カーテンを開けると、眩しい光を放つ太陽が僕を待っていた。二回目の晴れの世界。冬真っ只中だというのに今日は幾分気温が上がるみたいだ。いつもは制服の下に忍ばせているインナーは、今日はお留守番。
――君が私に正解を教えてくれる人なのだとしたら、どんな答えを教えてくれるんだろう。
一度目の晴れの世界で彼女が最後に言っていた言葉。
一晩、君のことを考え、必死にもがきながら答えを探した。
だからこそ、僕なりの道はしっかりと示したいと思う。
とはいえ僕も迷子であることには変わりない。
どうするのが本当の正解なのか、今だ分からない。
だから、やってみるしかないのだ。
まずは、どう声をかけるべきか。昨日あんなことがあったばかりだからか、直接声をかけることをどこかでためらってしまう。喧嘩したわけでもないのに、脳はそういう状況にいると錯覚してしまっているようだ。
教室の前まで到着した。大きく深呼吸をしながら、それを吐いた。そうやって呼吸を整えている間に、後ろから誰かに肩を軽く叩かれた。
「そんなところに突っ立って、なにしてるんだよー!」
「!……月希か、驚かすなよ」
これで陽だったら僕はどうしていただろうか。おそらく失神していたと思う。月希は「ごめん、ごめん」と僕に謝りながら僕を教室に引きずり込んだ。すでに、陽は教室にいて、期限がまだまだ先である課題をこなしているようだった。
「陽、おはよう」
ここは流石に男を見せないといけないと思い、僕から声をかけた。ただ、なんとも頼りない弱々しい声だった。これが陽の彼女なのかと未熟者の自分を殴りたくなる。
「……うん、空斗くんおはよう」
「どうした? 二人ともなんかあった?」
「そんなことないよ! ねっ、空斗くん」
「うん」
月希は、僕らの様子から昨日何かがあったのではないかと勘づいたのだろう。そう問いかけてくると、陽は何もなかったというように明るい表情でそう返した。僕もそれに頷く。何とかごまかせたようで、普段のようにたわいもない話に移った。
声をかけられたら次は、彼女と一対一で話す時間が欲しい。そう思い時間割を見てみると、一時間目は選択授業の移動教室だった。運がいい。というのも、月希とは別の授業なためおそらく二人になることは可能だ。陽と仲のいい友達はたくさんいるが、彼氏といるところに堂々と入ってくる人は月希ぐらいしかいない。
「陽、移動教室一緒に行かない?」
「うん、いいよ。一時間目、音楽だったよね」
朝のホームルーム終了後、まずは陽を誘うことに成功した。そして、美術選択の月希も他の友達と美術室に向かって行った。これでひとまずは二人になれる。僕は遠回りだが、ほとんど人がいないルートを勧め、陽もそれに乗ってくれた。
「昨日、陽に言われたことを考えたんだ。陽はやっぱり自分の姿でいる方がいいと思う。きっと、ここにいる大半の子は中学の時の子たちとは違うよ。だから大丈夫」
僕らしかいない廊下を歩き始めると、早速あの話を持ち出した。もちろん、そう言葉では言えても、根本的な解決に至らないことはわかっている。心を縛っている紐をほんの少しだけ緩くするぐらいにしかならない。
「空斗くんの言うように、おそらくそれはそうなのかもしれない。でも、どこかで怖がっている私がいる」
陽が皆の理想像から逃れられないことは、中学時代周りに迷惑をかけたりしたことでいじめられ、不登校になった過去を強く拒絶しているから。もう一度そうなったらどうしようかと思うと、なかなか抜け出せないのだろう。もちろん全員が陽の素の姿を見ても気にしないなんていう甘い言葉は言えない。でも、少なくとも僕の瞳に映るクラスの大半は陽の味方になってくれるはずだ。
「ただ、限界が来ているのも本音なんでしょ?」
「そうだ……ね。うん、本音だよ」
陽は本音かを聞いた質問に、途中言葉に詰まっていたが間違いなくYESをした。その確認ができればあとは前に進むしかなさそうだ。
「だから、僕がそのメニューを考えてきたんだ。もし難しくなったらそこでやめていいからさ。あとでLINEに送るからね」
「ありがとう、せっかく空斗くんが考えてくれたのならできるところまでやらないとね。でも、どうしてそこまでしようとしてくれるの? 私が君の彼女だから?」
「――それもあるかもしれない。でも、もっと深い理由は別にあると思うんだ。そんなことは今は考えなくていいからさ」
不意の質問に僕はすぐには答えを出せなかった。陽の言うように、彼女だからという理由も大きく占めるのかもしれない。でも、この世界の彼女は僕の彼女じゃないと百パーセントわかりきっていても僕は助けてしまうと思った。だから、そういう曖昧な返答をした。おそらく、その答えは、僕よりも陽の方が早くに見つけてしまいそうだ。
「うん、そうだね」
「そして、一つこの言葉を覚えておいて。人は完璧じゃなくていい。『まっ、いいか』そんぐらいでいいんだよ」
僕は両手で持っていた荷物を全て左手で持ち、空いた右手で胸のあたりを二度叩いてそう言葉を唱えた。クエスチョンマークを浮かべながらではあったが陽も僕の真似をするように「まっ、いいか」と言ってその感触を確かめていた。
音楽室に入ると、席は遠く離れているためいったん解散することにした。
僕は今日、二つのメニューを用意している。まず、一つ目のメニューの実行だ。最初のターゲットは先生。完璧にしなくても大丈夫ということを彼女の心の中に埋め込む必要がある。彼女は今日の日直であり、日直は黒板を消す仕事が割り振られている。
二時間目の古典の先生は予想通り黒板を端から端までまんべんなく使い、文字のパレードとなった。そして、三時間目の数学の先生もスライドではなく黒板を使う派の先生だ。
ここで、彼女へのLINEには『ほんの少しだ粗を残しておいて』とお願いしてある。当然のように彼女からはクエスチョンマークがついたが『とりあえず言う通りにしてみて』と追加で送信するとウサギのスタンプが返ってきた。
「陽、僕も暇だし消すよ」
「ありがとう。じゃあ、右側をお願い」
「りょうかい」
周りに聞こえるような声の大きさで陽に声をかける。このクラスの日直は一人なので僕も黒板を消すのに加わった。もちろんこれにも意味がある。完璧な陽を手伝うことで、周りに「協力してあげていいんだ」と思わせるとともに、すぐに近くから指示を出すことができる。
「こんな風でいいの? まだ少し汚れてるけど」
多くの人が見れば十分にきれいなのに、陽は「この辺とかまだまだチョークの跡が」と言いながら指をさす。僕にとってはゴマのように小さくても、陽にとっては石ころのように大きいもだと感じているのだ。
「それでいいよ。でも、陽の負担がかからないように先生が来たらあの言葉な」
陽は僕のことを信じたかのように頷いた。そして、三時間目の先生は普通の先生よりも早く来ることが多いことも、この作戦ではかなり功を奏する。いつも通り五分前には先生が教室に到着した。
「先生、おはようございます。黒板、もっときれいにした方がいいですか?」
「今日の日直は岡野さんか。いや、これでいいよ。どうせすぐ使うんだから」
「わかりました」
そして、陽にこうやって確認を取らせる。普通であればこの工程を抜こうと思ったが、陽はその人からの了承がないと過剰に心配してしまうと思ったのだ。いつもの陽はまるで掃除の時間のように消したがる。でも、今日の黒板はそうではなく所々に粗が残る。
先生への確認が終わると、陽とともにチョークまみれになった手を洗いに行くことにした。
「私、やっちゃったよ。普通でいいんだ」
「ほら、先生も全く気にしてなかっただろ?」
「少しだけ成長したかも。多少汚れてても『まっ、いいか』だね」
「そうそう」
普通の人から見れば今日も明日も太陽が出るような当たり前なことなのに、今の陽は小さな子供が初めて補助輪なしで自転車に乗れた時のように喜びを感じているようだった。もちろん、これで全てが払拭されたなんていうそう簡単な話はない。
手洗い場で横に並んで手に付着したチョークの粉を落とした。白くなった水が排水溝に向かって流れていく。時間が経つと、川の麓から流れる湧き水のように透明な水に変わっていった。
そして二つ目。それは放課後に勉強会を開催して行う。昼休み、僕では影響力が少ないので陽に『今日は帰りが早いし、明日の数学の小テストの勉強会、教室でしようと思うんだけど、したい人がいたら一緒にやろう!』とクラスLINEを通して流してもらった。流石陽だ、女子を中心に僕や陽を含めて計九人を集めてしまった。僕だったらおそらくいつものメンバーしか集まらなかったはず。
放課後、勉強会に参加するメンバーで窓側の机を合わせた。ちょうど縦長に一号車分だ。陽は皆のことが見渡せるようにほぼ真ん中に座っている。僕はその向かいにおり、僕の隣には月希がいる。
「明日の小テストの単元、少し自信ないんだよね」
「私も。陽ちゃんは毎回小テストも点数いいし、ちょちょいのちょいなんだろうんね」
「うっ、うん。そうかもね……」
近くにいた人たちが陽にそう期待の声を浴びせる。完璧主義の陽は成績もトップクラスだそうだ。昨日の月希との雑談でクラスで一番、学年でも五番という好成績を収めていることを知った。そうなれば、周囲の期待も桁違いに高いに違いない。
まずは全員で明日の試験範囲に該当する部分の教科書の練習問題を解くことにした。成績は自称「中の上」ぐらいの僕には最後の発展問題までいくとピタリと手が止まってしまう。月希は小声で「かなりちんぷんかんぷんなんだけど」と早くも僕に助け舟を求めてくる。月希は運動には強火で立ち向かうが、勉強の方は弱火であるようだ。
僕が丸付けをして解説まで読み終えた頃には一通り問題が解けた人も多いのか、ザワザワし始めた。
「ねえ、陽ちゃん、ここの問題教えて!」
「私も。どうしても答えが合わないんだよね」
「ああ、この問題はね――」
陽に解説を求めてくる人がちらほら出てきた。陽はいつものように、図などを使いながら優しく解説していく。流石、陽。全ての問題を抜け目なく完璧に理解しているようだ。陽が解説を求めてきた子たちに解説をし終えると、一緒に一問ずつ確認していこうと呼びかけ、皆がそれに賛成した。
陽を中心に一問目から確認が始まる。ここの部分でもとある作戦を事前に知らせてある。その作戦はさっきよりもいくらかハードルは高いかもしれない。だって、相手が同級生になるのだから。
「問三の小問二、僕どうしても答えがウになっちゃうんだけど」
まずは先ほどと同じように僕からだ。問二の小問二の答えは実は典型的なひっかけがあり、それに注意すればそこまで難しくはない問題だ。なので僕も解けたが、このメンバーの中では比較的頭のいい僕が名乗り出ることがまずは重要だ。
「あ、それあれじゃない? おそらく――」
僕の隣にいた女子が特に僕のことを疑う様子もなく、ひっかけにかかっているから間違えているんじゃないかと解説してくれた。僕は解説してくれた子に「ありがとう」とお礼を言うと、向かい合っている席にいる陽にもウインクをした。
「次は問四だけど、なんかみんな疲れてきた? 一回、十分ぐらい休憩にしようか」
「さんせー!」
「そうだね」
「集中力続かないしー」
今度は問四の確認からであるが、陽は皆がつかれていることを悟ったのか一度休憩を挟むことにした。僕は一度外の新鮮な空気を吸いたくて、窓が開いている廊下に移動した。しかし、窓が開いていたのはクラスの教室からやや離れたところだった。気温が高いせいか、風を浴びても冬のような寒さは感じない。むしろまだ暑いぐらい。グラウンドでは陸上部がリレーの練習をしていた。僕の見ているところでどこかのチームがゴールラインを超えた。
僕の体の中に取り込まれた気持ちいそよ風は、一体どこへ消えてしまうんだろうか。
「そーらーとー、たぁべるー?」
鼻にかかったような声で僕を呼んだのは月希だ。月希の手には袋に入ったいくつかのキャンディーが握られていた。月希はすでに口の中にそれを含ませているようで「これぇ、あんまいよー」なんて言いながらもう一度勧めてくる。断る理由もなかったので僕は一つもらった。たしかに甘い。小さい頃に食べた千歳飴のような味がする。
奥歯でかみ砕いたりしたからか三分ほど経つと、しっかり会話ができるぐらいまで喋れるようになっていた。おそらく、月希も同じような状態だろう。
「なあ、陽のことなんだけど、月希は陽が陽だと思う?」
周囲には誰もいないことを確認して、月希にならばこの話をしても問題ではないだろうと思って勇気を出して相談をしてみる。
「……あのー、哲学ですか?」
たしかに僕の言い方がかなりわかりずらかったと自分でも思った。月希がそう言うのも無理はない。これは月希の学力があまりないから通じないというわけでもなく大半の場合通じない。
「ごめんごめん。今いる陽は、本当の陽の姿なのか、演じている陽なのかってこと」
「そういうことね!」
「そう」
僕がわかりやすく言い換えると、月希は妙に納得したような口調でそう言い手をパチンと一回叩いた。そして、持っていたペットボトルの水を一口飲んだ。そのペットボトルから唇を離すとすぐに話を続けた。
「おそらく演じている部分も大きいと思うよ。親友をだますのはそう簡単じゃないからね。空斗も気づいているからそう聞いたってことでいいのかな?」
僕は気づけなかったのに――もしかしたら本当の彼女ではないかもしれないが――親友の立場から見ればリンゴとナシの違いぐらい明らかだというかのように、あくまで日常のことを淡々と述べるかのようだった。でも、独り言のような大きさで「邪魔はできないよ」と言ったのを僕は聞き逃さなかった。たしかに、家族であってもスマートフォンの中身を見られることは嫌なように、親友であっても立ち入れない領域はあったのかもしれない。
「僕の場合は昨日聞いたんだけど。それで陽はどうやらかなり無理をしている様で」
「それは大変じゃない!?」
月希は急に目の色を変えた。そして僕を軽く揺さぶる。そんなに僕を揺すっても、陽が変わるわけではない。むしろ僕の体の形が変わってしまう。
「落ち着いて。だから少しづつ変えていこうと……」
ようやく月希は僕の体を揺さぶるのをやめた。僕も白いネコと会った初日に同じことをしていたと思うと急に罪悪感が湧いてきた。
頭の中を切り替えて、月希には先ほどしたことやこの後する作戦について共有した。月希は僕の作戦についての評価は避けたが「そういう状況にいるのなら陽が変わることは――彼女自身はきっと必要なんだと思う」と陽を後押ししてくれるようだった。たしかに僕の作戦は強引と言われればそうかもしれないし、陽を百パーセント取り戻すものではない。でも、僕はこの世界にいるのであればスタート地点ぐらいは教えたい、その思いだけは変わらない。
「じゃあ、そろそろ休憩時間終わりだし、帰ろうか」
「そうだね」
教室に戻るとほとんどの人が雑談していたけれど、誰か一人が自販機でジュースを買いに行ったようで再開までにはもう少しかかるらしい。僕は席に座ったが、月希は風人に話しかけに行っていた。僕と同じようにしてキャンディーを渡しているように見えたが、なぜだか風人は「辛い!」と叫んでいた。おそらくは悪戯でもしたのだろう。自販機にジュースを買いに行った子が戻ってくると、勉強会の再開だ。そして、勝負のスタートだ。
「じゃあ、次は問四の確認からだね。実は私、この単元の授業の時あまり聞いてなくて……誰か教えてくれる?」
陽はそう言うと岩石のように固まった。もちろん今言ったことは嘘だ。陽はこの問題ぐらいならばきっとすぐに解けてしまうし、真面目に授業を聞かないということもない。陽は周囲の反応を息をひそめるようにして窺っている。大丈夫だ、陽に向けられる目は決して陽を攻撃する目ではないから。
「いいよ、私が教えてあげる!」
「そこはコツも覚えておいた方がいいかも!」
僕が予想していた通り、陽に教えてあげようと皆が声を上げ始める。陽は昨日まで閉じていた桜のつぼみが何の前触れもなく急に開いた時のように目を大きく見開いて驚いていた。そして、陽はそのままその子たちに丁寧に教えてもらっていた。
「ありがとうね。よくわかったよ」
「お役に立ててよかった」
「私もその問題、授業で聞いてなかったらたぶんわからなかっただろうし」
「でも、一つだけいいかな。実は――私この問題、分かるんだ」
陽の突然の告白に周囲はきょとんとする。それはそうだろう、普通ならばわかる問題をわからないと言って教えてもらう理由はほとんど見つからない。陽はゆっくりと席を立ち上がって自分の言葉で自分のことを話し始めた。ここが向こう岸にある橋を渡れるか否かの最後の関門。
「実は、私、皆の理想であるために無理しちゃってる部分があって、少し辛いって感じるときがあるんだ。中学生の頃は、何事もスローペースで、周りに迷惑かけて、そしていじめられて……三年生からは不登校になったんだ。そんな思いはもうしたくないって思って、こうやって皆から慕われる存在を目指してた。でも、空斗くんが教えてくれたんだ。そこまでして理想を目指す必要はないって。だからこれからは、皆から慕われる姿じゃないかもだけど……私自身として皆と関わりたいです」
陽は皆の前でお願いをするために頭を下げた。僕からも一つ皆に詫びなければならない。だから、僕も立ち上がった。
「こうしてみようと言ったのは僕です。だから、陽に嘘をつかせたのも僕です。綺麗なやり方ではなくてごめんなさい。もっといいやり方も当然あったはずです。でも、陽は……本当の自分の姿も見てほしいと思っているのもまた事実です。理想の姿ではないかもしれないけど、皆ともっとたくさん思い出を作りたい陽とこれからも仲良くしてください」
僕も陽と同じように頭を下げた。陽は頭を下げたまま何を思っているのかは分からない。でも、仮に陽がここから取り残されても僕だけは陽の隣にいる。その手をすぐにでも握ってあげられる位置にいる。
「そうだったの……? ごめんね、私たちも理想を押し付けて」
「重かったよね。陽ちゃんならできるだろうとか勝手に思って、いつも沢山お願いして」
「私たちは陽ちゃんそのものが好きだから、これからは陽ちゃん姿で過ごしてよ」
そういうような温かい声を聞くと、陽はようやく頭を上げた。謝罪と受け入れが混ざった言葉。この場にいる人は誰もが陽のことを否定しなかった。もちろん、ここにいるのはクラスの過半数にも満たない。だから、本当の姿の陽が皆から受け入れられるかは分からない。でも、この子たちはきっと陽を守ってくれると思った。
「皆、ありがとう」
どこかでは泣きそうな、でもどこかでは笑いたそうなそんな複雑な感情が混じった陽の顔だった。でも、これだけは言える――僕が陽と出会ってから一番の笑顔であったこと。
この後の勉強会の雰囲気は変わった。司会のような役割を務めていた陽だが、次の問いからは他の子が司会のような役割を担っていた。発展問題の場所は順番的に月希が務めることになったが、ちんぷんかんぷんの月希は「もうー、私には無理です!」なんて言いながら風人の方に回した。風人はなんとか解けたようで、陽の代わりを務めていた。
勉強会が無事に終わって皆が疲れた体をほぐそうと背伸びをしていた頃、図書委員会の先生が教室に顔を覗かせた。
「……もしよかったらなんだが、図書室の本の整理が長引いてて、手伝ってくれなる奴いないか?」
「……あっ、はい! 他に手伝ってくれる人いる?」
昨日までの陽なら自分だけが名乗り出て、一足先に行ったり、もしくは誰かが名乗り出ても「私だけでいいよ」なんて言っていただろう。でも、今日は違った。陽の呼びかけに「やるよー!」と皆が一斉に手を挙げる。先生は「多いな……」と言いながらも笑って皆を引き連れた。
「よくできた」
図書室へ向かう中、子供が初めておつかいをできた時のように陽を素直に褒めた。
「これでいいんだよね。おそらく皆、迷惑とか思ってないよね」
まだ完全には理想の陽からは離れていないようだが、少しずつ本来の陽になれればいい。そう急ぐ必要はないのだ。
「そんなことないよ。むしろいつもお世話になっている分、それを返せることが嬉しいと思うけどな」
「そうだよね、ありがとう」
もし迷惑なのであれば、こんなにも太陽のような笑顔はみんなから漏れ出たりはしないだろう。言わないだけで皆、待ち望んでいたのだ、いつもお世話になっている陽から必要とされることを。
「ねえ、空斗くん、もしよかったらでいいんだけど、私、帰りに寄っていきたい場所があるんだ。ついてきてくれないかな?」
「うん、もちろん」
その瞳は何かを変えようとする挑戦心にあふれた目だった。図書室での本の整理を終え、校舎を出た頃には夕日が沈んでいたが、彼女が何か変わろうとしているのならそれを見守る責務はあるのだろう。
彼女が行きたい場所は高校から徒歩数分の所にあるらしい。ヒントを求めたら「見た目」と教えてくれた。いくつか思いついたものを答えてみたがすべて外れてしまった。
「ここだよ」
「……美容院?」
彼女が足を止めたのは、ほとんど人通りのない小さな路地にある小さな美容院だった。このような小さな美容院であればきっと「いつもの髪型で」なんていう言葉が通じるのかもしれない。
「うん、美容院。この長い髪も好きだけど、この髪は皆の理想の姿の私の髪だから。でも、私がしたい髪型に戻すんだ。ずっとロングだったから短くするのはどこか緊張するな」
「短いのもきっと似合うよ」
陽が力強くドアを開けるとカランコロンと古い喫茶店に入った時のような音が鳴る。ちょうどお客さんがお会計をしているところだったが、他にお客さんはいないようだった。二つの席しかないこじんまりとした美容院。盆地にある田舎のおばあちゃんの家のような安心できるような匂いが漂っている。
「いらっしゃい。あっ、陽ちゃんこんにちは」
「陽ちゃんか。隣の人は?」
「そういえば紹介したことなかったですね、私の彼氏です」
おそらくもうかなり仲がいいのだろう。七十代ぐらいの夫婦のような人たちは彼女のことを見るなり「陽ちゃん」と何度のその言葉を口にしたかのようにして呼ぶ。そして、僕のことをおじさんが聞いてくると自慢するようにして僕のことを彼氏だと紹介した。「空斗っていいます」と軽く挨拶をこなす。その間に中にいたお客さんは会計を済ませ「また来るねー」と言いながら外へ出た。
「空斗くん、陽ちゃんをよろしくね」
「はい」
「ところで、今日は陽ちゃん? それとも空斗くん?」
「あ、私です」
陽はもう何度も来たのかと思うほど自然に椅子に座る。僕は近くに待つ人用の椅子があったのでそこに座る。年季が入っているのか多少カバーが破れているところもあるが、僕はそういうのが意外と好きだ。
「今日もいつもの髪型?」
「今日はですね……いつもと違ってこんな感じのショートボブで!」
いつもはロングの陽。ここからの位置ではスマホの中までは見えないが、スマホを取り出してこのような髪型にしたいとお願いしている。髪型に詳しくない僕でもショートボブがどんなのかはだいたい想像できる。かなり思い切った注文であることには間違いない。きっと見た目も大きく変わるのだろう。
「えっ、陽ちゃんイメチェン?」
おばさんが驚いた様子で確認をする。たしかに常連さんが毎回同じだった髪型を急に変えると言うと多少なりとも驚くのは無理もない。
「……イメチェンでいいのかな。でも、少しだけ気分を変えたくて」
「陽ちゃんがそれがいいのなら頑張るね。できるだけかわいくするから。とはいっても、元が元々いいからね」
「ダジャレですか?」
「意図せずでちゃったわね」
「おばさんは相変わらずおもしろいですね」
僕もおばさんの意図しないダジャレにくすくすっと笑った。おばさんは陽の髪型の注文を聞き終えると、陽にカットクロスなどを掛けて切る準備をしていく。準備がすべて整うと、陽の後ろに早速大きなはさみが入る。そして、ザクッと大きな音がした。ほぼ同時に多くの髪の毛が地面に落下する。なくなってしまったなんていう言葉は似合わないかもしれないけれど、この髪の毛がなくなることで新しい本来の陽を手に入れる近道となるのだ。
「今、かなりいっちゃったけど気分はどう?」
「気持ちいいっていうのが一番かもしれません。どんどんいっちゃってください!」
「よかった。これでやっぱりなんて言われたらと思うとビクビクしちゃって」
「もう迷いはないです!」
「彼氏くんから見るとどう?」
「そうですね。長い髪も好きですけど、短くなった髪も楽しみです」
待合席からずっと陽を覗くわけにもいかず僕は近くにあった男性向けの写真を見ていた。たしかにこういう髪型もかっこいいと思うが、僕にはそういう勇気はないしまだ早い。
「空斗くんも少し切るか?」
「いや、僕は大丈夫ですよ……」
「ほんの少し整えてあげるよ。今お客さんいないしサービスで」
「じゃあ、それぐらいなら」
髪型を変えるほどの勇気はないけれど、陽やその後の彼女に見合うようにオシャレに気を配るのは悪くはないのかもしれないと思い、手の空いていたおじさんにせっかくならとお願いすることにした。陽の隣の椅子に座ったが、陽はおばさんと学校の話や僕の話をしてくれているようだった。
「じゃあ、切るよ。美容院はよく行くの?」
「いつも千円カットで済ませちゃいますね。勝負の時ぐらいかな、美容院は」
「勝負の時?」
「記憶が定かではないんですけど……たしか、彼女に告白した時とか」
「おー、青春だな」
記憶が定かではないが、なんとなくそんなような記憶が断片的に残っているのだ。とはいえ、その時は僕の言い方が悪かったのか理想の髪型にはならなかったような気がする。
おじさんに前髪などを軽く整えてもらった僕の方が早く終わった。よく見ないと分からないかもしれないが、たしかに断然こっちの方がおしゃれだ。髪に触れながら鏡で何度も確認してしまう。
陽も髪を切り終わるとシャンプーに入る。ここまでくればもう少しだ。僕は完成までほとんど陽の姿を見ないようにしていたため、どのように変わったのかはまだわからない。
「お待たせしました! どうかな陽ちゃん」
どうやらすべての工程が終わったみたいだ。変わった自分と対面した陽は「わー」と綺麗な歓声を上げる。
「すごい! ありがとうございます! 勇気を出してやってみた甲斐がありました」
「じゃあ、最後に少しだけ整えるから。そしたら彼氏さんに見てもらおう」
「はい!」
もうすぐ、陽にとっての陽が完成する。小さい頃、雪が降り始めたときに雪だるまが作れるぐらいまで積もるかなんて考えるかのように胸が高鳴る。
「よし、オッケー!」
「本当にありがとうございました」
椅子から立ち上がったような音がしてからすぐに陽は僕の目の前までやってくる。どうかな、なんていう恥ずかしい気持ちを押し殺そうとした様子で切ったばかりの髪を手でくるくるさせながら僕に感想を求めてくる。
長い髪の時にはなかった、その手を掴みたいというような幼さやすっきとした爽やかさを感じる。どこか、圧倒されてしまったのだ。まだ二日しか会っていないはずなのにいつの間にか陽は変わってしまった――変わってくれた。
「似合ってるよ。かわいい」
「正直に褒めないでよ……ちょっとは濁して」
そうして陽はさらにモジモジとしだす。おじさんもおばさんも僕らの小さな始まりにそっと笑みを漏らす。おじさんは「陽ちゃん、いいな」とつぶやきながら僕の肩をそっと叩いた。
陽が会計を済ませると、おじさんに一つお願いをしていた。写真を撮ってくれませんか、と。おじさんは快く承諾した後、陽の髪を切ってくれたおばさんとともに壁側に立った。
「空斗くんも」
「えっ、僕はいいよ」
陽は僕がそういうとわざとらしくぷく顔をした。その顔はとてもかわいらしかったが、そのぷく顔が意図せず割れてしまう前にと思って陽の隣に立った。変わった自分をちゃんと傍で見ていてほしいのだろう。
「陽ちゃんと空斗くんもっとよって。お母さんは寄りすぎだよ。よし、いいかな――はい、チーズ」
陽がこの髪型になってから初めての写真を撮った。おそらくそれは陽にとって成長の第一歩を証明する写真になるのだろう。店を出たときにカランコロンという音が鳴れば、もう陽は、本当の陽の姿に変わっている。



