春を待つ雪

 牧野家の朝は早い。
 自営業である夫の冬人と、食べ盛りの男子高校生である息子の春希に朝食と弁当を持たせるため、妻であり母である秋子は、毎朝五時に起きて台所に立っている。
 回りっぱなしの換気扇の低い唸り音が、ダイニングの空気まで震わせる。初夏の朝日が、テーブルの上に並んだ焼き鮭や納豆、出汁巻き卵を照らす中、夏服の春希と、作業着姿の冬人が向かい合って座り、無言で箸を動かしていた。

「はい、お弁当。今日はハンバーグよ」
 エプロン姿の秋子が、ずっしりと重みの詰まった巾着袋を二つ、テーブルの端に置いた。男二人は咀嚼を止めずに、「ん」「おう」と短く喉を鳴らして頷く。
「そうだ、春希。来週の体育祭、ちょっとだけ観に行ってもいい?」
「……」
 味噌汁の椀を持ち上げようとしていた春希の動きが止まった。少しだけ眉間を寄せて、台所へ戻ろうとする母親の背中を見る。
「ま、嫌って言われても行くけどね」
「……じゃあ、きくなよ」
 ため息まじりに春希が言うと、向かいの席で白米をかき込んでいた冬人が、箸を止めて顔を上げた。
「俺も、現場の都合がついたら行く」
「……好きにすれば」
 春希は短く返し、椀の味噌汁を一口すすってから、箸で白米をすくい上げた。
「お弁当は、唐揚げと、ウィンナーと、卵焼きは絶対に入れるわね」
 水道の蛇口をひねりながら、秋子が弾んだ声を出す。小学生の時から全く変わらない、牧野家の定番の運動会のラインナップだ。

「弁当のことだけど」
 春希がぽつりとこぼした声に、秋子が「え?」と振り返った。いつもなら「なんでもいい」としか返ってこない息子からの、珍しい反応だった。
「何かリクエストある?」
「二人分、お願いしてもいいかな」
 水道の水の音が止まった。
「足りない? もっと大きなお弁当箱にする?」
「そうじゃなくて」
 春希は手元の小鉢を見つめたまま、箸の先でポテトサラダをつついた。
「友達、の」
「友達……」
 秋子の目がわずかに丸くなる。向かいの席では、冬人が完全に箸を止めて、まじまじと息子を見つめていた。
「この間、一緒に渋谷に行ったって子?」
「スカウトに声を掛けられたっていう子か。お前、珍しく怒ってたもんな」
 春希はそれには答えず、ミニトマトを口の中へ放り込んだ。
「あらあら、そうなのね。どんな子かしら、楽しみだわ」
 両手を合わせて微笑む秋子に、春希は咀嚼を終えてから、わずかに顔をしかめた。

「そういうの、やめろよ」
 低い声だった。

 夫と顔を見合わせてから、秋子は口元をふわりと緩ませた。
「そうね、今のは良くなかった。ごめんね春希。お弁当、まかせて。お友だちの分も用意するね」
「……うん」
 春希は短く頷き、再び白米へと箸を動かした。



 体育祭当日の朝。
 牧野家の台所は、いつもよりさらに早くから稼働していた。冬人が普段より一時間早く家を出たため、春希はひとり、無言で箸を動かしていた。揚げ油と甘辛い醤油の匂いが漂っている。

「はい、春希とお友だちの分」
 テーブルの上に巾着袋が二つ、並べて置かれた。中身は秋子の宣言通り、運動会の定番おかずが二人分、隙間なく詰め込まれている。
「ありがとう」
 春希は淡々と返し、視線を落としたまま白米を口へ運ぶ。
 しばらくの間、箸が食器に触れる音だけが、ダイニングに響いていた。やがて春希が箸を止める。
「昼の、一時くらい」
 ぽつりと、独り言のような低い声が落ちた。
「部活対抗リレーがあるから。そのあたりかな」
 視線は手元の味噌汁に向けられたままだ。
 不器用でぶっきらぼうな息子の告知に、台所へ戻りかけていた秋子が足を止めた。振り返ったその顔は、目尻がふわりと柔らかく下がっている。最近、皺が一本増えた。
「はーい。お父さんと応援に行くわね」
 秋子が弾むような声で応じる。
 春希はそれ以上何も言わず、再び箸を動かし始めた。そのまま黙々と残りの朝食を最後まで食べきり、食器を重ねて立ち上がる。二つの重い巾着袋を手に提げ、春希は足早にダイニングを出て行った。
「いってらっしゃーい」
 玄関の扉が閉まる重い音を聞き届けてから、秋子はエプロンのポケットからスマートフォンを取り出す。
「『十二時に戻ってきてね』っと」
 送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。秋子は鼻歌をこぼしながら、洗い物が溜まっているキッチンへ、くるりと体を向けた。

 初夏の空の下、正門の脇に『楠原高校 体育祭』と墨文字で書かれた木製の看板が立てかけられていた。
 グラウンドからは割れたアナウンス音と、ブラスバンドの演奏する軽快なマーチ、そして砂埃の舞う風に乗って生徒たちの歓声がひっきりなしに届いてくる。トラックを囲って組み上げられたテントの陰には、パイプ椅子が規則正しく並び、出番を待つ生徒たちのカラフルなハチマキが揺れていた。
 午後一時を少し回った頃――色違いのキャップを被った冬人と秋子夫妻は、保護者用の受付を通って正門をくぐった。
「春希は確か、Bチームって言ってたっけ」
 秋子は日差しに目を細めながら、チームごとにブロック分けされた応援席へと視線を泳がせた。赤、白、青と、チームカラーのシートや横断幕が躍る中から、歓声を上げて立ち上がる生徒たちの隙間を縫うようにして目を凝らすと、グラウンドの端、一番後ろの列に置かれたパイプ椅子に、見覚えのある横顔を見つけた。

「あ、いたいた、春希!」
 秋子が指す先に、体操着の白いTシャツを着た息子・春希がいた。中学の頃より一回り大きくなった肩幅と、引き締まった首すじ。どこか投げやりにも見える姿勢でパイプ椅子に深々と腰掛け、脚を窮屈そうに折り曲げている。
「あら」
 そのすぐ隣。少し身を乗り出すようにして座っている少年の存在に、秋子の視線は吸い寄せられた。透き通るような白い肌の少年が、大きな瞳で春希の横顔をじっと見つめている。小さく口元を綻ばせながら、春希に何かを話しかけていた。対する春希は少年の言葉を遮ることもなく、耳を傾けている。自宅にいる時とも違う顔をしていた。
「綺麗な子ねぇ。見て、あなた」
 秋子が声を潜めて隣の袖を引くと、冬人も日除けのキャップのつばを少し上げ、呆気にとられたように目を瞬かせた。
「なるほど、スカウトが集まってくるわけだ」

 やがて、割れたスピーカーの音で部活対抗リレーの開始が告げられた。春希が腰を上げ、メガネを預けてパイプ椅子の列を抜けていく。残されたお友だちは春希のメガネを握りしめ、視線はグラウンドへ向かう背中を真っ直ぐに追っていた。
 ピストルの音が鳴り、第一走者が一斉に走り出した。春希は三番目にバトンを受け取って走り出す。その瞬間、秋子の目の前を塞ぐ人影が、無遠慮に割って入ってきた。
「あ」
 大会スタッフの腕章をつけた、プロのカメラマンだ。黒く太い望遠レンズが応援席側に向けられて、硬質なシャッター音が連続して鳴る。音が止まると同時にカメラマンは足早に別のブロックへと移動していった。突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)のせいで、春希が一人を追い越す瞬間を見逃してしまった。
「もう。せっかく春希が抜いたのに」
「その相手が帰宅部というのが、あいつらしいな」
「しーっ。それは言わないの」
 秋子は口元に人差し指を当て、夫婦は笑い合った。

 トラックから退場した春希が、応援席へと戻ってくる。お友だちが体を弾ませて立ち上がり、胸の前で小さなガッツポーズで出迎えた。春希は「大袈裟な」とでも言うように視線を逃がしながら、照れくさそうにパイプ椅子へ腰を下ろす。そして預けていたメガネを受け取り、かけ直す。すぐ隣に座り直したお友だちは、腕が隙間なく密着するほどの距離に身を寄せた。
「ずいぶん、仲がいいんだな」
 冬人が、少しだけ不思議そうな顔をした。
「若い子なんて、あんなものよ。女の子同士で手を繋いだりね」
「そうか?」
 秋子のあっさりとした返しに、冬人はそれ以上深く追及することなく頷いた。

 その日の晩、2ki_daysに新しい投稿が並んだ。それぞれ色違いの弁当箱に、色とりどりのおかずが並ぶ。
『小学生の時から変わらないやつ。△ #弁当』
『いっしょのお弁当。とーーーーーーーっても美味しかった。* #友達』
 ハートはそれぞれ二桁。フォロワーはもうすぐ三桁に届こうとしていた。