春を待つ雪

 案内されたのは、渋谷の中心から代々木公園側へ奥まった場所、「奥渋」と呼ばれるエリアにある、落ち着いた創作イタリアンレストランだった。
 そこでも、雪は人の目を惹いた。メニューと氷の入ったグラスを置きにきた店員が、立ち去る際にちらちらと視線を残していくのが、春希の目にもはっきりと映っていた。雪は受け取ったメニュー表へ視線を落として身を縮める。
「これ、ここに到着するまでに押し付けられたやつ」
 春希は皺の寄った名刺を、テーブルの上に並べた。最後のカットモデル募集の美容師のものも含め、全部で六枚。夏美は声には出さず、リップを引いた唇を「わーお」と動かした。
「ちらほら、見たことある名前があるわね」
「失礼な奴らばっか」
 男たちの目つきや口調を思い出し、春希は口の中に嫌な熱がこもるのを感じた。グラスの中の氷を口に含み、苛立ちをぶつけるようにガリッと噛み砕く。

「あー……これとか、これとか、無視して正解よ。使い捨てアイドルを量産したり、練習生にレッスン料だけ払わせて捨てる悪徳事務所。で、こっちは確かに大きいところだけど、態度悪いのが多いのよね」
 夏美はテーブルに並ぶ名刺を一つずつ、よく手入れされた爪の先で弾いていく。豪華な箔押しの名刺が並ぶ中、水色の線が一本入っただけのシンプルな名刺の上で、指が止まった。
「あら。凛さんじゃん。丁寧で感じの良い女の人じゃなかった?」
 名刺に記載されているのは――オフィス・シノミヤ 代表取締役社長 篠宮凛。
「確かに一人だけ、丁寧な人はいた」
 春希の脳裏に、ネイビーのスーツを着た女性の姿がよぎる。唯一、強引に名刺を押し付けるのではなく、両手で差し出してきた人だった。

「お姉さん、詳しいんですね……」
 店に入って初めて、雪が口を開いた。メニュー表をわずかに下げ、テーブルの上に広げられた名刺の束を眺めている。
「わたくし、こういうものなの」
 夏美は少し演技がかったセリフ回しで、自分のレザーバッグから一枚の名刺を取り出した。両手でそっと、雪の目の前へ置く。
「ヘアメイク・スタイリスト……かっこいい」
「ふふ。ありがとう。ね、雪くん。背筋、ピンって伸ばしてみて」
「――え?」
 夏美はテーブルの上で、手のひらを天井に向けてゆっくりと押し上げる仕草をした。見えない糸で引かれるようにして、雪が丸めていた背中をまっすぐに持ち上げる。
「そう。首もぐっと持ち上げて」
 夏美自身もすっと首の筋を伸ばし、宙で親指と人差し指を当て、スマートフォンの画面をピンチアウトするように動かした。
「視線はこっち」
 その指先が、雪の少し斜め上へと滑る。夏美の中指が弾かれ、小気味よい音が短く響いた。
「そう。それ」
 その一瞬で、雪の全身にこびりついていた怯えたような強張りが、ふっと剥がれ落ちた。

「……」
 春希は水滴のついたグラスを持ったまま、動きを止めた。幼さを残す雪の輪郭が急に洗練された鋭さを帯びて、春希は思わず隣の横顔をまじまじと見つめてしまう。
「そうやって堂々としてれば良いよ。『もう事務所入ってますけど、何かあ?』みたいな顔をしていれば、少なくとも小チンピラみたいな連中は寄ってこなくなる」
「これをキープするの、なかなか大変……」
「ストレートネック予防にもなるから、頑張ってみて」
「ふふ」
 和やかに笑い合う二人の横で、春希は手元のグラスへ視線を落とした。
「……小チンピラ、か」
 自分が雪のすぐ側にいたというのに、連中は春希の存在などまるで見えないかのようにすり抜けた。自分は透明な壁――いや、壁にすらなれていなかった。

 注文を終えて店員がテーブルから離れると、夏美は思いついたように小さく手を叩いた。
「そうだ。ランチのあとって、二人とも何か予定ある?」
「雪が夏の普段着を買いたいって言うから、ユニクロとか、無印とか――」
「そんなの地元にもあるでしょ」
 夏美がぴしゃりと春希の言葉を遮った。
「ちょうどよかった。この近くにね、仕事でお世話になってる古着のセレクトショップがあるの。お手頃価格だけど、カジュアルでおしゃれなものが揃ってるから、ちょっと覗いてみてよ。お店には私から連絡入れとくからさ。『NATSUMIの身内です』って言えば、大幅割引もしてくれるから」
「セレクトショップ……?」
 途端に腰が引けた弟を視界の端に追いやり、夏美はまっすぐに雪へ笑顔を向けた。
「同業の不届き者たちが迷惑をかけた、お詫びのしるし」
「いえ、そんな……お姉さんのせいじゃないですし」
「いいのいいの。お姉さんに、少しかっこつけさせてよね」
 夏美はパールのようになめらかに磨かれた指先を、高校生男子二人の前でひらひらと振って見せた。



 夏美に教えられた店は、路地裏の雑居ビルの外階段を上って、重い鉄扉を開けた先にあった。
「あ、あの……」
 恐る恐る足を踏み入れた春希が、静かなBGMが流れる店内を見回していると、古材とアイアンで組まれたラックの向こうから、男が顔を出した。
「いらっしゃい。NATSUMIさんの弟さんね。いつもお姉様にはお世話になってます!」
 肩まであるドレッドヘアに、たっぷりと布地を使った柄物のセットアップ。気だるげなミュージシャンのような外見とは裏腹に、体育会系のハキハキとした明るい声が返ってきた。
 店長の視線が、春希の背後に立つ雪に移った途端、ピタリと止まる。店内で服を畳んでいた他の店員たちも、手を止めてこちらを見ていた。が、その静止も一秒で、店長は口角を上げ直す。
「夏物の普段着をお探しと聞いてます。ご予算はどれくらいまで?」
 店長の質問に、雪はキャップのつばを少し下げ、手元のトートバッグの持ち手を両手で握りしめた。
「えっと……一万円ちょっとくらいなら……」
 消え入りそうな声に、店長は屈託なく笑った。
「承知しました。うちはね、一万円あれば夏休みの一週間を着回せるコーデが組めますよ。よかったら、提案させてもらえます?」
「……! お願いします」
 青いキャップのつばが上がった。

 それからの一時間は、めまぐるしかった。春希は店の隅にあるスツールに腰掛け、試着室のカーテンが開け閉めされるのを眺めていた。オーバーサイズのストリート系、体のラインが綺麗に出るシンプル系、リネン素材のアースカラー系――一見すると全く統一感のないアイテムたちが、店長が組み合わせて雪に着せると、どれも雑誌の切り抜きのようにぴたりとはまった。
「これも着てみて」
「こっちのシルエットも絶対いける」
 と、店員たちは明らかに予算の一万円をオーバーしている数の服をラックから外し、試着室へ運び込んでいく。
 来店する他の客の中には、モデル並みに洗練された身なりの男女もいたが、彼らでさえ、試着室から出てくる雪の姿を興味深げに目で追った。
「どう……?」
 カーテンを開けるたび、雪は照れくさそうに春希の方を見て尋ねてくる。
「似合う」「良いんじゃない?」「良い感じ」。春希の口は、その三種類の言葉をローテーションした。本当にどれも似合ってしまっているため、それ以上の気の利いた感想が思い浮かばないのだ。

 ようやく服を選び終えてレジカウンターへ向かうと、店長が奥から一眼レフカメラを取り出してきた。横に貼られたポスターを指差す。
「お店のSNSなんだけど、お買い上げいただくお客さんにPR用の写真をとらせてもらったら、Tシャツのおまけをプレゼントしてるんです。どうですか。特別に二枚、プレゼントしちゃいますよ」
 雪の目がわずかに見開かれる。が、すぐに細い首が左右に振られた。
「す、すみません……欲しいけど、僕、顔を見られるのが苦手で……」
「それなら」
 店長はカメラを持ったまま、スツールに座っている春希の方へ向き直った。
「弟さんにもシャツをプレゼントするんで、二人で撮るのはどうですか。キャップを深くかぶって、顔の半分を隠して撮影するなら……どう?」
 試着のたびに春希の反応を窺っていた雪の様子を見て、気を回してくれたのだろう。
「え、俺も?」
 春希が思わず立ち上がると、店長は春希の全身を改めて観察するように目を細めた。
「弟さん、背が高いし何かスポーツやってます? 肩と胸周りがしっかりしてる」
 店長はカウンターから出ると、近くのラックから一着の服を引き抜いた。ダークグリーンのオープンカラーシャツだった。
「いつもそういうダボッとした服ばかり着てるでしょ。こういう首元が開いたシャツなら、胸のがっしり感が綺麗に活かせますよ。ほら、ちょっと合わせてみて」
「でも、俺――」
「いいからいいから。似合ってたらプレゼントしますよ」
 押し付けられたシャツを持って、春希は半ば強引に試着室へと押し込まれた。



 渋谷への冒険から帰還して、あっという間のゴールデンウィークが終わる。
 学校生活は息つく暇もない。休み明けのエンジンが掛かり切らないまま、一学期の中間テスト期間が目前に迫る。

 夜、自室の机に向かっていた春希は、数式を書き込んでいたノートにシャーペンを置いて首を回した。関節が微かな音を立てる。机の隅に伏せていたスマートフォンの画面が、点滅していた。
「姉ちゃんか……」
 画面を表に返すと、ロック画面に夏美からのメッセージ通知が表示されている。プレビュー画面で本文を表示させた。
『笠松さんから、あんたと雪君に御礼言っといてって連絡きてたわよ。SNSのことで』
「古着屋の店長さんか。SNSのことで――あ」
 喉の奥で呟き、春希は親指をスライドさせてSNSアプリを立ち上げた。検索履歴から、古着屋のPR用アカウントを開く。サムネイルが並ぶ画面を少し下へスクロールすると、一週間前に店の試着室の前で撮影された、春希と雪の写真が表示された。店長の提案通り、二人とも目深にキャップを被り、顔の半分以上がブリムの落とす影に隠れている。

 雪は青いキャップに合わせて、くすんだブルーグレーのオーバーサイズの半袖シャツを羽織り、太めのベージュのチノパンを合わせている。ストリートを意識したゆるいシルエットなのに、だらしなさがない。
 その隣で、春希は胸元が広めに開いたダークグリーンのオープンカラーシャツに、黒のストレートパンツを合わせ、ポケットに両手をつっこみ、どう見てもぎこちない立ち方をして所在なげに収まっていた。
 キャプションには、『初々しい、新高校生のお客様。友達コーデを組ませていただきました』と添えられている。

「ん?」
 画面に映る自分の不自然な立ち姿に視線を泳がせ、アプリを閉じようとした春希の指が、ふと止まった。投稿の右下に並ぶハートの数字と、吹き出しマークの横に表示された件数が目につく。画面をスクロールしてアカウント内の前後の投稿をいくつか確認してみると、普段の投稿に比べ、自分たちの写真の数字が二倍に跳ね上がっていた。
「雪効果か……すごいな。顔隠れてんのに」
 ぽつりと呟き、吹き出しのマークをタップした。コメント欄がすっと下から現れる。
『最近の子は、スタイルが良いですね!』
『顔を隠していてもわかる雰囲気、かっこいい』
『仲良しな感じが伝わってきてほっこり』
「……」
 画面上の文字を追うにつれて、くすぐったさが喉にこみあげる。

「――そういえば」
 アカウントを『2ki_days』に切り替えた。タイムラインの一番上に表示されたのは、先ほどの古着屋の試着室で撮影した一枚だった。
 二人の背後から肩越しに掲げられたスマートフォン。正面の小さな鏡に映っているのは、二つの背中。顔は一切写っていない。試着室の狭い鏡になんとか収まるようにくっついたり角度を模索しながら、雪が何度も位置を調整して撮った写真だった。
 キャプションには、控えめに文字が並んでいる。
『古着屋さんで、はじめての買い物。* #友達 #古着屋』
「え……」
 春希の喉から小さな声が漏れた。その投稿には、ハートのマークが二十個。そして何より、吹き出しマークの横に「1」、親指を立てた絵文字がひとつ。初めてのコメントだった。プロフィール画面に戻ると、フォロワー数がいつの間にか五十にまで達していた。
「……」
 背筋の奥を、悪寒にも似た痺れが、一瞬だけ駆け抜けた。
 あの狭い試着室の鏡の前で雪と二人、互いの肩が触れ合う距離――それが画面の向こうの見知らぬ誰かに届き、肯定されたことが、胸の底の静かな水面をわずかに揺らす。
 春希自身、その揺らぎの正体を、まだ言葉にできずにいた。



 五月下旬。
 中間テストが終わると、六月に控えた体育祭に向けての準備が一斉に始まる。
 楠原高校の体育祭は、学年を縦に割った三つのチーム――A組、B組、C組チーム――で競い合う仕組みになっている。目玉となる応援合戦やダンスの演目は、それぞれのチームの上級生たちが主導して企画や振り付けを行い、そこに出演するメンバーを指名して「選抜」していくのが毎年の恒例だった。

「遠野君って、いる?」
 昼休みの騒々しい教室、入り口の扉から顔を覗かせていたのは、三年生の男女だ。着崩した制服に、整えられた髪。いかにも学年の中心にいる一軍といった佇まいに、教室内が一瞬だけざわついた。
「っぇ……」
 窓際で春希の席の側に立っていた雪が、肩を跳ねさせた。反射的に身を縮め、春希の背中へ隠れるように張り付く。
「あ、いたいた。やっぱすぐ分かるね〜」
 教室の奥に視線を定めた三年生の女子が、屈託のない笑みを浮かべてずかずかと歩み寄ってきた。後ろから男子生徒もついてくる。
「体育祭の応援合戦に、出てくれないかな」
 女子生徒の口から出た言葉に、周囲の席にいたクラスメイトたちが息を呑む気配がした。
 応援合戦やダンスは、各チームの中でも特に華のある目立つ生徒たちが選ばれ、大半は上級生でメンバーが固められる傾向にある。そこに一年生が、しかも入学して間もないこの時期に直接スカウトされるというのは異例だ。

 固唾を呑んだ視線が、壁になっている春希へと集まった。
「――すみません、先輩」
 春希は、背中にすがる雪を庇うように、半歩だけ前へ出た。
「遠野、呼吸器系の問題があって、この間もそれで早退してるんです」
 嘘はついていない。事実だけを切り取った妙に説得力のある返しに、三年生の二人は一瞬、顔を見合わせて表情を曇らせた。
「す、すみません……僕……」
 春希の背後から、ひどく細い声が漏れる。春希のシャツを、白い指先が強く握りしめていた。小動物のように怯えた一年生を前に、三年生たちの顔に戸惑いが浮かぶ。
「そっか。じゃあ無理できないね。ごめんね、急に」
「お大事になー」
 二人はあっさりと引き下がり、来た時と同じような軽い足取りで教室を出て行った。廊下へ遠ざかる気配が完全に消えると、堰を切ったように教室内がざわめきを取り戻す。

「ふー……」
 春希の背中に隠れていた雪が、そっと顔を出した。小さく深呼吸をして、袖を握っていた指先の力を緩める。
「びっくりしたー」
 雪の口元には、悪戯が成功した子供のような笑みが浮かんでいた。怯えて血の気が引いた痛々しさは、もうどこにもない。
「お前、わざとか」
 呆れたように春希が言うと、雪はわざとらしく目を丸くした。
「えー、なんのこと」
 とぼけた声を出して、春希のシャツから手を離し、皺を伸ばす。
「うわ、悪質」
 春希が低く呟いて眉をひそめると、雪は肩を揺らして、ふふっ、と息をこぼすように笑った。それから、少しだけ真面目な顔つきになる。
「でも、春希がいなかったら、断れなくなって……本当に困ったと思うから」
 上目遣いに見上げる瞳には、柔らかで無防備な光が宿っていた。春希の文句は、行き場を失う。
「……分かってる。昼飯、行くか」
 時計を一瞥して、春希は机の横のフックにかけてあった弁当袋を掴んだ。
「うん」
 雪も自分の席からいつものコンビニ袋を取ってきて、春希の横に並ぶ。

 そのまま連れ立って教室の後ろの扉から廊下へと出ていく二人の背中を、いくつもの視線が静かに見送っていた。
「なんか、遠野君、ちょっとキャラ変わった?」
「あっちが素っぽいな」
 遠ざかる春希の耳に、クラスメイトの誰かが落としたさざ波のような声が、昼休みの喧騒に混じって届いた。