不慣れなネクタイにもようやく馴染み始めた、四月中旬。
クラスではすでに、「一軍」か「それ以外」の明確なグループ分けが完了していた。春希は当然のように「それ以外」で、その中でも更に「空気」に属していると、自覚していた。
話しかけられたら、嫌な顔をせず返事をする。頼まれごとは基本、断らない。質問に対して口から出るのは無難な応答だけで、軽口の一つも言えずに友達もできないまま、四月が下旬へ向かおうとしていた。
その日、春希は日直だった。誰かの机と椅子を借りて、同じ日直の女子二人と日誌を埋める作業に取り組む。書くことがない日ほど、たった三行が長い。
教室の真ん中で、机が二つ、脇へ寄せられた。女子が数人集まって、一人にスマートフォンを持たせている。どこかで聞いたことのある曲が流れ出して、揃った動きからポーズを決める。数秒撮っては画面を確かめ、笑い、撮り直す。それが何度も繰り返された。
(何が面白いんだか……)
顔を上げると、向かいの日直と目が合った。まーたやってる、という顔で、互いに苦笑する。他の生徒たちは部活や委員会へ三々五々、教室を出ていく。
「あ、遠野君、遠野君!」
「――え」
扉のほうへ向かいかけていた肩が跳ねて、白い顔が振り返った。
「いっしょに撮ろうよ〜、遠野君がいたらアイドルっぽいし」
「いや、でも、僕」
断る間もなく袖を引かれ、遠野はカメラの前へ引きずられていく。背は女子より高いのに、輪の中で一番小さく見える。
「……」
春希はシャーペンを日誌のページに置いて、席を立った。
「牧野君?」
日直女子が止める間もなく、春希はホームルームの板書が残る黒板の前に立ち、上の段から下まで、腕を伸ばして一気に拭く。
「ちょっと〜!」
カメラを構えていた女子が、抗議の声を上げた。
「ん? あ、ごめん。黒板が映ったらヤバいかなって」
「そ、そうそう、名前とか書いてあったから」
日直の女子が、フォローに入る。
「あ、そっか」
「気づかなかったー、ありがとね!」
案外と素直に、女子たちは「場所変えよっか」と相談を始める。
「僕、用事があるから……」
その隙に後ずさりして、遠野は教室を抜けた。
「――ふう」
真っ白になった黒板消しを持って、春希は窓を開ける。校庭側の風が、教室のよどんだ熱を押し出した。
昇降口から校門へ、痩せた人影が足早に歩いていく。遠野だ。すれ違ったジャージ姿の女子生徒たちが、二度見して「きゃー」と黄色い声を上げている。下階の窓からもいくつか頭が覗いていて、遠野の背中を追っていた。
「こっわ……」
春希は首を振って、窓を閉めた。
*
予定通り、春希は水泳部に入部した。といっても、公立の弱小水泳部でできる活動は限られている。
泳げるのは屋外プールが使える六月中旬から九月上旬まで。それ以外は週に二度ほどの軽い陸上練習と、自主練だ。どちらも強制ではない。
水曜の夕方、春希は市民プールにいた。二十五メートルプールは幾つものレーンに区切られている。中央の二レーンは長距離泳用で、学生や仕事帰りの社会人が、春希を含めてノンストップで往復している。
三十分ほど軽く流して、その日はプールから上がった。真面目に水泳に取り組んでいるわけではない。小学生の頃から続けてきた習い事の延長で、タイムも距離も測っていない。強いて言えば、プール開きまでに受験で鈍った体を少しは絞っておかないと格好がつかない、という理由があるくらいだ。
なおざりに体を拭いて着替え、髪を乾かしきらないまま外へ出ると、スマートフォンが震えた。母からだ。
『バター切らしちゃった!』
「またか」
了解のスタンプだけ返信して、春希は駅前のスーパーへ足を向けた。
平日の夕方、スーパーは主に主婦たちで混んでいた。天井のスピーカーから、店のテーマソングが延々とリピートしている。
「?」
精肉コーナーの角に、小さな人だかりができていた。外周から覗いてみると、白いコック帽の先端が見えた。行き交う客たちの間から見えるのは、ホットプレートの前に立って、爪楊枝の刺さった紙皿を差し出している、やたら顎の小さい童顔の――
「え、なんで」
春希は、思わず柱の陰へ体を寄せた。人だかりの中心にいたのは、遠野雪だった。
「本日、豚こまが特別価格、百グラム九十八円です。よかったら味見していってください」
よく声が通っている。教室の時の十倍は出ていた。
「タレは当店オリジナル! 生姜とニンニクがダブルできいてます」
紙皿を受け取った女性が肉を口に入れ、美味しいとリアクションすると、遠野の表情が弾けた。
「でしょう! ごはんがどんどん減るんです」
つられて笑った女性は、パックとタレをセットで持って行った。遠野はプレートの肉をひっくり返して新しい紙皿に取り分け、次に通りかかった客のほうへ顔を向ける。
「学校にいるときと違うし」
唖然とする春希の前で、通路を歩いていた主婦が一人、また一人と足を止めていく。人だかりの厚みが増して、その後ろで別の客がパックとタレを取っていく。商品棚は、みるみる底が見えてきた。
「バイトがあるから、帰宅部ってことか……」
春希は、手元の籠を見た。母親に頼まれていた、バターと、追加のニンジン、長ねぎと、みりん。
「……」
何だか気恥ずかしさを覚え、春希は柱から離れる。遠野に見つからないよう、足早にセルフレジへ向かった。
クラスではすでに、「一軍」か「それ以外」の明確なグループ分けが完了していた。春希は当然のように「それ以外」で、その中でも更に「空気」に属していると、自覚していた。
話しかけられたら、嫌な顔をせず返事をする。頼まれごとは基本、断らない。質問に対して口から出るのは無難な応答だけで、軽口の一つも言えずに友達もできないまま、四月が下旬へ向かおうとしていた。
その日、春希は日直だった。誰かの机と椅子を借りて、同じ日直の女子二人と日誌を埋める作業に取り組む。書くことがない日ほど、たった三行が長い。
教室の真ん中で、机が二つ、脇へ寄せられた。女子が数人集まって、一人にスマートフォンを持たせている。どこかで聞いたことのある曲が流れ出して、揃った動きからポーズを決める。数秒撮っては画面を確かめ、笑い、撮り直す。それが何度も繰り返された。
(何が面白いんだか……)
顔を上げると、向かいの日直と目が合った。まーたやってる、という顔で、互いに苦笑する。他の生徒たちは部活や委員会へ三々五々、教室を出ていく。
「あ、遠野君、遠野君!」
「――え」
扉のほうへ向かいかけていた肩が跳ねて、白い顔が振り返った。
「いっしょに撮ろうよ〜、遠野君がいたらアイドルっぽいし」
「いや、でも、僕」
断る間もなく袖を引かれ、遠野はカメラの前へ引きずられていく。背は女子より高いのに、輪の中で一番小さく見える。
「……」
春希はシャーペンを日誌のページに置いて、席を立った。
「牧野君?」
日直女子が止める間もなく、春希はホームルームの板書が残る黒板の前に立ち、上の段から下まで、腕を伸ばして一気に拭く。
「ちょっと〜!」
カメラを構えていた女子が、抗議の声を上げた。
「ん? あ、ごめん。黒板が映ったらヤバいかなって」
「そ、そうそう、名前とか書いてあったから」
日直の女子が、フォローに入る。
「あ、そっか」
「気づかなかったー、ありがとね!」
案外と素直に、女子たちは「場所変えよっか」と相談を始める。
「僕、用事があるから……」
その隙に後ずさりして、遠野は教室を抜けた。
「――ふう」
真っ白になった黒板消しを持って、春希は窓を開ける。校庭側の風が、教室のよどんだ熱を押し出した。
昇降口から校門へ、痩せた人影が足早に歩いていく。遠野だ。すれ違ったジャージ姿の女子生徒たちが、二度見して「きゃー」と黄色い声を上げている。下階の窓からもいくつか頭が覗いていて、遠野の背中を追っていた。
「こっわ……」
春希は首を振って、窓を閉めた。
*
予定通り、春希は水泳部に入部した。といっても、公立の弱小水泳部でできる活動は限られている。
泳げるのは屋外プールが使える六月中旬から九月上旬まで。それ以外は週に二度ほどの軽い陸上練習と、自主練だ。どちらも強制ではない。
水曜の夕方、春希は市民プールにいた。二十五メートルプールは幾つものレーンに区切られている。中央の二レーンは長距離泳用で、学生や仕事帰りの社会人が、春希を含めてノンストップで往復している。
三十分ほど軽く流して、その日はプールから上がった。真面目に水泳に取り組んでいるわけではない。小学生の頃から続けてきた習い事の延長で、タイムも距離も測っていない。強いて言えば、プール開きまでに受験で鈍った体を少しは絞っておかないと格好がつかない、という理由があるくらいだ。
なおざりに体を拭いて着替え、髪を乾かしきらないまま外へ出ると、スマートフォンが震えた。母からだ。
『バター切らしちゃった!』
「またか」
了解のスタンプだけ返信して、春希は駅前のスーパーへ足を向けた。
平日の夕方、スーパーは主に主婦たちで混んでいた。天井のスピーカーから、店のテーマソングが延々とリピートしている。
「?」
精肉コーナーの角に、小さな人だかりができていた。外周から覗いてみると、白いコック帽の先端が見えた。行き交う客たちの間から見えるのは、ホットプレートの前に立って、爪楊枝の刺さった紙皿を差し出している、やたら顎の小さい童顔の――
「え、なんで」
春希は、思わず柱の陰へ体を寄せた。人だかりの中心にいたのは、遠野雪だった。
「本日、豚こまが特別価格、百グラム九十八円です。よかったら味見していってください」
よく声が通っている。教室の時の十倍は出ていた。
「タレは当店オリジナル! 生姜とニンニクがダブルできいてます」
紙皿を受け取った女性が肉を口に入れ、美味しいとリアクションすると、遠野の表情が弾けた。
「でしょう! ごはんがどんどん減るんです」
つられて笑った女性は、パックとタレをセットで持って行った。遠野はプレートの肉をひっくり返して新しい紙皿に取り分け、次に通りかかった客のほうへ顔を向ける。
「学校にいるときと違うし」
唖然とする春希の前で、通路を歩いていた主婦が一人、また一人と足を止めていく。人だかりの厚みが増して、その後ろで別の客がパックとタレを取っていく。商品棚は、みるみる底が見えてきた。
「バイトがあるから、帰宅部ってことか……」
春希は、手元の籠を見た。母親に頼まれていた、バターと、追加のニンジン、長ねぎと、みりん。
「……」
何だか気恥ずかしさを覚え、春希は柱から離れる。遠野に見つからないよう、足早にセルフレジへ向かった。

