その人のことを、なにも、知らない。
ただ、右斜め前の席に座っていた男子だった。
試験開始の合図があってからしばらくして、前の席に座っていた女子が何かを落とした。
ぽとん、という効果音がなったかのような気がするぐらい、
シャーペンの走る音だけが聞こえる静寂な教室で、勢いよく落ちた。
問題を解いていた手を止めて、何を落としたのかを突き止めようと視線だけを向ける。
…消しゴムだ。
通路側に転がって、女子の足元から少し離れたところで止まっている。
…少し時間が経っても拾う様子がない彼女。
どうしてなのかと、彼女に目をやると、俯いて、震えていた。
葛藤しているのか、はたまた試験官に申し出るのが恥ずかしいのか?
拾ってあげようかな。
直感で、そう思った。
でも、今は試験中だ。
勝手に席を立ったら、たぶん注意される。
それに、答案を見ようとしていると勘違いされたら面倒だ。
どうしよう。
そう考えているうちに、斜め前の男子が解いていたのをやめて顔を上げた。
一瞬だけ、女子のほうを見る。
それからすぐに、無言で手を挙げた。
試験官が近づいていく。
男子は、落ちた場所を指差して何かを伝えている。
試験官が消しゴムを拾い、女子の机に置いた。
女子は小さく頭を下げた。
男子も、それだけ。
何事もなかったみたいに前を向いた。
一連の動きをただ見届けるしかなかった俺は、また問題用紙に目を戻した。
何も自分が拾わなくとも、試験官に言えばよかったのだ。
その手があったのか、冷静だなと思うのと同時に、
――優しい人だな。
それだけだった。
そのときは。
本当に、それだけ。
名前も知らなかったし。
また、会うだなんて、
このときは、夢にも思わなかった。
