春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 十一月中旬。冬が近づく秋の夜、牧野家のリビング。
 テレビは消され、木目のローテーブルの上で、スマートフォンが青白い光を放っている。

 正面の革張りソファの中央には父の冬人が腕を組み、どっしりと腰掛けている。
 その隣で母の秋子が体を微かに傾け、画面を覗き込んでいた。

 春希はテーブルの端、フローリングの上に正座している。

 スマートフォン画面に表示されていたのは、大手学習塾が配信した模試の速報結果だった。
 第一志望 国立工科大学 建築学科 E判定
 第二志望 国立大学 理工学部 E判定
 第三志望 私立大学 理工学部 E判定

「ま、まあ、でも、まだ始まったばかりですもの! これからよ、これから!」
 秋子がパンと手を打って明るい声を上げた。
 場をとりなそうとする乾いた励ましが、春希の耳には痛い。

「春希」
 冬人は組んでいた腕を解き、太い息を鼻から抜いた。

「二年で偏差値を十以上、上げなきゃならん。デッサン試験がある大学もある」
「……」
「……」

 壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。

「やることは山ほどあるぞ。金は出してやる。死ぬ気でやれ」
 冬人は低く淡々と言うと、ソファから腰を上げた。
 書斎へと歩き出し、ドアノブに手をかけたところで、振り返らずに足を止める。

「俺が教えられることは、教えてやる」
 扉が閉じられ、ラッチの噛み合う小さな音が鳴った。

「はい」
 すでに誰もいない方へ、春希は深く頭を下げた。

 母子が残されたリビングで、秋子が慌ただしく立ち上がった。
「春希、おやつ、おやつ食べる?」
 小学生を慰めるようなことを言いながら台所の棚を開け、秋子はスナック菓子の袋を取り出す。

「――いらない」
 春希は痺れかけた脚を崩し、そのまま腰を上げるとテーブルの上のスマートフォンをひったくるように掴み、振り返らずに二階への階段を駆け上がった。

 自室のドアを閉め、明かりもつけないままベッドへ体を投げ出す。
 喉の奥からせり上がった息が、暗い天井へ向けて吐き出された。

 夏の終わりに決意をして、勉強時間を増やした。
 秋の中間試験では、得意な数学や物理こそそれなりの点数をとることができたが、共通テストの足切りラインギリギリの科目がいくつもある。

 仰向けのまま持ち上げたスマートフォンのロックを解除し、雪とのトーク画面を開いた。並んでいるのはとりとめのない話題や連絡事項ばかりだ。

 雪は事務所やレッスンの話を口にすることはなく、春希もまた、尋ねないようにしていた。聞かなくとも分かる。文化祭で活躍する姿や、背筋を伸ばして歩くようになった佇まいに、雪の変化は表れていた。

 いつも通りの、二人だけの昼食。
 朝は駅から並んで登校し、部活やレッスンがない日は駅まで一緒に帰る。

 けれど――人の目や気配を怖がって、ブレザーの袖やジャケットの裾口を掴んでくることは、もうなくなっていた。

 その晩、『2ki_days』のタイムラインに新しい投稿が二つ、立て続けに並んだ。

 一つ目の写真は、真っ暗な夜空にぽつりと浮かぶ、ぼやけた半月。
 添えられたキャプションは、『中途半端 △ #進路』

 それに対して返答をするかのように、もう一つの投稿が重なる。

 写っているのは、同じように夜空へ浮かぶ半月。
 明るい街で撮っているのか、月の周辺に光の粒がいくつも浮かんでいる。
 添えられた文字は、『いっしょ * #未熟者』

 離れた場所から見上げた同じ月が、2ki_daysに二つ並んで光っていた。



 数日後の放課後。
 この日は、雪が日直当番の週だった。

 春希と雪、どちらかが日直の日は別々に帰ることにしている。
 でも今日は例外だ。

 雪が、朝から「どうしても春希に報告したいことがあるから」と念を押していた。
 帰りの支度を済ませた春希は、自席で参考書を開きながら待つことにした。

「日誌は僕が職員室へ出しておくから、先に帰っていいよ」
 黒板を消し終えた雪が、相方の女子生徒へ声をかける。

「ほんと? ありがとう!」
 と女子生徒が教室を出ていくと、夕暮れ色に包まれた教室は、急に静かになった。

 春希が参考書を閉じると、雪が小走りで窓際の席へとやってきた。
「待たせてごめんね」
「いや」
 二人は自然と、西日の当たる窓辺に並んで立つ。

 雪は自分のスマートフォンを取り出した。
 ロック画面の時計の表示は「15:59」。

「もうちょっとだけ、待っててね」
 スマートフォンを両手で包み込むように持ち、雪はじっと画面を見つめている。
 秒針の音の代わりに、遠くから吹奏楽部のチューニング音が転がってきた。

 やがて、画面のデジタル時計が「16:00」へと切り替わる。

 雪が小さく息を吸い込み、春希の目の前へ画面を差し出した。
「今日の十六時からなんだ」
 表示されていたのは、白と水色を基調としたウェブサイト――『オフィス・シノミヤ』の公式ホームページだった。

 その中の「所属タレント」のプロフィール一覧ページ。
 遠野雪、の名前があった。

「……あ」
 春希は思わず、雪の手からスマートフォンを受け取り、まじまじと見つめた。

 所属タレント――遠野雪。
 そこに、異なるバージョンの宣材写真が数枚ずつ並んでいる。

 柔らかな自然光の中、白いTシャツの上にブルーのパーカーを無造作に羽織り、カメラに向かってはにかむ雪がいる。前髪の隙間から覗く大きな瞳はあどけなさを残しており、等身大の「遠野雪」の魅力が素直に切り取られていた。

 そして別のバージョンは、最初の印象を覆す、透明感を極限まで引き出した数枚だった。

 背景は薄暗いグレー。モノトーンのシンプルなニットを着た雪が、冷たく透明な水底からこちらを見上げるような目で、レンズを見ている。陶器の人形のような美しさが、画面越しに春希の目を刺した。

「これ、どっちも、雪……?」
 春希は乾いた唇を舐めた。
 隣に立つ生身の雪と、画面の中の作り込まれた「遠野雪」を交互に見比べる。

「ど、ど、どう、かな……」
 覗き込んでくる雪の顔は、西陽の中でもわかるほど赤かった。

「時間になるまで、誰にも言っちゃいけなかったんだけど……春希には、一番に見てほしくて。あ、それからね、こっちもあって」

 春希が黙ったままでいると、雪は照れ隠しのように饒舌になった。春希の手からするりとスマートフォンを取り戻し、別のアプリを立ち上げて、また戻した。

 差し出された画面に映っていたのは、青い公式認証マークが刻まれた「遠野雪」の個人SNSアカウントだった。

 プロフィール欄はまだ、情報が少ない。
『16歳 / 高校一年生 / オフィス・シノミヤ所属』

 タイムラインには、先ほどホームページで目にしたばかりの二パターンの宣材写真が、二つに分けて投稿されていた。

 その上にもうひとつ、短い動画投稿もある。
 ほんの十秒ほどの、撮影現場のメイキング映像だ。

 スタジオの照明を浴びながら、少し斜め上を見つめていた画面の中の雪が、画面外の誰かに声をかけられたように、ハッとレンズを捉える。
 黒目がちの瞳が恥ずかしそうに細められ、唇の端を持ち上げてふわりと微笑んだ。
 そこで動画は途切れる。

「うわ……すげ……」

 十六時。
 ちょうど全国の学生たちが放課後を迎え、スマートフォンを手にする時間帯だ。いくつかの流行りのハッシュタグと、『#遠野雪』を辿って流れてきたユーザーたちによって、数字が、見ている間にも膨れ上がっていく。

 十六時十分。
 プロフィール画面のフォロワー数が、五百――2ki_daysのフォロワー数を超えた。なおも右肩上がりに跳ね上がり続ける。

 隣の雪は、ただ「どう?」と期待をこめた瞳で春希の横顔をうかがっていた。

「……」
 春希は何も返せず、喉の奥が固く詰まった。

 手の中で目まぐるしく変化していく数字の羅列と、画面の中に鎮座する美しく作り込まれた「遠野雪」の姿を、春希はいつまでも見つめていた。