僕にとって一番心が躍る天気は、おそらく「晴れ」だろう。理由を問われれば当たり前のことかもしれないけれど、太陽の光が僕らの背中を照らしてくれるから。
学校までは毎日、相棒の自転車で向かっている。「壁」という俗称で呼ばれている途中の坂だけは苦だがそれ以外は柔らかな潮風に当たって、むしろ気持ちいいぐらいだ。それに、この自転車通学のおかげで中の下ぐらいだった体力も中の中ぐらいまでに成長した。
「おはよー」
「あ、おはよう」
学校まであと数百メートルのところの赤信号で声をかけられる。僕の彼女か――と思ったが、その割にはボイスが低い。同じクラスの風人だった。おそらく学校内で一番仲がいい男友達だ。風人が自転車から降りたので、僕もそれにつられて降りた。
「そういえば、今年は四人でクリスマスパーティーすることに決まったけど、プレゼント交換のやつ、もう買った?」
「あー、そういえば。僕はまだ何も決めてないよ」
そういえば、タイムリミットの二十四日に友達とクリスマスパーティーをする予定を立てていた。四人というのは、僕と風人。そして、僕の彼女とその友達のことだろう。
「よかった、同志がいて。でも空斗は今年は彼女がいるからな。彼女に渡ったときのためにいいもの選ばないとな」
「……となると、高校一年のクリスマス時点では僕に彼女はいなかったのか」
「どうした? ぶつぶつと」
「いや、なんでもないよ、こっちの話。でもそうだな、いいものを選ばないとな」
思わず独り言が出てしまった。とはいえ、風人の情報から少なくとも一年前のクリスマスには僕に彼女はいなかったという情報を掴むことができた。
校門に立っている生徒指導の黒メガネ教師に心ばかりの挨拶をして教室に入る。他の記憶は全く抜けていないとはいえ、自分のクラスに入るのがまるで転校初日のように緊張するなんて、おそらく生まれて初めてだろう。
古びたドアをガラガラと開けて教室に入ると、すでに多くの人の姿があった。
静かに本を読みながら時間が訪れるのを待っている人。
スマホで最新の時事ネタを仕入れている人。
YouTubeを見ながら化粧をしている人。
そして、友達と楽しそうにたわいもない話をしている人。
そんな風に多くの人がいる中で、僕の視線はすぐに一つに向かった。教室の窓側で笑顔で話している、長い髪の毛をした一人の女の子に。その彼女を中心に何人かで円が作られていた。彼女がこのクラスの中心だとわかるにはそれで十分だった。
「あ、陽、将来の夫が来たよ!」
「もう、将来の夫じゃないって! 気が早いよ」
彼女の名前は陽というらしい。そして、僕らが入ってきた途端、近くにいた月希が陽をいじるようにして将来の夫なんて言葉を使う。陽は微笑みながらも優しく言葉を丸めた。
陽は僕らの方にやってくる。なんだ、この世界の風人には彼女がいるのか。それに、クラスのマドンナ的存在の子とか勝ち組じゃないか。
そう思っていると、その足は風人の方ではなく、僕の方に向かって来ていることに気づいた。
まさか、この少女こそが僕の彼女候補――いや、この世界での僕の彼女なのだろうか。
「おはよう、空斗くん」
僕とそこまで身長は変わらないはずなのに、上目遣いをしながら僕に朝の挨拶をしてくれた。本当の彼女かどうかも分からないのに、僕の胸は平常心ではいられなかった。
「……うん、おはよう、陽」
でも、周りから見れば少なくとも今はここの世界の人であるし、もしかしたら今後そうなるのかもしれない。僕は平静を装いながら名前を呼び返す。おそらく僕なら彼女の名前を呼び捨てするだろうと思って陽と呼んでみたが、相手は怪訝な顔をしなかった。やった、正解だ。
「あー、寝癖ついてる! いったん廊下においで」
「えっ、廊下?」
そういえば、僕の手ごわい寝癖は生きたままだった。僕は陽に連れられて廊下に出る。陽はポケットの中に忍ばせていた櫛で僕の髪をとかしながら謎のクリームのようなものを塗って髪を整えてくれた。
「くすぐったい」
「ちょっとばかり我慢してね。……はい、完成」
ほんの少しばかりくすぐったいのを我慢すると、寝癖直しが完了したようだ。陽は最後に僕の両頬を優しく叩き、喝を入れてくれた。
正解不正解を問わずに、もう一人目の彼女でいいのではないか、そう思ってしまうほどにこの一瞬で僕は彼女に心を奪われそうになった。
「……ありがとう」
「じゃあ、今日も一日頑張ろう! 今日は部活ないからいつものルートで一緒に帰ろうね」
「ちょっと待って、いつものルートって?」
「どうしたの? 記憶喪失? いつもの公園を通るルートだよ!」
そうだ、今の僕は余計なことを言ってはいけない。あくまで今僕は昔から晴れの世界にいる体になっているのだ。知らないなんていう言葉をつぶやくことは自殺行為に等しい。何とかごまかしてこの場を収めた。
時間を確認すると、もう間もなく朝のチャイムが鳴る時間だ。陽と顔を見合わせ、教室に戻るとちょうどそのチャイムが鳴った。今日も一日青春が始まるよ、なんて意味は、その音色に含まれているのだろうか。
担任の先生は、最近結婚したこともあってか機嫌がよく、今日も軽快なステップで教室に入ってくる。今ならば多少のちょっかいを出しても怒られないのではないだろうか。
「はい、皆さんおはようございます。素晴らしい、全員出席ですね。二時間目に持久走、三時間目に調理実習とハードスケジュールのようですが、この太陽の光を浴びて充電百パーセントで行きましょう」
今日の二時間目は体育の授業。そして種目はみんな大好きなんて言ったらおそらく多くの人からの反感を買うであろう冬の持久走。寒空の下、校庭を男子は十周、女子は八周もするという苦行だ。さらに今日が記念すべき今季の初回。だけども、三時間目には調理実習というプレゼントが待っている。
一時間目の数学の授業が終わると、早速修行に行くため風人と校庭に向かう。
「正直だるいよな」
「まあな。でも、授業だから仕方ないよ」
「いっそずるしない? そのときだけ不良になるんだよ」
「体育の成績下がるぞー」
「それは困るな」
風人が持ってきたストーブのように熱々のホットカイロを二人で回しながら、愚痴をぼつぼつ言い合う。昇降口までたどり着くと、陽も月希たちと「寒いよね」なんて言いながら体を縮めていた。ただ、今から地獄のレースが始まるというのに、彼女の顔だけはまるで誰も見たことがない星空を見つけたときのような輝いた瞳をしていた。
準備体操を終え、先生はウォーミングアップとして校庭を一周走るように指示した。ここでも「今から走るのになんで一周走る必要があるんだろうな」と二人で愚痴を言い合った。
それが終わると、ペアを作り、走る順番を前半後半で分けてほしいということだったので、僕が前半、風人が後半を走ることになった。
「よし、じゃあ上着持っててくれ」
「おー、やる気だな。彼女にいいとこ見せたいのか?」
「そんなんじゃないよ。身体能力はクラスの中でも中の中だぞ。さっさと終わらせたいだけだよ」
走っている途中に熱がこもり上着は邪魔になるだろうから、スタート地点から上着を風人に向かって投げた。オープンレーンはガチ勢たちで固められていたので、僕は真ん中の方にぽつんとお邪魔する。
「あ、空斗やん」
「おう、月希か」
「陽は後半に走るから、前半は応援してもらえるね!」
僕の隣のレーンに現れたのは月希だ。僕の彼女の親友ポジのような存在。体力お化けの月希に、僕はおそらく早々に負けてしまうのだろう。
「じゃあ、私、一周目から飛ばすから」
「あんまり無理すると後できつくなるぞ」
「きついのもいいよ。それなりに楽しいよー」
月希とたわいもない会話をしていると、先生が僕らの心の中なんて無視するかのようにピストルを撃った。開始の合図だ。ガチ勢はまるでこの一周で勝負が決まってしまうかのようなスピードで早々に飛び出す。月希も僕を早くも引き離す。僕はというと、ちょうど真ん中ぐらいの集団につけている。「吸って二歩、吐いて二歩」がよいとネットに書いてあったので絶賛それを試しながら走っている最中だ。
三周目の時点で昨年の自己ベストからは十秒ほど遅いが、今季初としては上出来だろう。風人も「あと七周!」と合図を出してくれた。
持久走は少なくとも僕の場合には半分ぐらいから世界が歪んで見える。「吸って二歩、吐いて二歩」というリズムが圧倒的に狂うようになる。あと何周だろうかというのを時々忘れてしまう。
ようやく、風人が三という手を高々と掲げてくれた。あと三周走ればこの張り付くような氷のような空気ともおさらばだ。僕が七周目に入ってからすぐに月希はゴールしたようだ。月希は早くも陽たちと抱き合っている姿が見えた。
「空斗くん、頑張れー!」
最後の一周も終盤になった頃だろうか、水よりも透明な声がほんの少し後ろの方から聞こえてきた。でも、僕が今一番求めていた声だ。その声に押されてほんの少しばかりペースが上がる。
「えっ、陽?」
その声の正体は陽だった。この後走るというのに、陽は僕の横を小走りで一緒についてきてくれているのだ。
「一緒にゴールしよう」
「そんなのいいのに」
「いや、私がしたいだけだからさ」
残り半周。勢いそのままに前にいた人たちを数人追い越した。もうだいぶ走ってきて体は壊れたおもちゃのようにボロボロのはずなのに、自転車に乗っている時に感じられる爽快感をなぜだか今得ることができた。そして、最後は彼女の「ゴール!」という声の下、ゴールすることができたのだ。クラスの中でも中の上ぐらいの順位で。
「この後走るのに、無駄な体力使いやがって」
「私にとっては無駄な体力じゃないから大丈夫。はい、お水」
世話好きな奴だ。今度は手に持っていたミネラルウォーターを僕に渡す。僕の喉は水分を求めていたため、ペットボトルの蓋を開けてすぐに半分ほど飲み切ってしまう。冬なのにこんなに水がおいしいと感じられるのは特別だ。
「くー、生き返る!」
「それはよかった。じゃあ、私、準備してくるね」
「うん、頑張って! 応援してる」
前半チームが全員走り終えると、早くも後半チームの番になる。風人は地獄を知らないかのように僕に向かって爽やかに手を振ってくる。僕が風人に手を振っていると、彼女までもが僕に手を振ってきた。急な出来事に胸が高鳴ってしまったが、小さく手を振り返すと、彼女はくすくすっと笑っていた。
ピストルの音が鳴ると、後半組は前半組よりも勢いのあるペースで飛び出した。陽はトップ層ではないものの、早くも前の方のグループに食い込んだ。
「空斗、疲れたー」
「月希、めちゃ速かったもんな」
最初の方は一人で風人のタイムや回数を数えていたが、終盤に入ったところで水にぬらしたタオルを首に巻いた月希が、おぼつかない足取りで僕の隣にやってきた。おそらくどの世界でも共通している人の中で唯一居心地のいい女子が月希だろう。
「そうだよ、私前半の女子で二番だよ。お、早くも陽が六周目。私よりも五秒ちょい早いペースだ。流石後半組だね」
「持久走のあるある、後半組がガチ勢だらけという」
「わかるー」
「……陽、六周目なのに表情がほぼ変わってないよな。風人はライオンに追われて疲弊してるときのような顔なのに」
変な間が開いてしまったので、今度は陽の話をした。もう六周目だというのに、陽はまるでまだ一周目かのような涼しげな顔をしていた。
「たしかに。単純に陽が運動神経があるからっていうのもあると思うけど、なにより完璧でいたいんだよ、陽は。もちろん、皆にとってそういう存在でありたいけど、それはやっぱり一番、空斗にとってかな」
「……そうなのか」
急に月希が似合わない真面目なことを言いだすから、僕は反応に困ってしまった。そして、急に太陽の光が強くなって、月希の部分をめがけているかのようにして照らしている。僕は月希の方が眩しくなっていて見ることはできなくなってしまったが、薄目を開けて見てみると、月希は優しく微笑みながら陽を応援していた。
「あと一周だよ、陽、頑張れ! ほら、空斗も応援する!」
月希の言ったことについて考えていると、いつの間にか陽はまもなくラスト一周になっていた。ぼーっとしていた僕を月希が肩を叩く。それはかなり強いものだったため、僕の脳へと瞬く間に刺激が伝わった。
「陽、頑張れ! あ、ついでに風人も」
「うん、空斗くん頑張るよ!」
「ついでって何だよ!」
陽と風人がほとんど同時に計測ラインを通過する。最後の一周は、もうすぐ終わるという高揚感と、足に最後の重りが追加されたような消耗感が混ざり合うはずなのに、陽にあるのは高揚感だけなのだろうか、一周目を大きく上回る速度でゴールをした。一周走るだけでも一分近くかかるはずなのに瞬きを終えた直後にはゴールしていたように思えた。月希と同じでその組の女子では二番目だったが、月希よりも十秒ほど早い記録だ。
「空斗くん、見ててくれた?」
「うん、ちゃんと見てたよ。流石、陽」
「メイクとか崩れてないかな?」
「大丈夫、だいじょうぶ。いつも通りだよ」
女の子らしく、彼氏の前ではメイクを気にする陽。前髪を手で整えながら、僕にそう聞いてくるが崩れているどころがむしろ輝かしい。ただ、髪の毛に小さなゴミがついていたので、手を伸ばしてそれを取ってみせた。
「ありがとう。じゃあ、残りは風人くんを応援しよう。今何周目?」
「次で八周目かな」
「ラストスパートだね。風人くん頑張れ! あ、関田くんファイトー! 道乃ちゃんあと一周だよ!」
自分が走り終わった陽は次は風人だけではなく、後半組の応援をし始めた。どうしてそこまでできるのだろうかなんて僕は隣で見ているだけだ。額にしみ込んでいる汗が一番似合うのはおそらく陽だろう。タオルを渡すのもはばかられる。
――僕の彼女もこうやって皆のことを思い、誰かを支えてくれる人だった、そんな気がした。
それが陽、君なのかは今の僕には到底分からないけれど。
持久走は、授業が終わる十分前には終了した。それが終わればいよいよ調理実習。冬だというのに、家庭科室では小型扇風機を持った女の子たちの風が吹きあれていた。前半組の僕らもまだ熱が完全には冷え切っていなかった。
「よっ、班、一緒だな」
「風人が一緒か。心配だなー」
「いや、空斗よりは役に立つ人間だから安心してくれ」
「空斗くん、一緒だね! 風人くんもよろしく! もう一人の子は早退したから、ここは三人班かな」
調理実習のグループは先生が適当に割り振ってくれたようで、黒板にメンバーが書かれていた。僕は、風人と陽と奇跡的にも同じ班になれたようだ。同じ班になれなかった月希は遠くから僕たちの班に向かって「私をおいていかないで……」と寂しそうにそして訴えかけるよに目で合図を送ってきた。でも、次に月希の班に視線を向けたときには、その班の女の子たちと何やら楽しそうに話していた。
チャイムが鳴る前にエプロンに着替え、身支度をする。風人のエプロンは弟のお上がりのようで救急車やパトカーなどの車の絵柄がかわいいエプロンだった。それをいじると「見ないでくれよ!」と顔を赤くして恥ずかしがっていた。一方で、陽のエプロンは無駄に飾った感じがなく、まるでいつも使っているかのような安心感があった。とはいえ、今日のために下ろしたオニューだそうだ。
「皆さん、こんにちは。持久走の後で疲れているかもしれませんが、おいしい料理を作っていきましょう。メニューは事前に告知したようにチョコレートマフィンです。調理手順は各班の机に置いてあるので参照してください。では開始!」
家庭科の先生が手をパン! と叩いたことで各班が作業を開始する。
テーブルに置かれたレシピを参考にまずは、薄力粉、ココアパウダーそしてベーキングパウダーをボールに入れ混ぜ合わせる。陽を中心に作業は進んでいく。僕ら二人はアシスタントだ。陽に「ふるいかける?」と言われたが、作っている陽の姿をもう少し見ていたくて、そのまま陽にその作業を任せた。
粉類の準備が終わるといよいよ生地作り。ボールにバターと砂糖を入れながら混ぜる。
「じゃあ、少しやっちゃったけど、混ぜる作業は二人に任せたよ!」
「おう出番だな、空斗も」
「うん」
「じゃあ、先に空斗から」
「任せて」
ここで僕に交代だ。レシピによると、白っぽくふんわりするまで混ぜるのがポイントらしい。先ほど陽が使っていた泡立て器でまずは僕から混ぜる。その泡立て器にはかすかに陽のぬくもりが残っていた。もし、君が僕の彼女だとしたら、そのぬくもりがいつものなんだとわかるのだろうか。
ある程度混ぜられると、今度はやる気満々の風人と交代する。一段落ついた僕らは壁によりかかりながら皆の様子を眺めていた。陽は手を望遠鏡のようにしながら何か一点を眺めているようだった。その先にあるものは何なんだろうか。きっと、僕には見えない何かが見えているのだろう。
「うー、空斗くん、お腹空いてきたね」
「そうだね。お昼前の授業だもんな」
「空斗くんはチョコ好き? ……っていうか、私たちが付き合った日は去年のバレンタインデーだったね」
たしかに僕が彼女と付き合ったのは何かのイベントがあった日だったような気がする。この世界では、彼女が陽なため、陽がその日にチョコを渡したということになっているのだろう。
「チョコ、好きだよ」
「もちろん私も。おいしいもんね」
彼女の言葉でその日のことを少し思い出した。バレンタインの日よりも前から僕は彼女の何らかのきっかけを経て仲を深めていたのだ。そして、バレンタインの日に――校舎裏に呼び出すとか、はっきりとした告白とかそういうものではなかったかもしれないけれど――どこかで「僕たち、付き合わない?」とまるで誰かがその言葉を授けてくれたようなそんな言葉に、彼女は「うん」と答えてくれたのだ。
「あっー!」
妄想の世界に浸っていた僕が現実に引き戻されたのは、となりの班が薄力粉を盛大に床にこぼしてしまったからだ。ただ、僕が陽の方を向いたときは陽はなぜだかその場にいなかった。しかし、陽はその薄力粉事件が起きた班にいた。陽は違う班にもかかわらず誰よりも早く床などに散らばった薄力粉を拭きとっていたのだ。
数秒ほど僕は茫然としてから、陽の手伝いに回った。あんなにも床が白くなったけれど、陽やその班の人によってすぐに片付いた。その班の人たちは、僕らに何度も頭を下げて、お礼を言ってくれた。代わりに、私たちの班のチョコレートマフィンを二人にもあげるねなんていうプレゼント付きで。
「びっくりしたね」
「それにしても陽、動くの早すぎ。どうしてあんなに早く動けるんだよ」
「てへへっ、なんでだろう。おそらく、皆にとって理想的な私でいたいから……? それは言いすぎかな。ほら、風人くんと作業を交代しよう」
晴れの世界の彼女は、皆にとって理想の自分でありたい、完璧でいたいを求めている人なのかもしれない。でもどこかに何かが隠されているのかもしれない。見えない世界は常に広がっているように。
僕は放置していた風人の手伝いに加わった。白っぽくなるまで混ぜられた粉に、次は溶き卵を入れていく。
「お、いい感じだね。三人は普段料理とかするの?」
「俺はほとんどしないですね、家でカップラーメン作るぐらいで」
「僕も同じく。余計なことをするとだいたい失敗するのがオチなので」
「私はお菓子作りとか好きなので、時々作りますかね。高校卒業後は、調理専門学校を考えていたりもしていて」
「へー、いいね。この学校は大学に進む人が多いけど、そういう選択肢もありだと思うよ」
家庭科の先生が僕らの班の様子も確認してきた。陽は専門学校という選択肢も考えているのか。僕はおそらくどこかの大学に行くのだろうけれど、一週間後のことでさえ決まらない僕には彼方先の話なのかもしれない。先生は、陽にこの辺りにある調理専門学校をいくつか紹介していた。
手順通りに進めていくと、あとはオーブンに入れて待つだけとなった。その間に僕らはお湯を沸かして紅茶を作った。小さなティータイムだ。
出来上がったマフィンを取り出す瞬間は、雨だといわれていた遠足の日の朝、裏切られたぐらい眩しく晴れた朝のように感じられた。皆の視線がオーブンの方に固定され「わー」と声が上がった。
先ほど薄力粉事件で助けた班からも一個ずつチョコレートマフィンをもらった。そして、一人二個ずつ作った僕らもそのお返しに一個ずつチョコレートマフィンを交換した。
「いただきます」
「ねえ、二人とも食べる前に写真撮ろう」
「うん、いいよ」
「そうだな記念に」
二つのマフィンが乗ったお皿を持ち上げて、僕ら三人がしっかりとカメラに収まるように調節して陽はシャッターを押した。その写真はすぐに僕らにも送ってくれた。
もしかしたらと思いアルバムを開いてみると、やはりそうか。僕の過去の写真には、彼女がいたと思われる部分に全て陽が映っていた。仮に陽が彼女であろうとなかろうとこの世界では陽が彼女ということで書き換わっているのだ。
「てか、空斗くん、目つぶってるじゃん……!」
「ほんとだ。でも、風人も変顔になってない?」
「元々こんな顔なんです! 悪かったね!」
送られた写真に突っ込みを入れて僕らは笑いに包まれた。ただ、陽だけは自然な笑顔で誰も突っ込みを入れることはなかった。入れられるはずもなかったのだ。
「うーん、おいしい。空斗も早く食べろよ」
いち早くチョコレートマフィンを食べた風人からそんな感想が飛ぶ。僕の空腹メーターも早くしなければ爆発してしまうと思いマフィンに手を伸ばした。
「……うん、おいしい。チョコが濃厚だね」
僕も自分たちが作った班のマフィンを一口食べる。感想ではうまく伝えられないけど、頬っぺたが落ちそうという言葉を使えるぐらいにおいしい。そして、きっと嘘なのだろう。でも僕にはそう感じてしまう。このマフィンには陽の味がすると。
「三人で作った共同作業だからね、おいしいのは当たり前だよ」
「とはいっても大半は陽がしてくれたけどね」
「いや、二人も頑張ったよ。……そういえば、もうすぐ席替えだね」
「たしかに、今年最後の登校日の金曜にロングホームルームでそんなことするとか先生言ってたな」
陽はマフィンを食べている間のトークテーマとして席替えの話題を持ってきた。そういう気配りも流石。ちなみに僕は席替えのことをすっかり忘れていた。
「今は教卓の近くだから窓側とかに引っ越したいよ。さらに廊下側だから、『誰々呼んでくれない?』とかよく言われるし」
「あ、分かる。あの席は厄介だよな。でも、職員室のドア側の先生もいつもそう思ってるだろうな」
たしかに今の風人の席は面倒事が多そうだ。ちなみに今の僕の席は一番前の席だ。そして、陽の席は窓側の一番後ろ。物理的にはかなり距離が離れてしまっている。
「もしかしたら、空斗くんと今度こそ近くの席になれるかもね」
「そしたらい嬉しいな」
「私たちが初めて喋ったのも、一年生の時、初めて席が隣になったからだもんね。あれは、季節はいつだったかな。……でも、初めて話した内容は覚えてるよ。隣の席の人に何か質問してみようということになって、空斗くんから『一番好きな天気は何ですか?』って」
「えっ、僕、そんなコアな質問してたの?」
その時の僕、何を考えていたのだろうか。自分でも少し引いてしまった。とはいえ、この質問は僕がどの世界にいてもした質問なんだろう。初対面の人と話すのが苦手な僕にとっておおよそ想像がつく。
「当時は空斗くん、かなり緊張していたからね」
「で、陽は何って答えたっけ?」
「『晴れだよ』って答えたよ。理由はたしか、名前の陽は、太陽のようにいつまでも皆を照らしてほしいっ名づけられたから太陽が出る晴れが好きだし、光があることでどこの景色もとっても心に残るからって答えたかな」
「陽の名前素敵だもんね」
「ありがとう」
チョコレートマフィンはいつの間にか僕のお腹の中に消えていた。まさか僕のお腹はブラックホールだったりするのだろうか。とはいえ、僕には消えない未来を探さなければいけない。
お昼後は彼女と話すことはなかった。それもそうだろう、彼女にも彼女の友達がたくさんいるのだから。決して僕だけの陽ではない。それに、放課後は彼女と二人きりになれるのだから。ただ、休憩時間、後ろを向いた僕にアイコンタクトを送ってくれるのだった。
放課後は朝約束していた通り一緒に帰る。冬だから、校舎を出るともうそんな時間なのか、学校を出ると綺麗な夕日が見えていた。あと三十分もすれば今日の太陽は役目を終えるのだろう。
自転車を押しながら彼女の歩くスピードに合わせる。
おそらく僕と彼女はもう一度、綺麗な青空の元で出会う。でも、少しでもいいから手掛かりを見つけたい。
「ねえ、今日もいつも通り楽しかった? いつも通り、ね?」
「うん。持久走は疲れたけど、皆で作ったチョコレートマフィンはとてもおいしかったしね。でも、どうしてそんなにいつも通りの部分を強調するの?」
「なんでかって……? いつも通りの空斗くんであることは間違いないよ。ちょっと不器用だけど、誰かのことを大切に思える君。でも、私にとってはいつもの世界なのに、空斗くんはちょっとだけ迷子になっているような気がして」
流石だ。皆にとって完璧でありたいと言っている陽なだけある。彼氏である僕の違いを早くも見抜いてしまっている。しかし、ここで本当のことを言うのは彼女を傷つけるほかない。だから僕は「きっと思い過ごしだよ」とごまかす以外のことはできなかった。それ以上彼女が聞いてこないことを今日だけ見てきた中でも知っていたから、自分でもずるい言葉だと思った。
その後は普通の会話に戻った。もうすぐ冬休みだね、とか数学の課題難しいよねとかどこから見ても普通の高校生にしか過ぎない会話だ。
途中で陽の言っていた公園を通る。ジャングルジムや砂場、滑り台などの主流な遊具かあるぐらいの小さな公園だけれど、この辺りの子供たちはほとんどが遊んだことがある憩いの場所だ。今は冬だからほとんど花は咲いていないけれど、春には桜、夏にはアサガオなど様々な花を咲かせる。
「買い食いしない? 近くのコンビニであんまんでも買って」
「いいね、寒いし。でも、一つは多いかな。ほら、チョコレートマフィン食べちゃったし」
校則で禁止されているわけでもないのに、陽は悪戯をするときのようなニヤリ顔をして僕を誘った。でも、僕には一個は大きい。
「そうかな? チョコレートマフィンの分は持久走のでチャラになったと思うけどな。でも空斗くんがそう言うなら二人で半分こね」
「それがいいね」
コンビニで割り勘をしてあんまんを一つ買った。コンビニのショーケースにあったあんまんは残り僅かになっていて僕らのように求めていた人がきっと多かったのだろう。晴れているとはいえ十二月下旬。寒さを感じるのも無理はない。こうやって買い食いをするのも、高校生だから特別楽しい。
公園の古びた木のベンチに腰を掛ける。もうほとんど夕日が沈んでしまったため、辺りは暗い世界に様変わり。だからか遊んでいた子供たちは「バイバイ」なんて言葉を言い残してお家に帰ってしまった。でも、オレンジ色の街灯が僕らのいる世界の場所を示してくれているようだった。
「じゃあ、半分こしようか」
「まさかそのまま割る気かー? 私たち恋人なんだぞ」
「じゃあ、どうやって?」
「代わりばんこずつに食べようよ」
「もう、しょうがないな……」
「空斗くんからでいいよ」
恥ずかしくないわけはなかった。でも、彼女にこれ以上は迷子だと思われたくない。そう思って十分にフーフーしてから一口目を食べた。まだほとんど皮の部分だったが、少しだけ口に入ったあんこは、僕を一瞬で幸せにした。
「どう? 冬が好きになっちゃう?」
「温かいあんまんがあって陽がいれば好きになっちゃうかもな。はい、陽」
数口食べた後にそれを渡し、陽はためらいもなく僕の食べた後の部分にかじりついた。そして、笑顔で「おいしい」という魔法の言葉をかけてしまう。
そのあんまんが再び僕のところへやってきた。今度は本当に陽の食べた跡を僕が食べるのだ。余計な唾を飲み込んでから食べた。今度は十分にあんの所に当たる。でも、今度は十分に陽の食べた跡なんだという衝撃の方が何倍も大きかった。今度は味の感想を求められたので、僕は陽のぬくもりが混ざって味が分からないよと正直に答えた。
最後まで食べ終わると、冬が気づかないうちにもう進んでしまったような寂しさを覚えた。
「ねえ、口の周り汚れてるよ」
「えっ、本当?」
「うん。ちょっと待って、ウエットティッシュ出すから」
ダメダメな僕は口の周りが汚れていたようで、陽がスクールバッグからウェットティッシュを出してくれるようだった。完璧でありたい陽のバッグにはきっといろいろなものが入っているのだろう。裁縫セットや救急箱、それに折り畳み傘とか。
「はい」
「ありがとう」
ウェットティッシュをもらうと僕はその手を伸ばしたが、陽は渡してはくれなかった。意地悪かと思ったがそうではなさそう。陽は自分の手を使って僕の口の周りのあんこを拭いてくれた。朝と同じようにくすぐったい。でも、気持ちよかった。
「ほい、できた」
出来上がるとそう言いながら僕の両頬を優しく叩き喝を入れてくれた。朝と似ている。いや、まったく同じだ。
陽はウェットティッシュを戻そうと、カバンの中にあった小さな小包のようなものを取り出してその中に入れた。しかし、突然何かに吸い込まれるかのように陽の力が抜けてしまったのか、空いたままの小包がぽとんと地面に落ち、中に入っていたいくつかの物が周囲に散らばった。ただ、僕はある一つのところだけに視線が向かう。文字か書かれたメモ帳のようなものに。
「えっ……?」
「ああ、なんでもない、なんでもない」
何事にも落ち着いて行動できるはずの陽は、何度も手を横に激しく振ふっておりコントロールが効かないほど焦っているのが分かった。知られたくはないのだろう。この世界の僕もきっと知らないことなのだろうから。
そのメモ帳のようなものには、彼女の心の声のようなものが書かれていたのだ。
――特に最近は、完璧でいるのが辛いな
と。
それは誰かがいたずらとして書いたような文字ではなく、間違いなく彼女の字だった。
僕も最初は信じられなくて、違う灰色の世界に迷い込んだのではないかと思った。でも、何度見てもそれは現実だった。
「陽、大丈夫?」
「だいじょ、う……ぶ」
ようやく立て上がってそのメモ帳などを手で拾った陽だったが、小包の中に入れるとすぐに倒れ込むようにしてベンチに座った。僕はそんな陽の頭をさすった。ただ、陽の表情が変わることはなかった。
この様子だと、あれに書かれていたことは嘘ではない、本当の声だということになる。知られたくないけれど、どこかでは求めていたSOSの声なのだ。
「もし、話せることがあるなら……僕でもいいなら聞くよ」
ただ、追い詰めてはいけない。僕は優しくそう問いかける。数分経つと、陽もだいぶ落ち着いてきたようで、僕の手を優しい手で握れるまでに戻っていた。でも、その強さはまだ闇の中に消えていくかのように弱々しかった。
「彼氏、の君ならいいのかな……」
「うん、そう。僕は君の彼氏だ」
「……今後も末永く関わるためには本当のことを言うのは大事なことだと思う。私は空斗くんのことを好きでいたいし、空斗くんも陽としての私を好きでいてほしいから。ただ、あまりいい話じゃないよ」
「もちろん、どんな陽でも受け入れるから安心して」
今は君の彼氏であることには間違いはないしそれを疑うこともない。どんなに眩しく美しい星が見えようが、記憶が戻って本当の彼女の正体が分かろうが、少なくとも今だけは君の彼氏だ。
陽は大きく深呼吸すると、ようやくいつものような表情を見せ僕に向かって話をし始めた。
「私ってさ、できるだけ皆にとって理想的な姿でありたいって言ってるでしょ? おそらくそれは中学生までの私が、理想とはかけ離れた存在だったからだと思うんだ。何事もスローペースで、周りに迷惑をかけて、そしていじめられたりして。それで中学三年生からは不登校になったんだ。でも、三年生の間でたくさん自分を磨いた。そしてこの高校で新しい自分を皆に見せられた。その結果、いつの間にか心身に傷がついていたみたいでね。今度はこうやって辛くなってきたんだ。馬鹿だよね、私」
今の僕の瞳には、今の陽しか映っていない。周りの景色なんてものは僕には見えていない。
それは、過去の陽の姿は僕には映すことはできないということも意味している。
でも、過去の陽はきっと僕が考えているよりも暗い世界に閉じ込められていた。そのことはなぜだか分かってしまう。君の言葉がそう教えてくれたのだ。
「馬鹿じゃないよ。三年生の間、頑張った。それで、今の陽を手に入れたんだから。たしかに、それを無理しすぎたせいで気づかぬうちにまた別の形で自分の心を傷つけていたのは事実だよ。でも、それは馬鹿だからじゃないよ。頑張った結果だよ」
「そう言ってくれて嬉しいよ。私みたいな人、この世界には実は沢山いると思うんだ。皆、気づかぬうちに理想像を押し付けている。この人はこうだから、これぐらいできるよねとか、この人ならきっとやってくれるよとか。それは当たり前だし、その考えを否定するのは違うと思う。でも、一体どうするのが正解なんだろうね」
僕の錯覚だろうか、陽の目には、陽には到底似合わない涙が見えた――いや、現実だ。顔から静かに雫が地面に向かって流れ落ちた。そんな陽は見ていたいと思えなかった。
「陽はどの陽が一番自分だと思う?」
とっさに出たその質問。自分でもその質問の意図はわからない。
「わからない。でも、今の自分も過去の自分も嫌いではない。それだけは正しいと思う」
僕は無責任なことは言えないと思い、それ以上余計なことは言えなかった。ただ、「大丈夫だよ」「安心して」のような当たり前な言葉で慰めるぐらいしか。陽は自分の手で涙を拭きとった。もう泣くことはなかったけれど、心は未だに泣いているはずだ。
「今日はもう帰ろうか」
「そうした方がいいね」
このままいるのはよくないと思い、公園を出ることにした。公園から陽の家まではほど近い。だから、ほとんど何も話さなかった無の時間がとんでもなく長く感じることはなかった。僕は前にいる陽の足跡だけを追っていた。
「――君が私に正解を教えてくれる人なのだとしたら、どんな答えを教えてくれるんだろう。今日はごめんね。また、明日学校で」
「うん、また学校で」
陽は家に着くと、ドアの前に立って僕のいる後ろを振り返った。そしてそんな言葉を独り言のようにぽつんとつぶやいた。言い終えると、陽は自分の家に消えて行った。数分間はそこに足が固定されたかのようで、僕は動くことはできなかった。
理想的な自分でいたい陽の悩み。
きっとあそこで僕があれを見ていなければ、この先、僕がこの世界を選んだとしても知ることはなかったのかもしれない。自分の彼女だというのに、自分が支える立場だというのに、本当の陽を知らないことになるのだ。それだけは、きっとしてはいけないこと。
ただ、あれを知って僕の彼女が陽ではないとか、陽にしたくはないとかそういう気持ちの変化は自然となかった。
――理想を求めるのが正しいのかな?
誰かの声が聞こえたような気がした。おそらくそれは僕の声ではない。それは、本当の彼女の叫びの声なのだろう。



