春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 七月十五日、水曜日。

 朝の楠原駅、いつもの改札前の柱の影で合流した二人は、人通りの多い幹線道路を避け、鷺野川沿いの緑道へと折れた。濃い夏の影の中を、静かな足音を重ねて並んで歩く。

「そういえば、俺今日、日直なんだよな」
 春希が鞄の肩紐をかけ直しながら言った。

「終礼の後に日誌書いたり鍵閉めたりで、ちょっと時間かかると思うんだけど。……終わるまで待つか?」
「あ……ううん、今日は早く帰らないといけないんだ」
 雪は足元の土を見つめたまま、申し訳なさそうに小さく首を横に振った。

「弁護士の先生が施設に来るから、施設長さんと一緒にお話を聞くことになってるの」
「弁護士……」
 春希は思わず歩調を緩め、黒縁メガネのフレームを指先で押し上げた。

 元凶となった結菜の体育祭動画は、未だに削除されずに残り続けていた。
 削除をためらっている間にも再生数増加と拡散の勢いは衰えていない。

 さらに一昨日、学校の正門前で強引にカメラを向けてきた他校の生徒たちが撮影していたと思われる動画や写真も、案の定SNSへ投稿されていた。

 強引に肩を組まれ、髪を触られて怯える雪の表情。
 必死に身を縮めて拒もうとする姿に、匿名の群衆の間にも、
「さすがに可哀想。嫌がってるじゃん」
「これ普通にいじめだろ」
 といった、批判的な声も増えていた。

「SNSの件で?」
「うん。削除とか、開示請求? とか、そういう話をするみたい」
「そっか……」
 春希は小さく息を吐き出した。

 無力な自分では触れることのできない領域で、大人たちが動き始めている。
 騒ぎが少しずつでも、収束へ向かうことを願うしかなかった。

「帰りは気をつけろよ。駅までは誰でもいいから楠原高生の近くを歩いて、電車も違う車両に乗れよ」
「うん。ありがとう、春希」

 木立の隙間から、いつもの学校の裏門が見えてきた。



「帰り、気をつけろよ」
 放課後のホームルームの終了後、春希は今日、二度目になる言葉を口にした。

 雪は通学鞄の持ち手を両手できつく握り直し、二度、頷いた。
「うん、ありがとう。また明日ね」

 教室を出て正門を抜けて歩道へ足を踏み出した瞬間、雪の耳に不躾な甲高い声が届いた。
「あ、いた! 雪ちゃ〜ん!」

 振り返ると、昨日のホームで見かけた三人組――色違いのパーカーをだぼっと着ている――が、自撮り棒の先端に取り付けたスマートフォンを掲げ、笑いながらこちらへ近づいてくるところだった。

「あ……」
 血の気が引きかけた体をなんとか動かして、雪は反射的に身を翻して敷地内へと駆け戻る。生徒の誰かが「先生呼びにいこう」と校舎へ戻る様子が見えた。

(先生に呼ばれたら……面会に遅れちゃう)
 雪は正門を避け、校舎の側面を抜けて裏口へと走った。
 体育館裏を通り過ぎて裏口のフェンス扉から外へ出る。

 ここから川沿いの緑道へ逃げ込めば、少しだけ遠回りにはなるが、駅まで逃げ切れるはずだった。

 だが緑道に入って数十メートル、大きな楠の木が鬱蒼と枝を広げる日陰に入ったときだった。

 出会い頭に、太い幹の陰から三つの人影がヌッと滑り出してきた。
 校舎の外周を先回りしていた、三人組だ。

「逃げないでよ〜」
「顔見せてってば」

 至近距離に突きつけられるスマートフォンの黒いレンズ。
 囲まれて逃げ場を塞がれかけた雪は咄嗟に踵を返して学校の方角へ向かって全力で走り出した。



 三階の教室。春希は粉の溜まった黒板消しを両手に持ち、窓際へと歩み寄っていた。

 ほんの数分前、窓から見下ろした時には、正門へ向かってゆっくり歩く雪の細い背中が見えていた。

「日誌、何書こうか」
「あ、私書きたいことがあるから、書いていい?」
 教卓で、同じ日直の女子生徒がペンを握る。

「おけ、任せる。黒板やっとく」
「よろしく〜」
 窓枠を押し開き、黒板消し同士を打ち合わせようとした春希の視線が、グラウンドの端で止まった。

「ん……?」
 雪が正門とは正反対の方向――裏門側へ向かって、狭いストライドで走っていくのが見えた。

「雪?」
 春希は手の中の黒板消しを粉受けへ乱雑に置き、自分の席の横にある窓へと移動した。身を乗り出すと、緑道の土の上を、駅の方角へ向かって走る雪の姿が入った。

「なんでだ?」
 一瞬の思考の隙間に、冷たい嫌な予感が背中を走った。

 その直後、緑道を逆走してくる雪の姿が再び視界に戻ってきた。
 すぐ背後を、三人の人影が追いかけている。

「雪!?」
 春希が叫ぶ。「え?」と日直の女子生徒が驚いて顔を上げ、春希の隣へ駆け寄って窓の外を覗き込む。

 狭い緑道、雪は肩を掴まれて足を止めた。
 腕を振り回し、身を捩って逃れようと三人組ともみ合う。
 手を振り解こうとした反動で雪の足元が川側へつんのめり、斜面の濡れた草に足を滑らせた。

「!」
 バランスを崩した細い体が、一瞬、宙に浮く。

 ドボン、と重い水音が窓まで届いた。

 雪の姿が、緑道から消えていた。

「きゃあぁっ!?」
 隣で女子生徒が悲鳴を上げる。

 緑道の上に残された三人組は、濁った水しぶきの上がる川面を見下ろして呆然と立ち尽くしていたが、やがてパニックを起こしたように蜘蛛の子を散らす動きで、駅の方角へ向かって我先にと走り去っていった。

「雪!!」
 春希の視界から一瞬、色が抜け落ちた。
 耳奥で脈音だけがけたたましく鳴り響く。

「先生呼んで!」
 呆然とする女子生徒へそれだけを吐き出すと、春希は返事も待たずに廊下へ飛び出した。



 教室を飛び出してから裏門を抜け、緑道の木々をなぎ倒すようにして川べりへ辿り着くまでの記憶は、すっぽりと抜けていた。

 無我夢中でフェンスをよじ登って飛び越えた先、春希の視界に飛び込んできたのは、初夏の強い日差しを跳ね返す鷺野川の濁った水面だった。

 町を横断する一級河川は、学校の裏手あたりで川幅が急激に狭まり、深く水が溜まる構造になっている。その深みの真ん中で、水をかいてもがく髪とシャツが漂っていた。

「っ!」
 春希はメガネと上履きを脱ぎ捨て、土を蹴って水面へ飛び込んだ。

 瞬時に衣類が水分を吸って重く体にまとわりつく。
 口に苦味が走る。
 無我夢中で水をかいて泳ぎ、水泡に引きずり込まれかけていた雪の脇下に腕を差し入れ、強く抱え上げた。

「ごぼっ、っ」
 水面に顔を引き上げさせると、雪が途切れ途切れに水と空気を吐き出した。
 意識はある。

 春希は雪の頭を水面から確保したまま、逆の手で水をかいて滑りやすい泥の斜面へと這い上がった。

「遠野! 牧野!」
 上から、息を切らした青木先生の叫び声が響いた。

 春希が泥に足を取られながら、雪の濡れて重くなった体をなんとか押し上げようとすると、青木先生が上から雪の脇を掴み上げ、続いて春希の手を力任せに引き上げてくれた。

「っ、ごほっ、げほっ」
 緑道にうずくまった雪が、胸を激しく上下させて咳き込んだ。
 飲んでしまった川水を嘔吐する。

「吐け、全部出せ……!」
 春希は小刻みに痙攣する細い背中を、手のひら全体で何度も、何度も強く撫で下ろす。

 側で青木先生がスマートフォンを耳に当てている。「救急車を」と聞こえた。

「はぁ、はぁ……っ」
 嘔吐が収まり、浅い呼吸が何度か繰り返された後、雪の濡れた睫毛が震えるように持ち上がった。焦点の定まらない瞳が、間近にある春希の顔を捉える。

「は、るき……っ」
 次の瞬間、雪の白い両腕が春希の首元へともつれるように巻きついた。
 泥にまみれて水草が絡まった細い体が、春希の胸にしがみつく。

「はるき……っ、はるき、はるき……っ!」
 全身を震わせながら、雪は春希の肩口に顔を埋め、子供のように声を殺して泣いた。

 繰り返される己の名前に、春希は返事をすることができなかった。
 無色の世界に、少しずつ色が戻ってくる。
 濡れた黒髪と、白いシャツと、肌。

「雪……」
 持ち上げた腕で、濡れて冷たい体を抱きしめ返した。
 自分の指先が、雪の肩と背中以上に震えていた。

「……」
 春希の視界の端に、校舎の窓が映り込んだ。
 三階の教室の窓から、幾人もの生徒たちが鈴なりになってこちらを覗き込んでいる。

 遠いサイレンが、チャイムの音と蝉時雨と混ざり合いながら、近づいてきた。