春を待つ雪

 二月十二日、金曜日の朝。
 春希はいつものように、楠原駅の改札前で雪を待った。
 ただし、今日の楠原駅はいつもと違う。シャンプーやコロンの甘い匂いが充満していた。改札前の通路に、大勢の女子生徒たちが集まっている。楠原高校の制服だけではない、他校の生徒たちの姿も混ざっていた。めいめいに色とりどりの紙袋を提げ、そわそわと改札の奥へ視線を送っている。
 出勤を急ぐスーツ姿の大人たちが、通行の邪魔になる不自然な集団を訝しげに見やりながら通り過ぎていく。駅員たちもそれぞれの持ち場から、何事かと首を伸ばして様子をうかがっていた。

 やがて階段の手すり寄りを、雪がゆっくりと上ってきた。その姿が現れた瞬間、通路の空気が一気に沸騰する。
「来た、雪くんだ……!」
「生で見るとやばい、めっちゃかわいい」
 誰かの黄色い声をきっかけに、堰を切ったように女子生徒たちが改札口へと殺到した。
「え、え、え」
 ゲートを抜けたばかりの雪は、瞬く間に無数の制服の波に飲み込まれた。
「これ、受け取ってください!」
「SNS見てます、応援してます!」
 四方八方から突き出される色鮮やかな包みや、リボンの結ばれた紙袋。雪は目を丸くして立ち尽くしたまま、押し付けられるそれらを反射的に両手で受け止めることしかできない。
 人垣から弾き出される形になった春希は、コンクリート柱の陰からその狂騒をただ観察していた。渦潮の中心にいる雪へ、迂闊に近づくことができない。

 嵐のような時間は、数分で過ぎ去った。目的を果たした女子たちは、怒涛の勢いで駅の通路から散っていった。人の波が引いた後の、寒々しい通路の中央。そこには、両腕に抱えきれないほどの紙袋や包みを抱えて、呆然とする雪の姿だけが残されていた。
「だ、大丈夫か」
 春希は柱から顔を出し、雪の元へ歩み寄った。積み上げられた色とりどりの箱や袋の隙間から、困惑した瞳がこちらを向いた。
「あはは……」
 乾いた笑い声が漏れる。
「半分、持とうか」
 春希が手を伸ばしかけると、
「あ……」
 雪はわずかに体を引いて、春希の手をかわした。
「ううん、僕が自分で持った方が良い気がする」
「――そう、だな」
 伸ばしかけた手を宙で止め、春希は通路出口付近のコンビニを示す。
「なんか袋、買ってくる」
「ありがとう、助かる……!」
 ホッとした声を背中に受けながら、春希はコンビニへ走った。

 学校に到着しても、チョコレート戦争は終わらなかった。
 下駄箱を開ければ小箱が雪崩れ落ち、教室のロッカーを開けても、机の上にも、引き出しの中にも、ラッピングされた箱が所狭しと詰め込まれていた。同じ一年生だけでなく、他階からわざわざ足を運んでくる上級生の女子たちまでもが現れた。恋愛の告白というよりも、アイドルの推し活に近い熱気だ。その騒動を、クラスメイトたちは面白半分に眺めている。
「遠野君、マジでやばい」
「三年の先輩抜いてトップでしょこれ」
 だが当の雪は、困り果てたように眉尻を下げていた。
「こんなにたくさん、なんだか申し訳なくなっちゃう……」
「エコバッグ、余計に買っといて正解だったな」
 春希は単純作業のように、雪の机の周りに溢れかえったチョコレートの山を大きなエコバッグへ詰めていく。トゲトゲに膨らんだ袋を、どうにか雪のロッカーへ押し込む。

 一仕事を終え、春希は窓際にある自席へと向かった。鞄をフックに掛け、授業の準備をしようと何気なく机の引き出しに手を差し込んだ、その時――
「ん……?」
 指先に、ノートとは違う厚みのあるものが触れた。
 端を掴んで引き出してみると、それは可愛らしいピンク色の花柄の封筒だった。表書きには「牧野春希君へ」と、どこかで見覚えのある、きれいな手書き文字が記されていた。裏返してみても、差出人の記載がない。封はされておらず、中には折り畳まれた便箋が一枚。開いてみると箔押しの白い便箋だった。真ん中に一行だけ。
『お昼休みに、特別教室棟の一階奥、空き教室にきてください』
「……」
 春希は一瞬、時間が止まったように感じた。
「……」
 ふと気配を感じて振り返ると、こちらを見ていた雪の顔が、スッと曇るのが見えた。前髪の奥の瞳が、春希の手元にある便箋を凝視している。
「!」
 春希と視線がぶつかった瞬間、雪は弾かれたようにぱっと口角を上げ、笑顔を作った。
「もしかして、バレンタインの告白の呼び出し?」
 ト書きに「男友達の恋バナをからかう」とでも書かれているように、目を丸くしてから細める。
「……ち、違うだろ。罰ゲームか、『これ遠野君に渡してください』、ってやつ」
 春希は手紙を引き出しの奥に押し込んだ。
「そうかな」
 いつものように窓辺へやってきて隣に並ぶ雪の横顔は、物憂げな冬の曇りを映していた。



 昼休み、春希は特別教室棟へ続く渡り廊下をくぐった。
 授業で使われる時以外は暖房が入らないため、建物全体がシンと冷え切っている。人気のない廊下を奥までつっきると、手紙に指定された空き教室があった。少し埃っぽい匂いが漂う室内には、使われなくなった古い道具や、予備の机と椅子が無造作に並べられている。窓には薄い白のカーテンが引かれており、冬の冴えた光を柔らかく和らげている。
 手紙の主は、すでに中にいた。
「あ……牧野君」
 到着した春希を出迎えたのは、小柄な女子生徒だった。真面目な優等生といった雰囲気の彼女は、両手で小さな箱を大事そうに胸元に抱えている。
「三田さん?」
 出席番号が近く、よく日直を一緒に担当する女子生徒だ。手紙の几帳面な文字は、日誌で見た筆跡と同じだった。
 雪が川へ転落したとき、先生を呼びに走ってくれた。その翌日、重苦しい教室で真っ先に春希へ声をかけたのも彼女だ。
 春希はもう一度廊下を振り返ってから、室内に足を踏み入れた。

「ごめんね、わざわざ」
「いや……」
 お互いに目のやり場に困る。三田は手にした箱へ、春希は窓の外へ顔を向けた。特別教室棟はグラウンドから少し離れているため、生徒たちの喧騒は届かない。代わりに、幹線道路を通るトラックの低い走行音が、等間隔に響いてくる。
 机一つ分の距離を挟んで向き合い、数秒の後、ようやく目が合った。三田が、春希の顔を真っ直ぐに見上げてくる。春希のあご下にも満たない身長差。男なら、こうして女の子に見上げられる場面を一度は想像するのかもしれない。
「あの、これ……」
 可愛らしいラッピングの小箱が、控えめに差し出される。結ばれたリボンには、『牧野春希君へ』と表書きされた封筒が挟まっていた。
「俺、に?」
 自分でも「そう書いてあるだろ」とつっこみたくなる愚問に、三田は小さく二度、頷いた。春希は両手を差し出して、それを受け取った。
「ありが――」
「お返事は急がないので、読んでくれたら、嬉しい、です、あ、この、これ、紙袋なので良かったらこれに入れて持って帰ってね」
 耐えきれなくなったように、三田は一気にまくしたてた。畳んだクラフト紙のシンプルな紙袋を春希の腕に押し付ける。
「あ」
 呼び止める間もなかった。目を合わせないまま深々と一礼すると、三田は慌ただしい足音を立てて教室を飛び出していった。



 昼休みの終わり際。もらった小さな箱と手紙の入ったクラフト紙の袋を提げて、春希は教室へ戻った。春希の席の向かいで、雪がひとりで弁当を食べていた。
「おかえり。先に、頂いてる」
 振り返った雪は、戻ってきた春希の顔を見てから、その手にある紙袋へ目をやった。そして何も聞かず、静かに視線を手元の弁当箱へ戻した。
「あ、ああ。俺も食う」
 春希は手にした紙袋を自席の引き出しの奥へ差し入れ、急いで自分の弁当を広げた。
 予鈴が鳴るまで、二人は黙々と昼食を進めた。呼び出しの相手が誰だったのか、結果がどうだったのかについて、雪が春希に問いかけてくることはなかった。

 午後の授業が始まる。暖房の効いた教室に教師の単調な声が響く中、春希は教科書の陰で、引き出しの奥からそっと手紙を引っ張り出した。便箋の七割ほどが、大人びた文字で埋められていた。そこには、春希に対する好意が、誤解のしようもなく綴られていた。
 普段の静かな雰囲気や、友達のために一生懸命になれる優しいところに惹かれていること。そして、もし嫌でなければ、お付き合いできたら嬉しいということ。まるで国語の教科書に出てくるような、真っ直ぐで清廉な文章だった。
「……あ」
 読み終えた瞬間、記憶の糸が、不意にある場面へと繋がった。
 図書室のパーテーション越しに立ち聞きしてしまった、女子たちのバレンタイン話。春希の名前を挙げて「安心できる」と控えめに笑っていた、あの女子生徒の声――。
「っ」
 春希は思わず手で口元を覆い、喉までせり上がったものを飲み込んだ。この手紙を読む瞬間まで、図書室での一件を完全に忘れていた。以前の自分なら、女子の口に自分の名前が挙がることなど、天変地異に等しい大事件だったはずだ。それなのに――あの日から今日まで、頭の中には、ただ雪しか存在していなかった。
「……」
 春希はゆっくりと便箋を閉じ、開いていたノートのページに挟んで隠した。
 ちらりと黒板の方へ顔を上げると、その延長線上にいた三田と、一瞬だけ目が合った。彼女は恥ずかしそうに小さくはにかんでから、慌てて教壇の方へ顔を向け直した。横を見れば、雪は廊下側へ顔をそらしたまま、俯いて動かなかった。



「バレンタインもいいけど、あまり遅くならないようにな」
 教壇に立つ青木先生の言葉に、クラスのあちこちから小さな笑い声が漏れた。ほぼ同時に、放課後の始まりを告げるチャイムが校舎に鳴り響く。
 途端に、朝から落ち着きのない様子だった何人かの女子や男子たちが、いそいそと鞄を掴んで教室を出ていった。数人の女子グループが「先輩んとこ、いこっ」と浮かれた声で連れ立ち、廊下へ飛び出していく。
 賑やかな教室の後方で、雪はロッカーを開けた。三つの大判エコバッグが詰め込まれている。どれも色とりどりのチョコレートの包みでパンパンに膨れ上がっており、少し整理しなければ持ち帰ることが難しそうだ。
 春希は鞄を机に残したまま、ロッカーの前で立ち尽くす雪の後ろを通り過ぎる。
「すぐ戻る」
「――え、う、うん」
 戸惑う声を背中で聴きながら、春希は振り返ることなく教室の扉を抜けた。

 昼休みにも訪れた、特別教室棟一階の奥にある空き教室。春希が足を踏み入れると、夕暮れに傾いた光の中に、三田が立っていた。
「牧野君」
 足音に気づいて振り向いた三田の小さな手には、破いたノートを折りたたんだメモが握られていた。
「遠回りなのに、ごめん」
「ううん」
 春希は、窓際で待つ三田のもとへ歩を進めた。今度は逃げずに目を見て。子犬のような三田の双眸が二回瞬く間に、春希は椅子二つ分の距離をあけて立ち止まった。
「チョコと手紙、ありがとう。……授業中に、こっそり読んだ」
 言葉を切って、春希はメガネのフレームの内側で、目を伏せた。ひんやりとした沈黙が落ちる。
 短く息を吸い込み、春希は再び口を開いた。
「嬉しかった、けど……俺、好きな人がいる」
 春希は深く頭を下げた。視界が薄暗い床板だけになる。幹線道路から響く車の走行音と、下校していく生徒たちの声が頭上を流れた。
 数秒の後に頭を戻すと、微かに潤んだ瞳が春希を見つめていた。唇をきゅっと噛み締め、無理に口角を引き上げて微笑みを作って。
「お返事、ありがとう。……あ、お返しとかは、いらないから」
 胸元で、手にしたメモがぎゅっと握り込まれ、くしゃりとよれた。
「――じゃあ、またね」
 小さく会釈して、三田は小走りで春希の脇を通り抜けた。
「……」
 廊下を遠ざかっていく上履きの音が消えるまで、春希は振り返らなかった。



 生徒たちの気配が消えた薄暗い廊下を歩き、春希は一年B組の教室へと戻った。
 後ろの扉を開けると、そこには雪だけが残っていた。オレンジ色の光の中で、雪の色素の薄い肌が淡く輝いている。
「おかえり、春希」
 扉の音に振り向いた雪が、微かに目を細める。雪の机の上には、中身が詰まった大判のエコバッグが三袋、どっしりと並んでいた。
「ちょうど、整理が終わったところ」
 春希は教室の入り口に立ったまま、無言で雪を見つめ続けた。
「……えっと、春希の方は……その、用事はもう、いいの?」
 間を持て余し、雪がわずかに目を泳がせる。春希はゆっくりと教室の中へ足を踏み入れ、雪の方へ。手を伸ばせば届く距離で、立ち止まる。一度だけ目を伏せてから、まっすぐに雪の揺れる瞳を見つめた。

「俺、雪が好きだ」
「え?」
 あまりに唐突な告白に、雪の声がひっくり返った。

 また、数秒の沈黙。

「え、でも、その、呼び出しのあった子は?」
「断った」
「なんで!?」
 春希はわずかに首を傾げる。
「なんでって……俺は、雪のことが好きだから」
 そのまま返された言葉に、雪は慌てて首を振った。
「男からの告白なんて嫌だって」
「俺は嫌だって言ってない」
「あれ……そう……だっけ?」
「あと一ヶ月だけってのも、了解してない」
「で、でも、春希は何も言わなかった!」
 戸惑いが、雪を後ずさりさせる。脚が机にぶつかり、エコバッグの山から溢れ出たチョコレートの小箱が、一箱、二箱と床へ転がり落ちた。
「言ったよね、僕、春希に同情されたくないって――」
「違う」
 春希は一歩踏み込み、逃げ場を失って強張る雪を、背中ごと覆うように抱きしめた。
「好きだ」
 乾いた喉を通った声が掠れる。

 しばらく、春希は腕の中に雪の体温を閉じ込めた。川から助け上げたとき以来だ。ブレザー越しの痩せた体が、小刻みに震えている。
「本当……?」
 雪の両手が、春希のブレザーの背中を頼りなげに握りしめた。
「本当」
「でも、春希は、優しいからな〜……」
 強張っていた力が少しずつ抜け、春希の腕の中で照れくさそうに雪がもぞりと動いた。
「……」
 春希はいったん腕の力を緩め、雪の体からゆっくりと離れた。
「春希……?」
 不安げに見上げてくる雪の目の前で、春希はメガネを外し、傍らの机の上へ無造作に置いた。
 境界のなくなった春希の顔を、雪がじっと見上げる。遮るもののない距離を、どちらからともなく、埋めていく。少しだけ顔を傾けて――唇が触れ合った。
「……っ」
 雪の喉からひび割れた小さな呼気が漏れた。春希は指先を、柔らかい頬に添える。雪は逃げなかった。押し当てた唇は柔らかく、少し乾燥していた。

 やがて、静かに離れる。

「春希……」
「同情じゃない」
 冬の夕日を浴びて琥珀色に染まる瞳が、お互いのぎこちない顔を映し合う。
「同情でこんなん……できないし」
 空気に耐えきれなくなり、春希は机の上のメガネを探り当て、かけ直した。
「はる、き……」
「――うん?」
 どん、と胸元に軽い衝撃が当たる。雪の両腕が春希の首元へ、もつれるように巻きついた。机の上に積まれていたチョコレートの山が雪崩れ落ちていく。
「はるき……、はるき、はるき……」
 耳元で、縋るように何度も自分の名前が繰り返される。
「うん」
 春希は短く息を吸い込み、雪を強く抱きしめ返した。
「雪」
 緊張で固くなっていた雪の体が、一瞬のあと、腕の中でゆっくりと熱を持っていく。

 誰もいない放課後の教室。夕日の赤が少しずつ濃さを増していく中で、床に散らばった無数のチョコレートの甘い匂いが、重なり合う影を包んだ。