春を待つ雪 〜男子高校生ふたりが、秘密のSNSアカウントを作る話〜

「え?」
 振り返ると、初夏には少し暑苦しい、細身の黒いジャケットを着た男が立っていた。

 きっちりとセットされた髪に、口元の端だけを持ち上げた愛想の良い笑み。
 男は春希に目もくれず、真っ直ぐに雪の顔だけを値踏みするように見つめていた。

「事務所はもう入ってる? もしまだだったら、芸能関係のお仕事は興味ないかな」
 男が滑らかな口調で言いながら、内ポケットから取り出した名刺を差し出す。
 信号待ちをする観光客たちが、何事かと振り向いた。

「っぇ……ぁの……」
 雪は息を呑み、反射的に春希の背後へと半歩下がった。
 春希のスウェットの袖が、強く引かれる。

「すみません、急いでるんです」
 春希は雪を背中で庇うように立ち塞がった。
 男はわずかに眉を動かしたが、すぐに人当たりの良い笑みを崩さず、「ごめんね。気が向いたら連絡してね」と、春希の手へ強引に名刺を握らせた。

「行くぞ」
「う、うん……」

 青信号を知らせる電子音が鳴り出す。
 信号待ちをしていた観光客たちが一斉に流れ出し、人の流れに隠れるように春希は雪を引いて進んだ。

 センター街の入り口まで辿り着く。
 巨大なビジョンから大音量の音楽が流れ、飲食店の油と香辛料の匂いが立ち込めた。

「すみません、お兄さんたち」
 今度は、オーバーサイズのパーカーを着た若い男が立ち塞がった。
 首から大きな一眼レフカメラを下げている。

「僕、写真家で、ストリートスナップを撮っているところなんだけど、お兄さんめちゃくちゃ雰囲気あるなと思って。良かったら撮らせてくれませんか?」
 レンズを向けられそうになり、雪は春希の腕の後ろへ完全に顔を隠した。

「すみません、写真、苦手みたいで」
 春希が短く告げて横を通り抜けようとすると、男は「残念。もったいないな」と不満げに鼻を鳴らしながらも、すかさず二人の間へ手を伸ばし、「じゃあこれだけでも」と名刺を雪のトートバッグの縁に滑り込ませた。

 通りすがりの女子学生たちが、
「ねえ見た? やば」
「超カオ綺麗なんだけど」
 と振り返りながら、甲高い声を上げる。

 雑踏の中を数分進んだ、ファストフード店の前。
「君、モデルやってみない?」
 派手な柄シャツを着た、日焼けした男が並走してきた。

「〇〇とか△△ってモデルや俳優、聞いたことある? その事務所なんだけど、君のルックスなら、すぐにでもデビューいけるよ」
 男の香水とタバコが混ざったような強い臭いが鼻をつく。
 男は巧みに、春希と雪の行く手へ体を割り込ませてきた。

「っ……」
 雪の息遣いが、春希のすぐ耳元で浅く、速くなり始めていた。

「……すみません、興味ないみたいです」
 春希が低い声で牽制すると、男は肩をすくめて名刺を雪のパーカーのポケットに差し込んだ。

「気が向いたら、連絡してみて」
 香水とタバコの臭いを振り切って直進する。

 プリクラやガチャガチャが並ぶゲームセンターの入り口付近で、今度はパンプスの音を響かせて女性が近づいてきた。
「突然ごめんなさい。私、こういう者です」

 ネイビーのスーツを隙なく着こなした女性が、両手で丁寧に名刺を差し出してきた。

「あなたのその透明感、映像や写真で絶対に美しく映えると思うんです。お時間あれば、お話だけでも聞いていただけませんか」
「……」

 女性の落ち着いた声音に、雪は少しだけ顔を上げた。
 だが、周囲でスマートフォンのカメラを向けている通行人たちの姿に気づき、再び春希の背中へ顔を埋める。

「そういうの、ちょっと怖いみたいで」
 春希が女性の手から名刺を受け取り、軽く頭を下げて歩き出す。

「ごめんなさい、怖がらせてしまって。受け取ってくれてありがとう」
 女性はそれ以上追ってはこなかったが、その視線はいつまでも雪の背中を見つめていた。

 スポーツ用品店の青い看板がようやく見えてきた交差点の角。
「ねえ君! アイドル興味ない?」
 金髪に色付きのサングラスをかけた男が、正面から雪の肩へ手を伸ばしてきた。

「ひっ……」
 雪の喉の奥から、くぐもった吐息が漏れた。

「今度新しいボーイズグループ作るんだけどさ」
 春希は反射的に雪の腕を引き寄せ、男の手を払いのけるように間へ入る。
 これまでで一番、胡散臭くて強引だった。

「すみません、興味ないです」
 春希が代わりに断ると、男は「メガネ君に訊いてないんだけど?」と嘲笑いながら、黒い名刺を雪の胸元へ押し付けてきた。

 春希は雪の肩を抱き寄せ、逃げるようにスポーツ用品店の自動ドアへ滑り込んだ。

「はぁ……」
 冷房の効いた静かな店内に入り、春希はようやく小さく息を吐き出した。

「本当にいるんだな、ああいうの」
 渋谷、原宿、表参道あたりはスカウトやストリートフォトグラファーが出没するというのは、本当だった。

 もしかしたら一人くらいは雪に声がかかるかも――という予想は甘すぎた。

「雪」
 春希は雪の肩から手を離すが、雪の手は春希のスウェットの裾を握りしめたまま、俯いている。

「ごめんね……びっくりしちゃって、僕……」
 絞り出された声は、震えていた。

「失礼な奴らばっか。あれでOKもらえるわけないのにな。丁寧な人もいたけど」
 春希が店のガラス窓から外を見やる。
 さきほどの金髪サングラスが、次のターゲットを探して交差点周辺をウロウロしていた。

「先に、キャップ買うか」
「え……」

 戸惑う雪の腕を引いて、店内の入り口に立つフロア案内板の前まで移動する。

「姉ちゃんに後で払ってもらおうぜ」
 春希がイタズラっぽく笑うと、ようやく雪も、表情を綻ばせた。

 スポーツ用品店での買い物を手早く済ませ、春希たちは夏美の指定したスタジオのあるビルへと向かった。

 雪の頭には、急遽購入した青いキャップが目深に被せられている。
 それでも、宇田川通りを奥へと進む間に、もう一人から声を掛けられた。
 カットモデルを探しているという若い美容師だった。
 丁寧な物腰だったが、春希はそれも丁重に断り、雪の腕を引いて歩くペースを上げた。

 観光客の姿が急に途切れる。
 コンクリートの壁に囲まれた小さな保育園を通り過ぎると視界が開け、新しく再開発されたオフィスビルエリアに出る。

 綺麗に整えられた植木に縁取られた小径。その石ベンチに、見覚えのある人影が座っていた。

「あ、春希〜!」
 こちらに気づいた人影――姉の夏美が、大きく手を振って立ち上がる。

 黒のタイトなノースリーブの上に、風をはらむ透け感のあるオーバーサイズのシャツを羽織り、ボトムスには落ち感のあるワイドパンツを合わせている。無造作に束ねられた髪の隙間や首元で、大ぶりなシルバーのアクセサリーが光っていた。

 地元にいる時と変わらない遠慮のない声量に、テラス席でコーヒーを飲んでいた、首からIDカードを下げる数人の会社員たちが振り返る。春希は少しだけ肩をすくめながら、「あれ、姉ちゃん」と背後の雪へ短く目配せをした。

「あら」
 春希の背中に隠れるようにしてついてくる細身の影に気づき、夏美の足が止まった。その目が、雪のキャップのつばからスニーカーの爪先までを二度往復するのを、春希は見た。

 だが、夏美はすぐに表情を緩め、いつもの「姉ちゃん」の顔を作って駆け寄ってきた。

「助かった〜〜、来てくれてありがとね!」
 春希がリュックから取り出したケース入りのタブレットを受け取ると、夏美はそれを肩に掛けた大きなレザーバッグへ滑り込ませた。

「春希のお友達かな? はじめまして〜、姉の夏美です。弟と仲良くしてくれてありがと〜」
「あ……す、すみません。遠野雪といいます。こちらこそ……」

 雪が慌てたようにキャップを脱ぎ、夏美へ深く頭を下げた。
 落ちていた前髪が揺れ、白い顔が露わになる。

「――雪君ね」
 夏美の視線が雪の顔に釘付けになった後、ふっと瞬きをして春希の方へ向いた。

「なに食べたい? このあたりなら、何でもあるよ。ガツンと肉系でも、おしゃれ〜なカフェでも、ファミレスでも。国籍もいろいろよ。韓国、中華、インド、イタリアン、フレンチ、ハワイアン……」

 指折りに候補を挙げながら、夏美の視線が春希と雪の顔を交互に行き来する。

「静かめなところが、いいかな」
「おっけ〜」

 春希の要望に、夏美は心得たと深く頷いてみせた。