春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 七月に入ると、容赦のない日差しが教室の窓ガラスをじりじりと焼き始めた。

 初週の期末テスト期間が明けた教室には、まだどこか浮ついた空気が残っている。昼休みを前に、「進路希望調査票(第1回予備調査)」の提出締切日がやってきた。

 春希は両親との短い話し合いの末、とりあえず理系クラスと大学進学希望の欄に丸をつけた。志望校はまだ空欄だ。

 周囲の席からは「文系にした」「私もー」などの声が聞こえてくる。
 その間を抜け、雪は教壇で待つ担任の青木先生へ二つ折りにした紙を手渡している。受け取った青木先生は、その紙を折りたたんだ状態のまま、手元のバインダーへ挟んだ。



「あのね、春希」
 周囲から他の生徒の気配が消えた途端、雪が、弾むような声を出した。

 昼休み、いつもの中庭はこの時期でもひんやりとした空気が溜まって居心地が良かった。頭上を覆う楠の葉が、アスファルトの照り返しを遮って濃い影を落としている。

「夏休みのバイト、受かったんだ」
 雪の膝の上には、今日も秋子が春希に持たせた小さな弁当箱が乗っている。

「それ、牧野建築事務所か?」
 春希が尋ねると、雪の丸い瞳がぱちりと瞬きをした。

「やっぱり、春希のお父さん?」
 雪はそこまで驚かなかった。

「面接した時に、社長さんがなんとなく春希に似てるかなって思った」
「似てるか?」
 春希が無意識に眉間へ皺を寄せると、雪は肩を揺らしてくすりと息をこぼした。
「そんなイヤそうな顔しないの」

 微かに笑った後、雪はふっと春希から視線を外した。
「……もしかして、何かお父さんから聞いた……? 僕のこと」
「雪――」

 春希は手元の弁当箱を横へ置いて、ベンチから立ち上がった。

「ごめん!」
 雪に向けて勢いよく、深く頭を下げた。

「は、春希?」
 雪が身をすくめる気配がした。

「父さん、てっきり俺が雪の事情を知ってると思ってて。俺も、無神経だった」
 墨色の地面を見つめたまま、春希は一気に吐き出した。

「いいんだってば、春希。気にしないで!」
 雪も弁当箱を置いて立ち上がる。春希の肩に指先がそっと添えられた。

「本当は、いつ春希に話そうかって、ずっとタイミングみてたんだ。施設のこととか……僕のこと、いろいろ」
「雪……」

 春希がゆっくりと顔を上げると、至近距離に雪の顔があった。
 黒い前髪の隙間から覗くガラスのような瞳が、真っ直ぐに見つめ返している。

「春希には知って欲しいって思ってるから――ちょっとずつね」
 透明な瞳の奥に、ふわりと柔らかい色が浮かんだ。
 至近距離で向けられた真っ直ぐな光に、春希は喉の奥を詰まらせる。

 雪は春希の肩から手を離し、ベンチへと座り直す。

「バイト楽しみだな。春希のお母さんに、お弁当のお礼もしたいし」
 膝の上に弁当を置いて割り箸をとり、ちいさく取った白米を口へ運んだ。

「春希にも会える?」
「……俺も、バイトに参加することになってる。水泳部と交互になるけど」
「ほんと!? 嬉しい」

 雪の顔にぱっと光が差したように明るさが戻った。

「夏休みも、よろしくね」
 頭上の楠の葉が、風に揺れてさやさやと乾いた音を立てた。



 帰りのホームルーム。
 教卓から後ろへ回されてきたプリントは、体育祭でプロのカメラマンが撮影した写真の、ウェブ販売を告知するものだった。

 担任が教室を出ていくが早いか、あちこちの席でスマートフォンが取り出される。プリントの隅に印刷された二次元コードを読み込み、小さな液晶画面を数人で囲みながら、早くもあちこちから笑い声や歓声が上がり始めた。

「さすがプロ。良い感じの写真、いっぱいあるね」
「あ、三年生の先輩たちの写真も買っちゃおっかな」
「応援合戦、めっちゃカッコよかったもんね」
「うちの親もけっこう写真撮ってたんだよね。ここの写真と組み合わせて、体育祭の思い出ムービー作ってみよっか」

 初夏の湿気を帯びた教室の空気は、女子生徒たちを中心とした熱気でさらに温度を上げていた。

 そんな喧騒を背に、春希はロッカーへ向かう。
「じゃあね、春希。部活がんばってね」
 雪がその脇を通り過ぎた。

「おう」
 春希は水泳バッグを取り出し、盛り上がるクラスメイトたちの横を通り抜けて教室の後ろの扉を出る。

 ぬるい風が通り抜ける廊下へ出ると、二人は短く手を上げて背を向け、それぞれ左右の階段へと歩き出した。

 部活を終えて帰宅後、春希はプリントを母・秋子へ手渡した。
「体育祭の写真ね、待ってました!」
 秋子は声と足取りを弾ませ、濡れた手をエプロンで適当に拭き、リビングの端に置かれていたノートパソコンのパネルを素早く立ち上げる。

「ねえ、遠野君の写真、どうする?」
 声をかけられ、自室へ戻りかけた春希は足を止めた。
「雪の?」

「データを買うのも、プリントして送ってもらうのも、結構なお金がかかるじゃない? お母さんが一緒に注文しておくから、あんたからプレゼントしたらどう?」
「そう、だよな……」

 今まで、学校行事の写真などは母が当たり前のように手配して、気づけばアルバムになっていた。それが決して「当たり前」ではない環境も存在するのだ。

「ありがとう。お願いしていい?」
「もちろんよー。一緒に見る?」

 秋子がパソコンの前から、手招きをした。
 これまでであれば、「面倒くさい」「任せる」と適当な相槌を残してさっさと自室へ引っ込むところだ。

「うん」
 春希は秋子の隣から、写真販売サービスの画面を覗き込んだ。

 膨大な数のサムネイルが並ぶ中から、秋子はまず、春希が写っているものを検索し始める。水泳部の部活対抗リレー、クラス対抗の綱引きなど息子が出場した競技、競技終了後のチームごとの集合写真等。慣れた手つきで次々とクリックし、軽快なリズムで息子が写っている写真を買い物カゴへ放り込んでいく。

「春希のは、これくらいかしら。次は、遠野君ね」
 秋子は検索条件のタグを切り替え、再び画面をスクロールさせ始めた。

 やがて、画面の中央に表示された一枚の写真の上で、マウスのカーソルがぴたりと止まった。
「……あらー、綺麗」

 秋子の口から、感嘆の入り混じったため息が漏れる。
 クリックして拡大された画像を見て、春希もわずかに息を呑んだ。

 それは、グラウンドの端で、競技の順番を待って立っている雪の姿だった。

 販売サイトに並ぶ大半の写真は、複数の生徒が肩を組んで笑い合っていたり、競技中の集団を遠目から捉えたりした、いわゆる「記録写真」だ。

 その一枚は、違った。

 周囲の喧騒や、砂埃の舞う背景はぼかされ、画面の中央に佇む雪一人だけに、明確なピントが合わせられている。
 白い体操着から伸びる細い首すじ、少し伏せられた長い睫毛、風に揺れる黒い前髪。

 プロのカメラマンが、明らかに「遠野雪」という被写体を強烈に意識し、意図的にファインダーの中心へ据えてシャッターを切ったことが、素人の目にもはっきりと伝わってきた。

「これと、これと、これと……あ、借り物競走のもあるわね」
 秋子は次々と雪の写真を拡大しては、楽しげにカゴのアイコンをクリックしていく。

 出場する種目数が春希よりも少なかったはずが、雪の写真の方が五割増しで多いのであった。



 翌日、放課後。
 女子を中心とした数人のグループが、今日も教室の中央に机の島を作って集まっていた。

「ムービー、作ってきたよ!」
「仕事はやっ」
 中心に座る女子生徒がスマートフォンを机に置くと、男女数人が外周に集まってくる。

 映像編集アプリのテンプレートに写真や動画を流し込み、流行りの音楽を選ぶ。
 それだけで、どこかのプロモーションビデオのような見栄えのするムービーができあがる。

「え、すご、いいじゃん!」
 屈託のない声が湧く。
 後ろから覗き込んでいた男子生徒も「クオリティ高」と相槌を打つ。

「もうちょっと足したいかな」
「おけおけ」

 彼女たちは手慣れた様子で画面をタップし、動画全体に淡い色味のフィルタをかけ、音楽のビートと写真の切り替わるタイミングを微調整していく。余白にはカラフルな星やハートのステッカーが散りばめられた。

「よし、アップしよ!」
 スマートフォンの持ち主である女子生徒が、親指を高速で滑らせてキャプションを打ち込んでいく。

『高校、初めての体育祭最高だったー!』
 という短いテキストの後に、タグを隙間なく並べる。
『#体育祭 #アオハル #楠原高校 #高校生活 #青春の1ページ #fjk』

 他愛のない日常の記録として、彼女は軽い気持ちで画面右下の『投稿』ボタンをタップした。

「完了〜〜」
「きたきた。クラスのメッセージグループにもシェアしとくね」
「よし、マック寄ってこー!」

 きゃらきゃらと鼓膜を揺らす笑い声を残し、鞄を掴んだ彼女たちは連れ立って教室を出ていく。斜めに傾いた西日が、主のいなくなった机の表面を四角く照らしていた。

 彼女たちは、まだ知らない。

 この後、投稿主である女子生徒のスマートフォンが、鳴り止まない通知のせいで、バッテリー切れを起こすことを。