春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 昼休みの中庭は、その日も貸切だった。
 今日も上の階の窓から、吹奏楽の音が降っている。

「これ、食う?」
 春希は弁当のフタを裏返して、唐揚げを二つと、卵焼きを一切れ載せた。
 それを雪のほうへ差し出す。

「え」
「それじゃ少なすぎるだろ。病み上がりなのに」

 雪の膝には今日もコンビニ袋が載っていて、中身は鮭おにぎりが一つと、牛乳パック。

「でも……せっかくお母さんが作ってくれたんだから」
「胃袋に入れば、どっちでも良いんだよ」

 雪の睫毛が二度、上下した。

「……じゃあ、いただいてもいい……?」
 言うなり、雪は口を開けた。

「ん?」
「お箸、ない」
 雪は指先で、自分の頬をつつく。

「あ、ああ、そっか……」
 春希は蓋を左手に持ち替えた。
 雪に合わせて卵焼きを半分に割る。
 箸で挟んで少し迷ってから、雪の口元へ運んだ。

 雪の形の良い紅い唇が、箸先の卵焼きを迎え入れる。

「……」
 春希は箸を持ったまま、無防備な赤ん坊のように丸く白い頬が、ゆっくりと動く様子を見つめた。こくり、と華奢な喉が動く。

「……おいしい」
 雪が目を細めて、ふわりと笑った。

「そりゃ……どうも……」
 二口目を、再び雪の口へ運ぶ。

 春希は不思議な現象でも見るように、もぐもぐと動く口元を見ていた。
 クラスの、他に誰がこうして雪に食事をさせるだろうか。
 雪が、それを許すだろうか。

「唐揚げも、食う?」
 喉の奥が張りついて、声が掠れた。

「うん。欲しい」
「……ほい」

 小さな口の中で懸命に肉を咀嚼する姿を見ているうち、春希は首の裏がざわりと粟立つのを覚える。

「唐揚げも、おいしい……っ」
 二つの唐揚げを平らげると、雪は目尻を下げて笑った。丸い頬が持ち上がる。
 こんな顔をするのは、初めて見た。

「うちのは、生姜が多めなんだと」
 春希は指先に微かな痺れを覚え、慌てて視線を膝の上の弁当箱へと落とした。
 残りを、自分の口へ放り込む。

「うん。ご飯がすすむね」
 まだ口をいっぱいにしたまま、雪はおにぎりをかじった。

 頭上で、管楽器がまた同じところで音を外していた。

 春希が二段の弁当を空にしても、雪はまだおにぎりの残り半分に取り組んでいた。
 急かす必要もない。

 春希は弁当袋を膝の横に置き、ベンチの背もたれに背中を預け、首を上向かせた。校舎の壁で四角く切り取られた空を、雲が端から端まで横切っていくのに、ずいぶん時間がかかっていた。管楽器が、同じ小節でまた崩れた。

 隣で、牛乳のパックにストローが刺さる音がした。
 それから、吸い上げる小さな音が、おにぎりを飲み込む時と同じ速度と間隔で、続く。

 四角い空が、少しだけ明るくなった。

「あの……」
「ん?」
 春希は首を戻した。

 ベンチの端に浅く腰掛けたまま、雪が身じろぎした。
 ズボンのポケットに手を突っ込んで、何かを引っ張り出した。

 スマートフォンだった。
 青い本体に、透明なケース。ストラップも、シールも、何もついていない。

「お。スマホ、持ちはじめたのか」
「ううん」

 雪は首を振った。

「前から……持ってた」
「あ〜、なるほど」

 嘘をついていた理由は、察しがつく。

「誰にも言わないで……」
 雪はスマホの角を、唇に当てた。

「わかった」
 春希が頷くと、雪は中腰になって、ベンチの端から距離を詰めてきた。
 二の腕が触れ合った。

「――なに」
「昨日、春希が写真フォルダ見せてくれた時に、思ったんだ。僕と似てるかも……って」

 雪が画面をこちらへ向けた。
 小さな正方形が、びっしりと並んでいる。

 電線に止まった鳥。茂みに生えた白いキノコ。マンホール。腐葉土から生えた薄色のキノコ。水田を区切る車道の真ん中にぽつんと立つ自動販売機。木の幹を階段状に覆うキノコ。コンテナに積まれたシイタケ、マイタケ、しめじ。キノコフェアのPOP――

「キノコ率の高さが異常なんだが」
「ふふ」
 狙い通りだったのか、雪は嬉しそうに肩を揺らした。

「借りた本がけっこう面白くて……意識して探すようになっちゃった」
「そんなにか」
 春希が画面から顔を上げると、
「――うん」
 雪も顔を上げた。

 お互いの吐息が鼻先を掠める距離。

「……あ」
 思わず、春希は雪のスマホへ視線を落とした。
 写真フォルダの中にある一枚を、指差す。
 春希が貸した文庫本、「毒キノコの世界」の表紙を正面から写したものだ。

「何でわざわざ、こんなん写してんだよ」
 春希は苦笑しながら、サムネイルをタップした。

 写真が画面に大写しになる。
 文庫本の角に、白い指が写り込んでいた。
 学校ではないどこか室内、ベージュ色の壁を背景に、片手で文庫本を持って撮影したようだ。

「記念……みたいなもの」
「何の記念だよ」

 春希は、スマホを軽く雪の方へ押し戻す。
 雪の口元から、笑いきらない小さな吐息が漏れた。

 視界の端で、雪がスマホを両手で包み込むようにして俯くのが見えた。
 落ちた前髪の影になって、春希からは、どんな表情をしているのかが窺えない。

「あー……、えっと」
 腹の底から、もぞもぞと微かな痒みのようなものが這い上がってくる。
 春希は短く息を吐いて、それを飲み下した。

「その写真、送ってよ」
 え、と隣で雪が動く気配がした。

「日記に載せてもいい?」
「日記……?」

 春希はズボンのポケットから自分のスマホを取り出した。
 画面を操作してアプリを開き、雪のほうへ傾ける。

 表示されたのは、あるSNSのマイページだ。
 灰色のデフォルトアイコンの横に、「hki_days」というアカウント名。

 プロフィール欄には「高校生になりました」の一行だけがある。
 フォロワー数は二十人程度で、フォロー数のほうがわずかに多い。

 その下に並ぶ写真は、空を映す水たまり、散った桜の花びら、給水塔、夜のコンビニの看板、錆びた自転車のスタンド、プールのチケット――

「これ、俺のアカウント」
「SNS……?」
「全然、数字とかないけど。まあ、日記代わりだからそれで良いんだけどさ」

 名前も顔も出していない、匿名のアカウントだ。

「hkiは春希、かな……days……ださ」
「そこはつっこむな。作ったの中二だったからしゃーない」
「ふふ。あ、でもハート、ついてるね」

 雪が画面の一点をつついた。
 公園の片隅に、一本だけ立っている桜の写真の投稿だった。

「反応なんて、月に一回あるかないかだよ」
 春希は指で画面を軽く弾いた。

「もしかしたら、同じものを見た近所の人かな、とか想像するのがちょっと面白い……ぐらいで」
「へぇ〜……中学からって、すごいね」
 雪の瞳が、磨かれた石のように、画面の光を返していた。

「文字を書く日記だと続かないけどな」
「ここに、僕が撮った写真を載せてくれるの?」
「友達が撮った写真、って書く。変な本を貸した記念ってことで」
「何の記念――いいよ」
 雪の整った顔のパーツが、くしゃりと崩れて、愛嬌のある貌になる。

「んじゃ、えっと……メッセージID、交換しとくか」
「うん」

 調子外れのメロディが降り注ぐ中、二人はスマホを向け合った。
 青いケースと、黒いケース。短い電子音が二つ、続けて鳴った。

 この日、hki_days に新たな投稿が上がった。

 友達が撮った写真。本を貸したら、気に入ったらしい。
 #友達 #毒キノコの世界

 と、キャプションとタグが書かれた投稿に貼られた、「毒キノコの世界」の表紙写真。

 投稿から四時間後にはハートマークが二つ、一晩明けたらさらに一つ、増えていた。