春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 土曜の朝食を終え、自室のベッドに腰を下ろした春希は、学習机の上に放り出されていたスマートフォンへ手を伸ばした。

 通知はない。

 クラスのメッセージグループは、体育祭動画が投稿された直後は活発だったものの、今は不気味に静かだ。雪からのメッセージも、来ていない。

 一度スマートフォンを机に置き、数秒後、再び手に取ってSNSアプリのアイコンへ親指を滑らせかける。が、春希は指先を止めた。

 椅子から立ち上がり、メタルラックのフックに掛けてあったスポーツブランドのプールバッグを引ったくるように掴むと、足早に自室を出る。

「プール行ってくる」
 玄関でスニーカーの踵を潰しながら声を張ると、奥の台所から「いってらっしゃーい」という秋子ののんびりとした声が返ってきた。

 直後、「あ、ちょっと待って! 麦茶持っていきなさい!」と、スリッパが床を叩くドタバタとした音が近づいてくる。

 ドアノブに手をかけたまま立ち止まると、秋子が水滴のついた黒い水筒を持って小走りで現れた。

「ありがと」
 リレーのバトンのように差し出された水筒を受け取り、プールバッグの隙間へ放り込む。春希はそのまま、逃げるように家を飛び出し、市民プールへと向かった。

 午前中の早い時間帯。遠泳用の中央レーンには人がいない。
 春希はぬるい水の中にぷかぷかと浮かんだまま、時々思い出したように水を蹴り、腕をかいて進んだ。結露した白い鉄骨の天井をぼんやりと眺める。

 水の中にいる間だけは、スマートフォンを気にせずに済んだ。
 家にいれば三十分おき、いや十分おきに画面を見てしまう。

 雪に対する度を越した下世話なコメントや、これ以上の個人情報の特定を煽るような書き込みを見つけるたびに通報ボタンを押してはいる。

 キリがなかった。

 焼け石に水を繰り返していると、ふと「俺、何してるんだ」と虚無感に襲われ、息苦しくなることの繰り返しだ。

「あいつ、ちゃんと大人に相談できたのか……?」
 水中でゆっくりと息を吐き出しながら、春希は昨日の雪の震える背中を思い返す。

 保護者――雪にとっては、児童養護施設の職員たちは、この事態を把握して動いているのだろうか。
 学校も動いてくれると言っていたが、ネットの騒ぎを止めるには、弁護士が必要なのではないか。

 それには、一体いくらかかるのか。
 雪に、そんな大金があるはずがない。
 そもそも、未成年のために動いてくれる弁護士はいるのだろうか。

「ぶくぶく……」
 春希は水面下に顔を沈め、思いきり壁を蹴った。

 冷たい水圧が鼓膜を塞ぎ、視界が青く滲む。
 何も考えず無心になるためにここへ来たはずが、行き場のない疑問と無力感だけが頭の中でぐるぐると渦を巻いていく。

 結局、いつもの半分の距離も泳げないまま、春希は苛立ちとともにプールから上がった。

 更衣室でスマートフォンを確認すると、秋子から『ついでに卵と牛乳買ってきて』と、依頼が入っていた。
 帰りに駅前のスーパーへ寄る。当たり前だが、雪の姿はなかった。

 その夜から、事態はさらに悪化の一途をたどった。

『楠原高校の美少年、昔子役やってたってマ?』
『本名でやってたみたいだから、調べたら一発で出るぞ。おむつのモデルとか、子供服のモデル』
『赤ちゃんの時から顔ができあがってる』
『昔キッズチャンネルやってなかった? ガキんときに見てた記憶がある。チャンネルは消えてたみたいだけど』

 赤ちゃん用品の古いカタログ、子育て雑誌、子供服のチラシ――十年以上前のSNSやブログやWEB広告などの画像が、またたく間に掘り起こされていく。
 トレンドの波に乗ったまとめサイトやブログにも、情報が次々と寄せられていた。

『【衝撃】バズった楠原高校の美少年・遠野雪くん、実は元子役!? 過去の動画や現在の姿まとめ』
『【特定】遠野雪のキッズモデル時代がかわいすぎる! 実は十年前もバズっていた!』

 転載による画質の荒い動画の中で、幼い雪はオモチャで無邪気に遊んでいる。
 動画の冒頭には「ゆきちゃんねる」と、時代を感じさせる丸文字のテロップ。
 画面外から母親だろうか、甲高い大人の女の声が入っていた。
 時おり映る両親と思われる男女の顔には、モザイクがかけられている。

『子供だけ顔出しか。親の金稼ぎだろ。なんか可哀想』
『風呂であそんでるやつとか、さすがにダメでしょこれ』

「……」
 画面をスクロールする春希の指先が、冷たく強張っていく。

 そこには、今の雪の面影を色濃く残した、作り物のように顔の整った、幼い子供の姿があった。

 カメラに向かって無邪気な笑顔で手を振り、与えられた色鮮やかな菓子を口にしては大袈裟に首や体を揺らして喜んでみせる。広すぎる部屋の中央で、ひとりで大量のプラスチック玩具に囲まれている映像もあった。

 どれも春希の目には、気味の悪い世界にしか映らなかった。

 これ以上見続けていれば、自分もまた共犯者になってしまうような錯覚に陥る。
 春希はたまらずSNSのアプリとブラウザを終了させた。
 代わりにメッセージアプリを立ち上げ、雪とのトーク画面を開く。

 キーボードに親指を乗せかけたところで、ぴたりと動きを止めた。
「……あいつ、これ知ってんのかな……」

 物心すらついていないような年齢の頃の姿が勝手に掘り起こされ、ネットでオモチャにされている。
 もし、本人が気がついていないのだとしたら。知らなくていいことを、わざわざ突きつけることになってしまう。

 すでに気がついているとしたら。自分なら、こんな時に下手な慰めの言葉などかけられたくはない。とにかく放っておいてほしいと願うはずだ。

 雪は、どうだろうか。

「っ……」
 春希はスマートフォンを握りしめたまま、半開きの自室のドアを振り向いた。
 その向こうに、一階のリビングへと続く暗い廊下が伸びている。
 わずかに腰を浮かせかけて、またベッドへ腰を下ろした。

――牧野家や事務所は、個人的に深入りする立場にはない
――春希、お前もだ。たとえ友達でも

 父親から突きつけられた正論が思い浮かんだ。
 子供にはどうすることもできないという現実が、春希の体を部屋に縫い止める。

 結局その日、土曜日の夜、雪からの連絡はなかった。

 七月十二日、日曜日の夕方。
 自室のベッドに寝転がって開いたメッセージアプリの画面は、先週から何も変わっていなかった。

 思えば、普段からメッセージのやり取りを頻繁に交わしていたわけではない。
 平日は毎日学校で顔を合わせるし、休日でも『2ki_days』のタイムラインを覗けば、お互いの近況が写真越しに伝わってきたからだ。

「あ……」
 ふと思い出し、春希はアプリを切り替えて『2ki_days』のアカウントを開いた。
 こちらも更新は途絶えたままだ。

 春希は新規投稿ボタンをタップした。
 カメラロールが開くものの、ここ数日まともな写真を一枚も撮っていなかった。

「……そうだ」
 春希はスマートフォンを握りしめて、階下のリビングへと向かった。
 リビングでは、ソファに座った秋子が一人でのんびりとクイズ番組を眺めていた。冬人の姿はない。

「どうしたの?」
「なんでもない」

 短く返し、春希はリビングの南側にある大きな掃き出し窓のそばへ歩み寄った。
 日除けのレースカーテンの前に、秋子の趣味である観葉植物が所狭しと並べられている。

 艶やかな深緑の葉を広げる大きなモンステラ、天井から吊り下げられた鉢から滝のようにこぼれ落ちるグリーンネックレスが、夏の窓辺に涼しげな影を作っていた。

 その足元、小さな木製のラックの上に並べられた多肉植物の鉢植えたちの中に、春希の目当てのものがあった。

 小さな素焼きの壺に植えられた、白粉を帯びた淡い青緑色の多肉植物。
 肉厚の葉が幾重にも重なってロゼット状に広がる、まるで雪の結晶だ。

 春希はカメラアプリを起動し、小さな緑の結晶を一枚の正方形に切り取った。
 自室へ戻り、撮りたての写真を『2ki_days』にアップロードする。

 キャプションには短いテキストだけを打ち込んだ。
『多肉植物の世界。△』

 投稿ボタンを押し、画面が切り替わるのを見届けてから、春希はスマートフォンを机に置いた。

 それから、三十分後。

 再び画面を覗くと、通知のアイコンに赤い印がついていた。
 逸る指先でアプリを開き、タイムラインを更新する。
 一番上に、新しい写真が追加されていた。

 写っているのは、見覚えのある文庫本の表紙だ。
 春希が雪に貸した本。「多肉植物の世界」の文庫本を、細く白い指先が持ち上げている。キャプションは短く一行。

『これも面白かった。* #読書 #友達から借りた本』

「……そっか。良かった」
 春希はSNSのアプリを閉じた。

 数時間後。
 この何気ない二つの投稿にも、いくつかのハートマークがついた。

 コメントも一つ。
『期末は終わりましたか? こっちも終わりました(エンピツの絵文字)』

 文面からして同じ高校生らしきユーザーからだ。このアカウントの中だけは、いつもと変わらない静かで無害な時間が、ゆっくりと流れていた。