おうちに帰ろう

お見舞いの時間は短いし、病院の消灯は早い。
今日は天気が良くなくて、頭がずきずきと痛んで、暗闇じゃ眩しすぎるスマホを見ようとは到底思えなかった。今日は大人しく早く寝てしまおうと俺は目を瞑った。
部屋は、常に一定の温度になるように調整されている。ベッドは、俺の体温をどんどん吸い取り、熱を溜め込んでいっていた。
今日の、翼のことを思い出す。
青白い顔で、ひゅーひゅーと喉を鳴らして必死に息を吸っていた翼。
こっちを向いた琥珀色の瞳は、頼りなさげに潤んで、俺の助けを求めていた。あの今にも溶け出しそうな瞳。
ぞくぞくと、俺の背中に快感が走る。
粟立つ肌を俺は必死に必死に宥めながら、自身の病院着の中に、そしてその先の下着の中にも、そっと手を入れる。苦しそうに張り詰めたそれを、俺は握りしめた。
俺が翼の手をとって、その柔い手を撫でて、指を絡めて。そして、身体ごと強く抱きしめたなら。
きっと、俺の身体には翼の骨が当たって痛いだろう。翼は、びっくりして体温が上がるだろうから、身体は燃えるように熱くて。
回した腕で翼の背中をなぞったら、くすぐったがりの翼のことだ、きっと腰を引いて逃げそうになるに違いない。それを俺がぎゅっと強く引き寄せて、俺は自分の膝でそっと翼の中心を押してやる。きっと翼は驚きながら、鈴の音が鳴くような可愛らしい声を上げるに違いない。
シャツをとって制服のベルトを外すと露わになるあの白い肌を、俺はくまなく愛してやりたい。
窪みの小さな臍に鼻を突っ込んで、くすぐって、笑っている翼を押さえつけて、骨ばった内腿を、丁寧に丁寧になぞってやりたい。
粘着質な水音が部屋に響く。
快感がぴりぴりと俺の皮膚を焼く。足の指が、次第にぴんと張っていく。
古い病院のベッドが控えめに軋んでいる。
俺しかいないと、俺に助けを求めるようなあの下がり眉。俺にだけ向けられる潤んだ瞳。
翼の下着に手を入れて、下生えを焦らすようになぞって、もうどろどろになっているそれを、俺のものと一緒に握ってやりたい。翼はきっと自慰なんてしたことがないだろうから、これもお兄ちゃんが教えてやる。
翼の手を引いて、俺のと翼のに触れさせて、握らせて、上下にしごくんだと教えてやれば、きっと翼は瞳を蕩けさせながら、はふはふと息をして俺の言うことを聞くだろう。
いつもより高くて甘い声。母さんに聞こえると釘を刺せば、きっと声を押し殺しながら翼は泣いてしまうかもしれない。
「……っ。」
俺の怒張が手に白濁を吐き出した。ふにゃりと少しずつ小さくなっていくそれは、なおもとくとくと熱く脈を打ち続けている。
急いでベッドサイドのティッシュを取って、精液を拭き取る。
脱力して、ベッドに身体を沈める。シーツは俺の汗で湿って熱がこもっている。背中に病院着が張り付いて不快だった。身なりを整えてベッドから起き上がり、窓を開ける。
むわりと熱帯夜のぬるい風が頬を撫でた。
夕方の雨の湿気を孕んだそれは、部屋の温度を下げるどころか上げるようで、俺の額の汗は噴き出すことをやめなかった。
月が霞んでぼんやり光る。今日は満月から少しだけ欠けた歪な月だった。
まだぼうっとする頭で、翼のことを考えた。
可愛い翼、俺の弟。
俺の世界に、色をくれた人。
俺の一番大事な人。
働くのが好きな母さんに、俺たちを捨てた父さん。
俺は、小さい頃は殆ど家に一人っきりだった。例えばの話──俺が今ここで死んでしまっても、悲しんでくれる人っていないんじゃないだろうか、なんて考えたりもした。成績が良くても、運動ができても、俺が自慢したい相手はいなかった。母さんは仕事が忙しそうだったし、父さんの連絡先は教えられていなかったから。
だから、初めて翼を見た時。
俺は息を呑んだ。どうにかなってしまいそうだった。
蝉がやたらとうるさい夏の午後だった。
ツンと酸いた匂いの部屋の、汚い畳に転がる彼。
ぼさぼさの髪、畳に突っ伏した跡を肌に残して、俺の天使はそこにいた。
俺と同じだった。
親に見捨てられて、今にも死んでしまいそうだった。
それでも、俺を見つめる琥珀色には光があった。諦念の中に、警戒と希望があった。そのぎらぎらとした強さが、俺にはなかった。
俺より劣悪な、おそらくご飯だってまともに食べていやしない環境で、光るそれは何よりも尊く思えた。
この光を、この強さを、俺は愛していた。
これさえあれば俺は生きられるのだ。
「翼……。」
俺の包帯が巻かれた脚が、月に照らされて病室に浮かぶ。
月みたいな翼の光は、全て俺のものだ。
疑念も喜びも、落胆でさえ、全ての翼の感情を、俺が独り占めしたいと思った。全ての翼の感情は、俺のものだった。そして、俺から与えてやりたかった。
俺はふうと息をつく。
早く、もう一度翼に会いたいと思った。

────

「翼、こっち。」
夏休み前、浮かれた雰囲気の僕の教室に、お兄ちゃんが来た。
教室の女子は、教卓側ではない入口から顔を出すお兄ちゃんを見て、小さく悲鳴を上げていた。
蜂蜜みたいな瞳が、黄色い声を上げた女の子を捉えて、にこりと笑いかけた。
その甘くて涼やかな顔がまた、女の子たちに大人気みたいだった。
そりゃ、雨宮もお兄ちゃんを好きになるよな、と頭の片隅で考えながら、僕はお兄ちゃんの手招きに応じる。
私立高校でも、さすがに廊下に空調はなく、教室の外は、むわりと湿気が上がってくる。
校庭にうじゃうじゃいるんだろう、蝉の音がうるさい。廊下を歩いてきただろうお兄ちゃんは、顔に汗をかいていた。
「お前の部屋、準備できたよ。」
そっと、お兄ちゃんは僕に耳打ちした。
今日から俺のうちにおいで、と言った。
僕は動揺した。
裏返ってしまう声を、必死に必死に押さえ込むように、僕は言葉を捻り出した。
「でも、あの家ははまだあと一ヶ月くらい借りてるし。」
お兄ちゃんは、綺麗な顔をきょとんとして、僕を見つめる。
「何言ってるの、母親が死んだんだから、翼ひとりでは契約続けられないでしょ。」
蝉が一斉に鳴き出す。
それが正しいのかどうかなんて、確かめようがない。否定も肯定もできなくて、僕は押し黙った。
これ以上、言い訳を許されなくなった気がした。
蝉すらお兄ちゃんが操っているんじゃないだろうか、と馬鹿なことを思った。
「ね?これでもう晴れて家族だ。俺の母さんも来て欲しいって言っているし、荷物をまとめて、今日からおいで。」
確かに、僕の母さんは少し変だったんだと思う。僕の触れられるの情報の中での『家族』とは、──仮に僕が触れた情報の中の家族が一般的なそれなのだとすれば──食事はもっぱら、出されないか、床に投げ捨てられていたカップラーメンだったし、僕の父さんにあたる人を僕は殆ど見たことがなかった。代わりに、母さんの恋人が何人か出入りしていたし、母さんが何も言わずに帰ってこない日だってままあった。
「翼?」
お兄ちゃんに声をかけられる。
「あ、うん。」
蝉も疲れたみたいだ、鳴き声はだいぶマシになっていた。
「じゃあ、約束だからね。」
夜迎えに行くよ、なんてお兄ちゃんは言い残して去っていった。
僕は、その僕にそっくりの後ろ姿を見つめていた。
あの日も、お兄ちゃんは僕の家に来たのだ。
どうやってか、異母弟の僕の家を探し当てて。
──あれも夏。
ちょうど、今から数えて1年前くらいだ。
相変わらず母は家に帰らず、僕は、それが半ば当たり前だと受け入れながら生きていた。
基本的には、空腹で、退屈だったけど、最低限、中学校の給食で食い繋いでいた。電気も水道も、まだ使えていたっけ。
そうはいっても、今まで、母は三日間も続けて家を空ける、なんてことはなかった。
何かあったのではないか。
母さんは、大丈夫かな。
どうしようもない不安は、日に日に大きくなるばかりだった。
警察に届け出た方がいいだろうか?
そんな考えが頭をよぎったが、昔、朝起きて母親がいなかったのを見て、パニックになって泣き出した僕を、母が酷く叱ったのを思い出した。
もしかしたら、僕の勘違いかもしれない。
でもそうだとしたら、僕はどうしたらいいんだろう。
心臓が、ばくばくと鳴り出していた。
脈が頭の中で反響する。
早く、早く帰ってきて母さん。
畳にこぼしたカップラーメンのシミみたいに、じわじわと不安が心を侵食していく。
電気が止まったら?夏休みに入ったら?この部屋に閉じこもれなくなるし、ご飯も食べられなくなる。身近な大人へ助けを求めることだって──。
僕は、玄関でうずくまった。
どうしようもない、と思ってしまった。
ぼんやり、母さんに会いたいと思った。
その時だった。
ピンポン。
誰かがやって来た。
母さんだ、と思った。僕はおそるおそる足音を殺して、覗き窓を右目で覗く。
「……ツ!」
喉が引き攣る。
僕と、同じ顔があったからだ。
咄嗟にしゃがみ込んで、身を隠した。覗き穴から僕を見つけることなんてあるはずないのに。
とにかく僕は、この僕そっくりの彼に、僕の存在をバレてはいけないと思った。
左の膝で、ばくばくと鳴る胸を必死に押さえつける。
もう一度、チャイムの音が鳴る。
一回しか鳴らされていなかったけれども、早く出ろ、と急かされているような気持ちになった。
なんで、僕と同じ顔の人がいるの。
僕より背が高い、蜂蜜色の瞳。
年も同じくらいに見えたから、僕の父さんでは絶対になかった。
僕は、必死にその人が扉の前から立ち去るのを待った。時間が解決してくれることを必死に願った。
人の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、僕は、なおも冷房の効いた部屋でうずくまっていた。
どうしよう、あの人が、覗き窓から見えないところで座って僕が扉を開けるのを待っていたら。
余計なことまで考え出すと、怖くてたまらなかった。
そうは言っても、家には何も食べ物がないのだ。
ばくばくする心臓を抑えながら、ぐるぐると覗き穴から外を見回す。
あの蜂蜜色は見えない。
僕は、ロックチェーンを玄関につけて、おそるおそる、ゆっくりと扉を開ける。チェーンのせいで扉は殆ど開けられないから、あるところまで来るとチェーンががちゃ、と限界を知らせる。それにすら僕はびくっと身体を震わせてしまったのだが、結局、僕のドッペルゲンガーは外にはいなかった。
代わりに、ひらり、と何か小さな紙切れが2枚、玄関の外に落ちた。
そっと手を伸ばして、僕はその紙を拾う。
ひとつは水道局からの通知。
もうひとつ、落ちたそれは手紙だった。
上等そうな紙で少し躊躇われたが、差出人を見ようと、封を留めているほうに裏返すと、それは母さんではなく僕に宛てられていたのがわかった。
どうして、僕に対してお手紙なんか?
僕には友達がいなかった。そんな僕に、手紙をくれるような人に心当たりはなかった。
「三上?」
差出人の苗字だった。
僕と同じ顔に同じ苗字。不気味だったが、同時に、そんな偶然の巡り合わせに、僕は、手紙に対して恐怖より好奇心が優ってしまった。
気がついたら、封をあけていた。
読み進めていくと、僕のドッペルゲンガーが語ったことには、つまり、散々僕が恐れていた彼は、僕の腹違いの兄なのだという。
そして、彼は、僕を助けたいと言った。
身体が、ぐうっと熱を持っていく。
手紙を持つ手がわなわなと震えた。
彼は、僕の置かれているこの状況を理解しているのだろうか?
第一、同じくらいの歳の子が、僕を助けるだって?綺麗事に僕はきっと、腹を立てていたんだと思う。僕を殆ど放っておいていた母には、久しく抱いていなかった感情だった。
同時に、馬鹿馬鹿しいとも思った。
どうせできっこないのに。
そんなことよりも、母さんはいつ帰ってくるだろうか?
水道もこの日までに支払わなければ水を止めるって催告をされていたし、このことを母さんに伝えなきゃ。でも、母さんはどこにいるの?
心配すれどもすれども、母は帰ってこなかった。
僕はいよいよどうしたらいいのか途方に暮れ始めていた。
あと二、三日したら夏休みに入る、そんな平日の夕方だった。
また僕の家の扉に手紙が挟まっていた。
どきり、とした。
背中が冷たくなったのを覚えている。
上等そうな封筒。
あのドッペルゲンガーだ、と思った。
やはり、手紙の裏には「三上」の文字が書かれていた。
何故か、封を切るのに緊張をしていた。
おかげで、ハサミで開けた封はぎざぎざと歪で、僕の落ち着かない気持ちと同じだった。
手紙には、彼の家の住所が書かれていた。
そして、もう、僕の母は家に帰らないとも。
それだけ書かれていた。
どうしてそんなことを言われなきゃいけないの。
僕の頭は怒りに満ちていた。
今思えば、もう僕は限界だったのだろう。
水道停止の期限までもう数日となかった。水道が止まり、夏休みに入ってしまえばいよいよ僕は緩やかに死んでいくだろう、と感じていた。
だからこそ、相当に大胆なことをやってのけたのだと思う。
空腹で、この辺はあまり記憶がない。
僕が向かった先、住所が指し示す一軒家には、白米の甘い香りが漂っていた。
「いらっしゃい。」
玄関の向こうには、僕の顔にそっくりの青年がいた。清潔な青年は、僕と似ているのに似ていなくて、僕には酷く不気味に見えた。
リビングは、雑然としながら片付いていて、健全な生活感があった。
「お母さん、帰ってきてないんだよね。」
リビングに通された僕は、おずおずと頷いた。
「僕の家に来たらいいよ。」
あぁ、この人は、ご飯に困ったことがないんだろうな。その真っ直ぐな笑顔に、僕は嫌悪を抱いた。同時に、嫉妬、怒りといった、胸がぐつぐつと煮えるような汚い感情を抱いたのをよく覚えている。
紅茶を出された。
「母さんは帰ってくるよ。」
僕の言葉に、カップの湖面が揺れた。
なんの根拠もなく言ったのは、僕が彼の言葉に対してムキになっていたからだと思う。
「帰って来ないよ。」
対して、ドッペルゲンガーは冷静だった。
感情波立つ僕を、いなすみたいに言いかける。
「どうしてわかるの。」
イライラして、叫ぶみたいになった。
「だって。」
彼は一息置いた。
「だって、俺が殺してしまったから。」
ドッペルゲンガーは、にこりと優しく微笑んだ。彼の柔い髪が、するりと揺れた。
「俺、兄弟がいるって知って本当に嬉しかったんだ、母さんが違っても。」
だから、俺の兄弟が嫌な目に遭ってるって聞いたらなんだか我慢ならなくて、と彼は言った。
はぁ?と僕は思った。
それを見透かすように、ドッペルゲンガーはまた僕に笑いかけた。
なんだか、拍子抜けした。
空腹で鳴るお腹が情けなくて腹が立つ。
「じゃあ、見る?」
見るって、何を。
僕は、じっとドッペルゲンガーの一挙手一投足見つめていた。彼は少し嬉しそうに笑って、二階に上がってしまった。
紅茶を飲む気にはなれなくて、僕は身を硬くしながら、じっと彼を待った。ちりと鈴が小さく鳴る。
ドッペルゲンガーの中指に、ストラップがぶら下がっていた。笑った招き猫の腹に『招福』と書いてあったそれには、既視感があった。
母が帰って来るとしゃんしゃんと鳴っていたそれに、良く似ていた。
僕は背筋が寒くなった。
「これ。」
彼は手に取って、渡して来る。震えた手で受け取ると、お尻に傷がひとつ。
血の気が引いていく。
それは、間違いなく母が家の鍵につけていたものそのものだったからだ。
「君のお母さんのだよね。」
僕は、ドッペルゲンガーの方を見た。
笑顔が、綺麗だった。
僕の指から、頭から、身体中から、体温が下がっていくのを感じた。
「翼。」
名前を呼ぶ、その薄い唇は先ほどよりもうっすらと赤く染まっている。
「俺の家に来なよ。弟になって。」
どうして、そんなに優しい顔ができるんだ。
僕の身体は震えはじめていた。
早く逃げなきゃいけないのに、立ち上がれなかった。何か言わなきゃと思って、でも何も言えなかった。魚のようにみっともなく口をぱくぱくさせているだけの僕は、ひどく滑稽だったに違いない。
彼は薄く笑いながら、よく考えておいでと僕を家に帰した。
ふらふらとした足取りのまま、どうやって家に帰ったのかは僕もわからなかった。
果たして母は、彼の言うとおり帰ってこなかった。
夏休みにも入ってしまって、僕の手元には食料もなかった。風呂も入れなくなり、しかし汗は噴き出てくるから、僕は汚かった。きっと臭いもきつかったに違いない。もう、汗の不快感も、僕の身体の臭いも我慢するしかなかった。空腹で何もできずに畳に寝転んでいると、足音と、鈴の小さい音が聞こえた。
母じゃない。
直感が、そう言っていた。
ドッペルゲンガーのことを思い浮かべた。
どうやったのかは知らないけれども、本当に彼が、僕の母を殺してしまったのだと思っていた。
案の定鍵を開ける音ではなく、けたたましいチャイムが響く。
右腕の汗疹が痒い。よれたTシャツは、もう何日も着ていて、歩くたびにむわりと僕の汗の嫌な匂いがする。もうどうにでもなってしまえ、そう思って、僕は、覗き穴も見ずに、鍵を開けた。
蝉の声が、部屋に流れ込む。
午前中は、隣の家が日陰になっているから、比較的涼しい風が吹き込んだ。
「翼!」
暑い何かに飛びつかれた。
僕は、その勢いに押されて尻餅をついた。
人の肌の、甘い香りがした。
「おうちに帰ろう。」
あのドッペルゲンガーだった。
泣きながら、しきりに謝られた。
あのときの僕には、お兄ちゃんがどうして謝るのかわからなかった。
ただ、僕が「帰る」と言うまで、お兄ちゃんは待っていたのだ。
「もういい?」
お兄ちゃんは泣きながら僕に聞いてきた。
何が何だかわからず、僕は頷いた。
僕の首に埋めていた顔をそっと上げて、彼は、僕の顔を覗き込んだ。
「お風呂は?」
僕は力なく首を振った。
早く帰ろうと言われた。
あの時できた右肘の汗疹は、きっと癖になっているのだろう、いまだに汗をかくとそこが痒くなってしまう。
お兄ちゃんの言っていたあれは、本当だったのだろうか。
あの優しいお兄ちゃんが、人を殺す?
どくん、と脈が大きく打つ。
でも、それが本当でないとしたら何故お兄ちゃんはあのストラップを持っているの?
どくん、どくん。
「つーくん?」
母さんの声だった。
ドア向こうにいるだろう母さんから、控えめに、ご飯だよと知らされる。今日はハヤシライスだ、と母さんは言った。階段を降り、テーブルにつくと、母さんは食事の準備をしていた。
「佑くんが、あと少しで退院できるんだって。」
台所から母さんは叫んだ。
僕は、ぎくりとした。
「ご飯大盛りにしちゃった。」
そう言いながら、母さんは、僕に、大盛りのハヤシライスを持ってきた
母さんは、いつの間にかスーツではなくなっていた。少しよれた灰色のスウェットで、重たそうな皿をよたよたと持ってくる。
ハヤシライスの茶色いシミが付きやしないか、僕は気が気ではない。
動揺の原因を誤魔化すみたいに、僕は母に声をかけた。
「食べ切れるかな。」
少し引き攣った声が出た。僕は、胸がいっぱいで、久しぶりの母のご飯なのに、ハヤシライスが喉を通るかわからなかった。
「さっき、佑くんから連絡がきたのよ。」
ふうん、なんて、なんでもないことのように返事をした。お兄ちゃんが退院するのは、ものすごく嬉しい、それは本当だ。
「嬉しいな。」
声が震えてしまった。
お兄ちゃんはすごい人だ。女の子からもモテモテで、優しくて、頭がいい。僕が好きだった人からも、好かれて、信頼されて。
でも、母さん。
あなたならもしかしたら。
お兄ちゃんがおかしいって、そう言ったら気がついてくれないかな。
「あのね、母さん。」
僕の声は震えていた。
「ねぇ、お兄ちゃんって本当は……。」
そこまで言いかけて僕は黙ってしまった。
本当は、なんだ。
怖い、とか、不気味だ、とか、でもそんなことを母さんに言って何になるのだろうか?それに、実際助けてくれたのはお兄ちゃんだ。
「どうしたの?」
何かあった?と母さんが心配そうな顔で覗き込まれる。ハヤシライスが、僕の目の前に置かれる。うろうろと、僕は目線を泳がせた。
母さんは眉根を下げて、優しく笑った。
「佑くん、抜けてるところあるから……たまに、予想できないようなことしちゃうんだよね。」
佑くん、急に階段から落っこちたんだもんね、と母さんが言った。
「目の前で落っこちたって、佑くんもドジだよね。でも、もう殆ど治ってるんだもん、つーくんは気にしないで、待っててあげて。」
僕は、また居た堪れなくなってしまった。母さんは、やっぱり優しい。
だからこそ言えなかった。
「そっか。」
兄は、階段から落ちた。
お兄ちゃんから一緒に帰ろうと誘われた日だった。横を歩いていたはずのお兄ちゃんが、なかなか降りてこなくて、後ろを振り返る。
「翼。」
目が、合った。
三日月が弧を描くように、すうっと細められたような気がする。
すっと前に出された足は、すぐ下の段を踏むのではなく、空を切った。気がついたら、お兄ちゃんは僕の横で倒れていた。
──きっと、この話を、僕とお兄ちゃんの出会いを母さんにすれば、母さんは耳を傾けてくれるだろう、お兄ちゃんの異常性に気がついてくれるだろう。
でも、こんなおかしなこと、母さんにどうやって伝えればいい?
目の前の母さんを見た。
僕の本当の母さんとは違う、優しくて、しっかり者の僕の恩人。
この人を、僕は、悲しませられない。
「ハヤシライス、お兄ちゃんも早く食べられるといいな。」
絞り出した僕の声は、震えていた。
僕はそんな気持ちを誤魔化すように、ハヤシライスを口に運ぶ。年頃の高校生が、年相応にがっつくみたいなふりをして、母さんが欲しがっているであろう「おいしい」という言葉を発した。
本当は味なんか、わからなかった。