春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 状況説明は五分もかからずに終わり、春希は先に保健室を追い出された。

 窓際で雑談していたら風でカーテンがめくれて、二人まとめて絡まったこと。その最中に雪が倒れ込んできたこと、だけを話した。

 雪が男子生徒に肩を掴まれてびくついたことは、言わなかった。

 教室に戻ると、まだ一限目の授業の途中だった。
 後ろの扉を開けた瞬間、教室中の頭が、一斉に振り向いた。

「……!」
 春希は思わず、廊下と教室の境目で硬直する。

「――ああ」
 教壇にいたのは、古典の園部先生だった。

 初老の男性教師は、何も言わずに春希へ「入っておいで」のジェスチャーを見せる。春希も無言で頭を下げて、教室に入った。

 扉から窓際の席までの七歩が、遠い道のりに感じる。
 隣の子と顔を近づけて耳打ちしたり、視線をあからさまに逸らしたり、逆に上から下まで無遠慮に眺めたりと、様々な含みを持つ目の前を進まなければならなかった。

 春希が椅子を引いて、腰を下ろす。
 カーテンは、壊れた金具の代わりに、ビニール紐で括られていた。

「――では、続けます」
 園部先生の声を合図にするように、顔が一つずつ黒板へ向き直った。

「いま、十二ページだよ」
 通路一つ挟んだ隣の席の女子生徒が、こっそり声をかけてくれた。

 春希が着席して十分としないうちに、一限目終了のチャイムが鳴る。
 日直の号令が終わって園部先生が退出するとほぼ同時に、椅子の脚が床を擦る音が四つ、五つと重なった。

「牧野君、遠野君どうだった?」
「やっぱ過呼吸だったの?」

 女子が数人、机の横に手をついて身を乗り出す。
 その後ろから、二人、三人と続いた。
 前の列の真面目な男子が、少し迷惑そうに席を立って離れていった。

「あー……」
 春希は教科書を閉じて、筆記用具をペンケースへ放る。

「あまりちゃんと見てないから、詳しくは分からない」
「一緒に行ったんじゃないの」
「途中でカーテン閉められたから」

 なーんだ、という空気が連鎖した。

「早退するかどうかって、先生たちが相談してた」
「じゃあ、今日もう来ない感じ?」
「さあ」
「ふうん」

 顔を見合わせる女子たちの間で、落胆が伝播する。

「――ってかさ」
 輪の外側にいた女子が、少し高い声を出した。

「牧野君って、遠野君と仲良いの? 意外だったけど」
「うーん……」
「名前で呼んでたじゃん」

 別の女子が、両手を胸の前で合わせるようにして続けた。

「幼馴染とか? 中学一緒だったの?」
「いや……」
「じゃあ何?」

 答えの続きを待つ顔が、四つ並んでいる。
 春希は窓の外へ目を逃がした。
 教室は騒がしいのに、川は穏やかに流れている。

「別に。普通に」
 春希は口の端だけを曖昧に動かして、机の中に手を入れた。
 次の授業の教科書やノートを探すふりをする。

「ふぅん」
 一人がつまらなさそうに離れ、つられて二人、三人――潮が引くように野次馬が散り、二限目の予鈴が鳴る頃には、春希の机の周りは元通りになる。それを見計らっていたのか、前の席の男子が自席に戻った。

 二限目と三限目のあとの休み時間は何事もなく、変化があったのは、四限目が始まって間もなくだった。

 後ろの扉が控えめに引かれ、青木先生が体の半分だけを室内に入れた。

「すみません、丸岡先生。失礼します」
 プリントを配り終えたところだった生物の丸岡先生は、老眼鏡を額に押し上げて、「どうぞどうぞ」と鷹揚《おうよう》に頷く。

「失礼しました」
 青木先生は雪の机とロッカーから荷物を引き上げると、早々に教室を出て行った。

「遠野君、やっぱ早退かぁ」
 と誰かの呟きが転がる。朝の騒ぎが無かったことのように、教室の空気はすぐに授業のそれへ戻っていった。

 四限目の後半、丸岡先生の話が細胞分裂に入った頃、窓の外へ逃げた春希の視界に、正門側へ移動する人影が映った。

 細い肩の線で分かる。雪だ。
 俯きがちに、狭い歩幅で不安定に歩いている。
 近くに、もう一人いた。

(――親父が迎えにきたのか)
 一緒に歩いているのは、小柄な男だ。
 片側の肩に、雪の鞄を引っ掛けている。

(なんか、似てないな)
 顔を見るまでもなく、最初にそれが浮かんだ。

 男の、丸みのある頑丈そうな骨格が、雪と対照的だ。
 背広ではなく、作業着のようなジャンパーを羽織っている。

 雪は男の斜め後ろ、半歩下がった位置を保っている。
 男が肩越しに雪へ声をかけ、雪が頷く。
 頷きにしては深い、軽い会釈ほどの動きを数度繰り返すのが、春希には奇妙に見えた。どこか腰も引けている。

 小さな違和感に名前がつく前に、二人の姿は校舎を曲がって見えなくなっていた。



 翌朝。
 春希は教室の窓枠に肘を置いて、校庭の向こうを見ていた。

 正門の方から続く歩道へ、頼りなげな人影が歩いてくる。
 雪だ。俯いて、狭い歩幅でゆっくりと進む。

 春希は窓から少し身を乗り出した。
 昇降口の手前まで来て、雪の足が止まっていた。

「雪!」
 躊躇なく、春希は声を上げる。

 びくりと肩を震わせて、雪は左右を見渡し、それから真上を仰いだ。
 春希を見つけると、強張っていた顔から力が抜けた。

 雪が小さく頷いて昇降口のほうへ駆け出したのを見届けて、春希は窓から離れた。

「……」
 何人かの顔が、こちらを向いていた。
 何か言われる前に、春希は視線を逸らして腰を下ろす。

 間もなく、教室後部の扉が引かれた。
 瞬間、ざわめきが途切れ、一斉に視線が集まる。

「……っ」
 登校してきた雪が肩を縮めて、目を伏せた。

「あー……体、もう平気か?」
 廊下側の窓枠にもたれていた日焼けした長身の男子が、片手を軽く上げた。
 どこか探るような声のトーン。
 頭の後ろを掻きながら、雪と真っ直ぐに目を合わせようとしない。

「……うん……ありがとう……」
「そ。……よかったよかった」
 男子はそれだけ言うと、気まずそうにそそくさと逆側の友達の方へ顔を向けた。

 隣で逆向きの椅子に跨っている女子も、手元のスマホからちらりとだけ顔を上げる。
「おはよ」
 女子生徒は、すぐにまた画面へと視線を落とす。
 液晶をなぞる親指のスクロールだけが、やけに早く動いていた。

 止まっていた教室が、少しずつ動き出す。
 話し声、鞄のファスナーを開ける音、教科書やノートの紙が擦れ合う音がレイヤーになる。

 廊下と教室の境界に立ち尽くす雪と、春希の視線がかちあう。
 春希は「席」と口を動かして、教室の中央を指さす仕草を見せる。
 昨日までは、雪の席を飲み込む形で形成されていた島が、今は、雪の席から一列ぶん離れて、廊下側へずれていた。

「!」
 雪も、島の地殻変動に気づいたようだ。
 戸惑いがちに頷いて、恐る恐る席へ向かう。
 雪が着席しても、寄ってくる生徒はいなかった。

(大丈夫そうか)
 しばらく気にして様子を見てみるが、優等生タイプの生徒たちが数人、「お大事に」と声をかけて通りすぎたぐらいだ。囲む生徒も、スマホを向けてくる生徒もいない。

 息を詰めていた白い横顔から、長い息が漏れた。

(面倒くさい認定されたかな)
 下手に触れて倒れられて、その責任を問われてはたまったものではない。
 過呼吸の一件は刺激が強すぎたようだが、連中には良い薬になったらしい。

 これで少しは、平穏になる。
 春希はそう、楽観的に考えていた。