春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 青木先生が付き添い、春希と雪はそのまま市内の総合病院へと搬送された。
 救急車の中で、雪の震える手はずっと、春希の手を握りしめていた。

 検査の結果、川の水を少し飲み込んでいた雪は大事をとって一晩入院することになり、処置を終えた春希はその日のうちに帰宅が許可された。

 連絡を受け、夜の病院の待合室にそれぞれの保護者が駆けつけた。

 春希の着替えの入ったバッグを抱えた冬人と秋子は、無事な息子の姿に安堵の息を漏らした。

 一方、雪の保護者と名乗ったのは、児童養護施設の男性職員と、黒いスーツを着た小柄な男――弁護士だった。
 二人は春希と両親に向かって深々と頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました。春希君の勇気と判断がなければと思うと……」
 秋子と冬人は恐縮しつつ対応する。

 春希は頭を下げ合う大人たちの様子を、どこか他人事のように眺めた。
 病室に入った雪との面会は、叶わなかった。

 病院には警察も姿を見せ、春希は廊下のベンチで簡単な事情聴取を受けた。
 相手は三人組だったこと、それぞれ色違いのパーカーを着ていたこと、雪が逃げようともみ合いになったこと、体を押されたかどうかまでは見えなかったと伝えた。

 警察官たちは「よくやった」と褒め言葉を残して、去って行った。
 警察って思ったより優しいんだな、と春希は思った。

 病院を出た帰りの車内。
 ハンドルを握る冬人が、バックミラー越しに春希へ視線を送った。

「立派なことをしたな、春希。さすが水泳部だ」
「ちょっとお父さん。お気楽なこと言わないでよ。一歩間違えたら二人ともどうなってたか」

 助手席の秋子は、少し怒ったような声で冬人を諌める。
 後部座席へ振り返って手を伸ばし、柔らかい手で春希の膝を撫でた。

「怖かったわね。本当に、無事で良かった……」
「うん……」

 春希は車窓に視線を逃がした。
 見慣れた家路の景色が、別世界のように感じられた。

 翌日。七月十六日、木曜日。
 雪は学校を休んだ。
 春希はいつも通りの時間に家を出て、一人で登校した。

 緑道へ続く角には黄色いテープが張られ、周辺の通学路にはパトロール中の警察官の姿がちらほらと見受けられた。

「あ……」
 春希が教室の後ろの扉を開けると、さざめいていた室内の空気が一瞬で凍りついた。
 クラス中の視線が集中する。

 教卓の近くにいた佐伯結菜は顔色を青くし、目を逸らして春希から背中を向けた。彼女の取り巻きたちも、不気味なほど大人しく自席に留まっている。

「牧野君」
 最初に声をかけてきたのは、昨日一緒に日直をしていた女子生徒だった。

「昨日、先生呼んでくれてありがとう」
 春希が礼を言うと、彼女は少し驚いたように「え」と漏らし、それから照れくさそうに目元を緩めた。

「ううん……牧野君も大変だったね。私、警察の人にいろいろ質問されたよ。パニックになっちゃってあまりちゃんと見てなかったんだけど……頑張って思い出せることは話したつもり」
「そっか」
「犯人、きっとすぐ捕まるよ」
「うん。ありがと」

「警察」という単語に、前方席の結菜たちの背中がひくっと震えた。
 あのアオハル動画は昨晩のうちに、アカウントごと消えていた。

 朝のホームルーム。
 教壇に立った青木先生は、重々しい口調でクラス全体へ告げた。

「昨日、本校の生徒が通学路近くの川に転落する事故があった。幸いにも迅速に救助され、命に別状はない。通学路の安全に十分注意すること。鷺野川沿いの緑道は当面の間、通行禁止とする」

 青木先生はそれ以上を口にしなかった。
 クラスのお調子者たちからも、茶化すような声は上がらなかった。
 わざわざ説明されるまでもなく、誰もが「誰」に起きた出来事なのかを察している。

 その日の夕方、地方紙の地域面の隅っこに短いニュースが掲載された。
『男子高校生が川に転落、同級生が救助。警察が何らかのトラブルの有無を捜査中』

 この記事をめざとく拾ったネット民によって、いくつかの無責任な推測と勝手な議論が、SNSや匿名掲示板に出回ることになる。楠原高校の生徒もしくは近親者によるタレコミも、油を注いだ。

『場所とタイミング的に絶対そうじゃん。怖いって』
『カメラもった奴らに追い回されてたって話』
『その前から不審者が学校の周りウロウロしてた』
『普通に殺人未遂』
『警察がガチで動くレベルで草。追いかけたやつらオワタ』
『今ごろ動画消して震えてそうw』
『「同級生が救助」って、かっけぇ』

 そんなやりとりに目を通し、春希は胃からガスがせりあがるような悪心を感じて、すぐに画面を閉じた。

 七月十七日、金曜日。終業式。
 この日も雪の席は空席だ。

 体育館での全校集会を終え、教室で通知表を受け取ると、午前中のうちに解散となる。待ちに待った夏休みが始まるというのに、一年B組の教室に歓声が上がることはなく、どこか湿った重苦しさが最後まで残っていた。

 下校途中、春希は駅に向かって歩きながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 雪が退院したはずの昨日の夜、『体は大丈夫か』とメッセージを送っていた。
 画面を開くが、「既読」はまだつかない。
 2kiの更新も止まっている。

 雪から返信の吹き出しが届いたのは、それからさらに数日が過ぎた頃だった。
『新しいスマホにしたよ!』

 画面に躍る短い文字と絵文字を見つめながら、春希は深く息を吐き出した。
「あいつ……」
 歯軋りは、すぐに安堵の苦笑に溶ける。

 来週から夏休みのアルバイトが始まるという、七月最後の週末のことだった。



 夏休みに入ってまもない、七月下旬。
 いつもより少し遅い時間に目を覚ました春希は、まだ半分睡魔の残る頭のまま、階段を降りて一階のキッチンへ向かった。

 寝相で皺の寄った白い無地のTシャツに、履き古した紺色のハーフパンツ姿は、中学の頃から変わらない夏の寝間着だ。冷蔵庫のドアを開けて冷えたガラスのピッチャーから麦茶をグラスに注ぎ込んでいると、勝手口の片付けをしていた秋子が振り向いた。

「遠野君、事務所に来てるみたいよ」
「え、何しに」
 グラスを口元へ運ぶ手を止め、春希は瞬きをした。

「施設の職員さんと一緒にね。この間のことのお礼と、それから来週からのアルバイトは予定通りよろしくお願いしますって、ご挨拶に来てくださっているみたい」

 秋子の言葉が最後まで言い終わらないうちに、春希は持っていたグラスをコンロの横へ置き、麦茶のピッチャーを冷蔵庫へ押し込んだ。玄関で踵の潰れたサンダルに足をつっこむと、外の眩しい光の中へ飛び出した。

 牧野建築事務所の建物は自宅と同じ敷地内、道路に面した北側に建っている。
 自宅と事務所の間には、短いコンクリートの通路と、車が二台ほど停められる砂利敷きのスペースが挟まれていた。

 蝉のシャワーを潜って、春希は事務所の裏口のドアノブを回した。

 応接スペースには、三人の人影がいた。
 父・冬人の白いポロシャツの背中が手前にあって、ローテーブルの対面には、白ワイシャツにネクタイを締めた小柄な初老の男と、隣に姿勢を正して座る制服姿の雪の姿があった。

「雪」
「!」
 雪は思わずといった風に、ソファから立ち上がった。

「こら。春希、そんな格好で失礼だぞ」
 寝起きのままの息子に冬人が眉をひそめてたしなめたが、対面する施設職員の男が「いえいえ」と手を振って立ち上がった。

 そして雪の背中を、そっと優しく押す。
「春希君に、きちんとお礼を言わないとね」
「あ……」
 雪がハッとしたように口元を緊張させ、改めて春希に向き直ろうとした。

「いいから」
 春希は大股で応接スペースへ踏み込むと、雪の細い腕を掴み、裏口のドアの方角へ引き寄せる。

「春希?」
 冬人が怪訝な声を上げたが、職員の男が温和な笑みを浮かべて制した。

「友達同士に、お任せしましょう」
 冬人もその言葉に納得し、男に着席を勧めて、自らも応接ソファに深く腰を下ろした。



 春希は無言のまま、雪の腕を引いて裏庭へ連れ出した。
 普段は、社員や職人たちが休憩したり、木材や工具などの資材を一時的に保管したりする作業スペースでもある。

 波板のトタン屋根が作る日陰に入って、春希はようやく手を離す。
 ぎこちなく、雪を振り返った。
 初夏の強い陽光と影の境目で、二人は向かい合う。

「……春希、その……ありがとう。助けてくれて」
 どこか気まずそうに、雪が視線を泳がせながら指先を弄っている。

「ああ……」
 春希は短く答えた。

「体、大丈夫? お腹壊したり、してない?」
「ああ。雪は」
「僕も」

 短い言葉を交わした後、二人の間にふっと無言が落ちる。
 生暖かい風が蝉時雨を運んできた。

 春希は俯く雪の首筋や頬の線を見つめた。
 少し肉が落ち、華奢な体が以前よりもさらに細く感じられた。

 春希の脳裏に、あの日の光景が嫌な解像度でフラッシュバックしてくる。
 濁った川から引き揚げた時の、冷たく濡れそぼり、泥と水草にまみれた細い体。

 しがみついて、壊れたように震えながら、春希の名を何度も連呼していた――声と、感触と。

「……っ」
 春希は強く目を瞑り、頭を左右に振って思考を振り払った。

「え、だ、大丈夫??」
 雪が慌てて身を乗り出し、春希の手を咄嗟に両手で包み込む。

 至近距離で重なる視線。
 互いの吐息が届く距離。

「手……大きい」
 雪はぽつりと呟き、春希の片手を胸の高さまで持ち上げた。
「――人間って、パニックになると、泳ぎ方もわからなくなっちゃうんだね……僕、カナヅチじゃなかったはずなんだけど」

 自嘲気味に呟く雪に、春希は視線を動かさずに静かに口を開いた。

「服を着たままだったしな。靴も履いてたし」
 小学校の頃からスイミングスクールで、水の事故に関する注意と対処について、コーチから教わったことがある。思わぬ形で役に立ってしまった。

「さすが、水泳歴十年」
 感心したように目を丸くする雪に、春希は苦笑して伊達メガネのフレームを押し上げた。

「鷺野川に飛び込む想定でやってたわけじゃないぞ」
「そうだよね、ごめんね……」
 雪は小さく吹き出し、繋いだ春希の手をもう一度ぎゅっと強く握りしめた。

「でも……水泳やってて良かった、とは思った」
 雪の手に握られた春希の人差し指が、雪の細い人差し指を絡め取る。
「……」

 言葉が途切れ、また二人は無言になった。
 蝉の鳴き声を受け止める波トタン屋根が、きしりと鳴る。

「雪くん、そろそろお暇しますよ」
 事務所の勝手口の方向から、施設職員の呼びかける声がした。

「っ! は、はい!」
 現実に引き戻された二人は、慌てて手を離して半歩ずつ退く。

「じゃ、じゃあ、春希、またね。来週からよろしくね」
「あ、ああ」

 ぎこちなく頭を下げ、雪は事務所の中へと駆け戻っていった。
 ひとりになった裏庭で、春希は自分の手を見つめる。
 指先に残る雪の体温と柔らかい感触を確かめるように。