春を待つ雪

 翌朝。春希は自席から、窓の外へスマホを向けていた。二回撮って、画面を確かめ、位置を少し調整してもう一回撮る。

「おはよう」
 雪は教室に入ってくると一直線に、春希の席へやってきた。
「ああ。はよ」
 雪を追うクラスメイトの顔が、そのまま春希へ到達する。春希は伊達メガネの黒フレームの縁へ視線を逃がした。
「何を撮ってたの」
 雪は春希の机に体を寄せて、窓の外を覗いた。校庭に池のように大きな水たまりができている。朝の光を集めて、水面に青空を映していた。
「これ」
 春希は撮ったばかりの一枚を、画面に出して雪に見せた。
「穴みたい」
 雪は爪の先で、画面の水たまりをなぞる。
「上手だね。なんか、面白い――あ、ごめん」
 水たまりをなぞっていた雪の指が滑り、写真一覧画面に遷移した。正方形のサムネイルがずらりと並ぶ。校門の脇の桜の花びら。給水塔。夜のコンビニの看板。錆びた自転車のスタンド。
「写真……好きなの? 見てもいい?」
「いいよ。適当に見ても」
 見られて困るものはない。春希は画面を雪に向けたまま、好きにスクロールさせた。

「へ〜……いろいろ撮ってるんだね」
 雪は、画面に顔を近づける。自然と肩同士が触れた。
「これ、なに?」
「どれ……ああ、プールのチケット。泳ぎに行った記録代わりに撮ってるだけ」
「水泳部って言ってたね」
「よく覚えてるな」
「ふふ」
 雪はにこりと笑って、画面から顔を上げた。至近距離で、互いの視線が交差する。密着したままの肩は、そのまま。
 ふと、教室側に向いた片頬を、チリチリとした熱が撫でた。二人同時に、窓の外の青空へ顔を向ける。
 強い風が窓から吹き込んだ。金具が外れて垂れていた厚手のカーテンが、マストの帆のように舞い上がる。白い幕が、窓枠にもたれて並ぶ二人を呑み込んだ。教室の音が遠のき、居心地の悪い視線も遮られる。風と光だけの世界に、春希と雪が閉じ込められた。
「あ……」
「わぁ……」
 雪の顔が間近にある。光に透ける白く滑らかな肌に、睫毛の影までよく見えた。風が雪の前髪をかきあげた。小ぶりな丸い額が見える。光を受けて色が透ける瞳の中で、春希の眼鏡のフレームが小さく映り込んでいた。
「……」
 視線を逃がすすべがなく、春希は瞬きを忘れた。

「よく、外を見てるよね」
 小さく開いた雪の唇が、次の言葉を紡いだ。
「何が、見えてるの」
「あ、ああ――」
 春希は右腕を窓の外へ伸ばした。
「あそこ、たまーに人が通るんだよな」
 校庭を囲むフェンスの向こう、河川沿いの狭い緑道を指差した。平日の午前中は、高齢者が散歩をしているのを見かける。
「あの道、どこからも見えないから、あそこで倒れたりしたら見つかりにくいって思って」
 緑道は、川に沿って細く長く続いている。学校の裏手にあたる百メートルほどは、ちょうど民家が途切れる区間だった。片側は土手の斜面で、反対側には畑と休耕地が、幹線道路まで続いている。静かなのが取り柄だが、誰の目にも入らない。
「気づくの俺しかいなくないか」
「あ〜……そうかも」
 雪は窓から顔を出して、左右と下を確かめた。三階のここでなければ、フェンスの向こうまでは見えない。
「川沿いって日陰もないし」
「そんな心配しながら見てたんだ」
「でもよく考えたら、一番危ない時期は夏休み中なんだよなぁ」
「……ふふっ」
 ぽかんとした雪の顔から、力が抜けた。

 カーテンの向こうで、くぐもったチャイムが鳴った。風が止んで重さを取り戻したカーテンが落ちて、二人の体をシーツでくるむように巻き付く。
「おーい、引きこもってんなよー」
 教室側から、複数の男子たちの陽気な声が近づいた。布ごしに手が伸びて、雪の肩を探り当てる。直後――
「っ!」
 雪の体が強く震えた。

「ひ、あっ……、は……っ」
 雪の口から、ひきつけを起こした不規則な音が漏れた。息を吸えず、吐けず、見えない手で絞め上げられた首を、指先でかきむしる。がくりと膝が折れて、雪の体が春希の胸元に正面から倒れ込んだ。
「え、ちょ、ちょっと!」
 背中に回された両腕が、すがるようにしがみつく。春希の鼻先が柔らかい黒髪に埋もれた。石鹸の香りが掠める。背中から倒れかけて、春希は窓の桟を掴んでとどまった。
「っは……、は……っ」
 胸元で、雪の肩が浅く速く上下していた。息が、熱い。ひゅっ、と不自然な吸い込み音が連続する。
 教室側からカーテンが剥がされて、二人の姿が現れた。
「え」
 誰かの短い声。窓際で抱き合っている――ように見える二人へ、波紋のように顔が向いた。
「いや、その」
 春希の焦る声が、空回る。
「あら、オレら、邪魔した?」
 カーテンを引き剥がした男子が両手を上げる。一軍グループを中心に、辺りから笑いが起きた。
「違っ――」
 春希の喉から、荒い声が絞り出される。
「なんか、おかしいっ!」
 腕の中で、軽いはずの体が重くなっていく。春希の背中を掴んでいた雪の指の力が抜けた。胸元にもたれた頭がずり落ちる。
「っ、ひゅ、ぐ……っ」
 白い喉がさらに強く鳴った。
「過呼吸じゃないの?!」
 輪の外から、誰かの声が上がる。
「え、やば」
 笑いが引いた。椅子が後ろへ滑って、床を擦る。
「先生呼んできて!」
 誰かが駆け出す。開け放たれた扉からは、別のクラスの生徒たちも覗いている。
「っしょ……!」
 春希は背筋と腹筋に力を入れて上体を起こし、雪の体を引き上げて抱え直す。
「――雪?」
 雪の顔色は白を通り越して青ざめ、頬や唇の血色が失われていた。微かに開いた瞳は、焦点が合っていない。額からこめかみにかけて、いくつも汗の粒が浮いていて、前髪が額に貼りついていた。脱力した指先が、細かく震えている。
「雪!」
 先生が駆けつけるまで、春希は雪の背中を叩いて、名前を呼び続けた。

 廊下を走る足音が近づいて、後部の扉から担任の青木先生が飛び込む。
「空けて空けて!」
 人垣が割れる。青木先生は、雪を抱き止める春希の側に膝をつき、雪の顔を横から覗き込んだ。
「先生が保健室に運ぶ」
「――はい」
 青木先生は春希にもたれた雪の体を起こし、背中と膝の裏へ腕を差し入れる。立ち上がるとともに、痩せた体が軽々と持ち上げられた。
「……はる、き……」
 うわごとめいた声。青木先生の腕の中から、春希へ手が伸びる。先生の目が、教室中の目が、春希へ向いた。
「え……」
 ほんの刹那が、水底のようだった。すぅ、と空気を吸い込む音が耳の奥に響く。
「ゆき」
 春希はすがる指へ手を差し伸べた。人差し指を、雪の手がとらえる。赤ん坊みたいに、きゅっと握った。だが、すぐに力が抜けて、重力に負けて滑る。
「牧野、一緒に来なさい。後で説明してくれ」
「――はい」
 困惑、驚き、そして好奇。視線を全身で感じながら、春希は青木先生について教室を出た。
 一限目の予鈴はとうに終わったが、廊下にはまだ幾人かの生徒たちが残っていた。春希は青木先生の濃紺ポロシャツの背中に焦点を合わせ、無心になって後に続いた。「え、何、どうしたの」といった声が背後へ遠ざかる。
「牧野、先に行って保健室の扉を開けてくれ」
「はい」
 春希は階段を二段飛ばしで駆け下りた。

「まあまあ、どうしたの」
 中から出てきた養護教諭は、白衣の袖を肘までまくった中年の女性だ。名札に「宮下」とある。慌てた様子はなく、青木先生の腕の中を一瞥した。
「奥のベッド。そのまま寝かせてあげて」
 糊のきいたシーツを三角にめくる。
「上履き、脱がせてあげてくれる?」
「は、はい」
 春希は腰を屈めて雪の上履きを脱がし、ベッド脇に置いた。続いて青木先生が雪の体をベッドへ下ろす。
「遠野くん。聞こえる? 保健室のおばちゃんですよ」
 養護教諭はベッドの脇に丸椅子を引き寄せ、腰を落として話しかけた。
「苦しいね。死んだりしないから。大丈夫よ〜」
 雪の睫毛が震えた。
「ネクタイとシャツ、緩めるよ。手首、触るね〜」
 白衣の手が、細い手首の内側に添えられる。もう一方の手が、雪の第一ボタンを外していった。雪の指先に洗濯挟みのような器具がはめられ、短い電子音が鳴る。
「持病はある? ぜんそくとか。うん、わかった。だいじょぶ、大丈夫」

「牧野」
 春希の肩に、青木先生の厚い手が乗る。
「悪い、少し待っていてくれ」
「……」
 春希は頷いて、後ずさる。窓際に置かれた背もたれのない丸椅子に腰を下ろした。青木先生がベッドを囲むカーテンを引いた。
「息をゆっくり吐いてみようね。私に合わせてみてね。吐いて〜、もう少し。そう。上手よ〜」
 布の向こうから、シーツが擦れる音が続く。青木先生が何かを短く問い、宮下先生が「最近はね、袋は使わないんですよ」と答えるのが聞こえた。
「痺れも治るから。心配しないで〜」
 宮下先生の声を聴きながら、春希は、自分の右手を見た。人差し指の第二関節のあたりに、まだ何かが巻きついているような感覚が残っている。窓の外では体育の授業で、生徒たちがグラウンドに列を作っている。笛が鳴り、生徒たちが白いラインに沿って一斉に走り出す。保健室から見ると、いつもよりも遠い世界での出来事のように感じた。
「はい、吐いて〜……よしよし。だいぶ落ち着いてきたね」
 仕切りの向こうの呼吸音が、少しずつ間隔を広げていく。
「……」
 春希は膝の上で両手を組み、それをまた解く――を繰り返していた。



 状況説明は五分もかからずに終わり、春希は先に保健室を追い出された。教室に戻ると、まだ一限目の授業の途中だった。後ろの扉を開けた瞬間、教室中の頭が、一斉に振り向いた。
「……!」
 春希は思わず、廊下と教室の境目で硬直する。
「――ああ」
 教壇にいたのは、古典の園部先生だった。何も言わずに春希へ「入っておいで」のジェスチャーを見せる。春希も無言で頭を下げて、教室に入った。扉から窓際の席までの七歩が、遠い道のりに感じる。隣の子と顔を近づけて耳打ちしたり、視線をあからさまに逸らしたり、逆に上から下まで無遠慮に眺めたりと、様々な含みを持つ目の前を進まなければならなかった。
 春希が椅子を引いて、腰を下ろす。カーテンは、壊れた金具の代わりに、ビニール紐で括られていた。
「――では、続けます」
 園部先生の声を合図にするように、顔が一つずつ黒板へ向き直った。
「いま、十二ページだよ」
 通路一つ挟んだ隣の席の女子生徒が、こっそり声をかけてくれた。

 春希が着席して十分としないうちに、一限目終了のチャイムが鳴る。日直の号令が終わって園部先生が退出するとほぼ同時に、椅子の脚が床を擦る音が四つ、五つと重なった。
「牧野君、遠野君どうだった?」
「やっぱ過呼吸だったの?」
 女子が数人、机の横に手をついて身を乗り出す。その後ろから、二人、三人と続いた。前の列の真面目な男子が、少し迷惑そうに席を立って離れていった。
「あー……」
 春希は教科書を閉じて、筆記用具をペンケースへ放る。
「あまりちゃんと見てないから、詳しくは分からない」
「一緒に行ったんじゃないの」
「途中でカーテン閉められたから」
 なーんだ、という空気が連鎖した。
「やっぱ早退かな」
「さあ」
「ふうん」
 顔を見合わせる女子たちの間で、落胆が伝播する。

「――ってかさ」
 輪の外側にいた女子が、少し高い声を出した。
「牧野君って、遠野君と仲良いの? 意外だったけど」
「うーん……」
「名前で呼んでたじゃん」
 別の女子が、両手を胸の前で合わせるようにして続けた。
「幼馴染とか? 中学一緒だったの?」
「いや……」
「じゃあ何?」
 答えの続きを待つ顔が、四つ並んでいる。春希は窓の外へ目を逃がした。教室は騒がしいのに、川は穏やかに流れている。
「別に。普通に」
 春希は口の端だけを曖昧に動かして、机の中に手を入れた。次の授業の教科書やノートを探すふりをする。
「ふぅん」
 一人がつまらなさそうに離れ、つられて二人、三人――潮が引くように野次馬が散り、二限目の予鈴が鳴る頃には、春希の机の周りは元通りになる。それを見計らっていたのか、前の席の男子が自席に戻った。

 二限目と三限目のあとの休み時間は何事もなく、変化があったのは、四限目が始まって間もなくだった。後ろの扉が控えめに引かれ、青木先生が体の半分だけを室内に入れた。
「すみません、丸岡先生。失礼します」
 プリントを配り終えたところだった生物の丸岡先生は、老眼鏡を額に押し上げて、「どうぞどうぞ」と鷹揚に頷く。
「失礼しました」
 青木先生は雪の机とロッカーから荷物を引き上げると、早々に教室を出て行った。
「遠野君、やっぱ早退かぁ」
 と誰かの呟きが転がる。朝の騒ぎが無かったかのように、教室の空気はすぐに授業のそれへ戻っていった。
 四限目の後半、丸岡先生の話が細胞分裂に入った頃、窓の外へ逃げた春希の視界に、正門側へ移動する人影が映った。細い肩の線で分かる。雪だ。俯きがちに、狭い歩幅で不安定に歩いている。近くに、もう一人いた。
(――親父が迎えにきたのか)
 一緒に歩いているのは、小柄な男だ。片側の肩に、雪の鞄を引っ掛けている。
(なんか、似てないな)
 顔を見るまでもなく、最初にそれが浮かんだ。男の、丸みのある頑丈そうな骨格が、雪と対照的だ。背広ではなく、作業着のようなジャンパーを羽織っている。雪は男の斜め後ろ、半歩下がった位置を保っている。男が肩越しに雪へ声をかけ、雪が頷く。頷きにしては深い、軽い会釈ほどの動きを数度繰り返すのが、春希には奇妙に見えた。どこか腰も引けている。
 小さな違和感に名前がつく前に、二人の姿は校舎を曲がって見えなくなっていた。



 翌朝。春希は教室の窓枠に肘を置いて、校庭の向こうを見ていた。
 正門の方から続く歩道へ、頼りなげな人影が歩いてくる。雪だ。俯いて、狭い歩幅でゆっくりと進む。春希は窓から少し身を乗り出した。昇降口の手前まで来て、雪の足が止まっていた。
「雪!」
 躊躇なく、春希は声を上げる。びくりと肩を震わせて、雪は左右を見渡し、それから真上を仰いだ。春希を見つけると、強張っていた顔から力が抜けた。雪が小さく頷いて昇降口のほうへ駆け出したのを見届けて、春希は窓から離れた。
「……」
 何人かの顔が、こちらを向いていた。何か言われる前に、春希は視線を逸らして腰を下ろす。
 間もなく、教室後部の扉が引かれた。瞬間、ざわめきが途切れる。
「……っ」
 登校してきた雪が肩を縮めて、目を伏せた。
「あー……体、もう平気か?」
 廊下側の窓枠にもたれていた日焼けした長身の男子が、片手を軽く上げた。どこか探るような声のトーン。頭の後ろを掻きながら、雪と真っ直ぐに目を合わせようとしない。
「……うん……ありがとう……」
「そ。よかったよかった」
 男子はそれだけ言うと、気まずそうにそそくさと逆側の友達の方へ顔を向けた。隣で逆向きの椅子に跨っている女子も、手元のスマホから、ちらりとだけ顔を上げる。
「おはよ」
 女子生徒は、すぐにまた画面へと視線を落とす。液晶をなぞる親指のスクロールだけが、やけに早く動いていた。

 止まっていた教室が、少しずつ動き出す。話し声、鞄のファスナーを開ける音、教科書やノートの紙が擦れ合う音がレイヤーになる。
 廊下と教室の境界に立ち尽くす雪と、春希の視線がかちあう。春希は「席」と口を動かして、教室の中央を指さす仕草を見せる。昨日までは、雪の席を飲み込む形で形成されていた島が、今は、雪の席から一列ぶん離れて廊下側へずれていた。
「!」
 雪も、島の地殻変動に気づいたようだ。戸惑いがちに頷いて、恐る恐る席へ向かう。着席しても、寄ってくる生徒はいなかった。優等生タイプの生徒たちが数人、「お大事に」と声をかけて通りすぎたぐらいだ。囲む生徒も、スマホを向けてくる生徒もいない。
(面倒くさい認定されたかな)
 しばらく春希は様子を見ていた。下手に触れて倒れられて、その責任を問われてはたまったものではない。過呼吸の一件は刺激が強すぎたようだが、連中には良い薬になったらしい。
 これで少しは、平穏になる。春希はそう、楽観的に考えていた。