学生生活における花形イベントの一つといえば、やはり文化祭だ。
普段は無機質な校舎が、色とりどりの装飾と非日常の熱気に包まれる二日間。
一年生の教室が並ぶ三階の廊下には、コーヒーの焦げたような香ばしさや、フルーツジュースの甘い香料の匂いが漂っていた。
一年B組の教室前から廊下の壁に沿って、長蛇の列ができている。
最後尾で段ボール製のプラカードを掲げた男子生徒が、声を張り上げていた。
「ただいま、三十分待ちでーす! 順番にご案内しまーす!」
教室の入り口にあたる前扉には、手作りの木製看板が立てかけられている。
黒板塗料を塗った板面に、白いチョークの美しいカリグラフィーでこう記されていた。
『ようこそ、一期一会のブックカフェへ』
そのすぐ下には、赤字で大きく「※店内写真撮影禁止」という注意書きの紙が貼られている。
出口専用となっている後ろの扉から出てくる客たちは、他校の女子生徒や若い女性客がその大半を占めている。
彼女たちは皆、文庫本や単行本を胸に大切そうに抱え、上気した顔で口々に言葉を交わしていた。
「めちゃくちゃ可愛かった!」
「ヤバい、ほぼ透明!」
はしゃぎながら廊下を去っていく背中を、入り口の受付席に座る春希は見送る。
「すげぇな」
今日は朝から延々と整理券配りをしていた。
すぐ足りなくなるので、マーカーとハサミで黙々と整理券作りマシーンに徹している。
B組の出し物である「ブックカフェ」は、いわゆる本を読みながらくつろぐ喫茶店という意味ではなかった。
教室内は、まるで異世界だ。クラスの女子たちの力作だ。
窓は暗幕で覆われ、天井からは星や月のオブジェが無数に吊るされている。
壁一面の本棚には、クラス全員から集めた古本や、地元の古本屋からタダ同然で仕入れた廃棄品が、ぎっしりと並んでいた。
アンティーク調のランプの光が、天井のオブジェを下から柔らかく照らしている。
その空間の最も奥。ひときわ長い列の先に、雪がいた。
この日のために用意された、クラシカルなベストとリボンタイを身につけ、テーブルを廻っている。
「今日の気分は、どんな色ですか?」
「最近、一番心に残った言葉は?」
雪は、客一人ひとりの瞳をじっと見つめ、短い対話を交わす。
そして雪が、司書役の図書委員たちと選んだ一冊を棚から抜き取り、客へ手渡す。
雪の仕草の可憐さに、来場客たちが見入っていた。
「あれは、どういうキャラなんだ」
春希がスーパーで見かけた接客中の「店員の遠野さん」とも、建築事務所で愛嬌を振りまく「雪ちゃん」とも違う、雪はまた別の何かを演じている。
客との会話から、店員と図書委員たちが「今日の一冊」を選ぶ。
それがこのブックカフェのコンセプトだ。
ドリンクとお菓子、本が一冊ついて五百円。
春希が見た限りでも、リピート客が多い。
雪が目当てなのは明らかだった。
「すごいね。うちのクラス、ほんとに売り上げナンバーワンとれるかも」
一緒に受付席に座る女子生徒が、春希に耳打ちする。
「かもな」
春希の脳裏をよぎるのは、夏休みが明けてまもなく始まった、文化祭の準備期間。
クラスの出し物が多数決によってカフェに決まり、役割分担を話し合っていた日の光景だ。
「僕、フロアやりたいです」
雪がまっすぐ手を上げた瞬間、「え、大丈夫なの」という視線がクラス中から集まった。
「いーね。売り上げトップとれるっしょ」
張り詰めかけた場をほぐしたのは、お調子者担当男子だった。
「体がデカい男子は黒服やらないと」
賑やかな女子グループから合いの手が入り、
「ホストクラブじゃないぞー」
と青木先生がつっこんで、教室の空気が明るく和らいだ。
後で立候補した理由を尋ねると、雪はこう答えた。
「このまま腫れ物っぽくいるのは、何か嫌だなと思った」
事務所に入ると腹を括った結果なのかもしれない、と春希は思った。
二日間の文化祭は、秋の暮れゆく空とともに幕を閉じた。
最後に行われた体育館での後夜祭で、一年B組のブックカフェは見事「売り上げナンバーワン賞」の栄冠に輝いた。
壇上の文化祭実行委員長から発表があった瞬間、湧き立った一年B組の中で、雪も笑顔で手を叩いていた。
経費を差し引いた利益はすべて、児童養護施設へ絵本や児童書を贈る団体に寄付されることになった。
SNS上では、カフェを訪れた客たちの投稿が相次ぎ、中には遠巻きに雪を写した写真もあった。しかし、それを面白おかしく騒ぎ立てるような者は、今の一年B組にはいなかった。雪自身も、気に病む素振りを見せることは一度もなかった。
祭りの余韻と片付けの疲れをまとった生徒たちの波に紛れ、春希と雪は並んで駅への道を歩く。
西から長く伸びた影を踏みながら、冷たさを増した風を頬に受ける。忙しかった二日間の働きぶりや、他のクラスの出し物など、祭の感想を口にしながら歩いた。
「それで、今日の午前中のお客さんがね――」
弾んだ声で思い出を語る雪の横顔を、春希は横目で追っていた。
クラスが雪を見る目は、この二日間で確実に変わっていた。
「……」
なのに、春希は胸の底で、沈んでいた泥が微かに巻き上がるのを感じた。
「はい。春希の本は、これ」
ふと雪の足が止まった。あらかじめ用意していたのだろう、一冊の薄い本を取り出して差し出してくる。
『だいすき。』
「え?」
クレヨンで幼児が描いたようなタイトルが、目に飛び込んできた。
受け取ったのは、A5スクエアサイズの小さな写真集だった。
表紙には、子犬と子猫が互いの頬をくっつけ合ってじゃれている写真が使われている。ページを捲ってみると、様々な動物の子どもたちが重なり合って眠ったり、身を寄せ合ったりしている写真ばかりが続いた。
春希が写真集から顔を上げる。
西陽色の瞳が、斜め下から春希をじっと見上げていた。
悪戯が成功したような無邪気さと、焦がすような熱が、同時に浮かんでいる。
「……あー……」
春希は喉の奥が張り付くのを感じ、その視線から顔を背けた。
「ありがと」
掠れた声で呟き、手の中の写真集を鞄の奥深くへ押し込んだ。
その夜、2ki_daysに新たな投稿が追加された。
どこかの壁に立てかけた、写真絵本『だいすき。』の表紙。
そしてキャプションは『可愛い △』
また、ハートとフォロワーが積み重なった。
普段は無機質な校舎が、色とりどりの装飾と非日常の熱気に包まれる二日間。
一年生の教室が並ぶ三階の廊下には、コーヒーの焦げたような香ばしさや、フルーツジュースの甘い香料の匂いが漂っていた。
一年B組の教室前から廊下の壁に沿って、長蛇の列ができている。
最後尾で段ボール製のプラカードを掲げた男子生徒が、声を張り上げていた。
「ただいま、三十分待ちでーす! 順番にご案内しまーす!」
教室の入り口にあたる前扉には、手作りの木製看板が立てかけられている。
黒板塗料を塗った板面に、白いチョークの美しいカリグラフィーでこう記されていた。
『ようこそ、一期一会のブックカフェへ』
そのすぐ下には、赤字で大きく「※店内写真撮影禁止」という注意書きの紙が貼られている。
出口専用となっている後ろの扉から出てくる客たちは、他校の女子生徒や若い女性客がその大半を占めている。
彼女たちは皆、文庫本や単行本を胸に大切そうに抱え、上気した顔で口々に言葉を交わしていた。
「めちゃくちゃ可愛かった!」
「ヤバい、ほぼ透明!」
はしゃぎながら廊下を去っていく背中を、入り口の受付席に座る春希は見送る。
「すげぇな」
今日は朝から延々と整理券配りをしていた。
すぐ足りなくなるので、マーカーとハサミで黙々と整理券作りマシーンに徹している。
B組の出し物である「ブックカフェ」は、いわゆる本を読みながらくつろぐ喫茶店という意味ではなかった。
教室内は、まるで異世界だ。クラスの女子たちの力作だ。
窓は暗幕で覆われ、天井からは星や月のオブジェが無数に吊るされている。
壁一面の本棚には、クラス全員から集めた古本や、地元の古本屋からタダ同然で仕入れた廃棄品が、ぎっしりと並んでいた。
アンティーク調のランプの光が、天井のオブジェを下から柔らかく照らしている。
その空間の最も奥。ひときわ長い列の先に、雪がいた。
この日のために用意された、クラシカルなベストとリボンタイを身につけ、テーブルを廻っている。
「今日の気分は、どんな色ですか?」
「最近、一番心に残った言葉は?」
雪は、客一人ひとりの瞳をじっと見つめ、短い対話を交わす。
そして雪が、司書役の図書委員たちと選んだ一冊を棚から抜き取り、客へ手渡す。
雪の仕草の可憐さに、来場客たちが見入っていた。
「あれは、どういうキャラなんだ」
春希がスーパーで見かけた接客中の「店員の遠野さん」とも、建築事務所で愛嬌を振りまく「雪ちゃん」とも違う、雪はまた別の何かを演じている。
客との会話から、店員と図書委員たちが「今日の一冊」を選ぶ。
それがこのブックカフェのコンセプトだ。
ドリンクとお菓子、本が一冊ついて五百円。
春希が見た限りでも、リピート客が多い。
雪が目当てなのは明らかだった。
「すごいね。うちのクラス、ほんとに売り上げナンバーワンとれるかも」
一緒に受付席に座る女子生徒が、春希に耳打ちする。
「かもな」
春希の脳裏をよぎるのは、夏休みが明けてまもなく始まった、文化祭の準備期間。
クラスの出し物が多数決によってカフェに決まり、役割分担を話し合っていた日の光景だ。
「僕、フロアやりたいです」
雪がまっすぐ手を上げた瞬間、「え、大丈夫なの」という視線がクラス中から集まった。
「いーね。売り上げトップとれるっしょ」
張り詰めかけた場をほぐしたのは、お調子者担当男子だった。
「体がデカい男子は黒服やらないと」
賑やかな女子グループから合いの手が入り、
「ホストクラブじゃないぞー」
と青木先生がつっこんで、教室の空気が明るく和らいだ。
後で立候補した理由を尋ねると、雪はこう答えた。
「このまま腫れ物っぽくいるのは、何か嫌だなと思った」
事務所に入ると腹を括った結果なのかもしれない、と春希は思った。
二日間の文化祭は、秋の暮れゆく空とともに幕を閉じた。
最後に行われた体育館での後夜祭で、一年B組のブックカフェは見事「売り上げナンバーワン賞」の栄冠に輝いた。
壇上の文化祭実行委員長から発表があった瞬間、湧き立った一年B組の中で、雪も笑顔で手を叩いていた。
経費を差し引いた利益はすべて、児童養護施設へ絵本や児童書を贈る団体に寄付されることになった。
SNS上では、カフェを訪れた客たちの投稿が相次ぎ、中には遠巻きに雪を写した写真もあった。しかし、それを面白おかしく騒ぎ立てるような者は、今の一年B組にはいなかった。雪自身も、気に病む素振りを見せることは一度もなかった。
祭りの余韻と片付けの疲れをまとった生徒たちの波に紛れ、春希と雪は並んで駅への道を歩く。
西から長く伸びた影を踏みながら、冷たさを増した風を頬に受ける。忙しかった二日間の働きぶりや、他のクラスの出し物など、祭の感想を口にしながら歩いた。
「それで、今日の午前中のお客さんがね――」
弾んだ声で思い出を語る雪の横顔を、春希は横目で追っていた。
クラスが雪を見る目は、この二日間で確実に変わっていた。
「……」
なのに、春希は胸の底で、沈んでいた泥が微かに巻き上がるのを感じた。
「はい。春希の本は、これ」
ふと雪の足が止まった。あらかじめ用意していたのだろう、一冊の薄い本を取り出して差し出してくる。
『だいすき。』
「え?」
クレヨンで幼児が描いたようなタイトルが、目に飛び込んできた。
受け取ったのは、A5スクエアサイズの小さな写真集だった。
表紙には、子犬と子猫が互いの頬をくっつけ合ってじゃれている写真が使われている。ページを捲ってみると、様々な動物の子どもたちが重なり合って眠ったり、身を寄せ合ったりしている写真ばかりが続いた。
春希が写真集から顔を上げる。
西陽色の瞳が、斜め下から春希をじっと見上げていた。
悪戯が成功したような無邪気さと、焦がすような熱が、同時に浮かんでいる。
「……あー……」
春希は喉の奥が張り付くのを感じ、その視線から顔を背けた。
「ありがと」
掠れた声で呟き、手の中の写真集を鞄の奥深くへ押し込んだ。
その夜、2ki_daysに新たな投稿が追加された。
どこかの壁に立てかけた、写真絵本『だいすき。』の表紙。
そしてキャプションは『可愛い △』
また、ハートとフォロワーが積み重なった。
