課題と水泳の自主練を繰り返しているうちに、ゴールデンウィークは後半に突入していた。
夜、自室のベッドに寝転がっていた春希の胸元で、スマートフォンが短い振動を連続させた。画面にポップアップした名前を見て、春希は顔をしかめる。
「げ……姉ちゃん」
送り主は、八つ年の離れた姉の夏美だ。すでに実家を出ており、今は都内でフリーのヘアメイクやスタイリストとして働いている。ロックを解除してトーク画面を開くと、緑色の吹き出しが一方的に画面を埋め尽くしていた。
『あんた明日ヒマ?』
『リビングのテーブルに私の13インチのiPad置きっぱなしになってない?』
『それ持って、明日の昼までに渋谷のスタジオに来て!』
『言っとくけどスマホの画面じゃメイクの細かい色味見えないの! モデルに説明もできないし!』
『交通費と昼飯代も出すから!』
画面をスクロールしながら、春希は歯軋りする。
「……逆ギレしてんなよ。ってか決定事項かよ」
悔しいことに、明日の予定は空いている。
「昼奢ってくれるなら、ついでに買い物しに行くかな」
春希はベッドから身を起こし、部屋の隅にあるタンスの引き出しを開けた。部活のプール開きに向けて、そろそろ練習用の水着や劣化したゴーグルを新調しなければと考えていたところだ。
その時、手元の画面が再び明るくなった。また姉からの追撃かと思って覗き込むと、雪だった。
『春希、明日は部活だっけ?』
春希は引き出しを閉め、文字を打つ。
『いや、姉ちゃんのパシリで渋谷。ついでに部活の買い物しよっかなと思ってたところ』
数秒後に返ってきた言葉は、予想外のものだった。
『渋谷かぁ。行ってみたいな』
春希は小さく呟いた。
「行ったことないのか……? 渋谷」
引っ越してきたとは聞いていたが、以前は遠い地方にでも住んでいたのだろうか。
『一緒に来る? 人混みと、うちの姉ちゃんがいるのが平気なら』
画面にすぐ「既読」の文字がつく。
『バイト代入ったから、僕も服買いたいと思ってたとこ。持ってるシャツがちっちゃくなっちゃって。春希のお姉さん会ってみたいな』
春希の指先が、画面の上で止まる。
「……バイト……そっ、か……」
少しだけ迷って、返信を打つ。
『姉ちゃんが昼飯奢ってくれるっていうから、付き合ってよ』
送信した途端、雪から両手を上げて喜ぶキャラクターのスタンプが返ってきた。
春希は待ち合わせの場所と時間を送ってから、夏美とのトーク画面に戻り、通話ボタンをタップした。五回目のコール音の途中で、通話が繋がる。
『春希〜!? 明日来てくれるわよね!?』
スピーカー越しに、人の話し声やドライヤーのようなモーター音が騒がしく聞こえてくる。その喧騒を押し退けて、夏美が声を張り上げていた。
「友達もつれてっていい? 昼飯二人分、奢ってくれるなら行く」
回線の向こうで、はっ、と息を呑む音がした。
『春希……あんた、友達なんていたの!? 何よ〜高校生活、青春してんじゃーん!』
「悪かったな、ぼっちで」
『友達と遊ぶのはいいけど、あんた将来どうすんの? 二年で文理選択あるでしょ。パパの事務所継ぐなら理系一択だけど』
いきなり進路の話へと切り替わり、春希はスマートフォンを耳から少し遠ざけて片目をすがめた。
「まだ……決めたわけじゃない」
スマ―トフォンを耳に当てたまま、ベッドに再び転がる。天井を仰ぎながら、声のトーンを落とした。
姉の夏美は昔から、せっかちに見えるほど決断が早くて行動力がある。中学生の頃から「将来は美容の仕事をする」と決め、高校の三年間をその準備に費やした。卒業と同時に実家を出て専門学校へ進み、厳しいアシスタント修行を経てフリーとして独立し、今は多方面を飛び回っている。ただなんとなく日々をやり過ごしている今の自分とは、完全に真逆の生き方だ。
回線の向こうで、これみよがしなため息がした。
『甘いわね。よっぽど「これだ!」ってことがないなら、とりあえずレールに乗っとくのも賢い手よ』
「レールって言われると、なんかムカつくな」
『安定は悪いことじゃないわよ。とりあえず今は見えている道を歩きながら、周りを見渡してみてもいいんじゃない?』
「……なるほど」
悔しいが、夏美の例えがすんなりと胸に落ちてきた。
『ま。もうちょっと悩んでみなさいな、若者よ』
「うるせえ。明日、ちゃんと奢れよ――あ、そうだ、姉ちゃん」
『ん?』
「明日連れてくやつなんだけど」
『友達のこと?』
「ちょっと、色々あって……。見りゃわかると思うけど、見た目をいじったり、モデルやれば、とか絶対言うなよ」
『は? なによそれ』
「じゃな!」
春希は赤いボタンを押し、一方的に通話を切る。急に、部屋が静かになった。
*
翌朝、午前十時。待ち合わせ場所の、楠原駅の改札前。
予定としては、十一時少し前に渋谷へ到着し、まずはスポーツ用品店で水泳部の練習用水着とゴーグル、陸練用のシューズを買う。それからスタジオへ向かって夏美と合流し、約束通り昼食を奢ってもらってから、雪の服を見るという流れだ。
春希が改札へ向かうと、太い柱にもたれて手元のスマートフォンを覗き込んでいる雪の姿がすでに見えた。グレーのパーカーにジーンズ、肩にはキャンバス地のトートバッグという、ふるさと村へ出かけた時と同じ装いだ。
そんなありふれた服装であっても、雪の姿は奇妙なほど人目を惹いた。肌が透けるように白いせいか、そこだけ光を集めたように輪郭が浮き出て見える。行き交う人々が、老若男女を問わず、通りすがりに僅かに首を向けていく。雪はスマートフォンの液晶に目を落としたまま、前髪を何度も指先で摘んで引っ張り、どうにか目元を隠そうとしていた。
(使ってないキャップとか、持ってきてやれば良かったかな……)
芸能人とマネージャーじゃあるまいし、と春希は内心で息を吐いた。
「雪」
春希が声をかけると、弾かれたように顔が上がる。春希を見つけた瞬間、強張っていた白い頬に、ぱっと赤い色が差した。
「春希」
名前を呼びながら、小走りでこちらへ向かってくる。
「……」
その姿を迎えるほんの一瞬に、春希の脳裏を妙な雑念が通り過ぎた。男なら、こんな風に女子と待ち合わせる場面を一度は思い描くものだが、それが違う形で叶ってしまったような、奇妙な感覚だった。
周囲から集まる無数の視線が、雪を経由して春希へと刺さる。不釣り合いだと値踏みされる空気を肌で感じながら、春希は手にしたスマートフォンで改札を示した。
「行こか」
「うん!」
まとわりつく視線をかき分けるようにして、二人は改札を抜けた。
楠原は急行通過駅だ。渋谷までは各駅停車で四十分弱の道のりになる。少しでも人の少ない場所をと考え、春希は最後尾の車両の端の席を選んだ。それでも、川を渡って都内へと入ると、途端に乗車率は跳ね上がった。
座っている二人の目の前には、吊り革を握る乗客の背中が三重の壁を作っている。雪は始終うつむいたまま、春希のスウェットの袖口に、自分の腕をぴったりとくっつけていた。
渋谷の地下深くのホームに降り立つと、生温かくて重い、地下鉄特有の空気が体を包んだ。頭上にいくつもぶら下がる黄色い案内板を頼りに、春希は幾筋にも交差する通路を辿って、地上を目指す。
雪は電車を降りてからというもの、春希のスウェットの袖を指先で強く握りしめている。迷子になれば二度と戻れないとでも思っているようで、必死だ。
「凄い……外国人が多いんだね」
狭い水中トンネルを潜り抜けるような息苦しさの中、雪が周囲を見回して小さな声を上げた。聞き慣れない言語が飛び交い、地元では見かけない多国籍な波が渦巻いている。長い地下道を抜け、ハチ公口から地上へと出た。待ち合わせの定番であるはずの銅像は、背の高い観光客たちの壁に阻まれて、耳すらも見えなかった。
「わ……ここって、スクランブル交差点ってやつ?」
「初めてか?」
「うん……! すごい人がいっぱい」
駅前広場の先に広がる巨大な交差点を見つめ、雪が目を丸くする。見渡す限り、行き交う人々の八割近くが、スマートフォンやカメラを構えた外国人観光客だ。春希は信号待ちの列の後ろで、雪と共に足を止めた。
「この交差点を渡って、センター街ってところを抜けて、その先にスポーツ用品店がある。姉ちゃんとの待ち合わせも、そっち方面だから」
春希が横断歩道の先を指さすと、雪はそちらへ首を伸ばし、うんうんと頷いた――その時だった。
「――そこの君。ちょっといいかな」
不意に、雪の斜め後ろから声が掛かった。
*
「え?」
振り返ると、初夏には少し暑苦しい、細身の黒いジャケットを着た男が立っていた。きっちりとセットされた髪に、口元の端だけを持ち上げた愛想の良い笑み。男は春希に目もくれず、真っ直ぐに雪の顔だけを値踏みするように見つめていた。
「事務所はもう入ってる? もしまだだったら、芸能関係のお仕事は興味ないかな」
男が滑らかな口調で言いながら、内ポケットから取り出した名刺を差し出す。信号待ちをする観光客たちが、何事かと振り向いた。
「っぇ……ぁの……」
雪は息を呑み、反射的に春希の背後へと半歩下がった。春希のスウェットの袖が、強く引かれる。
「すみません、急いでるんです」
春希は雪を背中で庇うように立ち塞がった。男はわずかに眉を動かしたが、すぐに人当たりの良い笑みを崩さず、「ごめんね。気が向いたら連絡してね」と、春希の手へ強引に名刺を握らせた。
「行くぞ」
「う、うん……」
青信号を知らせる電子音が鳴り出す。信号待ちをしていた観光客たちが一斉に流れ出し、人の流れに隠れるように春希は雪を引いて進んだ。センター街の入り口まで辿り着く。巨大なビジョンから大音量の音楽が流れ、飲食店の油と香辛料の匂いが立ち込めた。
「すみません、お兄さんたち」
今度は、オーバーサイズのパーカーを着た若い男が立ち塞がった。首から大きな一眼レフカメラを下げている。
「僕、写真家で、ストリートスナップを撮っているところなんだけど、お兄さんめちゃくちゃ雰囲気あるなと思って。良かったら撮らせてくれませんか?」
レンズを向けられそうになり、雪は春希の腕の後ろへ完全に顔を隠した。
「すみません、写真、苦手みたいで」
春希が短く告げて横を通り抜けようとすると、男は「残念。もったいないな」と不満げに鼻を鳴らしながらも、「じゃあこれだけでも」と名刺を雪のトートバッグの縁に滑り込ませた。
雑踏の中を数分進んだ、ファストフード店の前。
「君、モデルやってみない?」
派手な柄シャツを着た、日焼けした男が並走してきた。
「〇〇とか△△ってモデルや俳優、聞いたことある? その事務所なんだけど、君ならすぐにでもデビューいけるよ」
男の香水とタバコが混ざったような強い臭いが鼻をつく。男は巧みに、春希と雪の行く手へ体を割り込ませてきた。
「っ……」
雪の息遣いが、春希のすぐ耳元で浅く、速くなり始めていた。
「すみません、興味ないみたいです」
春希が低い声で牽制すると、男は肩をすくめて名刺を雪のパーカーのポケットに差し込んだ。
「気が向いたら、連絡してみて」
香水とタバコの臭いを振り切って直進する。
プリクラやガチャガチャが並ぶゲームセンターの入り口付近で、今度はパンプスの音を響かせて女性が近づいてきた。
「突然ごめんなさい。私、こういう者です」
ネイビーのスーツを隙なく着こなした女性が、両手で丁寧に名刺を差し出してきた。
「あなたのその雰囲気、映像や写真で絶対に美しく映えると思うんです。お時間あれば、お話だけでも聞いていただけませんか」
「……」
女性の落ち着いた声音に、雪は少しだけ顔を上げたが、周囲でスマートフォンのカメラを向けている通行人たちの姿に気づき、再び春希の背中へ顔を埋める。
「そういうの、ちょっと怖いみたいで」
春希が女性の手から名刺を受け取り、軽く頭を下げて歩き出す。
「ごめんなさい、怖がらせてしまって。受け取ってくれてありがとう」
女性はそれ以上追ってはこなかったが、その視線はいつまでも雪の背中を見つめていた。
スポーツ用品店の青い看板がようやく見えてきた交差点の角。
「アイドル興味ない?」
金髪に色付きのサングラスをかけた男が、正面から雪の肩へ手を伸ばしてきた。
「ひっ……」
雪の喉の奥から、くぐもった吐息が漏れた。
「今度新しいボーイズグループ作るんだけどさ」
春希は反射的に雪の腕を引き寄せ、男の手を払いのけるように間へ入る。
「すみません、興味ないです」
春希が代わりに断ると、男は「メガネ君に訊いてないんだけど?」と嘲笑いながら、黒い名刺を雪の胸元へ押し付けてきた。春希は雪の肩を抱き寄せ、逃げるようにスポーツ用品店の自動ドアへ滑り込んだ。
「はぁ……」
冷房の効いた静かな店内に入り、春希はようやく小さく息を吐き出した。
「本当にいるんだな、ああいうの」
もしかしたら一人くらいは雪に声がかかるかも――という予想は甘すぎた。
「雪」
春希は雪の肩から手を離すが、雪の手は春希のスウェットの裾を握りしめたまま、俯いている。
「ごめんね……びっくりしちゃって、僕……」
絞り出された声は、震えていた。
「失礼な奴らばっか。あれでOKもらえるわけないのにな。丁寧な人もいたけど」
春希が店のガラス窓から外を見やる。さきほどの金髪サングラスが、次のターゲットを探して交差点周辺をウロウロしていた。
「先に、キャップ買うぞ」
「え……」
春希は戸惑う雪の腕を引いて、野球コーナーへ移動した。
スポーツ用品店での買い物を手早く済ませてから、春希たちは夏美の指定したスタジオのあるビルへと向かった。
雪の頭には、青いキャップが目深に被せられている。それでも、宇田川通りを奥へと進む間に、もう一人から声を掛けられた。カットモデルを探しているという若い美容師だった。丁寧な物腰だったが、春希はそれも丁重に断り、雪の腕を引いて歩くペースを上げた。
観光客の姿が急に途切れる。コンクリートの壁に囲まれた小さな保育園を通り過ぎると視界が開け、新しく再開発されたオフィスビルエリアに出る。綺麗に整えられた植木に縁取られた小径。その石ベンチに、見覚えのある人影が座っていた。
「あ、春希〜!」
こちらに気づいた人影――姉の夏美が、大きく手を振って立ち上がる。黒のタイトなノースリーブの上に、風をはらむ透け感のあるオーバーサイズのシャツを羽織り、ワイドパンツを合わせている。無造作に束ねられた髪の隙間や首元で、大ぶりなシルバーのアクセサリーが光っていた。
地元にいる時と変わらない遠慮のない声量に、テラス席でコーヒーを飲んでいた会社員たちが振り返る。春希は少しだけ肩をすくめながら、「あれ姉ちゃん」と背後の雪へ短く目配せをした。
「あら」
春希の背中に隠れるようにしてついてくる細身の影に気づき、夏美の足が止まった。その目が、雪のキャップのつばからスニーカーの爪先までを二度往復するのを、春希は見た。だが夏美はすぐに表情を緩め、いつもの「姉ちゃん」の顔を作って駆け寄る。
「助かった〜〜、来てくれてありがとね!」
春希がリュックから取り出したケース入りのタブレットを受け取ると、夏美はそれを肩に掛けた大きなレザーバッグへ滑り込ませた。
「春希のお友達かな? はじめまして〜、姉の夏美です。弟と仲良くしてくれてありがと〜」
「あ……す、すみません。遠野雪といいます。こちらこそ……」
雪が慌てたようにキャップを脱ぎ、夏美へ深く頭を下げた。落ちていた前髪が揺れ、白い顔が露わになる。
「――雪君ね」
夏美の視線が雪の顔に釘付けになった後、ふっと瞬きをして春希の方へ向いた。
「なに食べたい? このあたりなら、何でもあるよ。ガツンと肉系でも、おしゃれ〜なカフェでも」
指折りに候補を挙げながら、夏美の視線が春希と雪の顔を交互に行き来する。
「静かめなところが、いいかな」
「おっけ〜」
春希の要望に、夏美は心得たと深く頷いてみせた。
夜、自室のベッドに寝転がっていた春希の胸元で、スマートフォンが短い振動を連続させた。画面にポップアップした名前を見て、春希は顔をしかめる。
「げ……姉ちゃん」
送り主は、八つ年の離れた姉の夏美だ。すでに実家を出ており、今は都内でフリーのヘアメイクやスタイリストとして働いている。ロックを解除してトーク画面を開くと、緑色の吹き出しが一方的に画面を埋め尽くしていた。
『あんた明日ヒマ?』
『リビングのテーブルに私の13インチのiPad置きっぱなしになってない?』
『それ持って、明日の昼までに渋谷のスタジオに来て!』
『言っとくけどスマホの画面じゃメイクの細かい色味見えないの! モデルに説明もできないし!』
『交通費と昼飯代も出すから!』
画面をスクロールしながら、春希は歯軋りする。
「……逆ギレしてんなよ。ってか決定事項かよ」
悔しいことに、明日の予定は空いている。
「昼奢ってくれるなら、ついでに買い物しに行くかな」
春希はベッドから身を起こし、部屋の隅にあるタンスの引き出しを開けた。部活のプール開きに向けて、そろそろ練習用の水着や劣化したゴーグルを新調しなければと考えていたところだ。
その時、手元の画面が再び明るくなった。また姉からの追撃かと思って覗き込むと、雪だった。
『春希、明日は部活だっけ?』
春希は引き出しを閉め、文字を打つ。
『いや、姉ちゃんのパシリで渋谷。ついでに部活の買い物しよっかなと思ってたところ』
数秒後に返ってきた言葉は、予想外のものだった。
『渋谷かぁ。行ってみたいな』
春希は小さく呟いた。
「行ったことないのか……? 渋谷」
引っ越してきたとは聞いていたが、以前は遠い地方にでも住んでいたのだろうか。
『一緒に来る? 人混みと、うちの姉ちゃんがいるのが平気なら』
画面にすぐ「既読」の文字がつく。
『バイト代入ったから、僕も服買いたいと思ってたとこ。持ってるシャツがちっちゃくなっちゃって。春希のお姉さん会ってみたいな』
春希の指先が、画面の上で止まる。
「……バイト……そっ、か……」
少しだけ迷って、返信を打つ。
『姉ちゃんが昼飯奢ってくれるっていうから、付き合ってよ』
送信した途端、雪から両手を上げて喜ぶキャラクターのスタンプが返ってきた。
春希は待ち合わせの場所と時間を送ってから、夏美とのトーク画面に戻り、通話ボタンをタップした。五回目のコール音の途中で、通話が繋がる。
『春希〜!? 明日来てくれるわよね!?』
スピーカー越しに、人の話し声やドライヤーのようなモーター音が騒がしく聞こえてくる。その喧騒を押し退けて、夏美が声を張り上げていた。
「友達もつれてっていい? 昼飯二人分、奢ってくれるなら行く」
回線の向こうで、はっ、と息を呑む音がした。
『春希……あんた、友達なんていたの!? 何よ〜高校生活、青春してんじゃーん!』
「悪かったな、ぼっちで」
『友達と遊ぶのはいいけど、あんた将来どうすんの? 二年で文理選択あるでしょ。パパの事務所継ぐなら理系一択だけど』
いきなり進路の話へと切り替わり、春希はスマートフォンを耳から少し遠ざけて片目をすがめた。
「まだ……決めたわけじゃない」
スマ―トフォンを耳に当てたまま、ベッドに再び転がる。天井を仰ぎながら、声のトーンを落とした。
姉の夏美は昔から、せっかちに見えるほど決断が早くて行動力がある。中学生の頃から「将来は美容の仕事をする」と決め、高校の三年間をその準備に費やした。卒業と同時に実家を出て専門学校へ進み、厳しいアシスタント修行を経てフリーとして独立し、今は多方面を飛び回っている。ただなんとなく日々をやり過ごしている今の自分とは、完全に真逆の生き方だ。
回線の向こうで、これみよがしなため息がした。
『甘いわね。よっぽど「これだ!」ってことがないなら、とりあえずレールに乗っとくのも賢い手よ』
「レールって言われると、なんかムカつくな」
『安定は悪いことじゃないわよ。とりあえず今は見えている道を歩きながら、周りを見渡してみてもいいんじゃない?』
「……なるほど」
悔しいが、夏美の例えがすんなりと胸に落ちてきた。
『ま。もうちょっと悩んでみなさいな、若者よ』
「うるせえ。明日、ちゃんと奢れよ――あ、そうだ、姉ちゃん」
『ん?』
「明日連れてくやつなんだけど」
『友達のこと?』
「ちょっと、色々あって……。見りゃわかると思うけど、見た目をいじったり、モデルやれば、とか絶対言うなよ」
『は? なによそれ』
「じゃな!」
春希は赤いボタンを押し、一方的に通話を切る。急に、部屋が静かになった。
*
翌朝、午前十時。待ち合わせ場所の、楠原駅の改札前。
予定としては、十一時少し前に渋谷へ到着し、まずはスポーツ用品店で水泳部の練習用水着とゴーグル、陸練用のシューズを買う。それからスタジオへ向かって夏美と合流し、約束通り昼食を奢ってもらってから、雪の服を見るという流れだ。
春希が改札へ向かうと、太い柱にもたれて手元のスマートフォンを覗き込んでいる雪の姿がすでに見えた。グレーのパーカーにジーンズ、肩にはキャンバス地のトートバッグという、ふるさと村へ出かけた時と同じ装いだ。
そんなありふれた服装であっても、雪の姿は奇妙なほど人目を惹いた。肌が透けるように白いせいか、そこだけ光を集めたように輪郭が浮き出て見える。行き交う人々が、老若男女を問わず、通りすがりに僅かに首を向けていく。雪はスマートフォンの液晶に目を落としたまま、前髪を何度も指先で摘んで引っ張り、どうにか目元を隠そうとしていた。
(使ってないキャップとか、持ってきてやれば良かったかな……)
芸能人とマネージャーじゃあるまいし、と春希は内心で息を吐いた。
「雪」
春希が声をかけると、弾かれたように顔が上がる。春希を見つけた瞬間、強張っていた白い頬に、ぱっと赤い色が差した。
「春希」
名前を呼びながら、小走りでこちらへ向かってくる。
「……」
その姿を迎えるほんの一瞬に、春希の脳裏を妙な雑念が通り過ぎた。男なら、こんな風に女子と待ち合わせる場面を一度は思い描くものだが、それが違う形で叶ってしまったような、奇妙な感覚だった。
周囲から集まる無数の視線が、雪を経由して春希へと刺さる。不釣り合いだと値踏みされる空気を肌で感じながら、春希は手にしたスマートフォンで改札を示した。
「行こか」
「うん!」
まとわりつく視線をかき分けるようにして、二人は改札を抜けた。
楠原は急行通過駅だ。渋谷までは各駅停車で四十分弱の道のりになる。少しでも人の少ない場所をと考え、春希は最後尾の車両の端の席を選んだ。それでも、川を渡って都内へと入ると、途端に乗車率は跳ね上がった。
座っている二人の目の前には、吊り革を握る乗客の背中が三重の壁を作っている。雪は始終うつむいたまま、春希のスウェットの袖口に、自分の腕をぴったりとくっつけていた。
渋谷の地下深くのホームに降り立つと、生温かくて重い、地下鉄特有の空気が体を包んだ。頭上にいくつもぶら下がる黄色い案内板を頼りに、春希は幾筋にも交差する通路を辿って、地上を目指す。
雪は電車を降りてからというもの、春希のスウェットの袖を指先で強く握りしめている。迷子になれば二度と戻れないとでも思っているようで、必死だ。
「凄い……外国人が多いんだね」
狭い水中トンネルを潜り抜けるような息苦しさの中、雪が周囲を見回して小さな声を上げた。聞き慣れない言語が飛び交い、地元では見かけない多国籍な波が渦巻いている。長い地下道を抜け、ハチ公口から地上へと出た。待ち合わせの定番であるはずの銅像は、背の高い観光客たちの壁に阻まれて、耳すらも見えなかった。
「わ……ここって、スクランブル交差点ってやつ?」
「初めてか?」
「うん……! すごい人がいっぱい」
駅前広場の先に広がる巨大な交差点を見つめ、雪が目を丸くする。見渡す限り、行き交う人々の八割近くが、スマートフォンやカメラを構えた外国人観光客だ。春希は信号待ちの列の後ろで、雪と共に足を止めた。
「この交差点を渡って、センター街ってところを抜けて、その先にスポーツ用品店がある。姉ちゃんとの待ち合わせも、そっち方面だから」
春希が横断歩道の先を指さすと、雪はそちらへ首を伸ばし、うんうんと頷いた――その時だった。
「――そこの君。ちょっといいかな」
不意に、雪の斜め後ろから声が掛かった。
*
「え?」
振り返ると、初夏には少し暑苦しい、細身の黒いジャケットを着た男が立っていた。きっちりとセットされた髪に、口元の端だけを持ち上げた愛想の良い笑み。男は春希に目もくれず、真っ直ぐに雪の顔だけを値踏みするように見つめていた。
「事務所はもう入ってる? もしまだだったら、芸能関係のお仕事は興味ないかな」
男が滑らかな口調で言いながら、内ポケットから取り出した名刺を差し出す。信号待ちをする観光客たちが、何事かと振り向いた。
「っぇ……ぁの……」
雪は息を呑み、反射的に春希の背後へと半歩下がった。春希のスウェットの袖が、強く引かれる。
「すみません、急いでるんです」
春希は雪を背中で庇うように立ち塞がった。男はわずかに眉を動かしたが、すぐに人当たりの良い笑みを崩さず、「ごめんね。気が向いたら連絡してね」と、春希の手へ強引に名刺を握らせた。
「行くぞ」
「う、うん……」
青信号を知らせる電子音が鳴り出す。信号待ちをしていた観光客たちが一斉に流れ出し、人の流れに隠れるように春希は雪を引いて進んだ。センター街の入り口まで辿り着く。巨大なビジョンから大音量の音楽が流れ、飲食店の油と香辛料の匂いが立ち込めた。
「すみません、お兄さんたち」
今度は、オーバーサイズのパーカーを着た若い男が立ち塞がった。首から大きな一眼レフカメラを下げている。
「僕、写真家で、ストリートスナップを撮っているところなんだけど、お兄さんめちゃくちゃ雰囲気あるなと思って。良かったら撮らせてくれませんか?」
レンズを向けられそうになり、雪は春希の腕の後ろへ完全に顔を隠した。
「すみません、写真、苦手みたいで」
春希が短く告げて横を通り抜けようとすると、男は「残念。もったいないな」と不満げに鼻を鳴らしながらも、「じゃあこれだけでも」と名刺を雪のトートバッグの縁に滑り込ませた。
雑踏の中を数分進んだ、ファストフード店の前。
「君、モデルやってみない?」
派手な柄シャツを着た、日焼けした男が並走してきた。
「〇〇とか△△ってモデルや俳優、聞いたことある? その事務所なんだけど、君ならすぐにでもデビューいけるよ」
男の香水とタバコが混ざったような強い臭いが鼻をつく。男は巧みに、春希と雪の行く手へ体を割り込ませてきた。
「っ……」
雪の息遣いが、春希のすぐ耳元で浅く、速くなり始めていた。
「すみません、興味ないみたいです」
春希が低い声で牽制すると、男は肩をすくめて名刺を雪のパーカーのポケットに差し込んだ。
「気が向いたら、連絡してみて」
香水とタバコの臭いを振り切って直進する。
プリクラやガチャガチャが並ぶゲームセンターの入り口付近で、今度はパンプスの音を響かせて女性が近づいてきた。
「突然ごめんなさい。私、こういう者です」
ネイビーのスーツを隙なく着こなした女性が、両手で丁寧に名刺を差し出してきた。
「あなたのその雰囲気、映像や写真で絶対に美しく映えると思うんです。お時間あれば、お話だけでも聞いていただけませんか」
「……」
女性の落ち着いた声音に、雪は少しだけ顔を上げたが、周囲でスマートフォンのカメラを向けている通行人たちの姿に気づき、再び春希の背中へ顔を埋める。
「そういうの、ちょっと怖いみたいで」
春希が女性の手から名刺を受け取り、軽く頭を下げて歩き出す。
「ごめんなさい、怖がらせてしまって。受け取ってくれてありがとう」
女性はそれ以上追ってはこなかったが、その視線はいつまでも雪の背中を見つめていた。
スポーツ用品店の青い看板がようやく見えてきた交差点の角。
「アイドル興味ない?」
金髪に色付きのサングラスをかけた男が、正面から雪の肩へ手を伸ばしてきた。
「ひっ……」
雪の喉の奥から、くぐもった吐息が漏れた。
「今度新しいボーイズグループ作るんだけどさ」
春希は反射的に雪の腕を引き寄せ、男の手を払いのけるように間へ入る。
「すみません、興味ないです」
春希が代わりに断ると、男は「メガネ君に訊いてないんだけど?」と嘲笑いながら、黒い名刺を雪の胸元へ押し付けてきた。春希は雪の肩を抱き寄せ、逃げるようにスポーツ用品店の自動ドアへ滑り込んだ。
「はぁ……」
冷房の効いた静かな店内に入り、春希はようやく小さく息を吐き出した。
「本当にいるんだな、ああいうの」
もしかしたら一人くらいは雪に声がかかるかも――という予想は甘すぎた。
「雪」
春希は雪の肩から手を離すが、雪の手は春希のスウェットの裾を握りしめたまま、俯いている。
「ごめんね……びっくりしちゃって、僕……」
絞り出された声は、震えていた。
「失礼な奴らばっか。あれでOKもらえるわけないのにな。丁寧な人もいたけど」
春希が店のガラス窓から外を見やる。さきほどの金髪サングラスが、次のターゲットを探して交差点周辺をウロウロしていた。
「先に、キャップ買うぞ」
「え……」
春希は戸惑う雪の腕を引いて、野球コーナーへ移動した。
スポーツ用品店での買い物を手早く済ませてから、春希たちは夏美の指定したスタジオのあるビルへと向かった。
雪の頭には、青いキャップが目深に被せられている。それでも、宇田川通りを奥へと進む間に、もう一人から声を掛けられた。カットモデルを探しているという若い美容師だった。丁寧な物腰だったが、春希はそれも丁重に断り、雪の腕を引いて歩くペースを上げた。
観光客の姿が急に途切れる。コンクリートの壁に囲まれた小さな保育園を通り過ぎると視界が開け、新しく再開発されたオフィスビルエリアに出る。綺麗に整えられた植木に縁取られた小径。その石ベンチに、見覚えのある人影が座っていた。
「あ、春希〜!」
こちらに気づいた人影――姉の夏美が、大きく手を振って立ち上がる。黒のタイトなノースリーブの上に、風をはらむ透け感のあるオーバーサイズのシャツを羽織り、ワイドパンツを合わせている。無造作に束ねられた髪の隙間や首元で、大ぶりなシルバーのアクセサリーが光っていた。
地元にいる時と変わらない遠慮のない声量に、テラス席でコーヒーを飲んでいた会社員たちが振り返る。春希は少しだけ肩をすくめながら、「あれ姉ちゃん」と背後の雪へ短く目配せをした。
「あら」
春希の背中に隠れるようにしてついてくる細身の影に気づき、夏美の足が止まった。その目が、雪のキャップのつばからスニーカーの爪先までを二度往復するのを、春希は見た。だが夏美はすぐに表情を緩め、いつもの「姉ちゃん」の顔を作って駆け寄る。
「助かった〜〜、来てくれてありがとね!」
春希がリュックから取り出したケース入りのタブレットを受け取ると、夏美はそれを肩に掛けた大きなレザーバッグへ滑り込ませた。
「春希のお友達かな? はじめまして〜、姉の夏美です。弟と仲良くしてくれてありがと〜」
「あ……す、すみません。遠野雪といいます。こちらこそ……」
雪が慌てたようにキャップを脱ぎ、夏美へ深く頭を下げた。落ちていた前髪が揺れ、白い顔が露わになる。
「――雪君ね」
夏美の視線が雪の顔に釘付けになった後、ふっと瞬きをして春希の方へ向いた。
「なに食べたい? このあたりなら、何でもあるよ。ガツンと肉系でも、おしゃれ〜なカフェでも」
指折りに候補を挙げながら、夏美の視線が春希と雪の顔を交互に行き来する。
「静かめなところが、いいかな」
「おっけ〜」
春希の要望に、夏美は心得たと深く頷いてみせた。

