春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 ゴールデンウィークに入ってまもない、よく晴れた日だった。
 春希と雪は緑道を、澄んだ水音を立てる鷺野川の流れに沿ってゆっくりと歩いていた。

 薄手のジップパーカーに黒いリュックを背負った春希の隣で、地味なグレーのパーカーにジーンズという装いの雪が、シンプルなキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、どこか弾むような足取りで並んでいる。

 川幅がしだいに狭まり、舗装された遊歩道が、土と草の匂う小道へ変わっていく。
 駅から三十分ほど遡り、幹線道路を越えた先で、ふっと視界が一気に開けた。

 雪が足を止め、小さく息をのんだ。
「わ……すごい、ジブリみたい!」

 目の前に広がっていたのは、一面の田と畑。整然と区切られた水田にはたっぷりと水が張られ、五月の青空と白い雲を鮮明に映し出している。大きなビルも人工的な構造物もなく、青々とした小高い丘が農村を囲んでいる。

 楠原駅から各駅停車でも四十分足らずで都心に出られる。
 そんな土地とは、とても思えない静けさだ。

 空を映す鏡が無数に敷き詰められた光景へ、雪はスマートフォンのレンズを向けた。

「小学校の遠足とかで来たことなかったか?」
 春希が尋ねると、雪はレンズから目を離さずに首を振った。

「うん。僕、途中で引っ越してきたから。一度、ずーっと川を遡って歩いてみたかったんだ。嬉しいな」
 眩しそうに目を細めた雪は、そのまままっすぐに伸びる畦道へと踏み出した。並んで歩きながら、雪が不意に片手を高く掲げ、水面に向けてシャッターを切る。

「見て見て」
 雪が差し出してきた画面を、春希は覗き込んだ。
 静かな水鏡に、ふたつの人影が逆光で黒く浮かんでいる。
 顔は判別できないが、はしゃぐ雪と、春希の少し呆れた気配が、シルエットからでも伝わってくる。

「これ、ハルキ・デイズに載せてよ」
「その呼び方ヤメろマジで」
 春希は自分のスマートフォンの角で、雪の頭を小突くフリをした。
 雪は頭を庇うように両手をかざし、声に出して笑った。

「いいよ。後で送って」
 あれから、雪は時折思い出したように写真を送ってくるようになった。

 身バレにつながるものが写り込んでいないか春希が確かめてから、SNSへ載せる。ここ数日、春希の個人的な日記の中で、雪の気配が半分以上を占めるようになっていた。

 不思議なことに、「ハート」がつく頻度が高くなっていた。
 とはいえ、フォロワー数が二十と少しばかりの弱小アカウントだ。月に一度つくかどうかだったハートが、三つか四つに増えた。その程度の差ではあるが。

 さらに歩くと、開けた水田地帯の奥に、こんもりとした緑の丘陵が連なる景観保存地区、『ふるさと村』に到着した。

 見渡す限りのどかな風景の中に、人影はまばらだ。用水路を覗き込んで小さな網を振るう父親と低学年くらいの子ども。連れ立って犬の散歩をする中年の夫婦。ゆっくりとした足取りで進む高齢の男女。丘の上の神社から続く急な坂道を、初老の男が一人で下ってくるのが見える。春希や雪と同年代の中高生の姿は、どこにもなかった。

 入り口付近に建つ小さなコーヒースタンドで冷たい飲み物をテイクアウトし、二人は雑木林の中に新設されたばかりのコミュニティハウスへ向かった。

 木の良い匂いが漂う多目的スペースには、真新しいテーブルと椅子が、ゆったりと間隔を空けて数組並んでいる。壁一面にはめ込まれた大きなガラス窓からは、初夏の鮮やかな緑が一望できた。ここにも、他の利用者の姿はない。

「すごい……穴場だね! 図書館より、良いかも」
 雪が窓際の席へ真っ直ぐに向かい、テーブルにキャンバス地のトートバッグを置いた。中からペンケースと、課題のワークを取り出す。

 今日はこの村の散策を兼ねて、各教科から大量に出された課題を消化しに来たのだ。

 連休中に一緒に課題をやろうと持ちかけてきたのは、雪の方からだった。
 十中八九、ここに来てみたかった口実であろうと、春希は思っている。

 雪は勉強ができる。
 数学と物理では春希の方が辛うじて勝っているが、英語を筆頭とした文系科目では歯が立たない。教え合う名目など要らないほど、雪は勉強に困っていない。

 静かな空間で二時間ほど集中して課題をこなした後、二人は再び外へ出た。
 風の吹き抜ける畦道を、あてもなく一時間ほど並んで歩く。

 その間、雪は少し前を歩きながら、道端の草花や古い道標、空の雲に向けて頻繁にスマートフォンのカメラを向けていた。被写体を探す横顔は、教室で見せる強張った顔とは別人のように緩んでいる。

 春希は、あることに気がついていた。
 雪は、一度も自撮りをしていない。
 前に雪の画像フォルダを見た時も、見当たらなかった。

「あのさ」
 春希が呼びかける。
 森散策コースの真ん中で立ち止まり、木の隙間から覗く空へスマートフォンを向けていた雪が、画面を見つめたまま「ん?」と気のない返事をした。

「アカウント、作ったら?」
「え……」
 ゆっくりとスマートフォンが下がる。
 振り返った顔には、不意を突かれたような戸惑いが浮かんでいた。

「写真とか、いっぱい撮ってるしさ」
「ごめん……迷惑だった……?」
「あ、そういう意味じゃなくて」

 小さく縮こまった声に、春希は慌てて両手を前で振った。
「自分で自由にアップできた方が良いかと思うんだけど。雪の特色とかも出せるし」

 雪は考えるように目を伏せ、足元の草をかすかに踏んだ。
 短い沈黙のあと、前髪の隙間から上目遣いに春希を見つめてくる。
「ひとりのは、何か怖いっていうか……寂しいし……」

 思いがけない返答に、春希も数秒、言葉を飲み込んで考えた。
 胸の前でスマートフォンを大事そうに包み込む姿は、迷子の子どものようだ。

「あぁ……そしたらさ」
 ふと思いついた提案を、春希はそのまま口にした。
「アカウント共有にしよか」

 ぽかんと口を開けたまま固まっている雪の元へ、春希は歩み寄った。
 胸元のスマートフォンを、指先でつつく。

「雪のスマホにも同じSNSアプリ入れて、俺のアカウントに入れるようにする」
「え……!」
「そうすれば、好きな時に、好きなだけアップできるし。何か写っちゃマズいものがあれば、お互いに確認して削除できるし」

 説明を重ねるごとに、雪の白い首筋へ、ゆっくりと朱が差していく。

「でも、ずっと春希にとって大事な場所だったでしょ……いいの?」
「そんな大袈裟なもんじゃ――全然、いいよ」

 まっすぐに見つめられ、春希はくすぐったさに身を縮めた。

「ありがとう。なんか、嬉しい」
「駅に戻ったらフリーWi-Fiあるから、そこでアプリ入れて、設定してやるよ」
「うん!」
「アカウント名も変えるかな。hkiは春希だから……「はるき」と「ゆき」で「2ki」とか」
「賛成! daysは残そうね」

 重なる笑い声を乗せた風が、頭上の高い枝葉をさらさらと揺らしていく。

 アカウント名、hki_days あらため、2ki_days。
 フォロワー二十八人。
 プロフィール欄の一行は「男子高校生×2」へと書き換えられた。
 どちらの投稿か分かるよう、キャプションの末尾に、春希は「△」、雪は「*」を添えることに決めた。

 2ki_daysに変わってから、投稿への反応は如実に増えていた。
 二年かけて二十三人で止まっていたフォロワー数も、ゆっくりと動き始めた。
 半月足らずで十人が増え、初めて三十台に乗った。

 最も反応が良かったのは、雪が写した水田の水鏡の写真だ。
 逆光の中、ポケットに手を入れた春希と、スマートフォンを片手に頭上で手を振る雪のシルエットが水面に反射している。

「#友達」「#いっしょに散歩」というタグを添えたその投稿には、アカウント開設以来初めて二桁のハートがついた。といっても、ちょうど十ではあるが。

『ようやく俺に友達ができたって、祝ってくれてるのかも』
 春希が送信したメッセージに対して、数秒で雪から返事が戻る。

『そういうこと? みんな優しい』
 黒い文字列の向こうに、雪が首を傾げて笑っている姿が重なった。

「……」
 春希はトーク画面を眺めたまま、小さく息を吐き出した。