春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 夏休みは、最後の一週間に入っていた。
 その間、2ki_daysに思い出がたくさん追加された。

 真夏の太陽を浴びて褐色に引き締まった春希の腕と、青い血管が透けて見えるほど白く滑らかな雪の腕。対照的な二つの腕が並ぶ写真には、短いキャプションが添えられていた。

『労働の勲章 * #友達 #アルバイト』

 結露した水滴がすのこの板を濡らす、麦茶が注がれた二つのガラスコップ。
 熱海の海岸、引き波の白い泡にさらわれる二人分の裸足のつま先。
 机の上、白紙のノートの上で交差する二本のスチール製シャープペンシル。

 顔も名前も明かされていない二人の素朴な夏休みの記録に、多くのハートが投げかけられた。

 夏休みに入る前は百に届いて喜んでいたフォロワー数は、八月中旬を過ぎる頃には三百に増えていた。コメントの数も、それに従って伸びていた。

『私も海にいきました』
『日焼けしないの羨ましい』
『Good friends!』

 二人を見守るような優しいコメントが多い。
 雪の容姿を消費するSNSや匿名掲示板とは違う、穏やかな世界ができあがっていた。



 牧野建築事務所でのアルバイトを終えた夕刻。

 雪は一人、楠原高校の最寄りとも自身の暮らす施設の最寄りとも異なる、沿線の小さな駅で電車を降りた。

 渋谷の雑踏から遠く離れたその街の駅前に、公園がある。
 夕方のこの時間、すでに近所の子どもたちは帰っていて、公園に人気はなかった。

 公園の片隅、木々に囲まれた古びたあずまやのベンチに、先客の姿があった。ぬるい夕風が草の匂いを運んでくる。

 若く細身の女がいた。落ち着いた仕立てのサマージャケットを羽織り、足を組んでスマートフォンを眺めている。木製のテーブルの上には、コーヒーチェーン店のマークが入ったプラスチックカップが二つ並ぶ。

 砂利を踏みしめる雪の足音に気づき、女がふっと顔を上げる。
「遠野君」
 女は笑顔で、立ち上がる。

 雪は青いキャップのつばを軽く持ち上げ、頭を下げた。
「すみません、篠宮さん。わざわざ、ありがとうございます」

 篠宮と呼ばれた女――渋谷で雪に声をかけたスカウトの一人――は、スマートフォンをバッグへ収めると、目元を緩めた。テーブルの上のカップの一つを、指先で静かに雪の方へと滑らせる。ラベルに「キャラメルラテ」と書いてあった。

「大丈夫よ。ひとりで渋谷は、まだ怖いわよね。それより、話をしたいって言ってくれて嬉しかったわ」

 雪は対面のベンチに腰掛け、差し出されたカップを両手で包み込んだ。

「それで、お話って何かな。まだ不安なことや、分からないことがあれば、なんでも質問してね」
 気さくに微笑んで、篠宮は自分の分のドリンクに口をつける。

 それを見て、雪も勧められたドリンクのストローをくわえた。
 キャラメルと生クリームを吸い上げ、ゆっくりと喉を鳴らす。それから、雪はまっすぐに篠宮を見た。
「僕、どうしても譲れないことがあるんです」

 篠宮がテーブルの下で、組んでいた足首を組み替えた。
「契約の内容で?」
 かたわらに置いたレザーの鞄から、ファイルを取り出しかける。

「いえ。篠宮さんがどう思うか、聞きたいです」
「『私』が?」

 篠宮はファイルを再び鞄へ押し込んだ。
 両手を膝に揃えて、姿勢を改めた。

 あずまやを囲む木々が、夕風に揺れて葉音を立てた。
 遠くの踏切が低い警報音を鳴らし始める。
 茜色から紫へ移り変わる空の下で、雪はしばらく言葉を探した。



 同じ日の、夜。
 網戸越しの生温い風に混じって、気が早い秋の虫の微かな羽音が届き始めていた。

 春希は自室のベッドに仰向けに寝転がり、2kiのアカウント画面を開く。
 雪との日々を祝福してくれているようなコメントに、一つ一つ目を通した。

 最近はなぜか、外国語も混在するようになっていた。
 翻訳機能を通すと、「素敵な友情」「友情が長く続きますように」といった言葉が並ぶ。

「……」
 春希はスマートフォンをかたわらに伏せて置き、勢いよく上体を起こした。

 Tシャツの裾を少し捲り上げ、自分の腹や胸、そして日に焼けた腕や足を順番に撫でてみる。夏休み前よりも確実に硬く、厚みを増していた。試しに腕を曲げ、力こぶを作ってじっと観察してみる。

「……何やってんだ」
 ふと我に返り、ひどく照れくさくなって腕を下ろし、そのままベッドの縁に深く腰を下ろす。

 足元へ手を伸ばし、床に転がっていた通学バッグを引き寄せた。
 中からプリント類を挟んだままのクリアファイルを取り出す。

 一番上に見えているのは、夏休み前に配られた二学期の予定表だ。
 九月には進路希望調査、さらに十二月には三者面談と印字されている。

「進路……」
 春希はファイルを再びバッグの中へと突っ込んで、ベッドの上に放り出していたスマートフォンを再び手に取った。AIアプリを起動して、チャットウィンドウに打ち込む。

『一級建築士のなりかた』

 送信ボタンを押した途端、画面を埋め尽くす文字列。
「うへ……」
 文字の圧に思わず眉根を寄せるが、少しずつ画面をスクロールさせて、テキストを追った。

「『家』を作る……か」
 かつて父親から聞いた言葉を、そのままなぞる。

「はぁ……」
 大量の情報を眺めるのに疲れ、春希はメッセージアプリを立ち上げた。
 連絡先に並ぶ姉・夏美の夏みかんのアイコンをタップし、短いテキストを打ち込む。

『今、話せる?』

 送信した数秒後、画面が切り替わり、デフォルトの着信音が鳴り出した。
 通話ボタンをスライドさせて耳に当てた瞬間、開口一番に呆れたような声が飛んでくる。

『彼氏か、あんたは』
「違うし。それより、聞きたいことがあんだけど」
『ちょうどいいわ、私も。先に聞く。それで、どうしたの?』
「進路のこと」

 春希が短く返すと、スピーカーの奥で微かに衣擦れの音がした。

『あらあら。夏休みいっぱい、悩んだ?』
 からかうトーンが、だんだんと母親の秋子に似てきたなと思いつつ、春希は「まあな」と否定せずに応じた。

「姉ちゃんは、どうやって決めたんだ」
 八つ年上の姉・夏美は、中学生の早い段階から「メイクやスタイリストの仕事で生きていく」という目標を掲げ、高校を卒業すると同時にさっさと家を出ていってしまった。

 幼い頃の春希の目には、ただの「せっかち」としか映っていなかった。今は、その速さに感心している。

『やりたい! って思ったら、やるしかないじゃない?』
 あっけらかんとした声が、耳の奥で弾んだ。

『新しい世界なんて、飛び込んでみないと分からないのよ。だったら、飛び込むのは早い方が良いって思ったの。下調べにばーっかり時間をかけて、理屈ばっかりこねてたら、結局何ひとつ進まないんだもの。あんたのことよ』
「う……」

 痛いところを突かれ、春希は言葉を詰まらせた。

『入ってみてから「やりたい!」に変わってくるかもしれないし、入ってみないと「やりたい!」が見つからないかもしれない。少しでも引っかかるものがあるなら、それはチャンスのカケラよ。なら、やってみたら?』
「……」
『体ばっかり大きくなっても、中身のないウジウジした奴は嫌われるわよ?』

 これも図星を突かれた。
 夏休み前より筋肉がつき、身長も伸びた。それで自信がついたような気になっていたのは、錯覚だった。

 弟の悩みなどすべてお見通し、とばかりに肩をすくめる夏美の姿が、電話の向こうに見えそうだ。

『あんたと違って、雪君は思い切ったわね』
「……は?」
 春希はベッドから身を起こした。

「なんでそこで、雪の話が」
『あれ、雪君から聞いてないの?』

 電話の向こうで、夏美が短く息を呑む気配がした。「やっばい」という小さな独り言が漏れ聞こえる。

『あ〜……ごめん、今の忘れて〜』
「無理だし」
『……そうよね』

 数秒の沈黙の後、夏美は諦めたように長いため息を吐いた。

『夏休み入ってちょっとした頃かな。雪君から電話があった。ほら、渋谷でご飯した時に名刺渡してたからだと思うけど』

 夏美の話によれば、雪は「オフィス・シノミヤ」という芸能事務所の代表であり、あの日名刺を渡してきたスカウトのひとり・篠宮凛について、どんな人物なのか、業界での評判はどうなのかを細かく尋ねてきたのだという。

『特に口止めもされなかったから、てっきりあんたにも相談済みなんだと思ってたわ』
「……」
 春希は返事ができず、ただ息を止めた。

 牧野建築事務所のバイトに応募があった時も、そうだった。
 春希は何も知らず、父親の口から聞かされた。
 施設で暮らしていることも、幼い頃のことも、全て外から知らされた。

『あれから仕事で、凛さんと一緒になることがあってね。雪君から連絡をもらったって、喜んでたのよ』
「……え」

 スマートフォンを握る指先が、急速に冷えていく。

『私があんたに訊きたかったことも、雪君のことなの。凛さんの仕事ぶりはよく知ってるし、無茶な契約をするような人じゃないって分かってるけど、やっぱりちょっと気になっちゃってね。かといって本人にきくわけにもいかないし――』

 夏美の弾丸のような早口が、小さな電子音になって左耳から右耳へ流れて消えた。