少年の顔から、初めて平静さが消えた。

 次の瞬間、魂が弾けた。
 少年がすぐに鎌を振るったが、間に合わなかった。

 散った欠片は暗い空の奥へ吸い込まれ、残された男の身体だけが石畳へ崩れ落ちた。
 しばらく少年は何も言わず、光の消えた空を見上げていた。彼を包むグレーブルーの光の奥へ、それまでにはなかった鋭い警戒が走っている。

「……今の、何だったんですか」

 返事はない。
 やがて少年は空から私へ視線を戻した。

「あんた」
「はい?」
「今のが見えたのか」
「見えましたけど……」
 少年は何かを考えるように眉を寄せた。
 私は今さらながら、彼の巨大な鎌と、足元に倒れている男と、空中に浮かんだ黒い手帳を順番に見比べる。
「あの……」
「何だ」
「もしかして……死神ですか?」
 少年が無言でこちらを見た。
「今さらそこか」
「本当にいるとは思わないでしょう」
「見えてるだろ」
 そこまで言って、少年の表情が止まった。
 深い青の瞳が、初めて見るものを確かめるように私を見る。
「……お前、俺が見えるのか」

 その言葉を聞いた瞬間。
 胸の奥で、遠い記憶と今が重なった。

 月明かりの路地。
 目の前に立つ銀髪の少年。

『まさか、お前……俺のことが見えるのか?』

そして。

 ——ちりん。

 澄んだ鈴の音が、耳の奥で鳴った。
 あの夜と同じ音だった。
「あなた……」
 私は目の前の少年を見つめた。
「やっぱり、あのときの……」
「あのとき?」
 問い返されて、記憶の続きを探そうとする。
 けれど、どうしてもそこから先へ進むことができない。
 鈴の音を境に、その先だけが綺麗に切り取られたみたいに、何も残っていない。
「……分からない」
「何がだ」
「あの夜、このあと何があったのか」
 少年の目がわずかに細くなった。何かを訊こうとしたようにも見えたけれど、結局、その言葉は口にされなかった。
「あんた、名前は?」
「あの……、人に尋ねるなら、先に名乗るものでは?」
 少しの沈黙が落ちる。
「……エルだ」
「え?」
「俺の名前。で、あんたは?」
「私はミカです。ミカ・セラフィス」
 名乗った瞬間、エルの目が僅かに揺れた。
 けれど理由を尋ねるより早く、彼は黒い手帳を開く。

「ミカ・セラフィス。終天界(エンドヘヴン)・アルシエラ所属。魂紋(トゥルーネーム)、一致……死亡予定日は――」
 
 ページを追っていた指が止まった。

「あの~、どうしました?」
「……なぜだ。今日じゃない」
「それは、いいこと……なん、ですよね?」
「いや、そういう問題じゃない」
 エルの声から、先ほどまでの僅かな軽さが消えた。
終焉ノ刻(タイムリミット)が近い人間や、死籍(クロニクル)執行(リリース) 対象として記された人間は、俺たちを認識することがある」
「はい」
「だが、あんたは違う」

 黒い手帳から顔を上げ、エルが私を見る。

「俺のことが、はっきりと《《見えている》な?」
「……はい」 
「俺から姿を見せたわけでもない。それなのに、俺も、鎌も、執行(リリース) も見えている」
とても面倒くさそうに、エルが眉を寄せた。
「かなり面倒なことになった」
「嬉しくない報告ですね」
「奇遇だな。俺もそう思う」

 そのとき、黒い手帳が突然激しく震えた。

 ページに浮かんでいた青白い文字が一斉に赤く染まり、表紙の三日月と天秤が警告するように明滅し始める。

 それを見たエルは、とても不愉快そうに目を閉じた。

「……ちっ。来たか」

『伝令! 第七執行区所属、贖罪者(センテンス)エル』

 手帳から、硬く澄んだ声が響いた。

『ならびに、終天界(エンドヘヴン)・アルシエラ所属――ミカ・セラフィス』

「え、私もですか?!」

『生者に対する死律(オーダー)の存在、ならびに執行(リリース)露見(ろけん)を確認。両名に死律裁判所(トリビュナル)への出廷を命ずる』

「……トリビュナル?」

 足元へ赤い光が走った。
 細い筋が幾重にも絡み合い、私たちを囲む巨大な三日月と天秤を描いていく。
「あの~、行かないという選択肢は……?」
「あると思うか?」
「無理そうですね」
「当たり前だ。理解が早くて助かる」
「全然嬉しくありません」

 足元から放たれる赤い光が強まり、アルシエラの街並みが、水面越しに眺めているように揺らぎ始めた。

「あの、エルさん」
「何だ」
「私は……どうなるんでしょうか?」

 エルはすぐには答えなかった。

「俺にも分からない」

 その一言で、胸の奥に別の恐怖が生まれた。
 ついさっきまで、明日も同じ仕事へ向かわなければならないことを考えて、あんなに疲れていたはずなのに。その明日が突然なくなるかもしれないと思っただけで、ひどく怖くなった。

 どうしてなのか、自分でもまだうまく説明できない。
 けれど。
 私はまだ、帰りたかった。
|
「掴まれ」
 エルが右手を差し出した。
「え?」
「生者を連れていくのは初めてだ。何が起きるか分からない」
「怖いこと言わないでくださいよ~」
「残念だが、これから行く場所の方がもっと怖い」
 引っ込められる前に、慌ててその手を掴んだ。
 驚くほど冷たい思わず離しそうになった指を、エルが逃がさないように強く握り返した。
 足元の紋章が、(まぶ)しいほどに輝く。

 次の瞬間、街が音もなく裏返った。

 先ほどまで頭上にあった月も、私たちが立っていた狭い路地も、その向こうに広がっていた白い雲海(うんかい)も。
 降り始めた細かな雨さえも、薄い紙を折り畳むように形を失いながら暗闇へ吸い込まれていく。

 身体が浮き上がる感覚に、私は反射的にエルの手を強く握った。
 すると、その冷たい指がもう一度、強く握り返してくる。

死律裁判所(トリビュナル)へ、転送を開始します』

 最後に見えたのは、雨粒の向こうで(にじ)む、アルシエラの月だった。

 ――そして、世界から光が消えた。