春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

 屋外プールから風に乗ってうっすらと漂ってくる塩素の匂いが、夏の始まりを告げる六月下旬。

『進路希望調査票(第1回予備調査)』

 何十年も前から使い回されているような、藁半紙特有のざらついた手触りの紙を手にして、教室のそこかしこから静かな溜息が漏れ聞こえていた。

「春希は、書くこと決まってる?」
 昼休み、いつもの中庭のベンチで、雪が膝の上の小さな弁当箱の蓋を開けた。体育祭の翌週から、「一人分も二人分も大して変わらないから」と秋子が春希へ持たせるようになったものだ。

「うーん……」
 春希は箸を止め、頭上の楠の葉越しに見える空へ視線を逃がした。
 脳裏に、ゴールデンウィーク中に夏美から投げかけられた言葉が蘇る。

――二年で文理選択あるでしょ。パパの事務所継ぐなら理系一択だけど

 父の冬人は一級建築士で、数人の社員を抱える小さな建築事務所を営んでいる。幼少期、自分もなんとなく「大きくなったら、パパみたいになる」と思っていたが、こうして選択を迫られると、具体的なイメージが何も思い浮かんでこない。

「まだ分かんないな」
 言葉を濁すと、雪は箸を置いてこちらを覗き込んできた。

「春希って理数系が得意だよね。そしたら、エンジニアとか、合うのかな」
「メガネのイメージで言ってるだろ」

 春希が伊達メガネのフレームを、わざとらしく指で軽く押し上げると、雪の口元が可笑しそうに弛んだ。
「ふふ。そうかも」

 黒い前髪を揺らして小さく喉を鳴らす雪の横顔を見つめ、春希は同じ質問を返す。
「雪は?」
「うーん」
 雪は首を少し傾げ、甘煮の豆を一粒、口の中に放り込んだ。細い喉が小さく動く。

「僕も、もうちょっと考える。……それより、夏休みのバイト、探さないとなんだ」
 スーパーの試食コーナーで見かけたことを、春希は一度も口にしていない。
 雪の方から明かすこともなかった。

「夏休みにバイトを増やす?」
「ううん。前のとこ、辞めたから」
「そう、なのか。新しいところは見つかりそうか?」
「うん。履歴書送ったり、連絡とかもしたとこ」
「そっか」
 春希は短く返し、唐揚げを口へ運んだ。

 それ以上、進路やバイトについての会話が交わされることはなく、初夏のぬるい風が二人と木々の間を静かに通り抜けていった。

「今日も、一緒に帰れる? 水泳部、始まるんだっけ」
 日に日に濃さを増していく楠の葉の隙間から、初夏の強い陽光が中庭へと降り注いでいた。雪は細めた目の端に光を反射させながら、眩しそうに空を見上げた。

「ああ。今日が初日。着替えとかも含めると、帰れるのは七時近くになるな」
「そっかぁ」
 雪は少しだけ残念そうに呟き、それから悪戯っぽく口角を上げた。

「こっそり写真撮りにいっちゃおうかな。春希の水着姿、2kiにアップしよっか」
「誰が見たいんだよ」
「ひょろひょろの僕より、全然いいでしょ」

 雪が小さく肩をすくめる。
 春希は適当なジョークを言い返しかけて、ふと口を噤んだ。

「……2kiと言えば」
 代わりに話題を切り替え、春希はポケットからスマートフォンを取り出した。
 SNSアプリで『2ki_days』のプロフィール画面を開く。
「フォロワー、百になってたぞ」
 顔を出さない、ただの高校生二人の日常風景だけのアカウントだ。

 体育祭の後、雪が弁当について投稿していたので、春希も便乗して『弁当美味かった。△』という短いテキストだけの投稿をした。週明けに画面を開くと、フォロワーが三桁になっていた。

「僕たちがケンカしてないかって、見守っててくれてるんだよ」
 雪が画面を覗き込みながら、柔らかく笑った。
 黒いメガネのフレームの内側で、春希はわずかに眉を動かした。

 おせっかいな、うちの母親みたいだ。

 喉まで出かかった言葉を、奥へと飲み込む。
 もしかしたら雪には親が――と思った。
 そこも、まだ聞けていない。訊く必要が、ない。



 放課後。
 青い光の網目が揺れる水際に整列した水泳部員は、一年生が六人、二年生が五人、そして三年生が四人の、計十五人。

 引率するのは、学生時代に水泳部だったというだけの理由で顧問を任されている、三十代前半の国語教師だ。

 顧問が注意事項や準備体操の重要性について語っている間、春希は目に入る上級生や顧問の身体を観察していた。

「……」
 視線を落とし、春希は自身の腕や胸元を覆う薄い肉を見つめた。

(親父のところで、現場のバイトでもさせてもらおうかな……)
 足元の濡れたコンクリートを見つめながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

 水泳部の初日は、水慣れを中心とした軽いメニューのみだった。
 春希は更衣室で着替えを終えて、濡れた髪の毛のまま、ロッカーから鞄を引き上げるために教室へ向かう。

 誰もいないと思って扉を無遠慮に開けると、教室の中央付近で二つの人影が机を挟んで向かい合っていた。

「――あ、すみません」
 春希は思わず足を引っ込める。

「っ……あれ、春希?」
 雪と、担任の青木先生だ。
 机の上に書類らしき紙が数枚と、水色の表紙をした薄いパンフレットが広げられているのが見えた。

 雪はそれらを両手でかき集める。

「牧野か。部活お疲れさん。じゃあ、先生はこれで」
 青木先生も、バインダーを脇に抱えて立ち上がった。
 雪は書類を胸元にきゅっと抱え込んで、「ありがとうございました」と深く頭を下げる。

 そのまま教室を出ようと春希の横を通り過ぎる間際、青木先生が足を止めた。
「もう外は暗くなってきてるから、二人で一緒に帰りなさい」
 それだけ言い残し、足早に廊下の奥へと去っていった。

 春希は気まずさを隠すように軽く会釈をしてから、室内へ足を踏み入れた。

「ごめん、邪魔したか?」
「ううん、ちょうど終わるところだったんだ。一緒に帰ろ」
 雪は、ふわりと笑って見せた。

「ああ。おけ」
 春希は短く応じ、ロッカーから鞄を取り出す。
 振り返ると、雪は胸に抱えていたものを鞄の奥底へと見えないように押し込み、ジッパーを閉めているところだった。

 濃いオレンジ色と藍色が混ざった光が差し込む静かな校舎を、二人は並んで後にした。



 夕飯の食卓に並んだアジの南蛮漬けをつつきながら、春希は向かいの席に座る父・冬人へ声をかけた。

「父さん、夏休みの間、事務所の手伝いをさせてくれないかな」
 冬人が経営する事務所では、夏休み期間中に学生のアルバイトを募集している。若者の就労体験や地域貢献を兼ねて、事務所開設以来、毎年恒例で行っているものだった。

「……」
「あらまあ」
 両親が同時に、視線を皿から息子へ向けた。

「水泳部の練習の合間に行くから、毎日は入れない。バイト代はいらないから」
 味噌汁の椀を持ったままの冬人が、わずかに眉を上げる。
「シフトは気にしなくて良い。働くなら、バイト代はきっちり払う。その代わり、手加減はしない」

「うん。分かってる」
 春希が短く頷くと、冬人は「そういえば」と椀を置き、席を立って奥の書斎へ向かった。戻ってきた手には、二つ折りの紙。

「バイトといえば、春希。この子、お前の友達じゃないのか。ほら、渋谷に一緒に行ったっていう」
「!?」
 テーブル越しに差し出された紙面を覗き込み、春希の呼吸が止まった。

 氏名欄に書かれた、遠野雪の文字。枠内に貼られた証明写真には、白いシャツの第一ボタンまで留めた雪の顔が写っていた。証明写真でも犯罪者のようにならないのは流石だ、などと頭の片隅で思いつつ、春希は無言で固まった。

「何か、事情は聞いているか?」
 冬人の太い指先が、履歴書の備考欄をトントンと叩く。

 連絡先として、児童養護施設の名前が記されていた。

「……施設」
 春希の喉から、空気が漏れるような音がした。

 顔色を変えた息子の様子に、両親が静かに視線を交わす。
「聞いていなかったのか。それは、遠野君に悪いことをしたな」
 冬人が履歴書を引き寄せ、背後の棚へ置いた。

「春希、今の履歴書は見なかったことに――」
「父さん、雪を採用してやって!」

 椅子の脚が床を擦る音が響く。
 春希が立ち上がり、テーブルに身を乗り出していた。
 驚きに目を丸くした両親が、揃って息子を見上げる。

「前に、スーパーで接客のバイトしてるのを見たことがあったんだ。この間、そこを辞めて新しいバイトを探さないとって言ってたから」

 春希はテーブルの縁を握りしめ、一気に言葉を繋いだ。

「詳しいことは知らない。でも、たぶん、どうしてもバイトしないといけない事情があるんだ。あいつ、自分の弁当も持ってこれてないし……」
「春希。座りなさい」

 おずおずと椅子に腰を下ろした息子へ、冬人は静かに毅然と、口を開いた。

「お前の友達といえど、俺は経営者として、他の応募者と同じように平等に面接をする。それだけだ」

 とはいえ、雪のような経歴の子は積極的に採用するようにしている。息子の手前、冬人が筋を通しただけのこと。

「何だ。友達がバイトに来るから、お前も一緒に働きたいって話じゃなかったのか」
「違う。雪のことは本当に知らなかった。俺は――」

 自分の浅はかな動機を口にしかけて、春希は口を噤んだ。
 無言で箸を伸ばし、小鉢に入っていた人参の煮物を口に放り込む。
 甘辛い出汁の味が、舌の上に広がった。