おうちに帰ろう


「つ〜ばさちゃん。」
見知った三上家のインターホンを鳴らして弟を呼び出す。
「お兄ちゃんのお迎え、一緒に行くぞ。」
俺と翼はほとんど連絡を取り合っていなかった。が、翼と翼のおばさんから、一緒に行ってやってほしいと連絡をもらい、俺も佑成の退院に付き添うことにしたのだ。
のろのろと出てきた翼は、制服姿と違って、黒のTシャツを着ていた。黒を着ているせいで、肌の色の白さがいっそう強調されて、いつもよりも元気がないように見えた。
「つばさちゃんて呼び方やめてよ。」
翼が呆れたような顔をした。
前会ったのは弟の結がいた時、黙ってお見舞いに行ってしまった時以来だ。図らずも翼を裏切るようになってしまったことを、俺は後悔していた。
かといって、それを掘り返して謝るのも、なんだか違う気がして、俺と翼は日差しの強い昼に、黙って病院へと向かったのだった。
蝉の声がうるさい。
以前より黒くなったとはいえ、いつものように俺の肌はジリジリと焼かれ続けていた。佑成のお見舞いという大義名分を強制的に取り上げられていたため、結局俺は、大会にも出ないのに陸部の練習に顔を出さざるを得なくなっていたからだろう。
「何日ぶり?」
「うーん、三日ぶりかな。」
翼は静かに言った。
会話は、それきりになってしまった。
変にしゃべらないほうがいいかもしれない、俺はそう思って翼と一緒に黙って歩いた。
病院の庭先にあった向日葵はすっかり枯れて、複数本植えてあったうちのいくつかは、汚らしかったからだろうか、誰かの手によって抜かれた跡があった。
「向日葵、減っちゃったね。」
翼がポツンと言った。
顔が真っ赤で、日焼けなんだか、ただ暑いだけなのだかわからなかった。
俺は適当に相槌を打って、向日葵を見て立ち止まる翼を病院のロビーに向かわせた。
相変わらず消毒液と何か薬品みたいな匂いがする。そこは涼しく、少し高い自販機から、俺は躊躇なく水を2本買った。
「ほら翼、飲みな。」
翼は少し躊躇してから水のペットボトルを受け取った。佑成は、あと30分もしたら下に降りてくるんだと、看護師さんが言っていた。
よく見ると、翼の手が震えている。
水も口をつけていないみたいだった。
「どうした。」
ぱっと翼が俺の方を見る。
蜂蜜みたいな瞳は本当にそっくりだった。けれども、その瞳に映る不安は、全く似ていない。俺は首を捻った。
「お兄ちゃん、退院できるんだろう、よかったじゃん。」
蜂蜜色が、うるうるととろけ出しそうになる。
口が何かを伝えようとパクパクと動く。
後ろの方で男の子だろうか、大きな声で泣き出す声が聞こえた。俺たち2人はそちらを振り向くと、どうやら注射を嫌がって泣いているようだった。
翼がぽつりと言った。
「俺もあんな風に泣けたらいいのに。」
俺は黙って聞いていた。
翼はまだ何かを話したそうだったからだった。
「雨宮、僕は変なことを言うかもしれないんだけれど。」
翼はまた下を向いて、自分の手をペットボトルを握っている手をじっと見つめている。
「信じてくれなくてもいいよ、でもお兄ちゃんは。」
ぶるぶると震え出している。
横顔は、打って変わって青白く、俺は翼がどこか体調が悪いのではないかと不安になる。
どうした、と声をかけようとした瞬間、翼が声を発した。
「お兄ちゃんは、確かに僕の目の前で自分で階段から落ちたんだ。」
言い出した後も、翼は震えていた。
俺は、どう返せばいいかわからなくて黙っていた。そのうち、痺れを切らしたのか翼が顔を上げる。
「お兄ちゃんは、どこか変なんだよ。」
翼は、まるで俺の顔色を伺うみたいだった。
俺はどんな顔していたのだろうか。正直あまり真面目に聞いていない顔をしていたんじゃないかと思う。
どう答えようか、頭を働かせていた俺に、いつもの看護師さんから呼ばれた。先に雨宮くんだけ病室に行ってほしいと、そういった話をされた。
「先、行ってくるよ。」
ソファーに戻って翼に告げると、翼は、より一層不安な顔していた。
佑成が変、という翼の言葉を反芻させる。
確かに変なところもあるやつだけど、翼のそれはもっと重たい気がした。翼の言いたいことは、どういう意味だろう。そんな思考を巡らせるほど佑成の病室は遠くはなく、その軽い扉を、俺はまたいつもの調子で横に引いた。
「雨宮!」
いつもの病院着と違って、見慣れた私服で、佑成はベッドに腰掛けていた。
僅かに顔色がいい。痛々しい包帯もすっかり取れていた。
「ごめんね、重い荷物がいくつかあるから、雨宮に持ってもらおうと思って。」
佑成はこれとこれとこれと、図々しくも重そうな荷物を指差す。重たいそれらを、俺はまぁしょうがないかと思って、持ち出そうとしてみる。
「その前に。」
佑成は言い出しづらそうに下を向いていた。
「なんだよ、お願い事かぁ?」
たまにこいつは水臭いところがある、何かまた遠慮しているんじゃないかと思って、俺はわざとふざけた調子で話しかけてみる。
佑成は、はにかむような表情で俺に言った。頼みづらいんだけれど、一つだけ、佑成はそう言った。
「翼にさ、意地悪をしてくれないかな。」
あまりに予想外のお願いだった。
俺は思わず「意地悪?」と復唱した。
聞き違いだったかもしれない。そんな俺の考えも虚しく聞き違いではなかったようで、佑成が遠慮がちにうなずいた。
「本人がいないところでね、こんなこと言っちゃだめだと思うんだけど。」
佑成は何か戸惑うように視線を左右に泳がせる。
ふと、さっきの翼の言葉が頭をよぎった。
「実は、翼が雨宮のこと好きみたいで。」
え、と俺は思わず大きな声を出した。病院に迷惑になる位よく通る声になってしまって、俺は慌てて自分の口を塞いだ。
「そう、そうなんだよ。」
困ったように佑成は笑った。
「困るでしょう、俺も困る。」
なぜ佑成が困るんだろうと思ったが、そんな疑問は佑成の、珍しくまくし立てるような喋り方によって流されてしまう。
「そう、だからさ、翼が雨宮のことを好きじゃなくなるように、雨宮の方から何か言ってよ。」
俺は突然の話に全くついていけてなかった。
そもそも、翼が俺のことを好きだって?
そんな素振りは全くなかったし、それに、なぜ佑成はそれを知っている?
知っていて、なぜ翼の思いを叶えさせないようなことを言うのだろうか。
理解の進んでいない俺にとって、翼からの感情はまるで他人事だった。そして翼のそんな思いに対する佑成の行動が、あまりにも不自然で俺はびっくりしてしまった。
「え、と。どういうこと。」
俺は思わず佑成に聞いた。いつもみたいなふざける口調で聞いたつもりだったが、声はきっと、困惑して暗くなっているだろう。
佑成は肩をすくめる。
「雨宮、困ってるね。」
そうだよね、俺もそうだからなんていう佑成の声が頭によく響く。さっきから、よくわからない言葉を言いかけられ続けていた。
「困るとか困らないとか、それ以前にどういうこと?」
苛立つように俺は佑成に聞く。思ったよりきつくなった語気に俺自身驚いていた。
「翼は俺の弟だから、大事にしたいんだよ。」     
あっけらかんと発せられた言葉は、全く答えになっていなかった。
しかしさも当然というように佑成が言い切るので、俺はより困惑してしまう。
「ああ、意地悪って言ってもひどいことをしちゃだめだよ、俺の弟なんだから。」
佑成のその目は爛々と光っていた。
久しぶりに家に帰れるのが嬉しいんだろうと病室に入った時は思っていたが。
その蜂蜜色の目は瞳孔が開いていた。獲物を見つけた猫のようだと思った。
「頼むよ、雨宮。」
すうっと細められた目には、有無を言わせない力強さがあった。
こいつはこんなやつだったか?
久しぶりに会った佑成は、今まで俺が知っている佑成とは全然違う人のような気がした。
佑成がさあ、と声を上げる。
「荷物はまとまったし、雨宮これ持って。」
佑成が持っている荷物はボストンバックひとつと、それから俺が貸していた本が入った紙袋だった。
かたや俺が持たされたのは嵩張る佑成の着替えが入ったキャリーケースと、参考書の入った重たい学生鞄だった。
普段の佑成に対してなら、なんか不公平じゃねなんてふざけたことを言えるのに、俺はなんとなく黙ってしまった。
待合に戻ると、小さく縮こまった翼がいた。
翼のさっきの言葉を思い出す。
確かに佑成は、「どこか変」だった。
でも俺はその明確に何が変なのかを、どうしてそうなってしまっているかを、説明できなかった。
佑成が、おおいと翼に声をかけると、翼はきゅっと怯えさせるようにこちらを見た。
普通は、兄と弟が会う時ってこんな顔するもんだっけ。弟の結は風邪すら引いたことのない健康体だから、退院した時と言うのはよくわからない。けれど、こうはならないんじゃないのかなと、わからないなりに、俺は違和感を覚えた。
途端に佑成が走り出した。
「翼!」
翼の硬直しているであろう身体を、佑成は抱きしめた。
緊張していたような翼が、少しだけほっとしたような顔をしていた。
「お兄ちゃん、恥ずかしい。」
翼と、ちらと目が合うと、翼が佑成の胸を叩いて離れてと言っていた。
先ほど見た気まずさや違和感はすっかりなくなっていたから、やはり俺の気のせいだったのかもしれない。
「寂しかったでしょう、翼。」
翼はその目を少しだけ伏せて、ゆっくりとうなずいていた。
翼もなんだかんだやっぱり、普段いる兄がいないというのは、堪えていたのだろうか。
佑成を呼ぶ看護師さんの声がする。
入退院の手続きがあるのだろう、今日この後佑成と翼のお母さんも仕事を中抜けしてやってくると聞いている。
それまで俺たちはこの待合で待たないといけない、佑成にはそれ相応の手続きがあるらしく、基本的に、俺と翼が待合室で待ってる時間が長そうだった。
「ごめんね、雨宮。」
翼が言うことには、夏休みの最中なのに、僕たちの家の話に巻き込んでしまってごめんと言う意味の謝罪らしかった。
「別にいいよ。」
俺の顔をじっと見て、翼はそれから小さな声で、さっきの話の続きだけどと切り出した。
「お兄ちゃんから、助けてほしい。」
避けていた言葉だった。
俺の背中がじわじわと寒くなる。
助けてって、なんだよ。
佑成は、お前の『恩人』なんじゃないのかよ。
翼にはたまに発作的に翼は暴力的な衝動に駆られることがある。今回のこの言葉だって、それの延長なんじゃないか、なんて俺に都合のいい──佑成という友達を庇ってしまうような──そんな思考が俺の頭を過ぎる。
「お兄ちゃんは、やっぱり変だよ。」
翼の手が震えていた。
その瞳が必死で、俺は思わずたじろぐ。
こいつはふざけて、こういうことを言う奴じゃない。きっと本気で俺に話しているんだと思った。
「お兄ちゃんが持ってる陶器の招き猫のストラップ、知ってるでしょ。」
俺は頷いた。
「あれ、僕の実の母さんのものなんだよ。」
「お前があげたんじゃないの。」
前に、佑成から聞いたことを思い出して、翼に聞いてみる。
翼は静かに首を振った。
「初めて直接会った時には、もう持ってたの。」
それから母さんは帰ってこなくなったんだ、と翼は言った。
どくり、と俺の心臓が脈打つ。
翼の冷たい手が、俺の手を握りしめる。
「ねぇ、お願いだよ。お兄ちゃんには、おかしくないって、変なところなんてないって、言ってよ。」
翼は、鼻を真っ赤にして、今にも泣き出しそうな顔をしていた。翼は、祈るように俺の手をぎゅっと握った。
「雨宮の言葉なら……信じられるから。」
信じようと思えるから、と翼はそう言って俯いていた。
俺は、何も言えなかった。
口は何度も、酸素を求める魚みたいにぱくぱく動いて、けれども言葉を発せなかった。
翼は、ゆっくりと顔を上げた。
何かを諦めたような、悲しげな顔だった。
ぽろりと大粒の涙が、翼の頬を伝って落ちた。
それがあまりにも痛々しくて、俺は思わずその涙を拭おうと翼の頬に手を伸ばした。
「翼!」
俺はぱっと佑成の方に向き直った。
佑成が大きな声でお待たせと叫んでいる。
なんとなく気まずくて、翼の涙を拭いかけた右手を、俺はおろしてしまう。
佑成がおやという顔をした。
「雨宮、俺の弟泣かした?」
佑成から、ちらりと睨まれる。
俺は違うって、と慌てて首を横に振る。
そして俺の方だけを見て満足そうに笑った。
見せつけるように、佑成が翼の肩を抱く。
「どうした?翼。お兄ちゃんに言ってごらん。」
それから、これもまた、俺に見せつけるように、ぎゅっと翼を抱きしめた。子供の泣き出す声が遠くで聞こえる。看護師さんたちは、相変わらず忙しなくて、こちらなんかひとつも見ていなかった。
翼は、静かに泣き出した。佑成は困ったように、そして少しだけ嬉しそうに、弟の顔をぐにぐにと揉んでいた。
「お兄ちゃんに言ってごらん。」
小さな声で翼を佑成に何かを言っている。
俺がそれを聞き取ることができなかった。抱きしめ合う二人は、佑成は、まるで俺なんていないみたいに振る舞った。
それがなんだか、俺に対する牽制にも思えて、俺は思わず固まってしまっていた。
翼が少し落ち着いた頃合いになって、翼が俺の方をちらっと見た。
赤く腫れた目。
翼は、照れて小さな声で、トイレに行ってくると言って席を立つ。俺の隣に座っている佑成は、その背中をじっと見つめていた。
急に、その姿が見えなくなってから急に、佑成が話し出す。
「俺の弟、かわいいよね。」
俺は適当に相槌を打つ。
胸には、機転の効かない俺の頭の悪さを責める罪悪感だけが広がっている。
佑成は俺に、協力してくれてありがとうと言った。佑成は、どうやら俺が佑成がいない間に、俺が佑成に意地悪をしたんだと思っているらしい。
「俺、あいつの為なら何でもできるよ。」
ふと、翼の言葉を思い出した。
もしかしたら。
翼のお母さんを殺したのは──。
蜂蜜色の瞳が俺の方をじっと見つめていた。きれいな男の開いた瞳孔は、うら恐ろしい感じがする。俺の背中がすっと冷たくなる。
「本当にひどい親だったからさ、俺たちの父さんは、──まぁ言うまでもないけど、翼のお母さんも大概だったからね。」
ちり、と鈴が鳴る。もう一度佑成の方を見ると手にはキーホルダーがあった。招福と書かれた猫のキーホルダーは、少しだけ汚れていて、新品ではないようだった。
「翼には嫌なところ見せたくないし、仕方ないかなぁと思ったんだよね。」
背中から家の嫌な汗が吹き出す。
俺は、今、とんでもないことを聞いているんじゃないだろうか。
「ていうかさ。」
雨宮もお人好しだよね、と笑って佑成は言った。目は、爛々と輝いたままで、全く笑ってはいなかった。
「少しだけ、『翼が悪い子なんだよ、感情のコントロールがへたくそで、つい衝動的に動いちゃうんだよ』って、そう刷り込めば普通の人は大体翼から離れて行ってくれるんだけどね。」
雨宮はいいやつだよ、と一層低くなった声で伝えられる。
それが、単純な賞賛なんかじゃないっていうのは、俺だってわかった。
何を言っているんだと喉まで出かけて声が出ない。
俺の顔は、声は、どうやら引き攣っているらしかった。
遠くで看護師さんがせわしなく動き続けている、誰かこっちに気づいて欲しかった。
「きっと、さっき翼が雨宮に、今回俺が足を折ったのも、俺が自分で階段から落ちたからだって言ったんでしょう。」
佑成はゆったりと笑っていた。
これ以上は聞きたくないと思った。しかし、佑成は残酷にも話を続ける。
「それ、本当だよ。」
佑成は、せっかくお見舞いに来てくれていたのにごめんねと俺に謝った。
「でもね、雨宮もいけないんだよ。翼にそんなふうに優しくするから、翼が雨宮のこと好きになっちゃったじゃん。」
翼の王子様は俺だけでいいの、佑成はそう俺につぶやいた。
トイレから翼が出てくるのが見えた。
その言葉を皮切りに、佑成は、何も話さなくなった。翼と目があったのだろう、佑成は小さく手を振って、翼を手招きした。
「でも弟だろう。」
俺は素っ頓狂なことを言った、と思う。
佑成がじっとこっちを見た。いつも一緒に話していた友達が全く違う人になってしまったような気がして、俺は不安だった。
よく知る佑成、見た目は変わらない。だからこそ、こいつに、もしかしたら最後の良心を期待していたのかもしれない。
「大丈夫、男同士だし子供はできないから。」
にこり、と綺麗な笑顔だった。
胃がぐっと押されたみたいな、不快感が迫り上がってくる。佑成が何を言っているのか俺にはわからなかった、理解したくなかった。
佑成はいつも通りだった。翼がやってきたのを見て、おかえりと小さくつぶやいた。翼は、ちらと俺の方を向いてきた。
もしかして、本当に気をつけなきゃいけなかったのは──。
佑成から、ご飯食べていく?と聞かれる。
食べられるわけがなかった。小さく首を振ると、佑成はほんの少しだけ悲しそうに笑った。
思わず、俺は翼をもう一度見た。
感情の機微が読み取りにくい、いつも通りの顔だった。
それでいいのかお前は。
じっと、問い詰めるように見つめる。
視線に気がついたのか、翼がこっちを見た。
不思議そうに首を傾けられるばかりで、俺の意図は、翼に全く伝わっていなかった。
───

結5

お兄ちゃんが退院した。
雨宮も来てくれるって、母さんから聞いてひどく安堵したのを覚えている。
病院前の向日葵は、殆どが抜かれてなくなっていた。憂鬱に腰を折っていたあの向日葵たちがいない、それは、なんとなく寂しかった。
雨宮から背中を押されて、ロビーに通されると、雨宮が看護師に呼ばれて病室に行ってしまう。何故、肉親の僕では駄目なのだろうと僕はぼんやりと考えていた。
お兄ちゃんは、どんな顔をしてくるだろうか。申し訳なさそうな顔?気まずそうな顔?どっちもお兄ちゃんがそんな顔をするのは想像がつかなかった。
「翼!」
不意に名前を呼ばれる。お兄ちゃんの声だった。まだ体力だって落ちたままだろうに、キャリーケースと、重たそうな本が入った手提げを持って、お兄ちゃんは走って僕の座るところまで小走りでやって来た。
両手が塞がっていなかったら、抱きしめられていたろうと思う。と思ったら、よいしょと待合のソファーに荷物を置いて、ぎゅっと抱きしめられた。予想通りの反応をするお兄ちゃんは、なんだかおかしかった。大袈裟だよと咎めてもお兄ちゃんは離してくれなかった。
「たかが一ヶ月くらいでしょ。」
恥ずかしいからと、僕はお兄ちゃんを引き剥がして、それから呆れたようにお兄ちゃんの顔を見る。
甘い蜂蜜みたいな瞳が、きらきらと輝いていた。
抱いていた恐怖なんか、元気なお兄ちゃんを見るとすっ飛んでしまった気がして、声が弾んでしまう。
ごめんごめん、とお兄ちゃんは謝った。そっと体温が離れていく。
「寂しかったでしょう、翼。」
僕は、背中に何かぞわぞわとしたものを抱えながら、ぎこちなく頷いた。
看護師さんに呼ばれたお兄ちゃんは、受付のほうに行ってしまった。
話すなら今しかない。
お兄ちゃんが僕に背中を向けたのを確認して、雨宮の顔を盗み見る。
まだ雨宮のことを見ると、胸が痛かった。
でも、こんなおかしな僕に、雨宮は関わるべきじゃなかったんだ。
だから、──強がりだけれども、僕は、雨宮が僕のことを好きじゃなくてよかったと思った。そんなことを思いながら、雨宮にお兄ちゃんの「本当」を伝えたら、雨宮が、お兄ちゃんを好きじゃなくなってくれはしないだろうかと、浅ましい希望も抱いていた。それくらい、僕は雨宮が好きだったんだと、驚きもした。
雨宮に



また、お兄ちゃんは僕を苦しめるんだろうか。
何故。
僕が、雨宮を好きになったからだ。
お兄ちゃんのものである、雨宮を。
ぽろ、と僕は思わず泣いてしまった。こんな形でこの思いを諦めたくはない、でも、この恋すら、お兄ちゃんが僕を今の家に連れて来てくれたから抱けた思いなんだ、本来なら、僕が出会うはずのなかった人と会わせてもらえた、こんな思いを初めて抱かせてもらえた、それだけで僕は、幸せなんだ。
そう思い込むしか、なかった。
お兄ちゃんが、僕の頬を両手で包んだ。
あったかかった。
僕がずっと欲しかったものだ。
願わくば、お兄ちゃんじゃなくて、好きな人から、与えてもらいたかった熱だった。
雨宮が、じっとこちらを見ていた。険しい表情だった。雨宮が好きなお兄ちゃんを、僕が変に悪く言ってしまったから怒っているんだと思う。
ごめんね、雨宮。
それでもそんなに熱心に見られたら勘違いをしてしまいそうで、僕は、少しだけ首を捩って、雨宮の視線から逃げてしまった。
「今日、雨宮は家に帰るってさ。」
お兄ちゃんが言うと、母さんが残念そうに声を上げる。カレーいっぱい作っちゃったのに、とこぼしているから、本当に雨宮がうちの晩御飯に来る想定でいたのだろう。母さんは仕事に戻るらしい、せめて雨宮を送っていこうと誘うが、雨宮は心なしか元気がなく、送迎の申し出も断っていた。
「じゃあ、また今度ね。」
お母さんにもよろしく、と母さんは僕たちを乗せた車を発進させた。雨がポツポツと降っていて、僕は助手席に座って、ワイパーの動きを目で追っていた。
家に着くと、母さんは僕たちに「ご飯は炊いてあるよ」と言い残して慌ただしく外に出た。
久しぶりに、お兄ちゃんと二人きりになった。
カレーをお兄ちゃんが温め直してくれているおかげで、いつものリビングにいい匂いが漂う。
「翼。」
名前を呼ばれて、食卓につくと、すでに僕の席にカレーがよそわれていた。
「翼は、全部がけでいいんだよね?」
大盛りすぎやしないか、というくらい盛られたご飯の上にはカレーがまるっとかかっていた。
「半分にかけるのがいいなら、俺のと交換しよう。」
甲斐甲斐しい世話焼きは、入院する前と同じで、なんだかくすぐったかった。お兄ちゃんのこれは兄弟同士といえども過保護な部類のもので、決して普通ではないというのは雨宮を見て知っていたけれども、なんとなく、お兄ちゃんのこの世話焼きを求めてしまっている自分もいた。
お兄ちゃんは僕の目の前のいつもの席に座る。
いただきますをすると部屋がしいんと静かになる。蝉が遠くで鳴いている。日が沈んできたことで、涼しくなっているからだろうか。
お兄ちゃんが、僕の名前を呼んだ。
何、と僕は返事はせずに、お兄ちゃんの方を向く。お兄ちゃんは、少し目線をうろうろとさせて、言いにくそうに切り出した。
「翼って、雨宮のこと好きでしょ。」
え、と思わず声を漏らす。
雨宮が好き、なんて僕はお兄ちゃんに言ったことも、そんな素振りを見せたこともない、つもりだった。
僕は、思わず下を向いてしまった。僕の表情で真偽を察せられたくないと思ったのだ。
「誤魔化さなくていいのに。」
お兄ちゃんは、困ったように笑った。
「俺は、別に軽蔑なんてしないし。」
かあっと顔が熱くなっていく。
バレていることもそうだけど、それよりも、雨宮と好き合っているお兄ちゃんから、僕に対してそんなふうに言われるのが、なんだか同情されているようで情けなかった。
「顔上げてよ、翼。」
名前を呼ばれた。
お兄ちゃんのものを奪おうとしたって、そう非難されちゃうかな。僕は、怖くてお兄ちゃんの顔が見られなかった。
おそるおそる、僕はお兄ちゃんの方を見た。
その瞳は、僕らの家の電気の光を吸って、きらきらと輝いている。
「でも雨宮、翼のこと好きじゃないよ。」
ああ、と冷水をかけられたように頭が冷えていく。
そうだよね。
どうしようもないことだ、これは。
雨宮と結ばれているお兄ちゃんからそう言われては仕方がないのだ。
「だって雨宮、ストレートだし。」
「えっ。」
僕は、思わず声を出していた。
お兄ちゃんは目をくりくりとさせながら僕を見つめている。僕は思わず、疑問を声に出して問い詰める。
「でも、お、お兄ちゃんと雨宮は、つ、付き合ってるんじゃないの?」
言うのも辛くて、尻すぼみになっていってしまう。これをうんと肯定されるのは、きっと、今まで以上にずっと堪えるだろう。
お兄ちゃんはぽかんとした後、笑った。
雨宮の部屋にあった写真の中みたいに、大きな口を開けて笑っていた。
呼吸が覚束なかったのか、顔を真っ赤にしていたお兄ちゃんは、次第に息を整えて僕に向き直る。
「んふ、なるほどね。翼は、俺と雨宮が付き合ってると思ってたんだ?」
まだ少しだけ肩を震わせながら、お兄ちゃんは笑い続けている。
僕は、なんだか恥ずかしくなってきて、じわじわと熱くなる顔を感じながら頷いた。
「付き合ってないよ、本当に何もない。一年の頃から同じクラスの、ただの友達。」
胸の内に、安堵が広がる。
冷たくなった指先を温めるように、僕は自分の手を握った。
駄目だ、ここで泣いちゃ、と僕は歯を食いしばる。涙で滲んでよく見えなかったけれども、お兄ちゃんはこちらをしっかり見ていた。
ぽろ、と涙が落ちる。
泣くな、泣くなと言い聞かせれば言い聞かせるほど、涙は止まらない。
あやすように、お兄ちゃんが僕に向かって言う。
「お兄ちゃん、翼のことが好きだよ。」
お兄ちゃんの手が、僕の頬を撫でる。
冷たくて、気持ちいい。思わず頬を擦り寄せた。
「可愛い、愛してる。」
お兄ちゃんはそう呟いた。それからもずっと僕を見て何かを言っていたけれども、泣いた後のぼうっとする頭では、なんだかよくわからなかった。
「お兄ちゃん、嬉しそう。」
蜂蜜が蕩けたみたいな、お兄ちゃんの甘い笑顔は、僕もつられて嬉しくなってしまう。思わず僕も口角を上げた。
「初めて会った時、覚えてる?」
すりすりとお兄ちゃんが、僕の耳の裏を撫でる。
なんだかねっとりとしたその動きがくすぐったくて僕は身を捩る。
「初めて翼に会った時も、そんな顔をしていたよね。」
僕は今、どんな顔をしているだろう?
お兄ちゃんは、眉根を下げて困ったように笑っていた。
「俺、翼のその顔好きだよ。」
俺を警戒する顔も、嬉しそうにする顔も、諦めたように俺を見つめるのも、全部、全部俺にしか向けないよね。
お兄ちゃんの声は、踊るように軽やかだった。
僕の頬を撫でる手は、僕の熱が移ったのだろうか、すっかり温かくなって心地いい。すりすりと頬をお兄ちゃんの手に擦り付ける。
お兄ちゃんは、僕を愛おしそうに見つめて、僕の手をとる。僕の骨ばった左手の甲を撫でて、ゆっくりと、指を絡めとられた。
「俺のものだよ、翼。」
いつのまにか、向かい側に座っていたお兄ちゃんが、僕の側まで来て身体を強く抱きしめた。
あったかくて、お兄ちゃんの肌の甘い匂いがして、落ち着く。
初めて、僕がお兄ちゃんに会った夏。
あのアパートで抱きしめられた時と同じ匂いがした。
「俺も、翼のものだから。」
こっそりと、お兄ちゃんの瞳を盗み見る。
こちらをずっと見ていたであろう、蜂蜜色の瞳は、ぐずぐずになって溶け出しそうなほど甘い。
ああ、あの日と同じだ。
お兄ちゃんと初めて会った、あの日。
日焼けしてぱりぱりとする畳の硬さ、すいた僕の匂い、うだるような暑さ。ひとりぼっちの、家。
お兄ちゃんの手が頬を離れて、僕の両手を捕まえる。絡めとられたそれは、痛いくらいにきつく握られている。
「ずうっと一緒だよ。」
甘やかなお兄ちゃんの声が、耳に流し込まれる。
約束する、なんて言いながら、その瞳は困ったように細められていた。
ずっと一緒なら、なんて、単純な甘い誘惑に少しだけ思考が傾く。
お兄ちゃんの親指の腹が、僕の涙を優しく拭き取る。
その瞳は嘘を言っていない。
雨宮みたいに嘘をつかない。
僕を、裏切らない。
お兄ちゃんは僕のためになんだってしてくれる。僕を一人にしないと約束までしてくれた。
「お兄ちゃん。」
名前を呼ぶと、お兄ちゃんは、なあに、と答えた。
何度も繰り返して、僕はおそるおそるお兄ちゃんの身体を抱きしめ返す。熱くて、骨ばっていて、鬱陶しいくらいだ。
「おかえり、翼。」
それでも。
この熱は、一人の長い熱帯夜よりずっと安心で、僕は思わずお兄ちゃんの頬にキスを落とした。