一番過ごしやすい天気は「曇り」なのではないかと思っている。空から太陽の光や雨粒のように攻撃してくるものがないのだから、気にすることなく駆け巡ることができる。
学校まで旅をする相棒の自転車と、今日も一緒に向かう。途中にある壁という名の坂を上るのが今日はやけに苦しく感じた。お母さんが「ミルクジャム」なんていう珍しい白いジャムを買ってきて、僕がそれにはまってしまい、いつもよりもトーストを二枚も多く食べてしまったのが原因なのは疑う余地もない。
「おはよー」
「あ、おはよう」
昇降口で聞き慣れた声を耳にする――風人だ。おそらく世界が変わっただけで風人は風人のままなのだろう。いつもは校門に立っている生徒指導の黒メガネ教師が、今日は昇降口前で無作為に抜き打ちの服装チェックをしているようだった。僕の服装はきっと校則の範囲内だろうが、先生に目をつけられる前に足早に教室に向かった。運よく僕も風人も餌食になることはなかった。三日目の今日も、自分のクラスに入るのはまだまだ緊張してしまう。そろそろ自分のクラスかを確認する癖はなくしたい。
「そういえば、空斗の彼女、昨日学校に来てたのか?」
「……えっ、風邪引いてたっけ?」
「何言ってるんだ、そんなはずないだろ」
「あー、ボケてみただけだよ」
「なんだなんだ」
風人はそう言うと「しっかりしろよ」とでもいうかのように僕の肩を強く叩いた。風人にとっては適切な強さなのかもしれないが、痺れるかのような痛みが走った。また僕は地鳴りを踏みそうになってしまったのだ。
曇りの世界の彼女は風邪でもないのに学校に来ないことがある。それが曇りの世界の彼女の悩みと関係しているのだろうか。留学中、家庭の事情、不登校……とかの線が考えられそうだ。
教室に入ると、すでに多くの人の姿があった。昨日までとほぼ構図は変わらない。しいていうのならば、僕の視線の先に天使のような光がないということだろうか。今日は僕が教室に入って来ても、僕の方を振り返る目はなかった。彼女はまだ登校してきてもないのだろうか。
どこまでつながっているのかは分からないけれど、もし陽の席と同じなら一番後ろの窓側が彼女の席なはず。しかし、そこには誰も座っていなかったし、その周辺はぽっかりと穴が空いたように誰一人としていなかった。
彼女の姿がないまま、朝のホームルームの時間が始まった。あの席には誰の姿もない。もしかして、今日も休みなのか、はたまた僕の彼女に何かあったのか。流石に「僕の彼女、この指とーまれ!」ということは死んでもしたくない。
「はい、皆さんおはようございます。一人だけいませんね……。今日は曇り空ですが、太陽の光が休んでいる間に私たちは成長していきましょう。あと、学習係の白山くん、お昼休み前の授業が終わったら数学プリントワークを回収して先生の所に届けてほしいと依頼が来ています」
「……あっ、はい!」
「はい、お願いします」
彼女のことで頭がいっぱいになり、先生から頼まれていたことに気づかなかった。謎の間にクラスの一部から笑いが漏れる。とはいえ、その笑いも何もなかったかのようにすぐに止んでいく。念のため忘れないようにメモ帳に記しておいた。
昼休み前の授業を終え、僕は朝のホームルームの時に頼まれていたように今日提出の数学プリントワークを皆から回収すると、職員室へ運ぶ。この棟から職員室のある棟へ行くには一旦渡り廊下を通る必要があり微妙に遠い。それに、このプリントワーク、プリントとはいえ数ページで一セットなため微妙に重い。
渡り廊下まで無事到達する。あと半分だと自分にいい聞かせて力を絞る。
「空斗じゃん。あー、うちのクラス今日の昼締切か。私もやったは」
横から声をかけられたような気がする。僕の隣に立ったのは、校則に引っかからないかどうかぐらいに制服を着崩した女の子だった。ネクタイの柄からするにこれは僕と同じ二年生。そして、彼女の言葉から察するに同じクラスの人なんだろう。しかし、僕にこんな知り合い、いない気がする。記憶にない――となると、この世界の僕の彼女なんだろうか。
そしてこの世界の僕の彼女は、決めつけるのは早いが――不良なのかもしれない。
「ねえ、さっきまで何してたの?」
「いつも通り西館裏で。ほい、課題」
その課題の名前の欄には「未雲」と書いてあった。おそらく「みくも」と読むのだろう。最初のページしか見えないけれど勉強に関してはそこそこできるのか、ほとんど全ての問題に大きな丸がついていた。AIなどに頼んでただ写したというだけの線もあるが、それにしては別解も書くなどやけに丁寧だ。
「そういえば、今日の数学は小テストもあったっけ?」
「そうそう、あった」
「どうだった?」
「比較的解けたはずだよ」
昨日、晴れの世界で勉強した成果もあるのか小テストの出来はかなりの自信がある。ただ、小テストを行った時にはもう晴れの世界の陽はいないのかと思うと多少の寂しさを覚えた。
「それ運ぶの手伝うからよ、彼氏くんさ一緒にお昼食べない?」
「いいけど、今日お弁当持ってきてないんだよね。購買に行っていい?」
「うん。今日は焼きそばパンの日だからそれ買いな」
不良とはいえ根は優しいのか僕の持っていた分を半分勝手に持ってくれた。半分が消えるとこんなにも楽になるのか。足取りが一気に軽くなった。
職員室まではもうすぐそこだ。僕はちらちらと彼女の方を向く。そもそもなぜ僕の彼女が不良なのか。おそらくこの世界は僕の世界ではないのではないか。自分でいうのもあれだが自称優等生の僕とは別世界の人だ。とはいえ、ゴミのように簡単に投げ捨てることはできない。
「失礼します、数学の山池先生いらっしゃいますか」
「あっ、はーい、課題ね。全員分集まった?」
「二、三名ほど忘れが」
数学の池ちゃんこと山池先生を呼びだす。それぞれ順番に課題を手渡した。
「二、三名なら許容としとこう。未雲も出したのか? 最近授業来てないけど」
「出したに決まってますよー」
「出席しないことが多いとはいえ、必要最低限の出席はしてるし、提出物も出している。それにテストの点数は上位層だから困ったもんだよ」
「へへっ」
僕が考えていた不良とはこれでだいぶ遠くなったことが分かった。たしかに授業に出ないことも多いのかもしれない。しかし、他の部分はこなしているため先生も頭を抱えるにすぎない。なぜ彼女が学校に来るのに授業に出席しないのかは分からないが、きっとそこにはなにか悩みを抱えているのだろう。陽のように結果としては大きく出てしまったけれど、その根本は誰にでも抱えることがあるようなこと。
「では、失礼します」
僕は先生に頭を軽く下げて、未雲とともに職員室を後にする。
「はい、お疲れ様。明日の数学の授業は出るのか?」
「その時の気分次第すっ!」
未雲に先生は声をかけ、未雲はその声に気づきそう後ろを振り返って答えた。気分次第って……と僕は思いながらもまだ僕の出る幕ではないと思い何かを言うことはなかった。
「未雲は昼持ってきたのか?」
「うん、空斗たちが授業してる間に購買で購入済み。でも、空斗に付き合ってあげるよ」
「うん、ありがとう」
職員室のすぐ隣にある購買には早くもお昼ご飯を求め長い列ができていた。僕が先頭まで来たときにはほとんど焼きそばパンはなくなっていたが、奇跡的にまだ数個残っていた。焼きそばパンとどれにしようかなと悩んだ末にアンパンを手に取る。未雲はさっき買ったと言っていたくせに、お菓子を追加で買っていた。
「急に手を握るなよ」
「いつもしてることだろ。今頃恥ずかしがるなよー」
「たしかに、そうだったな」
購買で買い終わると、未雲はやや強引に僕の手を掴んで西館裏へと引き連れていった。おそらく彼女にとってはそれが僕を西館裏へ連れて行く行為に過ぎないのだろう。でも、僕にとっては恋人行為でしかない。心臓の音はきっとそのことを表している。
西館裏は僕ら以外誰もいなかった。冬ということもあり外は冷えるが、ここ数日は比較的暖かい日が続いている。今週後半はかなり冷えるらしいので、過ごしやすい冬の日も一旦おやすみだろう。
「じゃあ、いつも通りここで」
「よいしょっと。いただきます」
「私もいただきます」
コンクリート部分に並んで座る。お腹が空いていた僕は先ほど買ったパンに勢いよくかぶりつく。未雲も僕と同じ焼きそばパンを食べていた。やはりこの高校の焼きそばパンは一味違う。星をつけるのならば間違いなく五をつけるだろう。ただ面や具材が少々落ちやすいのが難点か。
「おー、うまい」
「だなー。そういえば、空斗、ほんの少し前髪切った?」
「よく気づいてくれた!」
昨日、晴れの世界の美容院で陽と一緒にほんの少し髪型を整えてもらったばかり。ただ、風人や月希が気づいている様子は全くなかったので、それを指摘してくれたのは未雲が初めてだ。迷子だったときに見つけてくれたかのような嬉しさがこみ上げる。その嬉しさからか、いつの間にか僕は未雲に顔を近づけてしまい未雲に「近いよ」と言われてしまうしまいだ。ほんのりと赤くなった未雲を見るとどこかわいらしい。
「前回の池ちゃんの数学、どこまでした?」
「えっと、微分の範囲だから、ここ!」
「そこまでやったんだー。積分もやってみたけど、そこそこハードだよな」
パンをほとんど食べ終えると、未雲は数学の教科書を開いて僕に前回までの範囲を聞いた。やはり、勉強そのものは嫌いではないのだろうすでに学習済みの範囲の練習問題をした後が残っている。さらに、授業よりも先の範囲も自分で取得してしまったようだ。僕なんて微分だけで頭はパンク寸前だと言うのに。
「昼休み後の授業は英コミだけど一緒に受けない?」
「英コミはまだ出席カウントじゃないから今日はやめておこうかな」
「勉強できるんだから受けたらいいのに」
僕はただ未雲を軽い気持ちで誘おうとしただけだった。でも、未雲は意味深に苦笑いした後「今更ね、そうしてはくれないよね……」と独り言をつぶやいた。僕がそれに気にした様子を見せると、未雲が買ってきたお菓子を取り出して一緒に食べないかと誘ってきた。僕もこれ以上空気を曇り空のようにどんよりさせるのは避けたいと思い、その誘いに乗ることにした。未雲が買っていたのは、チョコレートのクッキーだった。
「空斗、チョコ好きだろ? ……っていうか、付き合った日は去年のバレンタインデーだったな」
二日前も似たようなことをその世界の彼女が言っていた。
「チョコ、好きだよ」
僕は未雲からチョコレートのクッキーを一枚もらった。小さいものだったから一口で食べてしまった。なんだか落ち着く甘さだ。チョコレートには疲労回復効果があると言われているがそれは僕でも適用されるみたいだ。
「なあ、食べさせて」
「あーん」と口をあけながら甘えているような未雲に、僕が食べさせてあげたなんていうのは二人だけの秘密だ。そんなことをして恥ずかしくないのだろうか。表情をほとんど変えることなく未雲は小さなクッキーを一口で食べてしまった。
「おいしかった。そういえば、今日、放課後は暇?」
「あーん」したクッキーが未雲の口の中からあっという間になくなると、話題を変えた。
「今日は……特に用事はないから大丈夫だよ」
「じゃあ、放課後デートしよう! 場所はあとで連絡するから。そろそろ時間だな。午後の授業も頑張って!」
「……うん。僕はいつでも待ってるからな。未雲が来るの」
「放課後デート」という言葉にこんなにもドキッとしてしまう僕は一体何なんだろう。付き合っているのであれば当たり前なことで、それはありふれた日常の一部のはずなのに。
――もしかしたら僕は思っている以上に、恋愛において不器用なのかもしれない。
僕の最後の言葉に未雲が「行く」という返事をくれることはなかったけれど、小さく頷いてくれた後に僕は授業教室へと向かった。南風に呼ばれたように後ろを振り返ると未雲が小さく手を振っていた。
「では、前回に引き続き先生が指定した班でプレゼンテーションの準備を進めてください。隣の空き教室で練習してもいいです」
僕が記憶を失う前にあった前回の英コミの授業では、英語でプレゼンテーションする準備をしていた。テーマはSDGsという何とも今らしいテーマだ。そのことは彼女とは関係ないため覚えていたが、そういえばこのアクティビティでは月希も僕と同じ班だった。他にはほとんど接点のない女子二人だ。
「そういえば、私たち、前回でほとんど終わっちゃったよね」
「あとは発表の練習ぐらいだよね」
「じゃあ、私たちは隣の教室で練習してきてもいいかな?」
その女子二人が言っているように前回でほとんど作業は終わってしまったので、あとは担当箇所を読めるようにするだけだ。
「うんいいよー。私は空斗とここで練習しとくー」
女子二人は月希からの許可をもらい隣の空き教室に向かった。どうやらこの世界でも月希は僕をペットのように扱ってくれるらしい。僕の頭をなでている。いや、髪をぼさぼさにしようとしているだけだ。変わらない月希で安心した。
「じゃあ、とりあえず一回練習しますか」
「そうだね」
知り合いに外国人がいるという理由で英語だけは得意な月希を中心に原稿は書き上がっていた。初学者でも読みやすい単語を並べてくれたこともあって、二人での練習は難なく終わった。多少気になった部分の表現を訂正したり、スライドの背景修正をしたらやるべきことは終わってしまった。何度も練習した方がいいとは言うが、そういう意欲もない。
「なんか終わっちゃったね。他の班も終わったところは雑談してるし。私たちもあとは家で練習するとして終わりにする?」
「それもそうだね」
他の班も終わった班は、クリスマスシーズンになるとなにかと話題になる近くの公園にある観覧車の話などたわいもない雑談をしているようだった。先生も先ほどからどこかに行ってしまったのか見当たらない。
「あ、そうだ。未雲にこれ渡しといて、どうせ今日も二人でいちゃいちゃするんだろうからね。日本史のテスト範囲のプリント。あの子には必要ないかもしれないけど」
僕にそのプリントを渡すと、頬杖しながら興味深そうに僕の目を下から眺めてくる。おそらくこの世界でも僕の彼女のよき理解者なのだろう。自分のだけれあれば月希は書かないであろうワンポイントアドバイスすらも書かれている。
「別にいちゃいちゃはしてないよ。その辺の高校生よりも断然。とはいえプリントありがとう」
「まあ、君たちはそういう意識してのいちゃいちゃではないね。空斗もちゃんとノート、未雲に見せてあげるんだよ」
「わかった、わかった」
そういう分担になっていたのはこの世界だけで適用されることだからだと思うが、ノートまで見せるという優等生的なこともしていたのか。そんな僕のノートはいかがなものなのだろうかと思い試しに現国のノートを開いてみたが、やはりただ単に先生の言っていることを書き並べたような男子らしいノートだった。
先ほどまでは気づかなかったが、隣の班の席は一つ席が空いていた。おそらく彼女が隣の席なんだろう。隣の班はまだ終わっていないようで、いる三人で原稿を詰めて書いているようだった。そういえば、彼女からプレゼンで使う部分の原稿をもらっていたけれど、渡した方がよいだろうか。必要そうならお願いとは言われていたけれどタイミングが掴めない。
「……うちの班、一人少ないからその分負担が大きいよね」
「だねー。あいつが毎回さぼるからね」
「さぼるのはあいつの自由だけど、ちょっとうざいよね」
彼氏である僕が隣にいることに気づいているのかいないのかは分からないが、彼女のことを悪く言われてどこか胸がズキンズキンと痛む。本当の彼女であるか以前に誰かを悪く言われるのは気に食わない。でも、この女子三人組は他人の悪口を平気で言う人としてクラスからもどことなく距離を置かれている。
三人の会話はアクセルを踏んだかのようにさらにヒートアップしていく。
「あの子、大人になっても使えなさそう」
「このクラスにいても正直邪魔だよね」
「無能だしねー」
そういう人だと知っているが、今日のは流石に度が大きい。堪忍袋の緒が切れそうだが、知らない世界かもしれないのにこんなところで僕が切れるわけにはいかない。何とか深呼吸をすることでこの怒りを静めようとする。しかし、僕の正面にいた月希は何も言わずに静かに立ち上がった。前髪で隠れていてその表情を見ることはできなかったが、おそらく僕が知っている月希の持つ表情ではなかった。
「ねえ、君たち、人のことをどう思うかは自由だよ。でも、それを声に出してはいけないと思わない?」
「えっ……」
月希は彼女たちの班に行って両手をその子たちの机に置き、力ずよく押し込めていた。三人は急なことに事態を上手く飲み込めていないようだった。近くにいた班の人も月希の言動に視線を寄せる。クラス中を巻き込むことはしたくない、早く止めなければと思ったが、なぜだか足が動かなかった。たしかにこの世界では未雲は僕の彼女だ。でも、いいじゃないか、おそらく未雲は僕の本当の彼女ではない。あのネコが作り出した空想に過ぎない。そんな人に――。でも、月希が怒ってくれているのを見ると、それを止めるのは違うと思った。
「いや、でもさ、さぼるのはよくないでしょ。それに、そういうわがままが許され続けるわけないじゃん」
多くの場合、圧力に負けて相手側も何となく引いてしまうというのが筋だ。でも、一人が月希の言葉に反論してきた。もちろんそれで誰かの悪口を言っていいわけにはならないが、たしかにその子の言っていることも一理ある。未雲もずっとそのままでいられない。
「もちろん、未雲が授業をさぼるのは私も完全には肯定はできない。でも、あの子だって理由はある。その理由を全く知ろうとしないで、知る努力すらしないでただ弱い相手を叩くのは違うと思わない? 仮にそれがどんな真実であっても、傷つけても誰も幸せになれないよ」
ここまで強い言葉を並べてまでそう言い返したのは間違いなく未雲のためである。でも、それよりも目の前にいる僕のためにそう言ってくれたのだとなぜだか勝手に解釈してしまった。この僕が本来なら月希の前に立たないといけないのに。
「あっ、なんだよ」
「陰でこそこそ言うより正面から批判した方がだいぶいいだろ」
「知る努力なんてしたところで変わらねえよ」
三人の怒りメーターもとっくに突破してしまったのか、勢いよく席を立ちあがって怒鳴り声に近い声で叫んだ。それでクラス全員がこの戦場に気づいたようだった。僕には一体、何ができるのか。
「いいかげにしろよ――!」
「おい、やめとけ」
僕は立ち上がって月希の手を掴んだ。この拳が、今にも三人の誰かの体を直撃しそうだったから。僕にできることは道を踏みはずさせないようにすることだ。せいぜいそれぐらいしかできないのだから。
「月希、殴っても物事は解決しないぞ。たしかに僕も月希の言ってることには肯定するが、これには肯定できない。それに、傷つけても誰も幸せになれないことを知っている月希ならなおさらだ」
「ごめん、助かったよ。私本来の意思ではないからね」
自分の意思ではないものが支配しているなんて、嘘みたいだけど嘘ではない。月希は素直に従ってその拳を自らの手で押さえた。
「三人もその手は下ろした方がいい。最悪、この学校から追い出されるぞ。一つだけ教えてくれ、今まで誰かを批判したことで君たちにメリットはあったか?」
「……そう言われても」
女子三人組は僕の言う通りに手をゆっくりと下した後、目を合わせてしどろもどろし始める。僕も完璧人間ではない。でも、こういうのは自分事として考えさせることが大事なんだと思う。
「えっ、どうしたの?」
誰かが先生を呼びに行ってくれたようで、先ほどまで教室にいなかった先生が息を切らしながら教室に入ってきた。僕らは一斉に先生の方に視線を向けた。僕らはそこで、事の詳細を話した。その先生はほとんど怒るような先生ではなかったためか、お互いに軽い注意で終わってしまった。だから先生が根本的な解決をしてくれたというには難しいだろう。
「すみません、先生、少し頭を冷やしてきてもいいですか?」
「次の授業は?」
「……次は、現国です」
「でも、今日保健室の先生いないのよね」
「大丈夫です、休むだけで」
「あの、僕もいいですか、ついて行って」
「わかった。現国の先生には伝えておくから」
僕は月希の肩をさすりながら保健室へと赴いた。本来出してはいけない力を使ってしまったのか、どこか体は衰退しているようだった。僕らが保健室の前まで来た頃には四時間目の終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。
保健室に入ると、誰の姿もなくカーテンすらも開いていないただ暗い世界に二つのベッドが並んでいた。そのうち奥のベッドに月希はゆっくりと座った。僕は電気をつける。一瞬眩しさで目が攻撃された。
「ごめんね、なんか熱くなっちゃって」
「でも、僕は月希のそういうところが好きだけどね」
「彼女いるのにナンパかよ」
「ちげーよ。でも、冗談言えるぐらいなら大丈夫か」
ちょっと待っててと言いながら僕は一旦保健室を出た。保健室を出るとすぐの所に自販機がある。そこで水を二本買った。頭を冷やすのなら純粋に青春を透かせるぐらいに透明な水がいい。彼女でもないやつに百円の出費は高いか? そんなことはない。友情代としてはむしろ安いぐらいだ。月希はどの世界であっても僕と彼女を繋いでくれる糸なのだから。
保健室に戻り、月希の名前を呼ぶ。返答はなかった。一瞬どこか知らない世界に行ってしまったのかと恐怖を覚えた。でも、彼女は窓の外を見ていいた。外にはまだ始業のチャイムが鳴ってもいないのに先走ってサッカーをしている一年生の生徒たちがいた。誰かがロングシュートを決めたようだ。
「これでも飲んで頭を冷やせ」
「……ありがとう。でも、これで私たちも未雲と同じくさぼりだ」
「まあ、僕はすぐ帰るけどな。時々はさぼりもいいものなのかもな」
「そうかもね」
僕よりもいくらか小さな手で月希は水を受け取った。そして、三分の一ほどを一気に体の中に収めてしまった。もし、今が夏だったらその姿は輝かしいのかもしれないけれど、今はそうではない。でも、少しだけ笑って見せた顔はいくから綺麗だった。
「そんなに一気に飲んで、お腹冷やさないでよ」
「空斗は相変わらずお節介だな。だから、未雲は君を選んだんだろうね」
「そうなのかな? でも、見つけてくれて嬉しかっただろうな。当時の僕はね。もちろん今の僕にはわからないけど」
こんな現実世界から飛び出したようなヒントを言ってしまうと、月希に僕がこの世界の人ではないことがばれてしまうだろうか。いや、ばれるはずもない。元々あり得ないことは人間は考えない。冗談を言うことはあっても、それは本心ではないはずだ。
「……ねえ、空斗は今の未雲がどうしてこうなったかわかる?」
「……聞いたことはないと思う」
「そうか。きっと、未雲は話そうかとか言ったけど、未雲を気遣って空斗は聞かなかったんだろうね。でも、未雲を知るために嫌じゃなかったら今、私に話させてほしい」
さっき、未雲をかばった時のような――いや、それ以上に真剣な顔をしていた。僕に拒否権はないことがすぐにわかってしまう。だから、月希の判断に一任することにした。すると、月希は胸のあたりを二回叩いてまるでおとぎ話を初めて話すかのような声で未雲について話し始めた。
月希が僕に話してくれたのはおおよそ五分ぐらいだろう。なのに、時空を歪めてしまったかのようにとても長く感じた。僕の本当の彼女かは分からない。でも、少なくとも今の僕の彼女は未雲だ。それを知る必要があったんだということは僕にもわかった。
「じゃあ、私から言うのはあれだけど、君はもうそろそろ帰った方がいいよ。今から行ったら少し遅れるぐらいで現国の時間に間に合うよ。帰る場所はあるんだから」
「わかった。じゃあ、先に帰るな。月希も落ち着いたら戻って来いよ」
「帰る場所はあるんだから」という言葉は当たり前のようなことなのに、未雲の過去を知った今の僕にとってはそれは凶器のような言葉だった。
「うん。お水ありがとう。今度奢り返すから。最後に一つ――」
「ん?」
「――未雲にはさ、内緒ね、今日話したこと」
月希が帰ろうとする僕に手招きしてきたので、月希の方に体を戻したが月希は僕の耳元でそうささやいた。僕は無意識に「うん」と答えていた。
クラスの後ろの方のドアを誰にも悟られないように開ける。でも、何人かがこちらの方を向いてきた。それもそうだろう、先ほどのイベントの準主人公なのだから。
「あ、白山か。話は聞いてるぞ。もう一人も大丈夫そうか?」
「はい、もう少し休んでから来るとのことです」
「わかった。じゃあ、白山は席につけ」
僕が席に着こうとする前、風人は「さっきのお前、かっこよかったぞ」なんて小声で伝えてくる。とはいえ、風人のように僕を英雄視してくれる人はいるのだろうか。
この時間の授業なんてとてもじゃないけど頭に入るわけもなく、気づけば終業のチャイムが鳴り、先生は教室を後にしていた。『次回宿題回収』と黒板には書いてあるが、その宿題の内容を聞き逃してしまったようだ。とはいえ、風人が僕の様子を窺いに来てくれたこともあってその情報は無事に聞き出すことができた。ついでに、ノートも写真を撮らせてもらった。
この後は放課後デートのはずなのに、気分が沈んでいた状態では未雲に申し訳ない。そう思い、帰りのホームルームが始まる前にトイレの手洗い場で顔に思いっきり水をかけた。冷たいはずの水はなぜかぬるい。とはいえ、僕の心はブラックからグレーぐらいには変化させられただろうか。
「お、終わったか」
西館裏に行くと未雲の友達だろうか、もう一人同じ学年の子が持ち込み禁止には当たらないアナログのゲーム機で遊んでいた。世間から見れば未雲もその子も不良なのだろうが、僕から見ればそれは少し違う。
「あれ、未雲の彼氏?」
「うん、空斗。こんな私を受け入れてくれるいい奴だよ。私にとって一番の理解者かな」
「こんにちは」
なぜだか僕は同級生に丁寧に会釈してしまう。流石に不良っぽい人とはいえ、未雲の彼氏である僕を急に殴ってきたり縛り付けたりはしないだろう。ここまで改まる必要もないのだ。
「ああ、これからも未雲をよろしくお願いしますー」
「じゃあ、空斗、今からデートだ。久しぶりの制服デートだな。行こうか」
「そうなのか。じゃあなー、お二人さん。よい放課後をー」
またお昼のように手を強引につないでくる未雲に連れられて、気づけば駐輪場にたどり着いていた。未雲が自分の自転車を探す様子はなかったので、電車か徒歩通学なのだろう。となると、未雲はアニメでよくあるような風に吹かれて草原を旅している気分を味わえる二人乗りをせがんでくるのかもしれない。
「あった、あった……」
自転車をどこに置いたのかを記憶するのをいつも怠ってしまうので、探すのに少し時間がかかってしまった。そろそろ定位置とか決めておくべきだろうか。
「どうした? そんなに見つめてきて」
二人乗りをせがんでくるのならば、彼女の瞳は輝いているものだと思ったが、いつも通りの瞳だ。何か間違えている部分でもあったただろうかと不安になる。
「いや、『二人乗りしないか?』とかお願いしてきそうだなと思って」
「二人乗りは普通にダメだろ。法律違反だし」
「すみません……」
たしかにこの自転車で二人乗りは法律違反。勉強だけでなく、根は真面目なのが未雲らしい。僕はペコリと謝りながら自転車を押し、校門を出た。前を歩く未雲にどこに行こうとしているのかを聞いたら、最近見つけたカフェといつも行っているバッティングセンターに行くつもりとのことだった。
カフェは駅前にあるようで、長い直線道路をひたすら進んでいく。できるだけ、未雲に心配されないように顔を作っているが、あの件に関して気づかれてはいないだろうか。
「なあ、空斗、今日の五時間目に月希が保健室にいたんだけど、何かあったのか?」
「……! あっ、ちょっと頭が痛いとか言ってた気がするな。でも、大したことはないよ。五時間目の授業が終わる前には帰ってきたから」
「なら大丈夫か。今度、頭痛に効くツボでも教えてあげるか」
あくまで未雲の過去を話したことを言わないでと約束されただけだが、流石に未雲のことについてクラスで揉め事があり、それに月希が関与していたということも言わない方が未雲のためになるはず。ここまでの経緯から察するに、言った暁にはきっと未雲はそのままではいられない。
「ここのカフェだよ。先月から気になってたんだ」
「女子高生だらけ……」
丸太の木などで作られたおとぎ話の世界にありそうなオシャレなカフェだった。そして男性がいないとは言わないがほとんどが女性。不良のような格好いい女性とは遠い場所のように思えるこの場所。未雲の心は実は乙女なのかもしれない。これがオススメなんだって! とスマホに映し出された「オレンジパフェ」の画像を嬉しそうに見せてくる。
二十分ほど並んだところで僕たちが席に案内される。中にもほとんど女子高生たちで溢れており、皆がスマホを向けていてカメラのシャッター音がしきりに鳴り響いていた。席に座ると注文するものを決めていた僕らは早速「オレンジパフェ」を注文した。未雲情報によると一人では量が多いということなので二人で一つということになった。ちょうど僕らの前の空いた席にも新規のお客さんが入ってくる。やはり女子高生グループだ。
「お誕生日おめでとう!」
「ありがとう」
「早速注文しよう! あの、すみません、注文いいですか?」
「はい、かしこまりました」
「えっと、ミックスサンドイッチとプリンアラモード、あとはオレンジパフェで!」
一人だけ明らかに華やかな服装をしている。あの子が誕生日の子なのだろう。その子を祝うように友達が高らかに注文していた。
「お客様、大変申し訳ないのですが、オレンジパフェの在庫が先ほどなくなってしまいまして……」
おそらく僕らが注文したので最後だったのだろう。店員さんが申し訳なさそうにそう告げる。誕生日という記念に目的のものが食べられないのは楽しみにしていた番組が突然終了してしまったかのように寂しい。
「あの、すみません」
どういう意図だろうか、未雲は隣の席にいる店員さんに急に声をかけたのだ。追加注文ならば今ではない。とはいえ、何か大事な用であったらと思うと僕は止められなかった。
「はい」
「あの、先ほどオレンジパフェを頼んだのですが、それそちらの方々のにしてもらえませんか」
「……いや、そこまでしていただかなくても!」
未雲のその対応に、隣の席にいた高校生たちは大丈夫ですよと横に手を振ったが、未雲は構わず笑顔で「お誕生日おめでとうございます」と言って、その子たちにオレンジパフェを譲った。その代わりに未雲は桃パフェを頼んだ。
「君は、違うんだな……そうされても」
「ん……? なんか言った?」
「いや独り言。桃パフェもおいしそうだなと思って」
「そうでしょう」
仮に愛されることを、優しくされることを一番近にいるべき人から十分にされなくても、誰かを愛すること、優しくすること。その心は一体どこからできたのだろうと思ってしまっただけだ。月希の話してくれたことを聞いていたから。
――迷ってるんだ、私。何を大切にすればいいのか。そんなことを、僕の本当の彼女はどこかの世界からつぶやいているように感じた。今の僕と同じだ。未雲の過去を知った僕は未雲の何を大切にしてあげればいいのかわからない。
「お待たせしました、桃パフェです。そしてこちらはサービスです」
テーブルの真ん中に大きな桃パフェが置かれた。下から上まで桃クリームや桃のアイス、桃の果肉など桃で溢れていた。桃を何個使ったらこのパフェが完成するのだろう。たしかにこの大きさは僕一人では食べられなさそうだ。そして、店員さんはサービスと言いながら小さなビスケットをくれた。未雲がしてくれた行為のお礼だろう。気前のいい店員さんだ。
「ちょっと待って、写真!」
「たしかにそうだね」
僕が輝く宝石パフェに待ちきれず早速スプーンですくって食べ進めようとしたら、未雲は僕の手を止めた。そうだな、今の子にとってはこういう小さな出来事を写真に撮るのが日常なのだ。ほとんど写真を撮ることがない僕も、今回は未雲からコツを教えてもらい写真を撮った。未雲は僕が「撮りすぎだよ」と言って止めるまで連写していた。
「へへっ、空斗とパフェだ」
パフェだけ撮っていた未雲だが、いつの間にか今度は僕とパフェのツーショットを撮っていたようだ。
「じゃあ、お返しに! ……一枚は盛大にピンボケたな」
僕も二枚ほど未雲とパフェのツーショットを撮った。未雲の驚いたような表情が面白い。
「じゃあ、いただきます」
一枚盛大にピンぼけた未雲とパフェのツーショットを削除しようとした。細かい人間かと思われるかもしれないが、容量は常に最大にしておきたいのだ。そのため、ゴミ箱に入ったこの写真も完全削除する。ただ、もう一枚、誰かの手の写真があった。この手もピンボケしているが少なくとも僕の手ではなさそうだ。よく見てみると僕のこの奇妙な現象が始まるちょうど前の日に撮られたもののようだった。これが本当の彼女の手なのかもしれない。
「いただきます」
今度こそ僕もパフェにありつく。やはり、桃の甘味が口の中で雪のように溶けていく。
未雲に怪しいと思われないように視線を少しずらして未雲の手を見てみた。その手は一体、僕の彼女の手なのだろうか。今日、僕は未雲の手を二回握った。その時に感じた大きさ、体温、感触、ぬくもり……。あのピンボケした写真だけを頼りにその一人を探すのは不可能に近い。たしかに、人それぞれ手にも個性はある。でも、性格とか表情とかに比べるとそれはちっぽけな差に過ぎない。
「うーん、おいしいな。上品な甘さだ」
「未雲から上品なんていう感想は似合わないな」
「なんだと! こう見えてもお上品なんだぞ! ……てか、空斗、さっきからちょくちょく私の手を見てないか?」
「バレてたか。少し探し事をしててね。気にするな。ほいっ」
ぱくっ。手を見ていたことを忘れさせるために僕のスプーンに乗っているちょうどいい塩梅の部分を未雲の口の前までもっていった。そしたら、未雲は素直にぱくっ、と一口で食べる。未雲と間接キスになることはもう気にならない。未雲はさらに気にしていないようで、それをやり返してきた。ソースがいい感じに絡まった部分をぼくにぱくっ、とさせて反則だ。
届いた時には二人でも食べられるのかと不安だったが、未雲の笑顔と比例して、パフェの量は段々と減っていった。
「じゃあ、帰るか」
「そうだね。おいしかったー」
「特に桃のアイスはおいしかったな」
「そうだよね、僕もそれがお気に入り」
桃パフェを綺麗に食べ終えた僕らは席を立ち、未雲はまるで友人であるかのようにオレンジパフェを譲った女子グループたちに手を振っていた。会計では、割り勘ということになっていたので、僕が半分出すはずなのだが、僕に出してほしいと言われたのは三分の一ほどだった。
「これ使えますか?」
「はい、かしこまりました」
未雲は割引券を出した。デートで割引券かと思ったが、それもそれで未雲らしい。とはいえ、その割引額では、まだ未雲の支払う方が少し多い。まだ何かあるのだろうかと思ったが、それ以上はなかった。ただ、未雲がかっこよくありたかったのかもしれない。
カフェを出ると、ここから徒歩数分の所にあるバッティングセンターに向かった。実をいうと僕は初めて入ったのだが、未雲は何度も来たことがあるようで、ここにお金を入れるだとか、バットはこう持つのだとか丁寧に教えてくれた。そして「準備運動だけは忘れるな」と念を押された。もし忘れた暁には、明日は杖をついて学校に行くことなんていう脅し文句とともに。
「じゃあ、見ててよ」
「うん、しっかり見てるから」
まずは、未雲が挑戦。最初は百十キロからスタートするらしい。僕はこれが速いのか否かは分からないが、近くを通ったおじさんがなぜか「あの女の子やるねー」といいながら凝視していた。おそらく女性としてはかなり速いスタートなのだろう。
「おりゃー!」
いきなりヒット。球が出てきたと思ったらすぐに視界から消えていた。そんな中でも、大きな音を響かせてしっかりとバットにボールを当てた。カキン! という音はここにいる僕でも清々しく感じる。
「日頃のストレスをいつもここで発散してるんだ」
そう言っている間に次の球がくる。二球目は失敗したが、三球目はホームランと書かれているところまで飛んだ。僕も思わず「おー」と声が漏れ出る。
四球目からは何かを叫びながら打っているようだ。「あんたのせいだろ!」とか「ちゃんと最後まで責任持てよ!」などのような言葉。あくまで主語は僕がいるからら省いているのかもしれないが、僕の頭に入ってくるときにはその主語も補完されている。
すべての球を打ち終わると、冬なのに目の見えるほどの汗をかいていた未雲が満足そうな顔でこちらに戻ってきた。僕はそんな未雲に持っていたタオルを渡す。未雲は近くのベンチに座って汗を拭きとる。
「じゃあ、次は空斗の番ね」
「もう少しゆっくりの球がいいな」
「となると、あっちの八十キロのがいいんじゃないかな」
「それぐらいにしにしよう」
デートをしているのに、彼女よりも遅い台からスタートとはどこか情けない気持ちもあるが、一球も打てないというかっこ悪い姿をさらすよりは何倍もましだ。背のみせず八十キロを選択した。
バットを構えて軽く素振りをした後に、早速スタート。未雲のアドバイスで一、二球は見送って球の速さを覚え、三球目から打つことにした。記念すべき最初は惜しくも外れてしまった。未雲は「惜しい惜しい! もう少し速く振って!」と外から声援を送ってくれる。四球目は球が当たったがすぐそばで着地してしまう。
十球ぐらいで感覚がつかめてきたのか、かなりの高確率で打てるようになった。未雲と同じように、日頃の鬱憤を叫んでやろうじゃないか。
「この世界はなんなんだー!」
「俺に難しい選択肢を示すなよー!」
「黒いネコ野郎ー!」
未雲には一体何のことか一ミリも分からないだろう。これは僕の鬱憤なのだから。最初は未雲が僕の彼女だなんて百パーセント除外される選択肢だと思っていた。でも、今は本当の彼女は未雲のような人なのかもしれないと思う側面もある。僕だからこそ未雲のような人に心を預けるのかもしれないと。
残り一球。最後ぐらいは一番かっこよく決めたい。彼女の未雲も傍で見てくれているのだから。
「おりゃー、僕に正解を教えろー!」
ここでかっこよく決めたら、どんなに気持ちいいのだと思う。でも、目の前から飛んできたボールは僕のバットのほんの横をかすった。僕が大きく振ったバットだけが、未雲にとって輝いていたと思ってくれれば僕はそれでいい。
「おー、お疲れ。かっこよかったよ」
「未雲には全然敵わないよ」
「もう一ゲームする?」
「いや、僕はもういいかな。腕パンパンだし」
「じゃあ、私、百二十をもう一回やってこようかな」
「元気だね」
「元気だけは、空斗に負けたくないな」
僕がリタイア宣言をすると、未雲は今度は先ほどよりももう少し速い百二十キロに挑戦した。先ほどよりもボールの動きが一瞬になる百二十キロでも、未雲は高確率で球を当てていた。
「おー、気持ちよかった。楽しかったな」
「僕は明日の体が心配だけど」
未雲はまだ打ち足らないようではあったが、僕がいるからか二ゲーム目でストップしまった。昨日と同じように空はもう深海のように真っ暗だ。でも、昨日と違うのはその空に雲が浮かんでいること。
「あっ……! ねえ、大丈夫?」
暗いので何か起こったのかはすぐには分からなかったが、縁石の部分に乗っていた子どもがバランスを崩してしまったのか、僕らの目の前でこけてしまったのだ。小学生低学年ぐらいの塾帰りの男の子のようだった。未雲はすぐにその子の元へ駆け寄った。僕も後に続く。
「あっ、うん」
小学生ぐらいということもあり、泣き出しそうな表情ではなかったが、暗がりの中でもその赤色は僕にも十分見えていた。未雲は「ちょっと待っててね」と言ってカバンの中から何かを探し始めた。僕も安全を確認してから自転車をいったん止める。
「ほい、絆創膏。綺麗に貼ってあげるからな。空斗、スマホで明かりをつけてもらってもいいか?」
「うん、わかった」
僕は未雲に言われた通り、スマホの明かりをつけてその男の子がケガをした膝辺りを照らした。未雲はまずは清潔なティッシュペーパーで砂などを落として止血した後に、丁寧に絆創膏を二、三枚貼っていく。まるで保健室の先生だ。そして、未雲はその男の子が不安にならないよう話しかけていた。
「ほい、終わり。お風呂のときにしみるかもしれないけど、我慢パワーでなんとか乗り切ってくれよ。あと、縁石に乗るのは楽しいけど、ケガするから気をつけろよ」
「うん、お姉さんありがとう」
その男の子は丁寧にお礼を言って、僕らと反対方向に向かった。誇れる自分の家があるのはいいな、なんて思っているのかもしれない。
「なあ、やっぱ、どうして私がこうなったか聞いてくれないか?」
「僕は聞かない方が未雲のためになると思ってた。でも、聞くことで未雲のためになるなら話してほしい」
「おそらく後者だろうな」
未雲の家に向かって歩きながら、未雲はゆっくりと話し始めた。月希から話を聞いていたからか、思いのほか緊張して手汗が出るなんてことはなかった。むしろ、さっきのバッティングの方が汗は出てきたのかもしれない。
「三人姉妹で私が長女。三女が生まれた頃にはお父さんは仕事で忙しくて家をほとんど留守にしていたし、子供のお世話が苦手だったお母さんは三女につきっきり。私もまだ小さな次女のお世話をしなきゃいけなかったりして家族の誰もが私を見てくれなくなった。……だからかな、突然反抗的な態度を取るようになったのは。中学生で不良になって、そのまま高校でも。人生で一番成長する時期に、愛してもらうことができなかった、そういう理由で私はこうなったんだと思う。……ごめんな、一人だけ泣きそうになって」
「大丈夫、泣くのも自分が感情を持っている証拠だから。安心して」
と言いながらも強がる未雲は涙を流さなかった。仮にここで涙を流しても弱いわけではない。感情を表に出せる人が本当の強さを持っているのだと僕は思う。
「このままでいいのか私にはわからない。仮に戻るとしても、そのやり方が分からないし、受け入れてもらえるか分からない。仮に戻らないとしても、このまま大人になるのは怖い」
一度壊れたおもちゃを直すのが難しいように戻るのは簡単ではない。戻れたとしても、人には、外のものを排除する防衛反応があるように受け入れられるかは別問題だ。しかし、戻らないとしても自分を認めてくれる人だけを信じていくのはこの先の障害を乗り切れなくなる。どちらを取っても課題は待ち構えている。
「どうしたいのか、僕も考えるよ」
空を見てもただ黒い絵の具で塗りつぶしたような景色が続いているだけなのに、どうして上を見てしまうのだろう。僕らは一旦止まって真っ黒だがきっとそこにあるであろう雲を見上げた。
「ありがとう。なあ、泣いてる姿見られるの恥ずかしいから今日はここまででいいか?」
「未雲がそう言うのなら。僕は全てを約束することはできない。でも、一つだけ約束するよ。未雲が答えを見つけられるスタートには立てるようにするから」
「流石、彼氏だな。それはそうと、早く自転車で走れ! 涙出ちゃう!」
僕は未雲のお願い通り自転車に乗った。ただ、僕のハンカチをそこに置いていって。夜道を駆け抜ける僕は君にどう映っているのだろうか。僕の足は全速力でペダルを漕いでいた。



