春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 課題と水泳の自主練を繰り返しているうちに、ゴールデンウィークは後半に突入していた。

 夜、自室のベッドに寝転がっていた春希の胸元で、スマートフォンが短い振動を連続させた。画面にポップアップした名前を見て、春希は顔をしかめる。

「げ……姉ちゃん」
 送り主は、八つ年の離れた姉の夏美だ。
 すでに実家を出ており、今は都内でフリーのヘアメイクやスタイリストとして働いている。

 ロックを解除してトーク画面を開くと、緑色の吹き出しが一方的に画面を埋め尽くしていた。

『あんた明日ヒマ?』
『リビングのテーブルに私の13インチのiPad置きっぱなしになってない?』
『それ持って、明日の昼までに渋谷のスタジオに来て!』
『言っとくけどスマホの画面じゃメイクの細かい色味見えないの! モデルに説明もできないし!』
『交通費と昼飯代も出すから!』

「……逆ギレしてんなよ。ってか決定事項かよ」
 画面をスクロールしながら、春希は歯軋りする。
 悔しいことに、明日の予定は空いている。

「昼奢ってくれるなら、ついでに買い物しに行くかな」
 春希はベッドから身を起こし、部屋の隅にあるタンスの引き出しを開けた。
 部活のプール開きに向けて、そろそろ練習用の水着や劣化したゴーグルを新調しなければと考えていたところだ。

 その時、手元の画面が再び明るくなった。
 また姉からの追撃かと思って覗き込むと、雪だった。

『春希、明日は部活だっけ?』
 春希は引き出しを閉め、文字を打つ。
『いや、姉ちゃんのパシリで渋谷。ついでに部活の買い物しよっかなと思ってたところ』

 数秒後に返ってきた言葉は、予想外のものだった。
『渋谷かぁ。行ってみたいな』

「行ったことないのか……? 渋谷」
 春希は小さく呟いた。
 引っ越してきたとは聞いていたが、以前は遠い地方にでも住んでいたのだろうか。

『一緒に来る? 人混みと、うちの姉ちゃんがいるのが平気なら』
 画面にすぐ「既読」の文字がつく。

『バイト代入ったから、僕も服買いたいと思ってたの。持ってるシャツがちっちゃくなっちゃって。春希のお姉さん、会ってみたいな』

「……バイト……そっ、か……」
 春希の指先が、画面の上で止まる。
 少しだけ迷って、返信を打つ。

『姉ちゃんが昼飯奢ってくれるっていうから、付き合ってよ』
 送信した途端、雪から両手を上げて喜ぶキャラクターのスタンプが返ってきた。

 春希は待ち合わせの場所と時間を送ってから、夏美とのトーク画面に戻り、通話ボタンをタップした。五回目のコール音の途中で、通話が繋がる。

『春希〜!? 明日来てくれるわよね!?』
 スピーカー越しに、人の話し声やドライヤーのようなモーター音が騒がしく聞こえてくる。その喧騒を押し退けて、夏美が声を張り上げていた。

「友達もつれてっていい? 昼飯二人分、奢ってくれるなら行く」
 回線の向こうで、はっ、と息を呑む音がした。
『春希……あんた、友達なんていたの!? 何よ〜高校生活、青春してんじゃーん!』
「悪かったな、ぼっちで」
『友達と遊ぶのはいいけど、あんた将来どうすんの? 二年で文理選択あるでしょ。パパの事務所継ぐなら理系一択だけど』

 いきなり進路の話へと切り替わり、春希はスマートフォンを耳から少し遠ざけて片目をすがめた。

「まだ……決めたわけじゃない」
 スマ―トフォンを耳に当てたまま、ベッドに再び転がる。
 天井を仰ぎながら、声のトーンを落とした。

 姉の夏美は昔から、せっかちに見えるほど決断が早くて行動力がある。

 中学生の頃から「将来は美容の仕事をする」と決め、高校の三年間をその準備に費やした。卒業と同時に実家を出て専門学校へ進み、厳しいアシスタント修行を経てフリーとして独立し、今は多方面を飛び回っている。

 ただなんとなく日々をやり過ごしている今の自分とは、完全に真逆の生き方だ。

 回線の向こうで、これみよがしなため息がした。
『甘いわね。よっぽど「これだ!」ってことがないなら、とりあえずレールに乗っとくのも賢い手よ』
「レールって言われると、なんかムカつくな……」
『安定は悪いことじゃないわよ。とりあえず今は見えている道を歩きながら、周りを見渡してみてもいいんじゃない?』
「……なるほど」

 悔しいが、夏美の例えがすんなりと胸に落ちてきた。

『ま。もうちょっと悩んでみなさいな、若者よ』
「うるせえ。明日、ちゃんと奢れよ――あ、そうだ、姉ちゃん」
『ん?』
「明日連れてくやつなんだけど」
『友達のこと?』
「ちょっと、色々あって……。見りゃわかると思うけど、見た目をいじったり、モデルやれば、とか絶対言うなよ」
『は? なによそれ』
「じゃな!」

 春希は赤いボタンを押し、一方的に通話を切る。
 急に、部屋が静かになった。



 翌朝、午前十時。
 待ち合わせ場所の、楠原駅の改札前。

 予定としては、十一時少し前に渋谷へ到着し、まずはスポーツ用品店で水泳部の練習用水着とゴーグル、陸練用のシューズを買う。

 それからスタジオへ向かって夏美と合流し、約束通り昼食を奢ってもらってから、雪の服を見るという流れだった。

 春希が改札へ向かうと、太い柱にもたれて手元のスマートフォンを覗き込んでいる雪の姿がすでに見えた。グレーのパーカーにジーンズ、肩にはキャンバス地のトートバッグという、ふるさと村へ出かけた時と同じ装いだ。

 そんなありふれた服装であっても、雪の姿は奇妙なほど人目を惹いた。肌が透けるように白いせいか、そこだけ光を集めたように輪郭が浮き出て見える。

 行き交う人々が、老若男女を問わず、通りすがりに僅かに首を向けていく。雪はスマートフォンの液晶に目を落としたまま、前髪を何度も指先で摘んで引っ張り、どうにか目元を隠そうとしていた。

(使ってないキャップとか、持ってきてやれば良かったかな……)
 芸能人とマネージャーじゃあるまいし、と春希は内心で息を吐いた。

「雪」
 春希が声をかけると、弾かれたように顔が上がる。
 春希を見つけた瞬間、強張っていた白い頬に、ぱっと赤い色が差した。

「春希」
 名前を呼びながら、小走りでこちらへ向かってくる。

「……」
 その姿を迎えるほんの一瞬に、春希の脳裏を妙な雑念が通り過ぎた。

 男なら、こんな風に女子と待ち合わせる場面を一度は思い描くものだが、それが違う形で叶ってしまったような、奇妙な感覚だった。

 周囲から集まる無数の視線が、雪を経由して春希へと刺さる。
 不釣り合いだと値踏みされる空気を肌で感じながら、春希は手にしたスマートフォンで改札を示した。

「行こか」
「うん!」
 まとわりつく視線をかき分けるようにして、二人は改札を抜けた。

 楠原は急行通過駅だ。
 渋谷までは各駅停車で四十分弱の道のりになる。

 少しでも人の少ない場所をと考え、春希は最後尾の車両の端の席を選んだ。
 それでも、川を渡って都内へと入ると、途端に乗車率は跳ね上がった。

 座っている二人の目の前には、吊り革を握る乗客の背中が三重の壁を作っている。雪は始終うつむいたまま、春希のスウェットの袖口に、自分の腕をぴったりとくっつけていた。

 渋谷の地下深くのホームに降り立つと、生温かくて重い、地下鉄特有の空気が体を包んだ。

 頭上にいくつもぶら下がる黄色い案内板を頼りに、春希は幾筋にも交差する通路を辿って、地上を目指す。
 雪は電車を降りてからというもの、春希のスウェットの袖を指先で強く握りしめている。迷子になれば二度と戻れないとでも思っているようで、必死だ。

「凄い……外国人が多いんだね」
 狭い水中トンネルを潜り抜けるような息苦しさの中、雪が周囲を見回して小さな声を上げた。聞き慣れない言語が飛び交い、地元では見かけない多国籍な波が渦巻いている。

 長い地下道を抜け、ハチ公口から地上へと出た。待ち合わせの定番であるはずの銅像は、背の高い観光客たちの壁に阻まれて、耳すらも見えなかった。

「わ……ここって、スクランブル交差点ってやつ?」
「初めてか?」
「うん……! すごい人がいっぱい」

 駅前広場の先に広がる巨大な交差点を見つめ、雪が目を丸くする。
 見渡す限り、行き交う人々の八割近くが、スマートフォンやカメラを構えた外国人観光客だ。

 春希は信号待ちの列の後ろで、雪と共に足を止めた。

「この交差点を渡って、センター街ってところを抜けて、その先にスポーツ用品店がある。姉ちゃんとの待ち合わせも、そっち方面だから」

 春希が横断歩道の先を指さすと、雪はそちらへ首を伸ばし、うんうんと頷いた――その時だった。

「――そこの君。ちょっといいかな」

 不意に、雪の斜め後ろから声が掛かった。