昼休みの中庭は、その日も貸切だった。今日も上の階の窓から、吹奏楽の音が降っている。
「これ、食う?」
春希は弁当のフタを裏返して、唐揚げを二つと、卵焼きを一切れ載せた。それを雪のほうへ差し出す。
「え」
「それじゃ少なすぎるだろ。病み上がりなのに」
雪の膝には今日もコンビニ袋が載っていて、中身は鮭おにぎりが一つと、牛乳パック。
「でも……せっかくお母さんが作ってくれたんだから」
「胃袋に入れば、どっちでも良いんだよ」
雪の睫毛が二度、上下した。
「……じゃあ、いただいてもいい……?」
言うなり、雪は口を開けた。
「ん?」
「お箸、ない」
雪は指先で、自分の頬をつつく。
「あ、ああ、そっか……」
春希は蓋を左手に持ち替えた。雪に合わせて卵焼きを半分に割る。箸で挟んで少し迷ってから、雪の口元へ運んだ。雪の形の良い紅い唇が、箸先の卵焼きを迎え入れる。
「……」
春希は箸を持ったまま、無防備な赤ん坊のように丸く白い頬が、ゆっくりと動く様子を見つめた。こくり、と華奢な喉が動く。
「……おいしい」
雪が目を細めて、ふわりと笑った。
「そりゃ……どうも……」
二口目を、再び雪の口へ運ぶ。春希は不思議な現象でも見るように、もぐもぐと動く口元を見ていた。クラスの、他に誰がこうして雪に食事をさせるだろうか。雪が、それを許すだろうか。
「唐揚げも、食う?」
喉の奥が張りついて、声が掠れた。
「うん。欲しい」
「……ほい」
小さな口の中で懸命に肉を咀嚼する姿を見ているうち、春希は首の裏がざわりと粟立つのを覚える。
「唐揚げも、おいしい……っ」
二つの唐揚げを平らげると、雪は目尻を下げて笑った。丸い頬が持ち上がる。こんな顔をするのは、初めて見た。
「うちのは、生姜が多めなんだと」
春希は指先に微かな痺れを覚え、慌てて視線を膝の上の弁当箱へと落とした。残りを、自分の口へ放り込む。
「うん。ご飯がすすむね」
まだ口をいっぱいにしたまま、雪はおにぎりをかじった。
頭上で、管楽器がまた同じところで音を外していた。
春希が二段の弁当を空にしても、雪はまだおにぎりの残り半分に取り組んでいた。
急かす必要もない。春希は弁当袋を膝の横に置き、ベンチの背もたれに背中を預け、首を上向かせた。校舎の壁で四角く切り取られた空を、雲が端から端まで横切っていくのに、ずいぶん時間がかかっていた。
管楽器が、同じ小節でまた崩れた。
隣で、牛乳のパックにストローが刺さる音がした。それから、吸い上げる小さな音が、おにぎりを飲み込む時と同じ速度と間隔で、続く。
四角い空が、少しだけ明るくなった。
「あの……」
「ん?」
春希は首を戻した。ベンチの端に浅く腰掛けたまま、雪が身じろぎした。ズボンのポケットに手を突っ込んで、何かを引っ張り出した。スマートフォンだった。青い本体に、透明なケース。ストラップも、シールも、何もついていない。
「お。スマホ、持ちはじめたのか」
「ううん」
雪は首を振った。
「前から……持ってた」
「あ〜、なるほど」
嘘をついていた理由は、察しがつく。
「誰にも言わないで……」
雪はスマホの角を、唇に当てた。
「わかった」
春希が頷くと、雪は中腰になって、ベンチの端から距離を詰めてきた。二の腕が触れ合った。
「――なに」
「昨日、春希が写真フォルダ見せてくれた時に、思ったんだ。僕と似てるかも……って」
雪が画面をこちらへ向けた。小さな正方形が、びっしりと並んでいる。電線に止まった鳥。茂みに生えた白いキノコ。マンホール。腐葉土から生えた薄色のキノコ。水田を区切る車道の真ん中にぽつんと立つ自動販売機。木の幹を階段状に覆うキノコ。コンテナに積まれたシイタケ、マイタケ、しめじ。キノコフェアのPOP――
「キノコ率の高さが異常なんだが」
「ふふ」
狙い通りだったのか、雪は嬉しそうに肩を揺らした。
「借りた本がけっこう面白くて……意識して探すようになっちゃった」
「そんなにか」
春希が画面から顔を上げると、
「――うん」
雪も顔を上げた。
互いの吐息が鼻先を掠める距離。
「……あ」
思わず、春希は雪のスマートフォンへ視線を落とした。写真フォルダの中にある一枚を、指差す。春希が貸した文庫本、「毒キノコの世界」の表紙を正面から写したものだ。
「何でわざわざ、こんなん写してんだよ」
春希は苦笑しながら、サムネイルをタップした。写真が画面に大写しになる。文庫本の角に、白い指が写り込んでいた。学校ではないどこか室内、ベージュ色の壁を背景に、片手で文庫本を持って撮影したようだ。
「記念……みたいなもの」
「何の記念だよ」
春希は、スマートフォンを軽く雪の方へ押し戻す。雪の口元から、笑いきらない小さな吐息が漏れた。視界の端で、雪がスマートフォンを両手で包み込むようにして俯くのが見えた。落ちた前髪の影になって、春希からは、どんな表情をしているのかが窺えない。
「あー……、えっと」
腹の底から、もぞもぞと微かな痒みのようなものが這い上がってくる。春希は短く息を吐いて、それを飲み下した。
「その写真、送ってよ」
え、と隣で雪が動く気配がした。
「日記に載せてもいい?」
「日記……?」
春希はポケットから自分のスマホを取り出した。画面を操作してアプリを開き、雪のほうへ傾ける。表示されたのは、あるSNSのマイページだ。灰色のデフォルトアイコンの横に、「hki_days」というアカウント名。プロフィール欄には「高校生になりました」の一行だけがある。フォロワー数は二十人程度。その下に並ぶ写真は、空を映す水たまり、散った桜の花びら、給水塔、夜のコンビニの看板、錆びた自転車のスタンド、プールのチケット――
「これ、俺のアカウント」
「SNS、やってたんだ」
「全然、数字とかないけど。まあ、日記代わりだからそれで良いんだけどさ」
名前も顔も出していない、匿名のアカウントだ。
「hkiは春希、かな……days……ださ」
「そこはつっこむな。作ったの中二だったからしゃーない」
「ふふ。あ、でもハート、ついてるね」
雪が画面の一点をつついた。公園の片隅に、一本だけ立っている桜の写真の投稿だった。
「反応なんて、月に一回あるかないかだよ」
春希は指で画面を軽く弾いた。
「もしかしたら、同じものを見た近所の人かな、とか想像するのがちょっと面白い……ぐらいで」
「へぇ〜……中学からって、すごいね」
雪の瞳が、磨かれた石のように、画面の光を返していた。
「文字を書く日記だと続かないけどな」
「ここに、僕が撮った写真を載せてくれるの?」
「友達が撮った写真、って書く。変な本を貸した記念ってことで」
「何か嬉しい」
雪の整った顔のパーツが、くしゃりと崩れて、愛嬌のある貌になる。
「んじゃ、えっと……メッセージID、交換しとくか」
「うん」
調子外れのメロディが降り注ぐ中、二人はスマホを向け合った。青いケースと、黒いケース。短い電子音が二つ、続けて鳴った。
この日、hki_days に新たな投稿が上がった。
『友達が撮った写真。本を貸したら、気に入ったらしい。 #友達 #毒キノコの世界』
と、キャプションとタグが書かれた投稿に貼られた、「毒キノコの世界」の表紙写真。
投稿から四時間後にはハートマークが二つ、一晩明けたらさらに一つ、増えていた。
*
ゴールデンウィークに入ってまもない、よく晴れた日。春希と雪は緑道を、澄んだ水音を立てる鷺野川の流れに沿ってゆっくりと歩いていた。
薄手のジップパーカーに黒いリュックを背負った春希の隣で、地味なグレーのパーカーにジーンズという装いの雪が、シンプルなキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、どこか弾むような足取りで並んでいる。
川幅がしだいに狭まり、舗装された遊歩道が、土と草の匂う小道へ変わっていく。駅から三十分ほど遡り、幹線道路を越えた先で、ふっと視界が一気に開けた。
雪が足を止め、小さく息をのんだ。
「わ……すごい、ジブリみたい!」
目の前に広がっていたのは、一面の田と畑。整然と区切られた水田にはたっぷりと水が張られ、五月の青空と白い雲を鮮明に映し出している。大きなビルも人工的な構造物もなく、青々とした小高い丘が農村を囲んでいる。空を映す鏡が無数に敷き詰められた光景へ、雪はスマートフォンのレンズを向けた。
「小学校の遠足とかで来たことなかったか?」
春希が尋ねると、雪はレンズから目を離さずに首を振った。
「うん。僕、途中で引っ越してきたから。受験の時から、ずーっと川を遡って歩いてみたいって思ってたんだ」
眩しそうに目を細めた雪は、そのまままっすぐに伸びる畦道へと踏み出した。並んで歩きながら、雪が不意に片手を高く掲げ、水面に向けてシャッターを切る。
「見て見て」
雪が差し出してきた画面を、春希は覗き込んだ。静かな水鏡に、ふたつの人影が逆光で黒く浮かんでいる。顔は判別できないが、はしゃぐ雪と、春希の少し呆れた気配が、シルエットからでも伝わってくる。
「これ、ハルキ・デイズに載せてよ」
「その呼び方ヤメろマジで」
春希は自分のスマートフォンの角で、雪の頭を小突くフリをした。雪は頭を庇うように両手をかざし、声に出して笑った。
「いいよ。後で送って」
あれから、雪は時折思い出したように写真を送ってくるようになった。身バレにつながるものが写り込んでいないか春希が確かめてから、SNSへ載せる。ここ数日、春希の個人的な日記の中で、雪の気配が半分以上を占めるようになっていた。
不思議なことに、「ハート」がつく頻度が高くなっていた。とはいえ、フォロワー数が二十と少しばかりの弱小アカウントだ。月に一度つくかどうかだったハートが、三つか四つに増えた。その程度の差ではあるが。
さらに歩くと、開けた水田地帯の奥に、こんもりとした緑の丘陵が連なる景観保存地区、『ふるさと村』に到着した。見渡す限りのどかな風景の中に、人影はまばらだ。用水路を覗き込んで小さな網を振るう父親と低学年くらいの子ども。連れ立って犬の散歩をする中年の夫婦。ゆっくりとした足取りで進む高齢の男女。丘の上の神社から続く急な坂道を、初老の男が一人で下ってくるのが見える。
入り口付近に建つ小さなコーヒースタンドで冷たい飲み物をテイクアウトし、二人は雑木林の中に新設されたばかりのコミュニティハウスへ向かった。木の良い匂いが漂う多目的スペースには、真新しいテーブルと椅子が、ゆったりと間隔を空けて数組並んでいる。壁一面にはめ込まれた大きなガラス窓からは、初夏の鮮やかな緑が一望できた。
「すごい……穴場だね! 図書館より、良いかも」
雪が窓際の席へ真っ直ぐに向かい、テーブルにキャンバス地のトートバッグを置いた。中からペンケースと、課題のワークを取り出す。今日はこの村の散策を兼ねて、各教科から大量に出された課題を消化しに来たのだ。
静かな空間で二時間ほど集中して課題をこなした後は、二人は再び外へ出る。風の吹き抜ける畦道を、あてもなく一時間ほど並んで歩いた。
その間、雪は少し前を歩きながら、道端の草花や古い道標、空の雲に向けて頻繁にスマートフォンのカメラを向けていた。被写体を探す横顔は、教室で見せる強張った顔とも、スーパーで見せていた作った明るさとは別人のように、緩んでいる。
春希は、あることに気がついていた。雪は、一度も自撮りをしていない。雪の画像フォルダにも、見当たらなかった。
「あのさ」
春希が呼びかける。森散策コースの真ん中で立ち止まり、木の隙間から覗く空へスマートフォンを向けていた雪が、画面を見つめたまま「ん?」と気のない返事をした。
「アカウント、作ったら?」
「え……」
ゆっくりとスマートフォンが下がる。振り返った顔には、不意を突かれたような戸惑いが浮かんでいた。
「写真とか、いっぱい撮ってるしさ」
「ごめん……迷惑だった……?」
「あ、そういう意味じゃなくて」
小さく縮こまった声に、春希は慌てて両手を前で振った。
「自分で自由にアップできた方が良いかと思うんだけど。雪の特色とかも出せるし」
雪は考えるように目を伏せ、足元の草をかすかに踏んだ。短い沈黙のあと、前髪の隙間から上目遣いに春希を見つめてくる。
「ひとりのは、何か怖いっていうか……寂しい……」
思いがけない返答に、春希も数秒、言葉を飲み込んで考えた。
「あぁ……そしたらさ」
ふと思いついた提案を、春希はそのまま口にした。
「アカウント共有にしよか」
ぽかんと口を開けたまま固まっている雪の元へ、春希は歩み寄った。胸元のスマートフォンを、指先でつつく。
「雪のスマホにも同じSNSアプリ入れて、俺のアカウントに入れるようにする」
「え……!」
「そうすれば、好きな時に、好きなだけアップできるし。何か写っちゃマズいものがあれば、お互いに確認して削除できるし」
説明を重ねるごとに、雪の白い首筋へ、ゆっくりと朱が差していく。
「でも、ずっと春希にとって大事な場所だったでしょ……いいの?」
「そんな大袈裟なもんじゃ――全然、いいよ」
まっすぐに見つめられ、春希はくすぐったさに身を縮めた。
「ありがとう。嬉しい」
「駅に戻ったらフリーWi-Fiあるから、そこでアプリ入れて、設定してやるよ」
「うん!」
「アカウント名も変えるかな。hkiは春希だから……「はるき」と「ゆき」で「2ki」とか」
「賛成! daysは残そうね」
「ネタにすんな」
重なる笑い声を乗せた風が、頭上の高い枝葉をさらさらと揺らしていく。
アカウント名、hki_days あらため、2ki_days。フォロワー二十八人。プロフィール欄の一行は「男子高校生×2」へと書き換えられた。どちらの投稿か分かるよう、キャプションの末尾に、春希は「△」、雪は「*」を添えることに決めた。
2ki_daysに変わってから、投稿への反応は如実に増えていた。二年かけて二十三人で止まっていたフォロワー数も、ゆっくりと動き始めた。半月足らずで十人が増え、初めて三十台に乗った。
最も反応が良かったのは、雪が写した水田の水鏡の写真だ。逆光の中、ポケットに手を入れた春希と、スマートフォンを片手に頭上で手を振る雪のシルエットが水面に反射している。
「#友達」「#いっしょに散歩」というタグを添えたその投稿には、アカウント開設以来初めて二桁のハートがついた。といっても、ちょうど十ではあるが。
『ようやく俺に友達ができたって、祝ってくれてるのかも』
春希が送信したメッセージに対して、数秒で雪から返事が戻る。
『そういうこと? みんな優しい』
黒い文字列の向こうに、雪が首を傾げて笑っている姿が重なった。
「……」
春希はトーク画面を眺めたまま、小さく息を吐き出した。
「これ、食う?」
春希は弁当のフタを裏返して、唐揚げを二つと、卵焼きを一切れ載せた。それを雪のほうへ差し出す。
「え」
「それじゃ少なすぎるだろ。病み上がりなのに」
雪の膝には今日もコンビニ袋が載っていて、中身は鮭おにぎりが一つと、牛乳パック。
「でも……せっかくお母さんが作ってくれたんだから」
「胃袋に入れば、どっちでも良いんだよ」
雪の睫毛が二度、上下した。
「……じゃあ、いただいてもいい……?」
言うなり、雪は口を開けた。
「ん?」
「お箸、ない」
雪は指先で、自分の頬をつつく。
「あ、ああ、そっか……」
春希は蓋を左手に持ち替えた。雪に合わせて卵焼きを半分に割る。箸で挟んで少し迷ってから、雪の口元へ運んだ。雪の形の良い紅い唇が、箸先の卵焼きを迎え入れる。
「……」
春希は箸を持ったまま、無防備な赤ん坊のように丸く白い頬が、ゆっくりと動く様子を見つめた。こくり、と華奢な喉が動く。
「……おいしい」
雪が目を細めて、ふわりと笑った。
「そりゃ……どうも……」
二口目を、再び雪の口へ運ぶ。春希は不思議な現象でも見るように、もぐもぐと動く口元を見ていた。クラスの、他に誰がこうして雪に食事をさせるだろうか。雪が、それを許すだろうか。
「唐揚げも、食う?」
喉の奥が張りついて、声が掠れた。
「うん。欲しい」
「……ほい」
小さな口の中で懸命に肉を咀嚼する姿を見ているうち、春希は首の裏がざわりと粟立つのを覚える。
「唐揚げも、おいしい……っ」
二つの唐揚げを平らげると、雪は目尻を下げて笑った。丸い頬が持ち上がる。こんな顔をするのは、初めて見た。
「うちのは、生姜が多めなんだと」
春希は指先に微かな痺れを覚え、慌てて視線を膝の上の弁当箱へと落とした。残りを、自分の口へ放り込む。
「うん。ご飯がすすむね」
まだ口をいっぱいにしたまま、雪はおにぎりをかじった。
頭上で、管楽器がまた同じところで音を外していた。
春希が二段の弁当を空にしても、雪はまだおにぎりの残り半分に取り組んでいた。
急かす必要もない。春希は弁当袋を膝の横に置き、ベンチの背もたれに背中を預け、首を上向かせた。校舎の壁で四角く切り取られた空を、雲が端から端まで横切っていくのに、ずいぶん時間がかかっていた。
管楽器が、同じ小節でまた崩れた。
隣で、牛乳のパックにストローが刺さる音がした。それから、吸い上げる小さな音が、おにぎりを飲み込む時と同じ速度と間隔で、続く。
四角い空が、少しだけ明るくなった。
「あの……」
「ん?」
春希は首を戻した。ベンチの端に浅く腰掛けたまま、雪が身じろぎした。ズボンのポケットに手を突っ込んで、何かを引っ張り出した。スマートフォンだった。青い本体に、透明なケース。ストラップも、シールも、何もついていない。
「お。スマホ、持ちはじめたのか」
「ううん」
雪は首を振った。
「前から……持ってた」
「あ〜、なるほど」
嘘をついていた理由は、察しがつく。
「誰にも言わないで……」
雪はスマホの角を、唇に当てた。
「わかった」
春希が頷くと、雪は中腰になって、ベンチの端から距離を詰めてきた。二の腕が触れ合った。
「――なに」
「昨日、春希が写真フォルダ見せてくれた時に、思ったんだ。僕と似てるかも……って」
雪が画面をこちらへ向けた。小さな正方形が、びっしりと並んでいる。電線に止まった鳥。茂みに生えた白いキノコ。マンホール。腐葉土から生えた薄色のキノコ。水田を区切る車道の真ん中にぽつんと立つ自動販売機。木の幹を階段状に覆うキノコ。コンテナに積まれたシイタケ、マイタケ、しめじ。キノコフェアのPOP――
「キノコ率の高さが異常なんだが」
「ふふ」
狙い通りだったのか、雪は嬉しそうに肩を揺らした。
「借りた本がけっこう面白くて……意識して探すようになっちゃった」
「そんなにか」
春希が画面から顔を上げると、
「――うん」
雪も顔を上げた。
互いの吐息が鼻先を掠める距離。
「……あ」
思わず、春希は雪のスマートフォンへ視線を落とした。写真フォルダの中にある一枚を、指差す。春希が貸した文庫本、「毒キノコの世界」の表紙を正面から写したものだ。
「何でわざわざ、こんなん写してんだよ」
春希は苦笑しながら、サムネイルをタップした。写真が画面に大写しになる。文庫本の角に、白い指が写り込んでいた。学校ではないどこか室内、ベージュ色の壁を背景に、片手で文庫本を持って撮影したようだ。
「記念……みたいなもの」
「何の記念だよ」
春希は、スマートフォンを軽く雪の方へ押し戻す。雪の口元から、笑いきらない小さな吐息が漏れた。視界の端で、雪がスマートフォンを両手で包み込むようにして俯くのが見えた。落ちた前髪の影になって、春希からは、どんな表情をしているのかが窺えない。
「あー……、えっと」
腹の底から、もぞもぞと微かな痒みのようなものが這い上がってくる。春希は短く息を吐いて、それを飲み下した。
「その写真、送ってよ」
え、と隣で雪が動く気配がした。
「日記に載せてもいい?」
「日記……?」
春希はポケットから自分のスマホを取り出した。画面を操作してアプリを開き、雪のほうへ傾ける。表示されたのは、あるSNSのマイページだ。灰色のデフォルトアイコンの横に、「hki_days」というアカウント名。プロフィール欄には「高校生になりました」の一行だけがある。フォロワー数は二十人程度。その下に並ぶ写真は、空を映す水たまり、散った桜の花びら、給水塔、夜のコンビニの看板、錆びた自転車のスタンド、プールのチケット――
「これ、俺のアカウント」
「SNS、やってたんだ」
「全然、数字とかないけど。まあ、日記代わりだからそれで良いんだけどさ」
名前も顔も出していない、匿名のアカウントだ。
「hkiは春希、かな……days……ださ」
「そこはつっこむな。作ったの中二だったからしゃーない」
「ふふ。あ、でもハート、ついてるね」
雪が画面の一点をつついた。公園の片隅に、一本だけ立っている桜の写真の投稿だった。
「反応なんて、月に一回あるかないかだよ」
春希は指で画面を軽く弾いた。
「もしかしたら、同じものを見た近所の人かな、とか想像するのがちょっと面白い……ぐらいで」
「へぇ〜……中学からって、すごいね」
雪の瞳が、磨かれた石のように、画面の光を返していた。
「文字を書く日記だと続かないけどな」
「ここに、僕が撮った写真を載せてくれるの?」
「友達が撮った写真、って書く。変な本を貸した記念ってことで」
「何か嬉しい」
雪の整った顔のパーツが、くしゃりと崩れて、愛嬌のある貌になる。
「んじゃ、えっと……メッセージID、交換しとくか」
「うん」
調子外れのメロディが降り注ぐ中、二人はスマホを向け合った。青いケースと、黒いケース。短い電子音が二つ、続けて鳴った。
この日、hki_days に新たな投稿が上がった。
『友達が撮った写真。本を貸したら、気に入ったらしい。 #友達 #毒キノコの世界』
と、キャプションとタグが書かれた投稿に貼られた、「毒キノコの世界」の表紙写真。
投稿から四時間後にはハートマークが二つ、一晩明けたらさらに一つ、増えていた。
*
ゴールデンウィークに入ってまもない、よく晴れた日。春希と雪は緑道を、澄んだ水音を立てる鷺野川の流れに沿ってゆっくりと歩いていた。
薄手のジップパーカーに黒いリュックを背負った春希の隣で、地味なグレーのパーカーにジーンズという装いの雪が、シンプルなキャンバス地のトートバッグを肩にかけ、どこか弾むような足取りで並んでいる。
川幅がしだいに狭まり、舗装された遊歩道が、土と草の匂う小道へ変わっていく。駅から三十分ほど遡り、幹線道路を越えた先で、ふっと視界が一気に開けた。
雪が足を止め、小さく息をのんだ。
「わ……すごい、ジブリみたい!」
目の前に広がっていたのは、一面の田と畑。整然と区切られた水田にはたっぷりと水が張られ、五月の青空と白い雲を鮮明に映し出している。大きなビルも人工的な構造物もなく、青々とした小高い丘が農村を囲んでいる。空を映す鏡が無数に敷き詰められた光景へ、雪はスマートフォンのレンズを向けた。
「小学校の遠足とかで来たことなかったか?」
春希が尋ねると、雪はレンズから目を離さずに首を振った。
「うん。僕、途中で引っ越してきたから。受験の時から、ずーっと川を遡って歩いてみたいって思ってたんだ」
眩しそうに目を細めた雪は、そのまままっすぐに伸びる畦道へと踏み出した。並んで歩きながら、雪が不意に片手を高く掲げ、水面に向けてシャッターを切る。
「見て見て」
雪が差し出してきた画面を、春希は覗き込んだ。静かな水鏡に、ふたつの人影が逆光で黒く浮かんでいる。顔は判別できないが、はしゃぐ雪と、春希の少し呆れた気配が、シルエットからでも伝わってくる。
「これ、ハルキ・デイズに載せてよ」
「その呼び方ヤメろマジで」
春希は自分のスマートフォンの角で、雪の頭を小突くフリをした。雪は頭を庇うように両手をかざし、声に出して笑った。
「いいよ。後で送って」
あれから、雪は時折思い出したように写真を送ってくるようになった。身バレにつながるものが写り込んでいないか春希が確かめてから、SNSへ載せる。ここ数日、春希の個人的な日記の中で、雪の気配が半分以上を占めるようになっていた。
不思議なことに、「ハート」がつく頻度が高くなっていた。とはいえ、フォロワー数が二十と少しばかりの弱小アカウントだ。月に一度つくかどうかだったハートが、三つか四つに増えた。その程度の差ではあるが。
さらに歩くと、開けた水田地帯の奥に、こんもりとした緑の丘陵が連なる景観保存地区、『ふるさと村』に到着した。見渡す限りのどかな風景の中に、人影はまばらだ。用水路を覗き込んで小さな網を振るう父親と低学年くらいの子ども。連れ立って犬の散歩をする中年の夫婦。ゆっくりとした足取りで進む高齢の男女。丘の上の神社から続く急な坂道を、初老の男が一人で下ってくるのが見える。
入り口付近に建つ小さなコーヒースタンドで冷たい飲み物をテイクアウトし、二人は雑木林の中に新設されたばかりのコミュニティハウスへ向かった。木の良い匂いが漂う多目的スペースには、真新しいテーブルと椅子が、ゆったりと間隔を空けて数組並んでいる。壁一面にはめ込まれた大きなガラス窓からは、初夏の鮮やかな緑が一望できた。
「すごい……穴場だね! 図書館より、良いかも」
雪が窓際の席へ真っ直ぐに向かい、テーブルにキャンバス地のトートバッグを置いた。中からペンケースと、課題のワークを取り出す。今日はこの村の散策を兼ねて、各教科から大量に出された課題を消化しに来たのだ。
静かな空間で二時間ほど集中して課題をこなした後は、二人は再び外へ出る。風の吹き抜ける畦道を、あてもなく一時間ほど並んで歩いた。
その間、雪は少し前を歩きながら、道端の草花や古い道標、空の雲に向けて頻繁にスマートフォンのカメラを向けていた。被写体を探す横顔は、教室で見せる強張った顔とも、スーパーで見せていた作った明るさとは別人のように、緩んでいる。
春希は、あることに気がついていた。雪は、一度も自撮りをしていない。雪の画像フォルダにも、見当たらなかった。
「あのさ」
春希が呼びかける。森散策コースの真ん中で立ち止まり、木の隙間から覗く空へスマートフォンを向けていた雪が、画面を見つめたまま「ん?」と気のない返事をした。
「アカウント、作ったら?」
「え……」
ゆっくりとスマートフォンが下がる。振り返った顔には、不意を突かれたような戸惑いが浮かんでいた。
「写真とか、いっぱい撮ってるしさ」
「ごめん……迷惑だった……?」
「あ、そういう意味じゃなくて」
小さく縮こまった声に、春希は慌てて両手を前で振った。
「自分で自由にアップできた方が良いかと思うんだけど。雪の特色とかも出せるし」
雪は考えるように目を伏せ、足元の草をかすかに踏んだ。短い沈黙のあと、前髪の隙間から上目遣いに春希を見つめてくる。
「ひとりのは、何か怖いっていうか……寂しい……」
思いがけない返答に、春希も数秒、言葉を飲み込んで考えた。
「あぁ……そしたらさ」
ふと思いついた提案を、春希はそのまま口にした。
「アカウント共有にしよか」
ぽかんと口を開けたまま固まっている雪の元へ、春希は歩み寄った。胸元のスマートフォンを、指先でつつく。
「雪のスマホにも同じSNSアプリ入れて、俺のアカウントに入れるようにする」
「え……!」
「そうすれば、好きな時に、好きなだけアップできるし。何か写っちゃマズいものがあれば、お互いに確認して削除できるし」
説明を重ねるごとに、雪の白い首筋へ、ゆっくりと朱が差していく。
「でも、ずっと春希にとって大事な場所だったでしょ……いいの?」
「そんな大袈裟なもんじゃ――全然、いいよ」
まっすぐに見つめられ、春希はくすぐったさに身を縮めた。
「ありがとう。嬉しい」
「駅に戻ったらフリーWi-Fiあるから、そこでアプリ入れて、設定してやるよ」
「うん!」
「アカウント名も変えるかな。hkiは春希だから……「はるき」と「ゆき」で「2ki」とか」
「賛成! daysは残そうね」
「ネタにすんな」
重なる笑い声を乗せた風が、頭上の高い枝葉をさらさらと揺らしていく。
アカウント名、hki_days あらため、2ki_days。フォロワー二十八人。プロフィール欄の一行は「男子高校生×2」へと書き換えられた。どちらの投稿か分かるよう、キャプションの末尾に、春希は「△」、雪は「*」を添えることに決めた。
2ki_daysに変わってから、投稿への反応は如実に増えていた。二年かけて二十三人で止まっていたフォロワー数も、ゆっくりと動き始めた。半月足らずで十人が増え、初めて三十台に乗った。
最も反応が良かったのは、雪が写した水田の水鏡の写真だ。逆光の中、ポケットに手を入れた春希と、スマートフォンを片手に頭上で手を振る雪のシルエットが水面に反射している。
「#友達」「#いっしょに散歩」というタグを添えたその投稿には、アカウント開設以来初めて二桁のハートがついた。といっても、ちょうど十ではあるが。
『ようやく俺に友達ができたって、祝ってくれてるのかも』
春希が送信したメッセージに対して、数秒で雪から返事が戻る。
『そういうこと? みんな優しい』
黒い文字列の向こうに、雪が首を傾げて笑っている姿が重なった。
「……」
春希はトーク画面を眺めたまま、小さく息を吐き出した。

