オフィス・シノミヤの所属タレントとして雪のプロフィールが正式にリリースされ、個人SNSアカウントも開設した翌日以降も、楠原高校の校内は、春希の予想に反して落ち着いていた。
休み時間になると何人かのクラスの女子が雪の席へやってきて、
「遠野君、写真めっちゃ可愛かった〜〜!」
「アカウント、フォローしたよ!」
と声をかけ、雪が少し照れくさそうに「あ……ありがとう……!」と答える、といった会話が交わされたくらいだ。
あとは、廊下から雪を一目見ようと三階まで足を運んでくる上級生が増えたことくらいである。
周囲の空気が少しだけ形を変えても、春希と雪の過ごし方は何一つ変わらなかった。
休み時間に教室にいる時は、いつも二人で窓辺に並んで話をする。
教室移動も、中庭での昼休みも、いつもと一緒。
少し変わったことといえば、学校の外だ。
「え」
いつものように二人一緒に駅へ向かおうと校門から一歩足を踏み出した瞬間、春希は足を止めた。
校門の前の歩道に、小綺麗な私服姿の若い女子グループが、スマートフォンを握りしめて立っていたのだ。彼女たちは雪の姿を認めるなり口元を手で覆い、「雪くんだ」と小声で囁き合っている。
以前のように、面白半分で無遠慮にカメラを向けて距離を詰めてくるような輩ではない。遠巻きに雪を眺めて拝むような――いわゆる「ファン」と呼ばれる層に入れ替わっていた。
雪は彼女たちへ控えめな会釈だけを返すと、
「ねね、春希。期末のことだけど」
と春希へ半歩、距離を詰めて見上げるように話しかけてきた。
背中に、黄色いざわめきが聞こえる。
「いいのか。あれって、雪のファンだろ?」
歩き出しながら、春希は隣の雪へ小声で尋ねた。
「そう、なのかな……分からない。僕、まだ何もしてないよ」
「ファンサービスみたいなことって、どうすんの」
「制服の時は、いつも通りにしてていいって言われたんだ。それに、『そんな心配は、何か一つでも仕事をしてからにしなさい』って、社長に言われちゃった」
「ぶっ」
春希が思わず吹き出すと、雪もつられて笑い声をこぼした。
「面白い社長さんだな」
「でしょ。社長って――えーっと……今度、話すね」
「何だよ」
春希が肘で軽く小突くと、雪も楽しそうに「今じゃないの」と小突き返してきた。
来月、十二月の上旬に迫る期末試験の勉強を一緒にしよう、という話をしながら通学路を下り、楠原駅に到着して改札前で別れる。手を振ってくぐっていく雪を、春希はいつものように見送った。
「ん……」
ふと気配を感じて振り返ると、校門前にいた数人も、いつの間にか駅まで来ていた。彼女たちは改札へ入ろうとはせず、階段を下りる雪をただ見送っている。
(行儀のいいファンだな)
そう感心していると、くるりと振り返ったファンのうちの一人と、ばっちり目が合ってしまった。やば、と思ったが、顔を逸らすのが一歩遅かった。
女の子たちの目が、春希の頭からつま先までを往復する。
一通りスキャンし終えた彼女たちは、そのまま春希の背後にある駅ビル内のファストフード店へと連れ立って行った。
*
晩秋、十一月下旬。
春希と雪の二人は、開けた水田地帯の奥にこんもりとした緑の丘陵が連なる『ふるさと村』を訪れていた。
入り口付近のコーヒースタンドで飲み物をテイクアウトし、常緑樹の森の中に建てられたコミュニティハウスへ向かう。
窓際のテーブルを挟んで、二人は向き合っていた。
天板には、各教科のテキストやノートが隙間なく広げられている。
窓の桟には、テイクアウトの紙カップが二つ並んでいた。片方は春希のブラックコーヒーで、もう片方は雪のソイラテだ。社長から「砂糖を控えなさい」と指導が入っているらしく、甘みは足されていない。
「どうしてもおかしい文章にしかならないんだが……」
春希はシャープペンシルを放り出し、広げた英語の長文読解のテキストに突っ伏した。
「どれ?」
向かいの席で自分のノートに向かっていた雪が、ひょいと身を乗り出して春希の手元を覗き込む。
「ここは、この関係代名詞が前の名詞にかかってるから、こう訳せば自然だよ。あと、このかたまりは熟語だから、単語帳みてみて」
雪の指先がテキストの文字列をなぞる。
教えられた通りに構文を区切って熟語を当てはめてみると、すんなりと意味のある日本語へと変換された。
「なるほど。助かる。雪、英語得意だよな」
「ふふ。語学は好きなんだ。いつか、お仕事の役に立つかもしれないし」
そう言って微笑む雪の手元にある英単語帳は、書き込みと使い込みによってページがしわくちゃになっていた。
「配信とかでも、海外の映画とかドラマって人気だもんな」
雪が見据えている目標の高さに、春希の内心で感心と驚きが入り混じった。
「春希こそ、数学とか物理の点数高いし、建築には大事な科目なんだよね」
「デザインするだけじゃなくて、人の命を守るための計算に必要だって――まあ、父さんのセリフをパクっただけなんだけど」
「命を守る計算かあ。かっこいいっ」
無邪気に目を輝かせる雪から、春希はふいと目を伏せる。
痒くもない首の後ろを掻きながら、シャープペンシルを握り直した。
日曜日の午前中、コミュニティハウスの多目的室には、二人の他にも散策の休憩に立ち寄った地元の人や子どもたちが、ぽつぽつと席についている。適度なざわめきの中、二人はまたしばらく勉強に集中した。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
一時間ほど経った頃。雪がそっと椅子を引いて席を立った。
「おう」
短く返し、春希は首を鳴らして凝りをほぐす。
視線が、机の端に裏返したスマートフォンへ吸い寄せられる。
「休憩」
春希は諦めたように、それを手に取った。
「また増えてんな」
雪の公式個人アカウントは、開設から数日しか経っていないにもかかわらず、フォロワー数が五万に達していた。
まだ数少ない写真や動画の投稿に、合計で百件近いコメントがぶら下がっている。
好意的なものが多く、誹謗中傷や悪意のある書き込みは見当たらない。
「ちゃんと対応してるってことかな」
事務所の管理が機能している様子に、春希は小さく息を吐いた。
しかし公式の外側では『楠原高校の王子様がついに事務所に入った』という話題が、コンテンツとして消費されていた。
『これからは事務所がちゃんと守ってくれるならよかったね』
という同情の声がある一方で、冷ややかな意見も混じっている。
『ああいう見た目だけの子って、高校卒業したら一気に価値が落ちそう』
「……」
文字をなぞる春希の胸の奥で、じわりと鈍い怒りが湧き上がった。
「――やめよ」
どっと押し寄せてきた疲労感とともに、春希はスマートフォンを再び机に裏返す。ちょうど、廊下の奥から雪の足音が近づいた。
トイレから戻ってきた雪は、席につく手前で「あ、そうだ」と何かを思いついたように、スマートフォンを取り出した。
雪は窓の桟の紙カップを二つと、手前に広げたノートやテキストの端が見切れる構図を作り、撮影ボタンを押した。
「『2ki_days』用」
画面を確認して、雪が満足そうに頷く。
仕事用の個人アカウントが開設されてからも、雪は『2ki_days』への投稿を欠かしていなかった。
文化祭のあたりからこちらも反応が増え、フォロワーは六百人に達していた。
「あとで、『期末試験の勉強』って投稿するね」
「そしたら俺は、これにしようかな」
春希もスマートフォンを手に取り、机の上へカメラを向けた。
使い込まれた雪の英単語帳と、春希の分厚い物理の資料集。
二冊の側面を並べ、写真を撮る。
「いいね。勉強してます感、出てる」
「これだけボロボロにしといて、結果出さないと恥ずいぞ」
「そうだね」
二人は顔を見合わせて笑い合い、スマートフォンの画面を伏せて、再びそれぞれのノートと参考書へ向き直った。
休み時間になると何人かのクラスの女子が雪の席へやってきて、
「遠野君、写真めっちゃ可愛かった〜〜!」
「アカウント、フォローしたよ!」
と声をかけ、雪が少し照れくさそうに「あ……ありがとう……!」と答える、といった会話が交わされたくらいだ。
あとは、廊下から雪を一目見ようと三階まで足を運んでくる上級生が増えたことくらいである。
周囲の空気が少しだけ形を変えても、春希と雪の過ごし方は何一つ変わらなかった。
休み時間に教室にいる時は、いつも二人で窓辺に並んで話をする。
教室移動も、中庭での昼休みも、いつもと一緒。
少し変わったことといえば、学校の外だ。
「え」
いつものように二人一緒に駅へ向かおうと校門から一歩足を踏み出した瞬間、春希は足を止めた。
校門の前の歩道に、小綺麗な私服姿の若い女子グループが、スマートフォンを握りしめて立っていたのだ。彼女たちは雪の姿を認めるなり口元を手で覆い、「雪くんだ」と小声で囁き合っている。
以前のように、面白半分で無遠慮にカメラを向けて距離を詰めてくるような輩ではない。遠巻きに雪を眺めて拝むような――いわゆる「ファン」と呼ばれる層に入れ替わっていた。
雪は彼女たちへ控えめな会釈だけを返すと、
「ねね、春希。期末のことだけど」
と春希へ半歩、距離を詰めて見上げるように話しかけてきた。
背中に、黄色いざわめきが聞こえる。
「いいのか。あれって、雪のファンだろ?」
歩き出しながら、春希は隣の雪へ小声で尋ねた。
「そう、なのかな……分からない。僕、まだ何もしてないよ」
「ファンサービスみたいなことって、どうすんの」
「制服の時は、いつも通りにしてていいって言われたんだ。それに、『そんな心配は、何か一つでも仕事をしてからにしなさい』って、社長に言われちゃった」
「ぶっ」
春希が思わず吹き出すと、雪もつられて笑い声をこぼした。
「面白い社長さんだな」
「でしょ。社長って――えーっと……今度、話すね」
「何だよ」
春希が肘で軽く小突くと、雪も楽しそうに「今じゃないの」と小突き返してきた。
来月、十二月の上旬に迫る期末試験の勉強を一緒にしよう、という話をしながら通学路を下り、楠原駅に到着して改札前で別れる。手を振ってくぐっていく雪を、春希はいつものように見送った。
「ん……」
ふと気配を感じて振り返ると、校門前にいた数人も、いつの間にか駅まで来ていた。彼女たちは改札へ入ろうとはせず、階段を下りる雪をただ見送っている。
(行儀のいいファンだな)
そう感心していると、くるりと振り返ったファンのうちの一人と、ばっちり目が合ってしまった。やば、と思ったが、顔を逸らすのが一歩遅かった。
女の子たちの目が、春希の頭からつま先までを往復する。
一通りスキャンし終えた彼女たちは、そのまま春希の背後にある駅ビル内のファストフード店へと連れ立って行った。
*
晩秋、十一月下旬。
春希と雪の二人は、開けた水田地帯の奥にこんもりとした緑の丘陵が連なる『ふるさと村』を訪れていた。
入り口付近のコーヒースタンドで飲み物をテイクアウトし、常緑樹の森の中に建てられたコミュニティハウスへ向かう。
窓際のテーブルを挟んで、二人は向き合っていた。
天板には、各教科のテキストやノートが隙間なく広げられている。
窓の桟には、テイクアウトの紙カップが二つ並んでいた。片方は春希のブラックコーヒーで、もう片方は雪のソイラテだ。社長から「砂糖を控えなさい」と指導が入っているらしく、甘みは足されていない。
「どうしてもおかしい文章にしかならないんだが……」
春希はシャープペンシルを放り出し、広げた英語の長文読解のテキストに突っ伏した。
「どれ?」
向かいの席で自分のノートに向かっていた雪が、ひょいと身を乗り出して春希の手元を覗き込む。
「ここは、この関係代名詞が前の名詞にかかってるから、こう訳せば自然だよ。あと、このかたまりは熟語だから、単語帳みてみて」
雪の指先がテキストの文字列をなぞる。
教えられた通りに構文を区切って熟語を当てはめてみると、すんなりと意味のある日本語へと変換された。
「なるほど。助かる。雪、英語得意だよな」
「ふふ。語学は好きなんだ。いつか、お仕事の役に立つかもしれないし」
そう言って微笑む雪の手元にある英単語帳は、書き込みと使い込みによってページがしわくちゃになっていた。
「配信とかでも、海外の映画とかドラマって人気だもんな」
雪が見据えている目標の高さに、春希の内心で感心と驚きが入り混じった。
「春希こそ、数学とか物理の点数高いし、建築には大事な科目なんだよね」
「デザインするだけじゃなくて、人の命を守るための計算に必要だって――まあ、父さんのセリフをパクっただけなんだけど」
「命を守る計算かあ。かっこいいっ」
無邪気に目を輝かせる雪から、春希はふいと目を伏せる。
痒くもない首の後ろを掻きながら、シャープペンシルを握り直した。
日曜日の午前中、コミュニティハウスの多目的室には、二人の他にも散策の休憩に立ち寄った地元の人や子どもたちが、ぽつぽつと席についている。適度なざわめきの中、二人はまたしばらく勉強に集中した。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
一時間ほど経った頃。雪がそっと椅子を引いて席を立った。
「おう」
短く返し、春希は首を鳴らして凝りをほぐす。
視線が、机の端に裏返したスマートフォンへ吸い寄せられる。
「休憩」
春希は諦めたように、それを手に取った。
「また増えてんな」
雪の公式個人アカウントは、開設から数日しか経っていないにもかかわらず、フォロワー数が五万に達していた。
まだ数少ない写真や動画の投稿に、合計で百件近いコメントがぶら下がっている。
好意的なものが多く、誹謗中傷や悪意のある書き込みは見当たらない。
「ちゃんと対応してるってことかな」
事務所の管理が機能している様子に、春希は小さく息を吐いた。
しかし公式の外側では『楠原高校の王子様がついに事務所に入った』という話題が、コンテンツとして消費されていた。
『これからは事務所がちゃんと守ってくれるならよかったね』
という同情の声がある一方で、冷ややかな意見も混じっている。
『ああいう見た目だけの子って、高校卒業したら一気に価値が落ちそう』
「……」
文字をなぞる春希の胸の奥で、じわりと鈍い怒りが湧き上がった。
「――やめよ」
どっと押し寄せてきた疲労感とともに、春希はスマートフォンを再び机に裏返す。ちょうど、廊下の奥から雪の足音が近づいた。
トイレから戻ってきた雪は、席につく手前で「あ、そうだ」と何かを思いついたように、スマートフォンを取り出した。
雪は窓の桟の紙カップを二つと、手前に広げたノートやテキストの端が見切れる構図を作り、撮影ボタンを押した。
「『2ki_days』用」
画面を確認して、雪が満足そうに頷く。
仕事用の個人アカウントが開設されてからも、雪は『2ki_days』への投稿を欠かしていなかった。
文化祭のあたりからこちらも反応が増え、フォロワーは六百人に達していた。
「あとで、『期末試験の勉強』って投稿するね」
「そしたら俺は、これにしようかな」
春希もスマートフォンを手に取り、机の上へカメラを向けた。
使い込まれた雪の英単語帳と、春希の分厚い物理の資料集。
二冊の側面を並べ、写真を撮る。
「いいね。勉強してます感、出てる」
「これだけボロボロにしといて、結果出さないと恥ずいぞ」
「そうだね」
二人は顔を見合わせて笑い合い、スマートフォンの画面を伏せて、再びそれぞれのノートと参考書へ向き直った。
