いつものようにジリリリという目覚まし時計の音で眠りから覚めた。
体を起こした瞬間、何やら不穏な空気を感じた。
僕の視線の先には見たこともないネコがいたのだ。それも二匹。
一匹は炭のように黒い色のネコ。邪悪な目で僕を見ている。
もう一匹は雪のように白い色のネコ。天使のような目で僕を見ている。
――ここはまだ夢の中なんだ。そう言い聞かせて僕は再び目を閉じた。
おやすみなさい。
しかし、僕が目を閉じた直後、一匹のネコは、僕の顔に向かって強引にパンチ攻撃してくる。流石に耐えられなくなった僕は仕方なく目を開けた。
「俺たちのこと無視するな!」
黒いネコが怒鳴りながらそう言う。喋るネコとはなんとシュールなことか――とはいえ、流石に現実だと認めざるを得ない。なぜなら自分の頬をつねっても十分な痛みを感じるから。この場合、悲鳴を上げて驚くのが正解なのだろうか。
「あ、驚かないでね」
僕の心を読んだのか、今度は白いネコが喋る。さっきの黒いネコよりもだいぶ落ち着いた、包み込むような声。なぜだか、悲鳴を上げて驚く気が失せてしまった。むしろ驚くほど冷静になっている。
「……今、僕がどんな状況か聞いても?」
「わかった。順に説明するね」
「……あ、ありがとう」
まさか、僕の言葉にネコが返答してくれるなんて思ってもいなかった。が、そうであるならば話は早い。白いネコはもしかしたら僕の味方なのかもしれない。一方で黒いネコはなぜだか僕の勉強机の脚を舐めている。やめてほしいが抵抗したら僕の顔に傷がつきそうなので傍観した。
「落ち着いて聞いてね。まず、この悪戯をする黒いネコが君の記憶を全て奪ってしまったの――」
いきなりハンマーで殴られた以上の衝撃。知らない兄弟の存在を明かされるとかそういったことを聞いた後に頭が真っ白になるというが、あれはどうやら本当らしい。
でも、冷静になって考えてみる。すると、自分の名前も、年齢も、そして家族の名前も覚えて――はっきりと覚えている。今さっきまではいいネコだと思っていた白いネコも、実は悪魔のようなネコだったりするのだろうか。
「……それは嘘だな。僕が昨日コンビニで買った商品も、トイレに行った回数も覚えてるから」
強がるように、でも事実を並べて白いネコにドヤ顔で反論する。
「そこでトイレに行った回数を出すのは少し引くけど……。でも、私の力で記憶を取り戻したんだ。そう、ほとんどはね」
「ほとんどはというと、一部は戻してくれなかったの?」
「うん、君の彼女の情報だけはどうしても戻せなくてね。だから、君は今、その人のことを思い出せないはずだよ」
「僕に彼女いたんだ!」
記憶を奪われたことよりも、僕に彼女がいたという喜びが先行した。
考えてみると僕は自分の恋人の名前も、どんな人だったかということも覚え――全く覚えていない。卒業した幼稚園の園歌の歌詞のように。僕にとっては大事な人だったはずなのに、頭のどこの引き出しを開けてもその情報が全くもってない。
今、僕の頭の中の大部分を占めている感情は何か。彼女がいたという喜び? いや、それよりもあの感情が勝つ――。
「えっ、どうするんだよ!」
そう、混乱。
僕は白いネコを掴むなり上下に何度も揺すってしまった。白いネコが「だから落ち着いて」と言うと、僕はようやく白いネコを揺するのをやめた。そして、ベッドにそっと置いた。
「一つだけ方法があるよ。実は君はいくつかの世界に行くことができるんだ。それは天気によって決まる。晴れなら晴れの世界、曇りなら曇りの世界、雨なら雨の世界っていう感じにね。それぞれの世界には君の彼女が一人ずついる。周りの人の設定も多少変わってるところがあるけど、彼女以外はほぼ同じだよ。そこから一人を選ぶんだ。そこで選んだその世界で一生を生きていくことになる。期間は一週間しかないから、慎重に考えてね」
僕はそのことを聞いて急いでスマホで天気予報を確認した。今日、月曜日にはかわいい太陽マークがついていた。降水確率もゼロパーセント。文句なしの快晴だ。となると、今僕は晴れの世界にいるということになる。
そして、僕は明日以降の天気も見てメモ帳に書き記した。
火曜日、晴れ。
水曜日、曇り。
木曜日、曇り。
金曜日、雨。
土曜日、雨。
日曜日、曇り。
となる。つまりは、どの天気も二日間は訪れることになりそうだ。その二日間で僕の本当の彼女かを探し当てなければいけない。想像以上に簡単なものではないと思う。どうして厄介ごとに巻き込まれなくてはいけなかったのか。
「でも、記憶がないのにどうやって見つけるの? 過去の彼女がどういう人だったかとかで探し出せないのに」
「うん、ほとんど思い出せないからその方法で見つけ出すのは難しいかもね。だから君はその彼女じゃなきゃダメだというなにかを掴まないとね。まあ、とりあえず過ごしてみなよ。いずれわかるよ」
「わかったよ」
この短時間で僕はだいたいの情報を得ることができた。僕には彼女の記憶のみが奪われており、他の記憶はそのまま。そして、僕は一週間以内に本当の彼女を見つけ出さなくてはならない。もし、間違えたら一生その世界で生きていくことになる。なんともハードなゲームだ。おそらく僕が苦戦しているバトルゲームよりも数十倍難しい。
「へへ、面白そうでしょ。本当は、俺はもっと面白くしてたんだけどな」
黒いネコは僕から記憶を奪ったのにもかかわらず、そのことをちっとも悪いことだとは思っていないかのように嘲笑う。ついに僕の怒りメーターが爆発し「お前ー!」と叫びながら黒いネコを全速力で追いかけた。
流石ネコだ、僕が捕まえようとしても簡単にすり抜けていく。しまいにはベッドの柱に足を引っかけてダイブしたような形になってしまう。痛いという感情はすぐに僕の脳まで到達した。
白いネコはこのままでは大変だと思ったのか「もうそろそろ学校に行く準備しなくていいの?」と止めに入る。たしかに、ネコたちと戯れていたため、優に七時を過ぎている。このままでは始業ベルに間に合わない。
「いつかこの怒りは拳で返すからな」
「おう、いつでもかかって来いよ」
一旦黒いネコとの戦いを保留にし、通学カバンを持って急いでリビングのある一階に駆け下りた。
「おはよう、空斗」
「おはよう、お母さん」
「少し寝坊したね。寝癖、ついてるよ」
いつもの母の声、姿。
いつものリビングの照明、テレビに映るお天気お姉さん。
いつものトースト、牛乳。
疑っていたわけではないけれど、本当に彼女の情報以外の僕の記憶には傷がついていないようだ。テーブルにある少し焦げたトーストに適量のマーガリンを塗る。いつもより冷めているがこれもあの黒いネコのせい。朝食を急いで食べる僕の横では、お父さんが新聞を読みながらミルクたっぷりのコーヒーをごくごくと飲んでいる。そんなにミルクを入れるのなら、ミルクティーでいいのではないかと思う。
トーストをわずか一分強でお腹の中に収めると、僕は洗面台に直行した。
「僕の彼女ってこういう小さいところにうるさかったりするのかな」
今日の彼女がどういう人なのか分からない限り、適当な格好では外を歩けない。水でなんとかごまかそうとするが、今日の寝癖はかなり手ごわい。とはいえ、もう時間オーバーだ。僕の彼女がそういうことを気にしない人間であることを願って今度は玄関に直行する。慌ただしい朝とはこういうことを指す。
「じゃあ、行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい。気をつけるのよ」
「わかった」
僕がドアを開けると、その先には❝晴れ❞の世界が広がっていたのだ――。



