恋じゃないふりをして

 数日、隼人の席は空席だった。
 ひよりは誰もいない席をぼうっと見て、スマホの画面に目を落とす。
 
【ひより】:大丈夫?

 2日前に送ったメッセージに、既読すらつかない。
 何度もまた送ろうとしてはやめてを繰り返し、そのたびに溜息をついている。
 
「ひよりん、大丈夫かな?」

心配そうに眉を下げる優依に聞かれ、誠は顔をしかめる。

「噂のこと、気にしてるのかもな。あいつらのせいで」

あかりを中心に輪を作っている女子たちを睨む。
 
「あの人たち、ひよりんのこと無視したり、陰口叩いたりして、陰険なんだよ。ひよりんの妹もちゃんと注意したらいいのに」
「あかりはああいうやつだから」
「え?」
「昔からひよりのこと見下してるし、仲悪いんだよ」
「かわいい顔して、陰険なのは妹ってことね。……取り巻きたちを扇動してたりして」

笑顔で話しているあかりに、優依は疑いの眼差しを向ける。

「かもな。でも、あいつに直接言ってもはぐらかされる。今は、なるべくひよりの傍にいてあいつらから守らないと」
「若松くん、よっぽどひよりんのこと好きなんだねえ」

誠は、ぼうってしているひよりを見て瞳を細める。

「……好きだよ。ひよりには、俺のことだけ考えてほしい。俺のことだけ見てほしいんだけどな」
「若松くん、一途だね。なんか切なくなる」
「あいつのことなんか忘れたらいいのに」

誠の口から本音が漏れ出る。

「ひよりんと王子、本当に付き合ってるふりだったのかな」
「そうだろ。そうじゃなかったら俺は……」

唇を引き結ぶ誠の横顔が歪む。優依は複雑な思いがない交ぜになった瞳で誠とひより、隼人の空席を眺めた。

 その日の夕方、隼人はようやく熱が下がり、食欲が戻ってきた。
 田名の作ったお粥を完食し、手を合わせる。

「ごちそうさまでした。田名さん、ありがとうございます」
「元気になられてよかったです。疲れがたまっていたんですかね?」

空いた器をお盆に乗せながら田名は柔らかい笑みを浮かべる。

「そうかも」
「数日休まれたから、彼女さんも心配してるでしょうね」
「……別れたから」
「まあ。そうだったんですか。そうとは知らず、すみません」

田名は申し訳なさそうに頭を下げる。

「いいんですよ。もう、終わったことだから」

両手をきつく組み合わせ、苦笑する。
 
「隼人様……」

ピンポーン。

 階下からインターフォンの音が聞こえ、田名はお盆を持って立ち上がった。

「あら、どなたかしら。隼人様、失礼します」

田名は足早に隼人の部屋を出ていった。ドアが閉まりきらず、階下の声が微かに聞こえる。

「こんにちは」  
「あなた、隼人の同級生?」 
「はい」

まさか……。

 隼人は慌てて踊り場から玄関を覗く。
 そこには、愛嬌のある笑顔を浮かべているあかりと、隼人の母・麗香がいた。

 ひよりなわけないよな。何で妹が……?

 階段を駆け下りていった田名があかりに頭を下げた。

「いらっしゃいませ」
「お邪魔します」

あかりが田名に微笑む。田名は笑顔を返してから、麗香に会釈した。

「奥様、戻っていらしたんですね」
「ええ。さっきね。田名さん、この子にお茶をお出しして」
「お構いなく。プリントを届けに来ただけなので」

あかりは麗香にプリントの入ったクリアファイルを渡した。

「わざわざありがとう」
「いえ。隼人くん、体調はどうですか?」
「熱があったんだけどね、今は……」

麗香が田名を見る。田名はお盆を麗香に見せて答えた。

「熱も下がって、食欲も戻ってきましたよ」
「そうみたいね」
「よかったです。数日お休みだったので、心配してたんです」

あかりが瞳を潤ませ、安堵して胸を撫で下ろす。

「そんなに心配してくれるなんて。あなた、もしかして隼人の彼女? 写真と雰囲気が違う気もするけど」

隼人は手すりを掴む手に力を込める。

 お袋もあの記事見たのか?
 妹とひより、見間違うなよ。全然似てねえだろ。

「いえ、私はクラスメイトの双葉あかりです。双子の姉のひよりが、お付き合いしていたみたいですけど」
「双子なのね。どうりで。でも、あなたお姉さんと違って華があるわね。あなたの方が隼人とお似合いよ」
「そんなふうに言ってもらえて嬉しいです」

あかりは頬を赤らめる。
 隼人はふつふつと込み上げてくる怒りで顔が熱くなる。

「あなたみたいな子だったら、お嫁さんに大歓迎よ」
「お嫁さんだなんて、お母様、やめてください。恥ずかしいです。私、隼人くんに全然相手にされなくて……」
「あの子、見る目ないわねえ」

隼人は堪えきれず、階段を下りてあかりたちの前に姿を現した。

「勝手なこと言ってんじゃねえよ」
「隼人」
「隼人くん!」

麗香とあかりの声が重なる。隼人は剣呑な顔であかりを見て、玄関を開けた。

「プリント、ありがと。悪いけど、もう帰って」
「え? でも……」
「ちょっと、隼人。せっかく来てくれたのに失礼よ」

咎める麗香の声に耳を貸さず、隼人はあかりを鋭利な視線で射抜き、促した。

「早く帰ってくれ」
「あ、うん」

あかりは笑顔を凍りつかせ、玄関の外に出た。途端に扉が閉められた。

「……ひどい。でも、お母様は見る目あるわね。ひよりなんかより、私の方が気に入られて当然よ」

勝ち誇ったように胸を反らして、あかりは意気揚々と鵜野森家を後にした。

 隼人が玄関を閉めると、麗香の叱責が飛んできた。

「隼人! 何で追い返したのよ。お話したかったのに」
「話してどうすんだよ。嫁だのなんだの、好き勝手いいやがって」
「あの子なら隼人とお似合いよ。前の子とは別れたんでしょ。ちょうどいいじゃない」
「ふざけるな!」

ドンッ!

隼人は怒り任せに壁を殴る。
 麗香と廊下の隅で様子を窺っていた田名が肩をびくつかせる。

「お袋も親父と同じじゃねえか。俺の意思なんてどうでもいいのかよ。勝手に決めつけやがって」
「私はあの人とは違うわ。家柄なんかよりも、隼人に合うかどうかでしょ」
「……自分で決めるって言ってるだろ。口出しするな」

低く唸ると、背を向けて階段を上っていった。
 麗香は呆然と立ち尽くす。
 
「隼人……」

足元がふらつく麗香を、田名はさっと支える。

「奥様、大丈夫ですか?」
「……私は、隼人のことを思って言ったのよ」

田名は麗香をリビングのソファに座らせ、水を渡しながら問いかけた。

「お付き合いされていたひより様のお話を、隼人様から聞いたことはありますか?」
「ないわ」
「少しだけ聞かせてくださったことがあるんです。タオルの洗い方を教えて差し上げた時に」
「隼人にそんなこと教えたの? どうしてよ」
「ひより様からお借りしたタオルを、自分で洗って返したいと仰いまして。ひより様のことをお話する隼人様は、とても楽しそうでした」

麗香は眉をひそめてコップを傾ける。

「でも、別れたんでしょ。隼人とは合わなかったのよ」
「別れた理由は存じ上げませんが、隼人様はここ数日お元気がありませんでした。体調まで崩されて。なんだか痛々しくて……」

田名の目尻に涙が滲む。

「それって、隼人はまだそのひよりって子のこと……」

記事の画像を思い起こす。
 ひよりと写る隼人の顔は、ここ数年は見なくなった心からの笑顔だった。

「私、だめな母親ね」

小さな呟きを、水と一緒に飲み込んだ。


「ただいまー」

あかりが帰ると、リビングからエプロン姿のひよりが顔を出した。

「おかえり。ご飯、ラップしてあるから」

ひよりの薄汚れたエプロンを見て、あかりは鼻を鳴らした。

「ほんと、家政婦みたい。隼人くんのおうちで見たおばさんと同じ」
「隼人の家、行ったの?」
「お見舞いに行こうと思ってたら、ちょうど先生にプリント届けてって頼まれたの」
「隼人、体調どうだった?」
「元気そうだったけど、何でそんなに気になるの? まだ彼女のつもり? あ、ごめん。ニセの彼女、だったよね」

馬鹿にしたように目を細めて唇の端をめくる。

「だから、何? あかりには関係ないでしょ」
「私、隼人くんのお母様に気に入られたの。姉と違って華がある、隼人とお似合いって言われたのよ。しかも、お嫁さんに大歓迎、だって」

全身に電気が走ったみたいな衝撃を受ける。

 ……嫁?
 あかりが?
 
「気が早いよね、隼人くんのお母様。私、隼人くんと結婚しちゃうかも。そうしたら、私と隼人くんのこと祝ってくれるよね?」

ウェディングドレス姿のあかりとタキシード姿の隼人がチャペルの前で腕を組む映像が、ひよりの脳内に広がる。

 映像がモノクロになり、ヒビが入って粉々に砕け散る。

 こんな未来、来るはずがない。
 だって隼人は、あかりのこと何とも思ってない、はず。
 けど、将来隼人の隣にいるのは私でもない。
 きっと、知らない誰か。

「それ、あかりの妄想でしょ。隼人は、あかりのこと選ばない」
「お母様がそう言ってくれたのよ!」
「隼人なら、結婚相手は自分で決める。親に言われたからって従う人じゃない」
「ニセ彼女のくせに、隼人くんのこと知ったような口効かないで。痛すぎるんだけど」
「ニセだったけど、隼人の素顔知ってるのは、私だけだから」

ひよりはあかりを一瞥して、背を向けた。
 部屋に戻り、エプロンを丸めて床に放る。
 膝を抱えて座り込む。

 私はもう、隼人のニセ彼女ですらない。
 なのに、隼人のことが頭から離れない。
 あかりや他の女子たちの幼稚な嫌がらせなんかより、隼人のことが心配で仕方なかった。
 本当は、会いに行きたかった。
 でも、メッセージも既読にすらならないのに、顔を見て王子スマイルで拒絶されたら立ち直れない。
 会うのが怖い。 
 だけど……。

 会いたい。
 また、笑って話がしたい。
 
 誠と優依に言われたことがふと思い出される。

『好きな人とは一緒にいたいって思うだろ』
『ひよりんがずっと一緒にいたいって思う人は誰?』

 私が一緒にいたいのは……。

 思い浮かぶのは1人しかいない。

「……隼人」

私、隼人のこと……。

「好き、なんだ」

言葉にして初めて、心の奥底に閉じ込めていた本当の気持ちに気付いた。
 胸の中がじんと熱くなる。
 隼人の顔を思い浮かべるだけで、鼓動が高鳴る。
 
「会いたい。隼人に、会ってちゃんと話さなきゃ」

もし拒絶されたとしても、私の気持ちを伝えたい。
 隼人の本当の気持ちも知りたい。
 きちんと、向き合いたい。

 ひよりは立ち上がる。その瞳に、もう迷いはなかった。 

 
 その頃。 
 隼人は鞄についているモンスターのぬいぐるみをはずした。
 しばらく眺めてから、引き出しの奥にしまいこんだ。
 スマホを取り出し、ひよりが写ってる画像をスクロールする。
 
「消さないといけないのに……」

神社で撮ったひよりの笑顔の画像で、指が止まる。
 
「……消せるわけないだろ」

メッセージの未読通知があり、アプリを開く。

【ひより】:大丈夫?

 たった一言が、隼人の胸を熱くする。
 文字を打とうとするが、はっとしてアプリを閉じ、スマホをベッドに放り投げた。

「くそっ」

目を閉じて椅子の背もたれに背中を預ける。
 目蓋の裏に浮かぶのは、ひよりの顔ばかり。
 自分からニセの恋人関係を終わらせたくせに、ひよりのことを忘れることができない。
 忘れたくない。
 消したくない。
 ひよりとの時間をなかったことにしたくない。

 コンコン。

 ノック音に目を開け、ドアを開ける。
 固い表情の麗香がいた。

「お父さんが、呼んでるわ」
「何でだよ」
「大事な話があるそうよ。来てちょうだい」

隼人はしぶしぶ部屋を出て、麗香と正蔵の書斎に行った。
 ソファに深く座り、腕組をしている正蔵は、隼人に含みのある笑みを向けた。

「隼人、あの娘とは別れたそうだな」
「親父に言われたからじゃない。話って何だよ」
「いいタイミングで見合いの話が入った。明日、空けておけ」
「は? 見合い?」

隼人の顔から血の気が引く。
 
「私の、大学の先輩の娘さんなのよ。先輩の会社とは懇意にさせてもらってるけど、隼人はまだ高校生だからって私は断るつもりだったのよ。でも……」

麗香が正蔵の顔色を窺う。

「結婚相手としては申し分ない。すぐに結婚しろと言ってるんじゃない。会うだけ会ってみたらいい」
「……ざけるな」

隼人が震える指先を握り締める。

「何?」

正蔵の太い眉がぴくりと動く。

「ふざけるなって言ってんだよ! 誰が見合いなんかするか! ひよりとは別れたんだから、これ以上口出すな!」

隼人が声を張り上げる。
 麗香は怯えたように腕をさすり、正蔵は顔をしかめた。

「もう日取りも場所も、先方のスケジュールも押さえている。おまえのわがままで迷惑をかけることはできない。見合いの席を断って先方が気を悪くしたら、今後の付き合いに支障を来すだろう。取引に影響が出れば、当然、会社にも損害が出る」
「何が言いたいんだよ。会社と俺は関係ない」
「そう思うなら勝手にしろ。だが、そうなれば人事異動、あるいはリストラも考えないといけなくなる。双葉ひよりの父親のような系列社員にも影響がないとは言いきれない」
「……脅しかよ」
「いや、事実だ。トップの判断ひとつに、大勢の社員の命がかかってる。私の仕事は、そういうものなんだ。重い責任が伴う。おまえのわがままを通すこともできる。だが、損害が出る恐れもある。それを踏まえて、考えろ」

重たい沈黙が流れる。
 隼人は拳を握り締め、正蔵を見据える。

「会うだけだからな」

正蔵は満足げに頷く。

「それでいい。答えまでは強要しない。今回の見合いは付き合いみたいなものだからな」
「今回だけだ。二度と見合いなんかしない」

背を向ける隼人に、正蔵は語りかける。

「私は父親として、最善の道を開く責任がある。だが、その道を歩くのは簡単なことではない。それ以上に、自分で決めた道を進むことは難しい。世の中を甘く見るな」
「……甘く見てねえよ」

隼人は振り返らず、廊下に出た。

「何が今回だけだ。結局俺は、親父の道から逃れられてない……」

握った拳が震えた。