春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 七月七日・火曜日。
 悪意もなく、軽い気持ちで投稿された体育祭の動画は、恐ろしい速度で拡散され続けていた。

 翌八日・水曜日には、ひとつのアプリの枠を越え、他のSNSプラットフォームへも波及していく。

 動画のリンクや、雪が映り込んでいる数秒間だけを切り抜いた静止画が転載され、さらに雪が写っている他の写真も投下されて、そのいずれもが安易に数字を稼ぎ、タイムライン上を濁流のように駆け巡った。

『CGかと思った』
『アイドル? 事務所入ってるのかな』
『楠原高校って芸能コースでもあんの?』
『同じ高校だけど、入学式の時から目立ってた』
『うちの弟の同級生だって。一年生』
『特定はやめとけって』

「なんだこれ……」
 二階の自室。ベッドの縁に腰掛け、スマートフォンの液晶をスクロールさせていた春希は、指先が冷たくなるのを感じた。

「楠原高校の一年生」という情報まで特定されている。
 誰かが承認欲求に負けて具体的な名前を書き込めば、そこで終わりだ。

 春希はスマートフォンを握りしめ、一階のリビングへ駆け下りた。

「どうしたの、春希。そんな顔して」
「床に穴を空けるなよ」

 驚きもしくは呆れる両親に、春希は無言でスマートフォンを差し出した。
 画面を眺め、少しスクロールすると、両親の顔つきが変わる。
 春希は手短に、昨日から起きている事象を説明した。

「体育祭の写真が、流出したってこと?」
 口元を両手で覆い、秋子が眉を下げた。

「こういう時って、どうやって守ってもらえるの? 弁護士? しばらく、うちで保護してあげたほうがいいんじゃないかしら……」
「落ち着きなさい」

 同情に駆られる妻を、冬人の低く静かな声が遮った。
 冬人はスマートフォンを春希へ戻す。

「まずは、しかるべきルートで連絡するべきだ。牧野家や事務所は、個人的に深入りする立場にはない。春希、お前もだ。たとえ友達でも、な」
「そんな――」

 冷淡にも聞こえる正論だ。
 反発の言葉が舌先まで出かかったが、春希はぐっと奥歯を噛み締める。
 経営者である父親の言うことが、社会的に正しいことは理解できていた。

「遠野君に確認しなさい。この事態を、施設の大人にはきちんと報告や相談をしたのかどうかを」
「電話してみる」
 促され、春希はその場で通話のアイコンをタップした。

「……出ない。バイトしてるのかもしれない」
 何度かけても留守電に切り替わってしまう。

「メッセージ、送っとく」
 既読がついたのは、一時間後のことだった。

 返信は、『うん。ありがとう』、それだけだった。

 自室に戻った春希は再びSNSアプリを開き、検索窓から関連する言葉を打ち込んで様子を探り続けた。楠原高生からの情報を求める声と、特定を諌める声とが罵り合いを始めている。

 ついでに、アカウントを切り替えて『2ki_days』のタイムラインも開く。
 投稿する気にはなれない。
 雪からの更新も、昨日から完全に止まっている。

 念のため、過去の投稿を総ざらいした。
 個人を特定できそうな手がかりはなさそうで、少しだけ安堵する。

 薄暗い部屋の中、春希は宿題をしながら三十分おきにスマートフォンを覗く。
 元凶となった体育祭の動画は、すでに再生数三百万回を突破している。
 切り抜き無断転載投稿も、多いものでは数十万インプレッションを稼いでいた。

 七月九日・木曜日の昼。
 雪のフルネームが特定された。

『遠野雪? 名前まで透明感。芸名だろこれ』
『楠原高校の一年、遠野雪くん。ちな本名』

 昼休みの中庭。楠の葉が落とす日陰の中で、春希はスマートフォンの画面をなぞる手を止めた。

「雪、青木先生に相談しよう」
 一つ空けて同じベンチに座る雪へ、画面を伏せて言う。

 膝の上の弁当箱を見つめていた雪の首が、微かに傾いた。
「でも、僕……」
 喉の奥から絞り出すような声だった。
 黒い前髪が垂れ下がり、目元を覆い隠す。

「名前が出たんだぞ。バズり方も半端じゃない」
 春希の口から出た声は低く、角立っていた。
 同級生たちがフォロワー千人に達したと騒いでいたのとは、桁の次元が違う。

 雪のどこか腰の引けた態度に、春希の胸の底で不揃いな波が立つ。
「――じゃ、俺が話してくる」
 春希は半分ほど残っていた自分の弁当箱の蓋を強めに閉め、巾着袋に突っ込んだ。それを脇に置いてベンチから立ち上がる。

「え……」
 見上げる雪の瞳に、戸惑いの色が走る。
 膝の上に載せられた小さな弁当は、まだほとんど手がつけられていなかった。

 春希から手短に状況の説明を受け、業務用パソコンでSNSを検索した青木先生の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。

 画面いっぱいに並んだ雪の写真に一度、そして個々の投稿に刻まれた膨大な数字とコメントに二度、息を呑んで固まった。

「個人情報が、こんな簡単に……」
 マウスのホイールを回転させながら、青木先生はそのまま背もたれへ深く体を預けた。重く長い呼吸を吐き出す。

 隣のデスクにいた他の教員たちも異変に気づいて集まり、画面を覗き込んでは、眉根をひそめた。

「牧野、報告ありがとう」
 やがて青木先生は椅子を回し、真剣な眼差しで春希と向き合った。

「遠野の保護者とも連携しながら、学校でできることを進めるから」
 大きな手が春希の肩に置かれ、三度、強く撫でられた。
 その手の重みを、春希は信じるしかできない。

 先生への報告を終えて、春希が中庭へ戻る途中のことだった。
 渡り廊下へ出る手前の開け放たれた窓から、中庭のベンチに座る雪の姿が視界に入った。

 膝の上にほとんど減っていない弁当箱を置いたまま、雪は深く首を垂れている。
 その手元で、スマートフォンの液晶が光を返していた。

 右手の人差し指が、滑らかな動きで画面を上へ、上へと撫でている。
 タイムラインをスクロールさせているようだった。

 横から見る雪の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
 ただ指先だけが、機械的な一定のリズムでガラスの表面を滑っていく。

 そのさなか、一瞬のこと。

 無表情だった横顔の口元と目元が同時に、ふっと歪んだ。
 整った桃色の唇がかすかな弧を描く。

「……」
 踏み出そうとした春希の靴底が、床に張り付くように止まった。

 自分の写真や名前が出回るSNSの惨状に対する苦笑なのか。
 それとも、気晴らしに何か別のものを見ていたのか。

「雪」
 春希は渡り廊下の端から、中庭へ足を踏み入れた。
 雪の肩が跳ねるように揺れ、弾かれたようにこちらを振り向く。

「あ……おかえりなさい。青木先生、何て?」
 雪は手中のスマートフォンを裏返し、ベンチの端へ置いた。再び箸を手にする。
 昼休み終了十分前のチャイムの音が響いた。

 七月十日、金曜日。
 放課後のホームルームが終了した直後、雪は担任の青木先生に声をかけられ、そのまま連れ立って職員室へと向かった。

 案内されたのは、職員室の隅をパーテーションで区切っただけの簡素な打ち合わせコーナーだった。パイプ椅子に腰を下ろすと、向かい側には青木先生だけでなく、学年主任までもが神妙な面持ちで待ち構えていた。

「あまり考えたくないことを訊くことになって申し訳ないんだが」
 重苦しい前置きとともに、青木先生が手元のノートパソコンを回転させ、画面を雪の方へと向けた。

 雪の顔が大写しになったSNSの投稿画面が映し出されている。
 体育祭のあの日、カメラマンに撮られたあの一枚だ。

「このことは、知っていたか」
 雪は無言のまま、短く頷いた。

「君ではない誰かによって投稿された動画がきっかけだとは聞いている。が、確認させてくれ。遠野の投稿ではないんだな?」
 雪はもう一度、小さく首を縦に振った。

「そうか。分かった」
 青木先生は一つ息を吐いて頷き、マウスを操作してブラウザのタブを切り替えた。
 画面が別のタイムラインへと移る。
 そこに並んでいたのは、体育祭の写真とは明らかに性質の異なるものだった。

 駅の改札を抜ける後ろ姿。
 ホームの端で電車を待つ横顔。
 窓際の隅で文庫本に視線を落としている様子。

 どれも今朝、雪の通学路の光景を切り取った写真や、数秒の短い動画だ。
 被写体である雪の視線がカメラに向けられているものは一つもなく、本人の同意を得ずに隠れて撮影されたことは誰の目にも明らかだった。

『例の美少年、発見。*時*分、楠原着の最後尾車両』
『生で見るとマジで肌白くてビビる。横顔が芸術作品すぎ』
『もっと近くで撮りたかったけど、これが限界』

 生々しいテキストと写真の数々。
 それらに対する引用ポストやコメント欄には、無責任な熱狂と無自覚な暴力が連なっている。

『これ犯罪だよ』
『眼福すぎ。同じ時間に乗ってみようかな。**線なら近い』
『何読んでるんだろ。近づいて見てみようかな』
『楠原高校の周辺で張ってれば会えるってこと?』

「これらは盗撮ではないかと思うのだが。心当たりはあるかい」
 四十代の学年主任が身を乗り出すようにして尋ねる。

「……分かりません。気づきませんでした……」
 雪は視線を落とし、細く掠れた声をこぼした。
 膝の上で、きつく握り込まれた白い両拳が、小刻みに震えている。

 ひゅっ、と。
 狭い気道から無理やり空気を引き剥がしたような、逆流する乾いた音が雪の喉の奥から漏れた。

 小さな異音に気づき、青木先生がパソコンのパネルを閉じた。

「分かった。辛いものを見せて悪かったな」
「しばらくは、学校に遅くまで残ったりしないように」

 学年主任も慌てて姿勢を正す。

「行き帰りもなるべく友達と帰ったり、途中からでもいいから、大人に迎えにきてもらうようにしなさい」
「……はい」

 雪は俯いたまま、消え入りそうな声で短く応じた。