月と天秤の死律《オーダー》

 それはまるで、誰も知らないおとぎ話の続きを、こっそり(のぞ)いてしまったかのようだった。

「そうか……。もう、あっちからの(むか)えが来たというわけか」
 おじいさんは、ずいぶん穏やかな声で言った。

 その向かいには、月明かりを背負うようにして、一人の少年が立っている。細い身体を(おお)う黒いローブは足元まで届き、深くかぶったフードの隙間(すきま)から、銀色の髪だけが(のぞ)いていた。
 右手には、その華奢(きゃしゃ)身体(からだ)にはあまりにも不釣り合いな巨大な鎌。長い()の先から伸びた刃は大きく湾曲(わんきょく)し、夜空に浮かぶ三日月によく似ていた。

 遠くでは、まだ祝祭(しゅくさい)が続いていた。笛と太鼓が(かな)でる陽気(ようき)旋律(せんりつ)に、子どもたちのはしゃぐ声。雲海(うんかい)へせり出した中央広場(セントラル・プラザ)には、色とりどりのランタンが浮かび、そのさらに向こうでは、祭りを見物する小型の浮遊船(ふゆうせん)がゆっくりと夜空を横切っていく。
 
 路地を二つ戻れば、きっとあの賑わいへ帰れたはずだった。両親だって、私を探していたはずだ。けれど、幼かった私は動けなかった。
 両親とはぐれ、たまたま迷い込んだ細い路地。積み上げられた木箱の陰から、私はおじいさんと少年の様子を(うかが)っていた。

 『逃げて』と言わなくちゃ。
 あのおじいさんに、『早く逃げて』と教えてあげなくちゃ。

 だって、あの人は大きな鎌を持っている。昔、おとぎ話で聞いたことがあった。黒い服を着て、大きな鎌を持って、人の命を迎えにくる者がいるということを。
 だから、怖い人に決まっている。

 そう思うのに、なぜか声が出なかった。少年が怖かったからではない。
 おじいさんが、あまりにも幸せそうに笑っていたからだ。

「歳をとるのも、あっという間じゃ」
 おじいさんは(しわ)の深い目元を細め、何か懐かしいものを探すように夜空を見上げた。二人を照らすように、大きな月が浮かんでいる。
 この街が雲海(うんかい)の上にあるせいか、その夜の月は、手を伸ばせば届きそうなくらい近くに見えた。
「いろんなことがあったのう」
 おじいさんは、誰に聞かせるでもなく続けた。
「失敗もしたし、喧嘩(けんか)もたくさんしたわい。ああしておけばよかったと、今になって思うことは、そりゃあもう、山ほどあるもんじゃ」
 少年は何も言わず、ただ静かにおじいさんの話に耳を傾けていた。
「でもな」
 おじいさんは少しだけ考えてから、微笑んだ。
「わしの人生も、振り返ってみれば悪くはなかったのう」

 ――悪くない人生。
 幼い私には、その言葉の意味がよく分からなかった。
 失敗したと言ったのに。後悔も山ほどあると言ったのに。
 それなのに、おじいさんはどうしてあんな風に笑えるんだろう。

 私に見えていた色も、その笑顔と同じくらい穏やかだった。
 
 私は昔から、人の感情を『色』と『音』で感じることができた。
 怒っている人の色は赤くなり、火花みたいな音と共に針のように鋭く(とが)っていく。悲しんでいる人の色は青くなり、しとしとと降る雨音と共にどんよりと(にじ)んでいく。不安や焦りを抱えた人の黄色は、落ち着かなく(またた)いて見える。

 けれど、色だけでその人の心がすべて分かるわけではない。同じ赤でも、怒っているときと恥ずかしがっているときでは、形も揺れ方も違う。

 どうしてそんなものが見えたり、聞こえたりするのかは、私にも分からなかった。両親からは、『このことは、周りには言っちゃダメ』とだけ教えられていた。
 だから私は、そういうものなのだと思っていた。

 おじいさんを包んでいたのは、夕暮れによく似た淡いオレンジ色だった。とても温かく、けれどどこか寂しい。
 おばあさまとお別れしたときにも、よく似た色を見たことがあった。幼い私にはそれ以上うまく言葉にできなかったけれど、ただ見ていると、なぜだか泣きたくなった。

 それに対して、少年を包んでいる色はもっと不思議だった。
 灰色も、青も知っている。けれど、こんなふうに混ざり合った色は見たことがなかった。
 まるで、今にも雪が降り出しそうな冬空のような、淡い灰色にほんの少しだけ青を落としたグレーブルーの光を(まと)っている。どこまでも()んでいるのに、どこか寂しい。
 私は、その色から目を離せなかった。
「そうか」
 少年が、ようやく口を開いた。想像していたよりも若い声だった。私よりはずっと年上だけれど、大人の声には聞こえない。
 おじいさんは、そんな少年へ優しく笑いかけた。
「わしも苦労したが、お前さんも苦労が多いのう」
「……何がだ」
「こうやって、ずっと見送ってきたんじゃろう」
「……」
「あと何回残っとるのか知らんが……お前さんは、まだまだ若いのにのう」
 少年は、何も答えなかった。
 だけど、ほんの少しだけ、彼を包んでいたグレーブルーの光が揺れた。

 ――ばたん。

 微かに、扉を閉じたような音がした。
「……?」
 私は思わず辺りを見回した。
 けれど、路地にはそれらしい扉など見当たらない。
 もう一度少年を見ると、彼は何事もなかったように両手で鎌の()を握り直していた。

 その瞬間だった。
 周囲からすべての音が消えた。
 路地を抜けていた風がふっと止み、遠くで(かな)でられていた笛や太鼓の音も、笑い声も何もかもが、一瞬にして私のまわりから消えた。
 ついさっきまで、同じ街の中にいたはずなのに。この細い路地だけが、世界から切り取られてしまったようだった。

 少年が、自分の背丈より大きな鎌を軽々と持ち上げる。巨大な三日月の刃が、月明かりを受けて白く光った。
「――終焉ノ刻(タイムリミット)だ」
 少年が鎌を振り下ろすと同時に、おじいさんは静かに目を閉じた。三日月の刃は月光をなぞるような弧を描き、その胸元を通り抜けた。
 私は思わず目を閉じかけた。

 けれど、血は流れなかった。
 代わりに、おじいさんの胸元から小さな光がひとつ、ふわりと浮かび上がった。
「……!?」
 またひとつ、さらにひとつ。
 蛍のような淡い光が老人の身体から(こぼ)れ、おじいさんの周囲をゆっくりと巡り始める。
 
 その光のひとつに、湯気の立つ食卓が映し出された。
 若い頃らしいおじいさんが、大勢の人と笑っている。
 喧嘩(けんか)をして、背中を向けた二人。
 それでも次の日には、同じ食卓に座っている二人。
 泣きながら、手を握り合う二人。
 一人で歩いた、長い夜道。
 知らない風景が、光の中に浮かんでは消えていく。
 おじいさんは驚くこともなく、それらをじっと見つめていた。
 どれも私の知らない人たちで、知らない場所だった。
 私とは何の関係もないはずなのに、胸の奥がきゅっと痛んだ。
 ――これは、このおじいさんが生きてきた時間なんだ。
 なぜか、そう思った。
 
 やがて、いくつもの光が重なり、一つの大きな光になった。それがおじいさんの身体から離れていく。
 最後まで、おじいさんは笑っていた。

 次の瞬間、光は弾かれたように夜空へ駆け上がった。つられるように顔をあげると、街を囲む雲海(うんかい)よりも、建物の屋根よりも、浮遊船(ふゆうせん)よりも高く昇っていく。
 月へ向かうように、真っ直ぐに。

 私は木箱の陰から身を乗り出し、その行方を追った。
 浮かぶ大地よりさらに高く、その先で――。

 ――ドン。

 夜空に、光の花が咲いた。
「きれい……」
 思わず、声がこぼれていた。
 夜空いっぱいに、大輪の花が咲いている。
 赤、青、橙、白。
 (いく)つもの色が重なり合い、お腹の奥まで震わせる重低音とともに、夜空いっぱいに広がっていく。
 祝祭(しゅくさい)の夜に打ち上げられる花火に似ていた。
 けれど、中央広場(セントラル・プラザ)で見上げたものとは、まるで違っていた。
 散っていく一つひとつの光の中に、さっき見えた風景が混ざっていた。
 誰かを好きだった時間。誰かに大切にされた時間。何でもない一日の光景。
 それらが夜空へ咲いては消えてゆく。
 
 気づけば、私は笑っていた。
 死ぬということが何なのか、その頃の私には分からなかった。
 ただ、あの光を見ていると、何もかもがなくなってしまうわけではないような気がした。
 最後の光が、ゆっくりと夜へ溶けていった。
 名残惜しくて、私はしばらく夜空を見上げていた。

 ふと視線を下ろすと、銀髪の少年もまた夜空を見上げていた。花火を見送る観客のように、その魂の行方を見つめている。
 けれど、その横顔に喜びはない。かといって、悲しんでいるようにも見えなかった。

 同じ光景を、これまで何度も、何度も見送ってきた人。
 幼い私には、そんなふうに見えた。

 その姿は、英雄(ヒーロー)と呼ぶにはあまりにも冷たく。
 悪鬼(あっき)と呼ぶには、少しだけ寂しそうだった。

 けれど、気がつけば私は、夜空に咲いた花よりも少年の横顔を見つめていた。

 その視線に気づいたのか、少年がこちらを振り返る。
「…………」
 深海のようなコバルトブルーの瞳と、目が合った。
 それまで人形のように動かなかった少年の表情が、初めて大きく揺らいだ。同時に、彼を(まと)うグレーブルーの光も乱れる。
 別の色が、一瞬だけ差し込んだ。あまりに早くて、それが何色だったのかまでは分からない。

 ただ一つだけ。
 彼が驚いていることだけは、幼い私にも分かった。

 私は慌てて木箱の陰へ隠れようとした。
 だけど、もう遅かった。
 少年は、間違いなく私を見ている。
「お前……どうして」
 銀髪の少年は呟きながら、一歩こちらへ近づいてくる。
 静まり返った路地に、その足音だけが響いた。
 月明かりの中へ踏み出したことで、その姿が鮮明になる。

 月光を溶かしたような銀髪に、吸い込まれそうなコバルトブルーの瞳。
 すっと通った鼻筋、透き通るほど白い肌。
 この世のものとは思えないほど綺麗(きれい)な顔立ちだった。
 それなのに、その表情だけは――。
 子どもの私にも分かるくらい、ひどく疲れていた。
「まさか、お前……俺のことが見えるのか?」
 その声が届いた、まさにその時だった。
 
 ――ちりん。
 
 澄んだ鈴の音が、耳の奥で鳴った。
「……?」
 どこから聞こえたのか分からない。広場から流れてくる祝祭の音ではない。目の前の少年が鳴らしたわけでもなかった。
 それに、いつも聞こえる『誰かの心が動いたときの音』とも違う。
 その音だけが真っ直ぐ胸の奥まで届き、ずっと眠っていた何かに、そっと触れたような気がした。
 初めて聞くはずなのに、ずっと昔から知っていたような。
 そんな、不思議な音だった。
 少年もまた、目を見開いていた。
 私ではなく。
 私の中にある、何かを見るように。

 そして――今でも、どうしても忘れられない光景がある。
 少年の肩越し、月明かりさえ届かない路地の奥。
 誰かがこちらを見つめているような気配がした。
その直後、暗闇のなかで、一度だけ金色の光が瞬いた。
 ほんの一瞬のことだった。あの頃の私は、それを魂の花火の残り火だと思っていた。だから、怖いとは感じなかった。

 あの金色が何だったのかを、私はまだ知らない。

 あの夜、私が見ていたものだけが全てではなかったことも。
 月の下で鎌を持っていたあの少年と、もう一度出会うことになるということも。
 何ひとつ、知らなかった。

 ただ、どういうわけか――。
 あの鈴の音を聞いた、その先の記憶だけが、私の頭から綺麗(きれい)に抜け落ちていた。

 次に気づいたときには、私は両親の腕の中にいた。