春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 翌朝。
 雪はいつも通りの時間に出勤し、事務所の扉を開けた。

「おはようございます!」
 明るくハキハキとした声と清々しい笑顔に、出社してきた社員や職人たちの表情が順に綻んでいく。その輪の端にいた春希にも、雪はごく自然な調子で声をかけてきた。

「……はよ」
 できる限り普段通りを心がけたつもりだったが、引きつった喉から出た春希の声は、ひどく掠れていた。わざとらしく短い咳払いをしながら、春希は雪に背を向けて荷台の資材整理へ向かった。

 午前中の業務は、幸いにも別行動だった。
 雪は事務所に残り、室内で書類の整理や備品の補充といった雑務をこなした。

 春希は自転車に乗って近隣の現場へ図面や細かな資材を届けるために、炎天下を何度か往復した。

 少し遅い昼食の時間、春希は中庭の休憩スペースの日陰で、母・秋子が持たせてくれたばくだんおにぎりにかじりついた。

「お疲れ様。はい、お茶」
 すのこの端に腰掛ける春希の視界に、結露した琥珀色のグラスが差し出される。

「お、おう……」
 春希はおにぎりを持ったまま片手でグラスを受け取り、ぎこちなく視線を落とした。

「どうしたの?」
 雪が首を傾げ、春希の顔を覗き見る。

 返事をする前に、春希は休憩スペースと事務所の周囲をうかがった。
 両親は出払っていて、社員たちは二階の事務室に引き上げている。

 春希は飲みかけの麦茶をテーブルに置き、海苔のついた指先をズボンで無造作に拭った。

「雪、事務所に連絡したって本当か」
「事務所?」
「シノミヤってところ」

 雪は瞬きを二度繰り返し、それから「あ〜」と短く声を漏らした。
 あっけらかんとした、暴かれた焦りなどは微塵も感じさせない反応。それが、春希の胸の奥をじわりと苛立たせた。

「夏美さんから聞いた?」
 春希は頷かなかった。

「いいんだ。別に、言わないでってお願いしてなかったし」
 雪は春希の隣に腰を下ろした。

「もう少し、ちゃんと形になってから報告しようって思ってたから」
「形にって……なんで俺だけ後回し――いや、それはどうでもいいや」

 口をついて出そうになった惨めな言葉を飲み込み、春希は雪の目を見た。

「芸能事務所って、芸能界に入るつもりなのか?」
「――うん」

 確かな肯定だった。
 高校を卒業したら大学には進学せず、働く。
 すでに施設長と担当弁護士、それから担任の青木先生にも報告と相談を済ませていた。

 春希にとって別世界の話すぎて、いつもの雪がまるで理解の及ばない宇宙人のようにさえ感じられた。

「夏美さんも言ってたけど、篠宮社長はちゃんと信用できそうな人だよ」
 篠宮社長が提示した契約書案を弁護士が目を通し、決して雪を不当に縛り付けるものではなく、「ちゃんと逃げ道を作ってくれる内容」になっていることを確認した。

 それに、バズに乗じて急いで売り出そうとするのではなく、まずは事務所の負担で基礎的なレッスンを積み、しっかりとした土台を作ってから仕事を取っていくという方針だという。

「……」
 春希が感情論で口を挟む余地など、どこにも残されていなかった。
 雪はすでに大人たちの力を借りて、春希の知らない道を進んでいた。

 説明が一息ついたところで、春希は固く握りしめていた拳を解き、腹の底からようやく言葉を絞り出した。

「……あんなに、写真撮られるのを怖がってたのにか?」
 沈黙を破った春希の低い声に、雪の肩が微かに揺れる。

「盗撮されて、つきまといもされて。ネットで好き勝手におもちゃにされて……芸能の仕事をしたら、自分からそういうのの前に出ることになるんだぞ。分かってんのか」

 不安と焦燥が混じり合った春希の視線を受け止め、雪はゆっくりと頷いた。
「だからだよ」

「え?」
「事務所に入れば、法的な部分も含めて、ちゃんと僕を守ってくれる。それに……夏美さんに渋谷で言われたことも、ずっと残ってるんだ」

 背筋と首を伸ばして、堂々としていればいい。
 その言葉を体現するように、雪は真っ直ぐに春希を見つめ返した。

「……そんな、急いで決めなくてもいいだろ」
 逃げ道を探すような春希の言葉に、雪の瞳に鋭い色が乗った。
「僕は、高校を卒業したら施設を出て、自立しないといけないんだ」

 張り詰めた声が、静かな休憩スペースに響いた。
 蝉はいつの間にか、鳴き止んでいた。

「卒業すれば両親の遺産は手に入る。でも、大学に通えるほどの余裕はないし、そこまで勉強したいことなんて、僕にはない」

 雪は立ち上がり、春希の前に立った。

「いくつかアルバイトをしてみて、分かった。働くって大変で、自分のお金で生活するって、すごく大変で。……春希だって、社長さんや職人の人たちを見て、思ったでしょ?」
「それなら」

 春希も腰を上げる。
 雪と胸がぶつかりそうな距離だ。

「金に……経済的な心配があるなら、父さんに言って、ずっとバイトを続けられるように相談だってできる。俺からも頼めば――」
「僕は、春希にそんな同情されたくない!」

 鋭い拒絶が、春希の言葉を叩き斬った。雪の顔が痛みを堪えるように歪む。そのまま、すのこの上に乱暴な足音を立てて踵を返した。

「雪……!」
 振り返ることもなく、雪は建物の奥へ姿を消した。

 一人取り残された春希は、生温い空気の中で、飲みかけのグラスと食べかけのおにぎりを見下ろしたまま、ただ立ち尽くすしかなかった。

 夏休みのアルバイトは、残り三日。

 雪は欠勤することなく、職人たちの前ではいつも通りの明るい「雪ちゃん」を演じ切った。春希もまた、顔色を変えずに黙々と重労働をこなした。

 仕事以外の会話も、すれ違いざまに目が合うことも、一度もないまま。

 茹だるような残暑の中、冷えた空気だけを抱えて、牧野建築事務所でのアルバイトは終わりを迎えた。



 夏休み最後の週末。
 机に向かっていた春希は、シャーペンを置いて大きく背伸びをした。

 最後の課題だった数学のプリントをファイルに閉じ、スマートフォンだけをポケットに突っ込んで自室を出る。

 夜八時を過ぎた住宅街。アスファルトに残る日中の熱を、サンダル越しに感じながら、どこへともなく歩く。

 肌を撫でる風は乾き始めていて、あちこちの植え込みの暗がりから、秋の虫の羽擦れが微かに聞こえてくる。

 等間隔に並ぶ街灯の下を歩きながら、春希はポケットからスマートフォンを取り出した。

 雪とのトーク画面は、あの日から無反応のままだ。
 2ki_daysの投稿も止まっている。
 数日前の投稿に、今日の日付で新しいコメントが一件だけついていた。

『もうすぐ夏休みが終わりますね。宿題は終わりましたか?』

 時々コメントをくれる、同世代と思われる学生からだ。
 画面をスワイプしてアプリを閉じる。
 黒くなったガラス面に、街灯の光と自分の無愛想な顔が映り込んでいた。

――僕は、春希にそんな同情されたくない!

 雪の声が頭の中に響いた。あの時も自分はこんなぼやけた顔をしていたのだろうか。

 与えられた「当たり前」の上に立っている自分が、雪にはどう見えていたのか。
 きっと、傲慢で無神経な奴だと思っただろう。

 春希はスマートフォンをポケットに押し込み、大きく息を吸い込んだ。
 胸の奥に澱んでいた生温かい空気を、夏が終わろうとする夜へ、すべて吐き出す。

 立ち止まって顔を上げると、薄い雲の向こうに白い月が滲んでいた。
 夜風が、少し伸びた前髪を揺らして通り過ぎていった。