おうちに帰ろう

今日は、珍しく朝から雨だった。
湿気は相変わらずだが、日差しがない分、体感温度はいつもほどではない。
なんとまあ、僕が住んでいるところに台風が来るらしくて微妙に頭が痛いのは無理やり無視する。
天気は、雲に隠れたお日様が真上に来ても変わらなかった。
いつもなら、この時間には雨宮と昼ごはんを食べて、お兄ちゃんのお見舞いまで時間を潰していたのに。
部活の道具をもって、同級生たちが騒ぎながら教室を出ていく。
うるさい、わずらわしい。
そっと僕はイヤホンを耳にして、雑音をシャットダウンする。
極力誰の邪魔にならないように、けれども、ひとりぼっちの僕が惨めに見えないように、ゆっくりとした足取りで僕は教室を出た。
すまし顔の雨音が、どこからか聞こえてくる。
下駄箱に向かうのには階段の前を通る必要があった。
この階段から、雨宮が走り降りてきてくれないかな。
ぼうっと見つめていたが、誰も降りてこなかった。
のろのろと傘を差して、外に出る。
凸凹した水溜りに足を突っ込んでしまって、左の靴が、じわじわと濡れ出したのが不快だった。
校門の前の坂には、紫陽花が植えられていた。もう梅雨が明けてしまったからか、青紫の丸っこい花は、茶色く変色しながら、醜く枝にしがみついている。
「暫く、お見舞いやめっか。」
雨宮からの言葉が頭に反芻される。
赤茶けた硬そうな髪、海みたいな青い瞳、その顔が、何かに遠慮するように笑っていたこと。
全て全て、俺の頭から焼き付いて離れない。
枯れた紫陽花の花に、そっと触れる。
茶色く枯れた花弁に見えるそれが、はら、とアスファルトに落ちた。
醜くしがみついていると思っていたそれは、呆気なく散ってしまった。
雨宮に不毛にしがみついているのは、俺の方じゃないのか。
「こんにちは。」
不意に、声をかけられる。
ふと、目線を上げると、雨宮の弟がいた。
「久しぶりだね、翼さん。」
雨宮より癖が強くて、幾分かふわふわとした髪質の彼は、私服で、大きな黒い傘を差しながら突っ立っていた。
じっと見すぎてしまったからだろうか、弟さんは照れたようにはにかんで、頭をかいていた。
「お久しぶり、です。」
初めて、お兄ちゃんの家に来て以来だった。
あの時はこの子も中学生だった。まさか、同じ学校に進学しているとは思わなかった。
「やめてよ敬語なんて。翼さんは普通科だよね。」
少しおっかなびっくりになっている僕に気を遣ってか、弟さんは僕に話しかける。
そう、と答えると、弟さんは自分がスポーツ科であると言い出した。
「勉強の補講はないんだけど、空手の合宿がなくなってしまって。」
すごく暇で、兄さんを待っているんだと弟さんは言った。
胸が、どくんと脈を打つ。
ここにいたら、雨宮に会えてしまう。
それは、嫌だった。
昨日の今日で会うのは気まずい。
けれども、会えたら僕は、きっととても嬉しくなってしまうだろうというのも思っていた。
相反する思いを胸で煮やしながら、弟さんは、僕の胸の火にぴしゃりと水をかける。
「監督のお見舞いに行くんだ、兄さんと。」
がつんと頭が殴られたような衝撃だった。
お見舞い。
お見舞いって今、言ったよな。
雨宮は、昨日、しばらくお見舞いをやめると言っていた、看護師に止められたんだって。
僕は縋るように、どこの病院に行くのか聞いた。
「すぐそこなんだ。」
すっと、弟さんが指差した方向。間違いない、お兄ちゃんが入院している病院がある。
往生際悪く、お兄ちゃんが入院している病院の名前を出すと、弟さんは元気よく頷いた。
さっと血の気が引いていく。
視界が、ゆっくりと傾いていく気がした。
「兄さんが来るまで家で待っていたんだが、あまりにも連絡がなくてね。」
校門前まで来てしまったよ、と弟さんは言った。
「翼さんも佑成さんのお見舞いかな。」
弟さんが軽く首を傾げる。
雨宮は、そんなことを考えていないと思うけど。
でも今日この弟さんとお見舞いに行くということは、雨宮はつまり、俺に嘘をついていたのだ。
暫くお見舞いをやめる、なんていうのは、僕をお兄ちゃんから遠ざけるための言葉に過ぎなくて、それはきっと雨宮が、僕のことをお兄ちゃんから引き離して、お兄ちゃんを守るためだった。
視界が、ぐらりと傾いていく。
血の気が頭から引いていくのを感じる。
僕がお兄ちゃんの髪を引っ張っちゃったからだ。お兄ちゃんと約束して、前よりずっと衝動で行動する回数は減ったのに。
どうしよう、雨宮に嫌われてしまったのかもしれない。
「よかったら一緒に行こうよ。」
僕の葛藤なんか知らない弟さんは、なんでもないことのように言った。
俺はその誘いに頷けるわけがないのに。
青い瞳は、雨宮と同じ色をしているのにどこか居心地が悪い。
「僕は、いいよ。」
動揺を見破られたくなくて、僕は足元を見た。
薄い水溜りに足を突っ込んでいたから、さっき濡れた左足に、どんどん水が浸食していた。
「そう?でも。」
弟さんが言いかけた言葉は、遠くから聞こえる聞き慣れた声にかき消される。弟くんの顔が、ぱあっと明るくなった。
「おーい、結、翼!」
重そうな鞄を背負いながら、水たまりも気にせずに雨宮は走り寄ってくる。
「なぜ連絡をよこさないんだ?兄さん。」
悪い、と全く悪びれずに雨宮は弟さんに謝っていた。雨宮ははあと溜息をつく。
「監督の見舞いとか買ったのお前。」
弟さんは、ハッとした顔をする。
「考えてもなかった、考えついていたとしても、正直、何がいいのかわからなくて困ってしまっただろう。」
眉根を下げながら、弟さんは話した。
ちら、と雨宮がこちらを見て、目を逸らされる。
雨宮は心なしか気まずそうに頭をかいている。
「そうだ、兄さんも翼も、よく佑成さんの見舞いに行っていたんだろう?何を持って行っていたのかな?」
お見舞いのプロフェッショナルの意見を聞きたいよ、なんて、弟さんは俺たちに無邪気に告げる。
思い出した。
僕は、弟さんのこの真っ直ぐさが苦手だったのだ。
「プロってなんだよ。ていうか、ただの同級生と、監督とじゃ全然違えだろ。」
雨宮は、きらきらと見つめてくる弟さんに照れているみたいに見えた。
ぎこちなく、雨宮がこちらを窺い見る。
「佑成んとこは行かねえけど、お前も来る?」
本当に、お兄ちゃんのところは行くつもりがないんだ。僕は少し驚いた。
僕は嘘をつかれていたわけではないみたいだ。
けれども、僕は行かないと言った。
雨宮に、これ以上気を遣わせたくない。
わかったと雨宮は言った。
偶然会えたことが、いつも通り話せたことが、俺にとって嬉しかった。露骨に嫌われてなくてよかったと、密かに胸を撫で下ろした。
「じゃあ、翼も気をつけて帰れよ。」
ひらひらと手を振りながら、雨宮は去って行った。いつのまにかぐちゃぐちゃになってしまったの僕の運動靴も、今は気にならない。
ぼつぼつと傘に打ち付ける雨音は、なおも激しい。
でも僕の足取りは軽くなっていた。
雨宮は、お兄ちゃんのところに行かないんだもんね。
じゃあ。
じゃあ、僕が一人で行くのは、いいよね。

──

買った焼き菓子の箱が、袋の中で揺れている。
俺と殆ど背丈の変わらない弟は、歩幅から言っても、ゆうに俺の横に並んで歩けるだろうに、半歩引いたところを歩いていた。
後ろから、顔を覗き込むように、弟は俺を見つめた。
「佑成さんのところは寄らないって本当に?」
弟が話しかけてくる。
俺はちっと舌打ちをして、弟の返事に答えなかった。
「怒らないでよ兄さん、元はといえば、ギリギリまで連絡してこない兄さんが悪いよ。」
そりゃそうだ、と俺はため息をつきながら弟に賛同する。
「監督は、どこの病室なんだよ。」
おら言え、と急かせば、もたもたと弟は自分のスマホを見ていた。病室のある部屋は、佑成がいる病棟と同じ棟にいた。
弟は俺の方を面白そうに覗き込む。
「寄って行ったら。」
俺は、弟の意に沿うのが嫌で、うんともすんとも返事をしなかったが、じゃあ僕だけで行くね、と言われると、弟の方を思わず見てしまった。
「何?」
意地の悪い弟だ。
一体誰に似たんだかとこぼすと、兄さんから学んだんだよ、と笑われた。
監督とやらと弟は、ザ体育会みたいな会話を繰り広げては、弟がやたら頭を下げていた。
軽い個室の扉を閉めて、俺は慣れた足取りでいつもの病室に向かう。ひょこひょことついてくる弟の存在だけなんだか慣れない。
「佑成さん久しぶりだな。相変わらず?」
廊下で弟から話しかけられる。
「んん?まあ。」
結は、どれくらい佑成と会ってないんだったか。
弟と出会ったばかりの頃には、結は佑成ときっと会っていたと思うから、そういう点では『相変わらず』なんだろう。
弟と出会う前と出会った後じゃ、随分様子が違うからなあと俺はぼんやり思考する。
佑成は、ひとりでもそれなりに呑気に過ごしてはいたが、それでも、あいつが嬉しそうに笑うのは、あいつの弟──翼が来た時だけだった。
「兄さん?」
ふと、結から顔を覗き込まれる。
いつの間にか、足はいつもの病室の前まで身体を運んでいた。
その軽そうな扉の前で、俺は突っ立っていたらしい。不自然を誤魔化すように扉をノックすると、佑成から気の抜けた返事が返ってきた。
「佑成さん!」
結が飛び出す。
ベッドの上の佑成は、驚いたようにその瞳を丸くしていた。
「結くん、久しぶり。」
垂れた目を一層垂れさせて、一気に人好きのする顔になった。結と少し話した後、俺の方に目を向ける。
「翼は……今日は来られないのかな。」
俺は、まあそうだな、と曖昧に返事をした。
結がいる手前、昨日看護師から言われた厳重注意の内容をここで話すわけにはいかないのだ。
それでも、一通り分かったような顔で、佑成は頷いた。
「今度は、三人で来て欲しいな。」
俺は軽く頷く。
結は、佑成と久しぶりに会えてよほど嬉しいのか、ぺらぺらと興奮気味に何かを話している。
穏やかに、佑成は笑っていた。
聞いてるんだか、聞いてないんだかはわからない。ただ、そのかんばせはどことなく上の空だ。
俺はわかってる。
弟に会いたい、とその顔が言っていた。
結の話し相手になってくれている佑成に、胸の中でごめんなと謝る。
でも。
あの日の佑成の手に貼られていた絆創膏を思い出した。
俺だって兄弟がいるし、結と喧嘩はするけれども、でも佑成が言うように、翼がカッとなりやすい性質があるならば、やはり今見舞いに来させるのは、三上兄弟どちらにとっても危ないと俺は思った。
佑成と仲が良いんだろう看護師さんも、佑成から聞いたのか、事情は承知のようで、昨日かなり強い語気で俺に見舞いに翼を連れてくるなと言っていた。
ちらり、と佑成の方を見ると、ひたすら話続ける結に微笑みながら話を聞いている。
「そう、そうなんだよ。監督が倒れてしまったから、向こう1週間の合宿がなくなってしまった。」
「それは災難だったね。」
「佑成さんも災難だったね、怪我?」
あ、まずいかも。
俺が思った途端に、案の定、佑成の顔から笑顔が消える。
ぴん、と空気が張り詰めたのが分かった。
静かな逡巡ののち、佑成は口を開いた。
「俺は、結構ぼんやりしてる時があるみたいでね。へまをしてしまうんだよ。」
佑成が肩をすくめた。
整った顔立ちも相まって、佑成の一連の姿は、芝居めいて見えた。それは結も同じだったのだろう。
「そうかな?僕にはむしろ──佑成さんには、隙がなく見えるけれど。」
出口のそばにいた俺には、結の丸っこい後頭部しか見えないけれども、きっと、こいつは昨日の夜みたいな探るような鋭い目をしているに違いない。
対して佑成だって馬鹿じゃないから、何かを探るような結の仕草に気がついたのだろう、真顔で結に言い放つ。
「……翼と仲良くしてね。」
その蜂蜜色の瞳には、貼り付けたような愛想が浮かんでいる。俺は、ひとりでにしくじったと後悔をしていた。
結を連れて来なきゃよかった、
俺は結の方に近づいて、睨みつけたい気持ちを抑えつけて声をかける。
「んだよお前ら、そんなこわ〜い顔でみつめあっちまって。俺を蚊帳の外にして、寂しいだろォ?」
ぴくり、と結が反応する。
「すみません、雨宮。」
俺の方を見て、佑成は謝る。
甘い顔立ちは僅かに強張っていた。
早くこの重っ苦しい雰囲気をどうにかしねぇといけない、佑成に貸した本の話を持ちかける。
「そういえば、お前が読みてぇって騒いでたあれ、どうだった?」
棚の上に、読み跡がついて、僅かに折り曲がっている本を見つけて俺は言う。
「……。」
視線が合わない違和感を覚える。
俺の頭の上?
ノックもなしに誰かいるのかと思って、その合わない視線の先を見つめる。
──ああ。
背筋が凍る。
やっちまった。
俺はじわじわと自身のやり方を内省した。
対して佑成のやつは、目をガキみてぇにきらきらさせて、こう言った。
「翼!」

───

病院に入って、いつもの看護師さんを探すけれど、いないみたいだ。
見慣れない看護師さんたちに会釈をすると、いつもと違って付き添いはなく、僕一人だけですいすいと病室に向かうことができた。
軽い扉の向こう側、誰かの声が聞こえてくる。
誰だろう、僕の知り合いかな。
そもそも、お兄ちゃんのお見舞いに頻繁に来るのなんて、僕の知る限りじゃ雨宮くらいだ。
でも、雨宮は今日は来ないって言っていたし、本当に誰だろう。
そんな思考をよそに、僕はその軽い扉を右に引いた。
先客に気が付かずに入っちゃったことにすれば、仮に、僕の先客の人が知り合いじゃなくっても、きっとお兄ちゃんなら僕を許してくれる。
がら、と軽薄な音が響いて、お兄ちゃんの近くの丸椅子に座っていたのは。
「……。」
僕は絶句した。
雨宮だった。
その赤茶けた髪も、青い瞳も。
隣にいるのは、弟くんだろう。
僕は混乱していた。
どうして。
どうして二人が雨宮がここにいるの。
監督のお見舞いだけしたら帰るって。
そんな焦りにも似た感情と、頭から冷水をかけられた時みたいな、血の気が引いていく感覚を、僕は同時に味わっていた。
裏切られたという怒りと、やっぱりという絶望が、僕の胸の中でぐるぐると渦巻いている。
雨宮は、その青い瞳をきゅっと見開いて、ほんの少しだけ、僕に怯えたみたいにこちらを見つめて来た。
「翼!」
お兄ちゃんが、嬉しそうに僕の名前を呼んでいる。ぽすぽす、と自分の掛け布団を叩いて、こっちに来て、とお兄ちゃんは言った。
こんな、最悪な雰囲気の中で入っていけるわけない、普通なら。でも、僕は厚顔無恥にも、のろのろと部屋に入った。
お兄ちゃんが、全部悪いんだ。
僕は、ふらふらと椅子に座った。
「翼、きちんと傘を差した?いつもより濡れてるよ。」
雨宮が喉を鳴らした。
お兄ちゃんの個室は、いつもと違って窓が空いていない。打ちつける雨の音だけが、この気まずい部屋にこだまする。
雨宮、どうして。
それだけがぐるぐる頭をめぐって、それから、
「どうしたの翼。どこか痛い?」
だめ、衝動で行動したらいけない。
そう何度も自分に言い聞かせて、そう何度も自分をコントロールした。
深呼吸のつもりが、呼吸がどんどん早くなっていく。ぐにゃ、と視界が歪む。
「翼?」
お兄ちゃんの方を見なくてもわかる。
蜂蜜みたいなその瞳を震わせて、白い顔をもっと白くして、お兄ちゃんはきっと、僕の顔を覗き込もうとしている。
雨宮が僕の手を掴む。
焼けるほど熱い。
「翼、こっち見ろ、一緒に呼吸するぞ。」
吸って、吐いて、なんていう、ラジオ体操でしか聞かなそうな雨宮の言葉と呼吸に、僕は律儀に調子を合わせた。
気がつくと、お兄ちゃんも心配そうな顔で僕を見つめて、背中をさすってくれていた。
情けなくて涙が止まらなかった。
僕は、僕が嫌いだった。
呼吸が落ち着いて、この部屋の消毒臭い感じの空気に懐かしさを覚えながら、僕は泣いた後特有の気だるさを抱えて座る。
鼻の奥はまだ痛くて、油断したらまた泣き出してしまいそうだった。
雨音の響く病室の中、雨宮の弟さんが、気まずそうに言い出した。
「もう、帰ろう兄さん。佑成さんも困ってる。」
結衣が言った。
雨が、途端に強くなる。スコールみたいに、強い雨足が窓に叩きつけられていた。
「僕たちが悪いよ、翼さんに黙って佑成さんのところに来たんだから。」
意図したにせよ、しなかったにせよ、それは、僕にとっては、雨宮の、僕に対する裏切りを認める発言だった。
僕は雨宮を見た。
青い瞳。
お兄ちゃんの大事な人。
僕の味方だと、思いたかったけどそうじゃなかった人。
ああ、もう散々泣いたじゃん。それなのに、鼻の奥はつんと痛くて、僕の視界はぐにゃりと歪んだ。
あの夏の、ぬるくてまずい水の味を思い出す。
公園はもわりと暑くて、蝉がうるさかった。
雨宮だけだったんだよ。
雨宮だけが、僕の気持ちをわかってくれたんだ。
兄弟が羨ましいって。
お兄ちゃんが持っているものが羨ましいって、それに共感してくれていたのは、雨宮だけだったんだ。
ぼろりと涙が溢れる。
泣いちゃダメって、心の中で唱えすぎたせいだった。
じゃあ、じゃあ今。
僕の味方は、一体誰なの。
「翼!」
お兄ちゃんが僕の肩をがしっと掴んだ。
強い力だった。
僕に似ているけど、全然違う、その綺麗なかんばせが涙で歪む。
「なにも考えなくていいから。」
そう言って、僕の右腕を強く握って、僕と、雨宮と一緒に呼吸をした。
その優しさが辛かった。
こんなに綺麗で、凛としていて、だから雨宮は、お兄ちゃんが好きになったんだね。
僕の呼吸は、胸の別の苦しさに押しつぶされそうになりながらも、普段の調子を取り戻していった。
窓に打ち付ける雨音は、いつの間にか弱くなっていた。
「悪ィな。」
雨宮が呟いた。
誰に対して言っている言葉なのかは、わからなかった。
室内の空調のせいで、涙の跡はすぐ乾いてしまう。濡れた時に拭っていたら、泣き跡はバレなかったのに。
誰に対してしている格好付けなのか、僕自身分からなかったけれども、僕は、お兄ちゃんに手を振る時も、病院を出る時も、俯いたままだった。
病院の外にある大きな向日葵は、向くべき方向を見失って、雨に打たれて俯いている。
傘に打ちつける雨音がうるさい。
「マジでごめん。」
それでも、雨宮が謝る声はよく聞こえた。
「黙って行くつもりはなかったんだよ。」
この日ほど、僕の家と、雨宮の家の方向が同じだったことを悔いた日はない。
言い訳がましいと、僕も、きっと雨宮も感じていた。弟さんだってそうだったのかもしれない。割って入るように、弟さんが続けた。
「ただ、監督の部屋と、佑成さんの部屋が、すぐ近くで、ほら、出て隣の隣の部屋だったんだ。帰り道だったし、寄って行かないのも悪いかなって。」
言葉を重ねるほどに、陳腐な言い訳に成り下がるのを感じたのだろう、弟さんの言葉は尻窄みになり、そして、ごめんね、なんていうこれもまた薄っぺらい謝罪で、黙ってしまった。
いつもの坂は、先の大雨のせいで、川みたいに水が流れ落ちていた。
病院に行く前から靴はぐちょぐちょになってしまっているので、もう、特段気にすることではないのだけれども、僕は、なんとなく、その小さな川中を歩くことは憚られた。
「別に、僕は怒ってないよ。」
僕が言えるのは、これだけだった。
事実、怒っている、というより、裏切りに対する落胆だとか、そういう、もっと冷たい感情を僕は抱いていた。僕自身が、その冷たさにびっくりしているだけだった。
「佑成は……。」
雨宮が何か言った。
傘に打ちつける雨の音で、よく聞こえなかった。
でも、お兄ちゃんのことを話していることだけはわかったので、僕は問い直すのも面倒だと思ってしまった。
失恋、というにはあまりにも惨めだった。
僕が想像していた僕と、雨宮の間の信頼関係は、全部僕の夢想だったのだから。
その後、僕は、雨宮たちから家に寄って行かないか、と誘われた。
上がれるわけがなかった。
こんな、冷たい気持ちのまま、好きだった人の横にいたら、僕は、また泣き出してしまうだろう。
お兄ちゃんと約束したのに。
気持ちを、衝動をコントロールするって。
それが、僕とお兄ちゃんの、大事な大事な約束なのに。
僕は、雨宮たちと別れて、登り坂を上がっていく。
母さんは、今日は早く帰ってくるって言ってたっけ。ご飯は僕が用意しないと。
重い足取りで、僕は家へと向かった。

──

上の鍵に鍵穴を差して回し入れる。
そして下の鍵穴にも差して回すと、心地よい解錠音が鳴らない。
家を最後に出たのは僕だし、おかしいな、と思った。
もしかして。
「つーくん、おかえり。」
扉を開けると、母さんが──正確には、僕にとって血の繋がりはない、お兄ちゃんの実母だ──が出迎えていた。
僕は咄嗟の出迎えになんと言っていいか分からなくて、また俯いてしまった。水を吸って、色が変わってしまった運動靴を、黙って見つめる。
ただいまって、なんとはなしに言って、すぐ僕の部屋まで逃げてしまえばいいのに、けれども、靴下まで雨が染み込んでいるから、僕は、部屋への直行を躊躇した。
「あら、すごい濡れてるね。先にお風呂入る?」
すっと、手に持っていた鞄を取られてしまう。
僕は思わず母さんの方を向いた。
お兄ちゃんにそっくりの、優しい顔。蜂蜜みたいな瞳が、ゆったりと微笑んでいた。
「もしかして、補講の後に佑くんの病院に行ってきてくれたの?」
僕は、ぎこちなく頷いた。
佑くん寂しがりだからねえ、と母さんは言いながらリビングに行ってしまう。
僕も、母さんの後を追うように、靴下を脱いで、リビングへと向かった。蒸れた足から、べちゃと嫌な音がして、不愉快だった。
手を洗ってね、と言われたので、大人しく洗面台に向かう。
僕の顔が、鏡に映る。
お兄ちゃんと似ているようで、似ていない、琥珀色の瞳。
同じような目の形なのに、僕の方が情けなく見えるのは、眉毛がきゅうっと下がっているからだろうか。
自分の顔が、というか、自分があまり好きになれなかった。
僕も父親に似ていた、らしい。
聞く限りで、実際の父の記憶はないからわからないけれども。
母さんは、よくあんなクズが別の女と作った、クズそっくりの僕を引き取ろうと思ったな。
仕事が忙しい母さんは、滅多に家にいないけれども僕なんかが家にいたら、気が滅入らないだろうか。母さんと二人になるたび、罪悪感で胸が痛くなる。
本来は、僕じゃなくて、父さんが背負うべき咎だったろうに。
鏡の中の僕は、背が丸まっていて、正面を向いても自信なさげにしていた。それもまた情けなかった。
つーくん?と台所の方から呼ばれる。
僕ははっとして、洗った手を拭いて母さんの居る方に向かった。
おやつあるよ、と言って皿に乗った、個包装のクッキーを出される。なんでも、会社のお中元でもらったお菓子なのだという。
「母さんは。」
僕だけ食べていいのか、と暗に切り出す。
あったかい紅茶を淹れてくれていたらしい、母さんは、マグカップに並々と注がれた紅茶を、僕の前に差し出しながらこう言った。
「もう食べちゃった。」
悪戯っ子みたいに笑っていた。
なんだか、ほっとした。
僕や、父さんの罪が消えたわけではないのだけれども、僕は、母さんのこの笑顔を見ると安心する。
「今日はお仕事は?」
僕は、母さんに問いかけた。
「午後はリモートにしたの。商談も会議も、今はリモートでなんとかなるしね。」
僕にはよく分からないけど、母さんの会社は今、年度の初めらしくて、6月末の家に帰って来られないくらいの繁忙期を考えたら、「あくびが出るほど暇」らしい。
とは言っても、僕が雨宮の家から帰ると母さんはスーツのまま倒れて寝ていたりするので、それは流石に言い過ぎなんじゃないかな、と僕は思っているけれども。
ダイニングの向かいに、母さんも座る。
「雨宮さんちに、お菓子持って行ってくれた?」
僕は頷いた。母さんの入れる紅茶は、少し濃いので、ミルクをいっぱい足すようにしている。
ぐるぐるとスプーンでかき混ぜると、湖面はクッキーに似た色に変わった。
「お世話になりっぱなしだもんね。今度母さんもお礼に行かなきゃね。」
眉根を下げて笑う癖は、お兄ちゃんそっくりだった。
「佑くんは?元気そう?」
ぎくり、とした。
僕は、またもやもやとした気持ちで胸がいっぱいになる。
「あの子もねぇ、たまにぼやっとしてる時あるから、ちっちゃい頃もよく転んだりしてたからねえ。」
僕は、黙って頷いた。
喉の渇きを誤魔化すようにミルクティーを飲む。熱さが食道を通って胃に落ちる。
じくじくと、熱くて痛い。
「つーくんが来てからはね、多少マシになったというか、ぼんやりしてたのがね、急にハキハキし出したっていうか。やっぱり、お兄ちゃんって言われるのが嬉しいのかしらね。」
母さんは嬉しそうに笑っていた。
「いつもありがとうね、つーくん。」
鼻の奥がつんとする。
僕は、泣きそうになって、でもそんな格好悪いところは母さんに見せたくなくて、適当な言い訳をつけて2階に上がった。
久しぶりに母さんとゆっくり話せるのに。それでも、こんなもやもやとした気持ちのまま、僕は、母さんに向き合ってはいけない、と思った。
母さんとお兄ちゃんが用意してくれた部屋には、
琥珀色の上等な書き物机が置いてあった。二人曰く、もともと、物置として使っていたらしいが、こんなに立派な物が──ともすると、家の家具の中でも一際浮くような──あったのだから、少なくとも誰かが使っていた部屋を、僕用に片付けてくれたのではないか、と思っている。
妙に威圧感のある机の後ろに、僕のベッドがある。
薄い水色のシーツは見慣れていて、心地よい。
雨を吸ってしっとり濡れた制服のままでは、飛び込むこともできないので、僕は、ベッドの下のカーペットに座り込んだ。
身を丸くするように膝を抱えて座り込むのは、僕の癖のようだった。
特に、不安が強い時の。
母さんは、下でご飯を作ってくれているのかな、とぼんやり思った。
冷房をつけたばかりの部屋は、まだ熱を閉じ込めてじっとりと熱い。自身の膝を抱えているせいで、全身から吹き出してくる汗を、僕はじんわりと感じとっていた。