「でさ、現文の時間に堀ちゃんが──って、一年は堀ちゃんじゃねェか。」
僕の額から頬にかけて、汗がつうっと流れる。
コンクリートからの照り返し、汗だくで暑苦しい雨宮のおしゃべり、頭のてっぺんには太陽。暑いものに囲まれて、僕は気が滅入っていた。
おまけに、学校から病院までの道のりは坂ばかり。歩道をお行儀よくコンクリートで舗装しているおかげで、木陰が少ないのも腹立たしい。
夏は、嫌いだ。
暑さのせいで、嫌なことを思い出すから。
蝉の声も、照りつける日差しも、湿った空気も。
夏になると、忘れたふりをしていたことまで、勝手に蘇ってくる。
雨宮があっと大きな声を出す。
「堀ちゃんからプリント持っていけって言われたのに忘れたわ。」
やっちゃった、と雨宮は笑った。
「ま、お前の兄ちゃんの夏休みの宿題が増えるだけだし、いっか。」
よくないんじゃないの、と反論してみるが、雨宮はずんずんと病院に向かって歩く足を止めない。
僕は、暑さに辟易しながら、雨宮にいいところを見せたくてなんとか歩く。
歩幅の違いか、あるいは脚の長さとか身長の違いなのか。何にせよ、僕は気を抜くとすぐ雨宮を追いかけるような形になってしまうから、急いで歩かなくてはないけない。
病院前、へとへとの僕みたいに俯く向日葵は、やはり陰気臭くて嫌いだ。
「今日は時間通り。」
昨日より雨宮の荷物は少ない。
病院に入る前に、僕が雨宮をじっとみつめると、「ン?」と見つめ返される。
「あァ、鞄?」
雨宮は、自分の背に背負う鞄に目線を落とした。
「今日、本も、部活のシューズも入れてねェからな。」
暑ちぃから行こうぜ、と言われて病院の中に入ると、いつも通りの消毒の匂い。ずんずんと病室に向かおうとすると、看護師さんと目が合う。
軽く会釈をされて、それから、看護師は雨宮に何かを話しかけた。
一緒に病室に行くらしい。
大袈裟だよな、と僕は思った。
いつもみたいな軽い扉を開くと、今日のお兄ちゃんは横になっていた。
「外、暑そうだな。」
少し低くて、甘い声。
病室の枕に広がるお兄ちゃんの髪の毛は、太陽の光を受けてつやつやと光る。
僕は、思わず頷いた。
「あちィよ、こんななか1500mも走るの、頭おかしいだろ。」
ぎし、と雨宮がいつもの丸椅子に腰掛ける音がする。お兄ちゃんが、おいで、と僕に手招きした。
「翼、雨宮の隣が嫌ならこっちの椅子でもいいぞ。」
「オイ。」
雨宮の、ふざけて凄む声。
ころころとお兄ちゃんの笑う声。
こんなに楽しそうなお兄ちゃんは久しぶりに見た。
こっちの椅子の方が、雨宮の顔を見れるかも、なんて下心で、お兄ちゃんが誘った窓際の椅子に、僕は腰を下ろした。
お兄ちゃんの甘いかんばせが、僕の方を向く。
「雨宮のおばさんにはきちんとお礼を言ってるか?」
うん、と僕は頷いた。
「母さんにも心配しないでって伝えてる?」
僕は、黙って首を振る。
よかった、とお兄ちゃんは笑った。
どうして、自分が傷ついているのに、自分のことじゃなくて周りの心配ばかりをするのだろう、と僕はぼんやり思った。
「佑成。」
お兄ちゃんのベッドを挟んだ向かい側で、雨宮が真剣な顔をしていた。
お兄ちゃんの顔が、雨宮の方を向く。
勿忘草色の髪がさらり、と僕の方を向く。
「俺、来月の大会出ンのやめた。」
え、とお兄ちゃんは声を出す。
「なんで。」
「だって、暑ィし。」
進路に関係ねェじゃん、と雨宮がこぼした。
「今からエントリーし直しってできないのか。」
お兄ちゃんは静かに言った。
「無理だね。」
雨宮は、きっぱりと言い切った。
「お前の退院、っていう母さんへの説明もつくし、……災難だったとは思うけど、お前の入院のおかげで俺は苦しまずに済んだってワケ。」
なァ翼、なんて雨宮はこちらに笑いかけてくる。
ああ、まただ。
また雨宮はお兄ちゃんを優先している。
「俺のせいって、何だか悪いよ。」
お兄ちゃんの横顔は、バツが悪そうだった。
蜂蜜みたいなお兄ちゃんの瞳は、窓から差す太陽の光できらきらと輝く。
「本当に俺は陸上好きじゃないんだって。」
雨宮は屈託なく笑った。
お兄ちゃんの色素の薄い瞳を通して見た世界は、きっととっても明るく見えるんだろう。
ねえ。
お兄ちゃんの形のいい後頭部が、僕の方に向けられる。雨宮と何か話し続けていた。
お兄ちゃん、どんな顔してるの。
雨宮の大事なものを奪って、どうして、そんな平気そうなの。
雨宮は、お兄ちゃんを見て楽しそうに笑っていた。赤茶けた髪が、陽の光をたっぷり吸って、いつもより赤っぽく見える。
雨宮は、どうしてそこまでしてお兄ちゃんを想うの。お兄ちゃんに気を遣われないように振る舞うの。
お兄ちゃんと僕はそんなに違うの?
僕を見てよ、お兄ちゃんなんか。
お兄ちゃんなんか見ないで──。
「いッ……!」
お兄ちゃんの声に、雨宮が勢いよく立ち上がる。
怖い顔で、雨宮が僕の腕を掴んで、上にあげる。
「なにしてんだよ。」
硬質な、雨宮の声。
僕の手から、お兄ちゃんの髪の毛が数本落ちる。
あ。
またやっちゃった。
体の中心が急激に冷えていく感じがする。
お兄ちゃん、僕、そんなつもりじゃなくて。
言い訳は、喉まで出かかって、何かにつっかえてうまく言葉にできない。
僕の両手は、情けなく空を切っていた。
お兄ちゃんが、僕の手をぎゅっと握る。
僕の名前がお兄ちゃんに呼ばれる。僕は、お兄ちゃんに助けて欲しいという顔をした。
「掴むものがなくて、思わず俺の髪を引っ張っちゃったんだろ?」
お兄ちゃんの蜂蜜色の瞳は、痛みによる涙だろうか、ゆらゆらと薄い膜が揺れていた。
「雨宮、翼の手を離してやってくれ。」
しぶしぶ、といった様子で、雨宮の手が離れていく。勢いよく掴まれたところに、雨宮の指の跡が残った。
やってしまった、また。
お兄ちゃんと、こういう突発的な衝動は、上手にコントロールしなきゃダメって約束をしたのに。
「でも、自分の気持ちを押し殺さなくなったのはすごくいいことだよ。」
お兄ちゃんは、甘く笑った。
「お兄ちゃんは、翼のそういうところが好きだから。」
同じことを、昔にも言われた気がする。
涼しい病室なのに、あの夏の蒸し暑い記憶が蘇る。
煩い蝉の声。殆ど身体が動かなくて、死んだように横たわっていた僕。
黒ぼけた畳の目には、きっと僕の汗がじんわりと染み付いているに違いなかった。
あの日、僕はお兄ちゃんに怒ったのだったかな。
ぼんやりした意識を引き戻したのは、お兄ちゃんの手の感覚だった。
お兄ちゃんに、僕の腕についた雨宮の手形をなぞられる。くすぐったかった。
「痛かったろ、大丈夫か?」
お兄ちゃんは、身体を起き上がらせて、僕の方を見た。雨宮が、心配そうにお兄ちゃんを見ている。
勿忘草色の髪が、緩く乱れて日の光に照らされている。
「く、すぐったい。」
やっと喉から出たのは、言い訳でも、謝罪でもなく、お兄ちゃんの手の感覚だった。
お兄ちゃんは、悪戯っぽく笑った。
雨宮が、お兄ちゃんの後ろで僕を警戒するように注意深く見守っている。
その目を見て、胸の奥がひやりとした。
雨宮は、僕を怒っている。
その視線は、きっと僕を責めていた。
僕の軽々な行いも、僕の子供じみた性格も。
人間ができたお兄ちゃんと、未熟な自分を比べると、毎回、僕は自分が居た堪れなくなった。
「翼?」
お兄ちゃんが、不思議そうに僕の顔を覗き込むと同時に、誰かが病室の扉を叩いた。
さっき案内してくれた看護師さんだった。
温和そうだけれども、僕とはあまり目が合わない。また雨宮に何かを話しかけていた。
「翼、帰るよ。」
雨宮はこちらに向き直って言った。
うん、と僕は従った。
いつもより時間が短い気がしたけれども、僕は席を立った。
雨宮は、またお兄ちゃんに何か耳打ちをしているようだった。
仕方ないこととわかっていても、何だか、僕だけがのけ者にされているような気がした。看護師と雨宮が、しばらくナースステーションで話すのを待つ間、僕は病院の待合室に座っていた。
昨日より遅い時間だからだろうか、数こそ少ないが、熱に浮かされぐったりとした少年と、それを心配げに見つめる母親が、待合室の端っこに座っていた。
その子の母親は、子供をとても大事そうに見つめていた。午後の光に照らされた二人は、僕にはとても眩しかった。
雨宮が戻ってきて、病院を出る。
ぶわ、と湿気と熱気に全身を包まれるのを感じる。鼻の頭に汗が滲んでくる気がした。
「あつ。」
呟けば、雨宮から名前を呼ばれる。
「暫く、お見舞いやめっか。」
僕は思わず雨宮を見つめる。
頭が冷えていくような嫌な気持ちがした。
それは、僕が思っていたよりずっと嫌な言葉だった。
なんで、と口から出そうになった言葉を、慌てて飲み込む。
どうして、なんて聞いたら、僕が雨宮に会いたがっているみたいだった。
「ン?」
雨宮が、なんでもないことのように見つめ返してくる。
「さっき、看護師さんたちに怒られちった、毎日来てねぇで勉強しろ〜って。」
雨宮は、笑っていた。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。
本当にそれだけ?と僕は聞こうとしてやめた。
雨宮が言いたくないことを、無理やり聞き出したくはなかった。
それでも、お兄ちゃんの様子が心配だ、とか、母さんの代わりに僕がきちんとお兄ちゃんを見ていなくちゃ、とか、姑息な建前ばかり頭に浮かんだ。
雨宮に会うきっかけを、このお見舞いを、どうしてもなくしたくなかった。
今の僕は、きっと酸素を求める魚のように不恰好だろう。しかしそれもお似合いかもしれない。僕はずっと自分勝手なことばかり考えていたから。
「お前も、ちょうどいいじゃん、同級生の友達と仲良くしなきゃって言ってたし。」
それはと言葉にして、それ以上の言葉は引っ込めた。
それも建前。
僕が、雨宮のことを好きじゃないって、一緒にいても、別に楽しくないって証明するための。
同級生に仲のいいやつなんか、本当は。
また、言いたいことが喉につっかかっている。
「とにかく、暫くはお見舞いはなしな、俺も他にやりてぇことあるし。」
陸上の大会に出ない雨宮に、お兄ちゃんを見舞う以外にすることなんてあるはずない。
「んま、そういうことで。とりあえず明日からは病院集合ナシで、俺の家に直接来るよ〜に!」
雨宮は、いつも通りに戻っていた。
僕はほっとする。
雨宮に会えないわけじゃない。
それだけで、胸の奥に張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
雨宮がいれば、きっと大丈夫だ。
何が大丈夫なのか、自分でもよくわからなかった。
同時に、自分の欲深さに嫌になる。
僕がお兄ちゃんのこと、心配してたわけじゃないんだって、まざまざと実感させられたような気がした。
───
俺よりずっと赤っぽい癖毛がぴょこと跳ねている。
「うわっ……!」
びっくりして思わず声を上げた。
人が風呂入ってんのがわかってんのに、脱衣所に立ってる馬鹿がいるか、と俺は思わず苛立つ。
いつもみたいに、翼と一緒に飯を食って、暗くならないうちに家に帰して、それから、俺が風呂を上がって扉を開けると、脱衣所に俺の弟が立っていた。
平静を装って裸のままバスタオルを取って風呂場に戻る。身体を拭きながら、結になんて注意しようか考えていると、今度は外から勢いよく風呂の扉を開けられる。
「うわっ!」
俺は隠しようもなく驚いて声を上げた。
「兄さん、久しぶり!」
心臓を落ち着けて、俺は弟の名前を呼ぶ。
「久しぶりもクソもあるか、人が裸の時に風呂に押しかけるのは兄弟でもおかしいだろ馬鹿。」
はあ、と俺は溜息をつく。
はっとして俺は結におそるおそる話しかける。すっと俺は股間をバスタオルで隠した。
「……もしかして、お前男が好きなんかよ?」
言いにくかったら別にいいぞ、と付け足そうとして食い気味に結は否定してくる。
「いや、女の人が好きだよ。彼女いるし。」
空手バカの結にすら彼女がいる、などという余計な情報を耳に入れたせいで若干不愉快である。
「じゃあ風呂の中まで押しかけてくんな馬鹿。」
当てつけるように俺は吐き捨てて、どけどけ、と結を押し退けて脱衣所に上がる。
「兄さんが風呂に入るのが遅いのが悪いよ。僕は早くお風呂に入りたかったのに。」
どうやら、風呂に押しかけてきたのは、てめぇが風呂に入りたかったからということらしい。
よく体育会で一年生やれてんな、と思う自己中暴君ぶりである。
辟易とした顔を隠しもしなかったので、結が不服そうにこちらを向く。
「いいんだよ、うちの部活は実力主義だ。先輩たちに僕は負けないからね。」
俺はますます面白くない。
「いーよな、天才クンは。」
結の顔が、苛立ちを見せた。
「天才天才って、兄さんだって本気を出せばなんだってできるだろう。陸上だってやっと一年続いたのに今回の大会は出ないって──。」
「はいストップ。」
語気を荒げる弟を、視線で、声で牽制する。
違う土俵に立っている人間に、凡人の器用貧乏な俺と、天才肌でのめり込みやすい結とで話しをしても、お互い、理解ができるわけがなかった。
結の、そうやって一つのことだけ考えていられるのは、俺にとっては眩しく見える。
目の前の結は不貞腐れたように話を戻した。
「そもそもの話、兄さんが夕飯の前にお風呂に入ったら済む話だよ。」
弟のガキっぽさに心配になる。本当にこいつ、部活で上手くやれてんのか。
「あのね結きゅん、お客様が来てんのに、俺だけ風呂入れねえだろ。」
俺が服を着て、リビングに向かって歩き出すと、結も付いてくる。おい、風呂入るんじゃなかったのかよ。
「翼くん?だよね、最近また来てるって母さんから聞いたよ。」
リビングでは、テレビがつけっぱなしになっていた。画面の中ではくだらないクイズに躍起になる大人たちが映っていた。
「お前、これ見てたの、つまんねェだろこれ。」
リモコンのチャンネルをいじる。
この時間なら、これが一番おもしれぇよな、と俺が最近よく見ているドラマをかける。
「話を逸らさないでよ、兄さん。」
弟の、真っ直ぐな視線。
青い瞳は、俺と同じだった。
「翼くんって、佑成さんの弟さんでしょ。」
結は、部活明けで疲れているだろうに、べらべらと話を続ける。
「お母さんが違うんだよね。」
ひやり、とする。
まだガキの結は思ったことをそのまま口に出す悪癖があった。
俺は、嗜めるように結の名前を呼ぶ。
「だから翼くんが佑成さんを突き落としたんじゃないの。」
ぞわりと胸の内に嫌な感情が込み上げる。
今日、翼が佑成の髪を引っ掴んだ記憶が蘇る。
まさかと思っても、それでも結を完全に否定できないのは、後味が悪い。
「知らねぇっつうの。」
俺は誤魔化すようにテレビのチャンネルをいじる。
「知ってるでしょう、毎日佑成さんに会っているんだよね。」
弟は、少し苛立ったように語気を荒げる。
「どうして、兄さんは翼くんをかばうの?」
かばうも何も、真相を知らないのだ。
友達にとって大事な弟を傷つけるなんてしたくなかった。鼻で笑って無視を続けていると、痺れを切らしたのだろう、結はよく通る声でこぼした。
「お兄さんを、彼は階段から落としたんだよ。」
怒りを押し殺そうとしてるんだろう、おかしいくらい声が震えている。思わず弟くんを見れば、座った身体をぶるぶると震えているようだった。
「それで?」
弟は、苛立ちを抑えきれないかのように─もちろん、翼に対してではなく、暖簾に腕押しな俺の態度に対してだろう─言葉を詰まらせる。
弟が、深く息をつく。
「……兄さんじゃ、お話にならないよ。」
テレビのチャンネルは、結が最初にかけていたくだらない番組のままになってしまった。タレントの回答は間違っていたようで、ブーという不正解を示す効果音が聞こえる。
「聞いてるの?兄さん。」
「ン?」
弟は、まだ座ったままだ。
お話にならない、と言いながらも、俺と話す席を立ち上がろうとしないのは、無意識か、それとも駆け引きをしようとしているのか。
「お話にならねぇってんなら、てめぇで直接話してこいよ、翼と佑成と。」
俺だって、わかるもんなら知りたいと思ったから言葉にしたのだが、思ったより冷たい声色になってしまって自分でも驚く。視界の端に映った弟くんは、ぎくりと身体を強張らせていた。
大人たちがふざける画面の向こうに、俺はもはや関心はない。
机に置いていたスマホを握りしめて、俺はゆっくりと弟の方を向いた。
弟は横に突っ立ったままだ。まだ何か言いたいことがあるらしい。
「どうした、結くん。」
突っ立ってないで座れ、とジェスチャーすると、何を勘違いしたのか、俺の横にぴったりとくっついて座ってくる。バカだな、と思いながら俺はスマホで動画を見始めた。
こっちもくだらない内容ばかりで、辟易とする。
ぽつり、と結が呟いた。
「兄さんたちだけ、ずるいよ。」
予想外のことを言われて、俺は思わず弟の顔を見る。
テレビは、いつのまにか終わったみたいで二十二時前のニュースを報じている。
「兄さんと、佑成さんは、それから、翼くんは、一体何を隠しているの。」
その瞳は青く、俺とそっくりだ。
違うのは、その瞳に違わず、結は尻まで青いこと。
「隠してる、ねェ。」
隠してなんかないのだ。
だって、あの日のことは『何もなかった』のだから。
「お前も俺とか母さんほっぽって、空手ばっかりやってるっしょ、だから俺たちは俺たちで楽しくやるからいいんだよ。」
煙に巻くしかない、変に突いてもきっとこいつは俺から何かを聞き出そうとするから。
「はぐらかさないでよ。」
がしり、と右手首を掴まれる。
風呂上がりで熱い手だ。握られたところが白くなっていく。骨がみしみしと音を上げそうだ。
「痛ぇな、力加減間違えてんぞ馬鹿。」
俺が大袈裟に痛がっても、弟は手を離さなかった。
「嘘をつかないでよ、兄さん。」
真っ直ぐな目だ。
俺と同じ、青い瞳。
もう一人の自分に問い詰められてるみたいで居心地が悪い。
いっそ、言ってしまった方が楽なのはわかっている。これは、俺が背負う必要があるかも、正直わからないことだ。
だからといって、将来有望な弟を巻き込むのは、絶対に避けなくてはならない。
ニュースではある母親が子供を殺した、という報道を読み上げていた。
虐待、という言葉に背が寒くなる。
去年の、佑成と座っていた公園を思い出していた。
思い出したくなんて、ねえのにな。
あの日の思い出が、じわじわと形を得て俺に近づいてくる気がした。
───
去年の夏も今年と同じくらい暑くて、高校に入って初めての夏休みは、思ったより輝かしいものではなかった。
10年前に導入されたらしい教室のエアコンは、あまりにもポンコツで教室は全くもって涼しくない。
「窓際だからだろ、俺たち。」
ギラギラと照りつける日差しが、俺の肌を刺すようだった。
その隣の席で、俺を日よけにしてるとはいえ、そこそこ太陽の被害を被っていた佑成は、机に突っ伏しながら、半ば諦めたように俺にこぼした。
分厚くてほとんど風を送れない、なんかの教科書で風を仰いでいる。
「やめだ、やめ。」
暑い上に意味がなさそうな佑成の行動をやめさせて、俺は立ち上がる。
「帰んぞ。」
佑成は、はぁとため息をついた。
「お前んち帰ったら遊んで勉強できない。」
「熱中症ンなって勉強できないよりか有意義だろ。」
一年の夏。
私立らしく手厚い補講講座があるうちの学校では、午前中の補講のあとは、各自の教室で自主勉が課されていた。
まあ、大抵のやつは部活しにどっかに行っちまってたけど。
俺は善は急げと思って、さっさと荷物を片付ける。学校の机は、机に積んでいた教科書をしまうたびに、がたがたと揺れている。
「今日も飯食っていけよ。」
ぱっと佑成の方を見た。
その蜂蜜色の瞳が、一瞬動揺する。
そして、ふっと目が伏せられた。
「いや……。」
遠慮してるんだというのは、コイツの言葉尻からわかった。
「なァに?らしくもなく遠慮でちゅか佑ちゃん?」
佑成の家は、おふくろさんが相当忙しいらしい。
俺も詳しい事情は知らない。
ただ、高校生活の幕開けと同時に隣の席になったこいつは、よく話してみると、ほとんど一人暮らしみたいな生活をしていると言った。
母親と彼の2人暮らしだが、仕事が忙しいのだろう、佑成は食事もほとんど1人でとっているのだと言う。
この頃の佑成は、笑ったときに少し寂しそうな顔をしていた気がする。それでも、寂しいとは絶対に口にしない。我慢ばかりするくせに、意外とわかりやすいやつだった。
俺の家は、父さんは単身赴任で滅多に帰らないし、弟も空手の合宿だなんだで家を空けがちだった。母さんは、そんなわけで、佑成を快く受け入れ、佑成は、雨宮家の食卓に顔を見せることが多くなった。
次第に、佑成は、ほとんど親戚みたいになっていたし、実際家も近かったからお互いにそう認識していた気がする。
そんな中だった。
ある日佑成から俺は、そこそこ衝撃的なことを聞かされる。
これも、補講の帰り道だった。
「弟が、できたんだ。」
蒸し暑い、夏。
この日は今にも雨が降り出しそうで、学校から俺の家まで続くゆったりした坂道を、二人で走っていたのだ。
俺は、思わず立ち止まった。
「あ、ぶないな、急に立ち止まるなよ。」
佑成は、俺の背中にタックルしながら、坂道を降りる脚を止めた。
「ふうん。」
俺は、何気ないふりをしながら、同級生の家族の事情を急に打ち明けられたことに、困惑していた。
佑成の父親に会った事は無いが、佑成は父親によく似ていると言われるのだという。
「どんな子なの。」
困惑したなりに、友達を紹介されたときみたいなふりをして、なんてことはないように聞いた。
「俺とよく似てると思う。」
俺は、ちらりと佑成の顔を見た。
俺とふざける時とはまた違う顔で、嬉しそうに笑っていた。
「ちょっと急にカッとなりやすいところがある、かも?」
少しだけ、佑成の顔が暗くなった。
落とされた目線の先、いっそわざとらしいくらいに、佑成の手首の甲には絆創膏が貼られていた。
俺は、何と言っていいか、やはりわからなくなっていた。そんな俺の当惑に気がついたように、佑成が笑って言った。
「でも、可愛い弟だよ。」
雨宮にも弟がいるもんね、わかるよね、なんて迫ってくるのが、いつもよりずっと語気が強く必死で、俺は、曖昧な相槌でその話を終わらせようとした。否定しない俺に気を良くしたのか、佑成は話を続ける。
「母さんは違うんだ。」
完全に気圧されていた。
一方的に話して、表情をころころ変えて。
こんな調子の佑成を俺は初めて見た。
お、おう、なんて俺は情けない声を上げて佑成の顔を見つめる。
「1歳差なんだ、来年、ここの学校に入るよ。」
佑成は、いっそう嬉しそうに話し続ける。垂れた目がさらにきゅうっと下がっている。
「一緒に住むんだ。」
見て、と陶器製の招き猫のストラップを見せられる。
鈴がついていたけれど、雨音にかき消されて聞こえない。佑成の指に引っかかった先、小さな猫の細い目は、にっこりと笑っていて、腹のところに『招福』なんてでかでかと書かれている。
ところどころに見える作りの荒さが、異国情緒を感じさせた。
「何それ。」
俺は聞いた。
佑成は、ストラップの猫みたいに目をすうっと細めてこう言った。
「弟がくれたんだ。」
ちりん、と鈴が鳴った気がしたけれど、雨が強くて確かじゃない。
いつもと調子が違うのには戸惑ったが、こいつから話し出して、こんなに遠慮せずに笑うのを初めて見た気がした。
「よかったな。」
俺は、本音で返事をした。
ああ、やっぱりこいつは寂しかったんだな、と友人の抱く孤独の答え合わせを、俺は密かに行なっていた。
雨が、強く降り出した。
まるでスコールみたいに一気に降り出す。
差してた傘も、ふきつける雨と途端にできていく水溜りの前にはほとんど無力で、俺たちの制服も運動靴もびしゃびしゃになった。長い坂には、小さな川みたいな水の流れが出来上がっていた。
俺たちは俺の家に向かって、転がるように走っていった。
それからの佑成は、俺んちに毎日寄る生活ではなくなった。なんでも、弟と一緒に夕飯を食べているのだという。
蝉がミンミンうるさいだけの補講が、唯一、佑成と顔を合わせられる機会だった。
「今日、雨宮んち行ってもいい?」
ただ教室で顔を合わせるばかりになっていた数日ののち、佑成が言った。
その日は台風が近づいていて、珍しく風が涼しかった。
「ん、いいよ。」
補講の最後の一コマが始まる。
俺が、何でもないようにスマホを開いて、すぐに母さんに連絡すると、いいよとすぐに連絡が返ってきた。
補講が終わり、俺は荷物をまとめながらなんとはなしに佑成に聞いた。
「弟くんちはどんな感じなの?」
異母弟なんだと聞いてから、易々と触れることはできない話題だった。
思うに、前日まで珍しく真面目に陸部の練習に参加していたから、連日の日差しで、頭がおかしくなっていたんだと思う。実際疲れも溜まっていたし、考えずに話し出す俺の悪い癖が出ていたみたいだった。
蝉が、一斉に鳴き出した。
「そうだな。」
ぽつんと、佑成は言った。
「あんまり、良くなかったよ。」
佑成は、いつも弟のことを話す時とは違って、悲しそうな目をした。
蝉はぴたりと鳴き止んだ。
会話は、それきりだった。
俺は聞かなきゃよかったかも、なんて柄にもない後悔をしたのだった。
いつもの帰り道も、俺は何か意味のない会話を佑成にふっかけたけれども、大体、上の空の返事が返ってきて、いつもみたいにはならなかった。
足だけは意思と関係なく、ずんずんと俺の家の方に進んでいく。佑成は、いつもより歩くのが遅かった。道のほとんどが上り坂でお互い前だけ見ていたので会話をしなくていいのは気が楽だった。
が、坂を上り切ってしまった。
謝らねぇと。
俺は、佑成の顔を見た。
息を呑んだ。
佑成は泣いていた。
「っ、おい。」
俺は、思わず近くの公園に佑成を引っ張って行った。その顔で俺の母さんに会うのは嫌だろうと思ったからだ。
ベンチに荷物を放って、佑成にタオルを投げる。
「あ、それちゃんと使ってねぇやつな。」
言い逃げをして、自販機に俺は駆け寄る。
広い公園の、誰もいない無駄に広い砂場を突っ切る。足が深く沈んで歩きにくい。
できるだけゆっくり自販機に向かって、飲みきりサイズの小さいコーラを買った。
遠くからちらりと佑成を見ると、タオルでゴシゴシ顔を擦っていた。
またゆっくり歩いてベンチに戻れば、涙こそ止まったものの、目が腫れている佑成がぼうっと座っていた。
「ん。」
コーラを渡せば、小さく礼を言われる。
佑成が抜け殻になっちゃったみたいで、俺は何と声をかけていいかわからなかった。
「弟は。」
少しだけ、沈黙。蝉が、か細く鳴き出す。
「虐待を」
蝉の合唱が始まって、佑成の声が聞き取りにくくなる。
「ていうか、ネグレクトされてて。」
自然、佑成の声が大きくなっていき、言葉も堰を切ったみたいにどんどん溢れ出す。
──弟は、翼はお風呂も、ご飯も入っていなくて、こんな暑いのに、部屋の冷房も切れてた!
母親もいないし、馬鹿な俺の親父がいるはずなんてなくて、汚い畳に、死んじゃったみたいに弟が倒れてた。
叫ぶみたいな佑成の声が止むと、蝉もけたたましい群れでの合唱をやめた。
「俺、すごい怖かったんだ。」
息を切らしながら、絞り出したように言った佑成の顔色は真っ青で、夏なのに震えていた。俺は、より何と言ったらいいかわからなかった。
その夏の熱を、臭気を、絶望を、俺は見ていないのに、それでも佑成の言葉ひとつひとつには、それらがまとわり付いてくるようだった。
今思い出しただけでも、得体の知れない嫌な感情が胸に広がる。
「ねえ、兄さん。」
結の声がした。
「聞いてるのかな。僕は真面目に話しているよ。」
クソ暑いのに、横にひっついている弟の体温に俺の意識が今に戻る。
涼しい冷房の効いた部屋、風呂上がりの石鹸の香り、テレビの音。
ニュースはとうに終わっていて、いつのまにかバラエティ番組に切り替わっている。
「俺たちは、普通の家でよかったのかも。」
なあ、と家でしか言えないことを、三上兄弟の前では絶対に言っちゃいけないことをこぼす。
弟は、訳がわからないとため息をついた。
痺れを切らしたように、俺から離れて、チャンネルを変え始める。
呑気そうな弟の頭を、俺はガシガシと撫で回す。
「まぁ、結くんにもわかるように言うと、他人様の家には他人様の事情があるってこった。」
弟の青い目は、もう俺を見なかった。
全く、自分から聞いといて勝手な弟だと、俺は静かに笑った。
「てか、結、合宿どうしたの。」
ふと、我に返って俺は聞いた。
「監督が熱中症で倒れて中止だよ。」
弟は、俺にちらりとも目線をくれずに言い放つ。
「佑成さんのお見舞い、僕も行こうかな。」
なんでもないことのように、弟は言った。
きっと、俺が何も教えてくれない、とかなんとか言って、その『隠しごと』とやらを佑成から聞き出すつもりなんだろう。
「いいけど。」
佑成がお前に教えてくれるはずねェけど、という言葉は飲み込んだ。
「昼前から夕方になっからな。具体的な時間は、俺の補講が終わってから連絡する。」
わかった、と弟は言った。
僕の額から頬にかけて、汗がつうっと流れる。
コンクリートからの照り返し、汗だくで暑苦しい雨宮のおしゃべり、頭のてっぺんには太陽。暑いものに囲まれて、僕は気が滅入っていた。
おまけに、学校から病院までの道のりは坂ばかり。歩道をお行儀よくコンクリートで舗装しているおかげで、木陰が少ないのも腹立たしい。
夏は、嫌いだ。
暑さのせいで、嫌なことを思い出すから。
蝉の声も、照りつける日差しも、湿った空気も。
夏になると、忘れたふりをしていたことまで、勝手に蘇ってくる。
雨宮があっと大きな声を出す。
「堀ちゃんからプリント持っていけって言われたのに忘れたわ。」
やっちゃった、と雨宮は笑った。
「ま、お前の兄ちゃんの夏休みの宿題が増えるだけだし、いっか。」
よくないんじゃないの、と反論してみるが、雨宮はずんずんと病院に向かって歩く足を止めない。
僕は、暑さに辟易しながら、雨宮にいいところを見せたくてなんとか歩く。
歩幅の違いか、あるいは脚の長さとか身長の違いなのか。何にせよ、僕は気を抜くとすぐ雨宮を追いかけるような形になってしまうから、急いで歩かなくてはないけない。
病院前、へとへとの僕みたいに俯く向日葵は、やはり陰気臭くて嫌いだ。
「今日は時間通り。」
昨日より雨宮の荷物は少ない。
病院に入る前に、僕が雨宮をじっとみつめると、「ン?」と見つめ返される。
「あァ、鞄?」
雨宮は、自分の背に背負う鞄に目線を落とした。
「今日、本も、部活のシューズも入れてねェからな。」
暑ちぃから行こうぜ、と言われて病院の中に入ると、いつも通りの消毒の匂い。ずんずんと病室に向かおうとすると、看護師さんと目が合う。
軽く会釈をされて、それから、看護師は雨宮に何かを話しかけた。
一緒に病室に行くらしい。
大袈裟だよな、と僕は思った。
いつもみたいな軽い扉を開くと、今日のお兄ちゃんは横になっていた。
「外、暑そうだな。」
少し低くて、甘い声。
病室の枕に広がるお兄ちゃんの髪の毛は、太陽の光を受けてつやつやと光る。
僕は、思わず頷いた。
「あちィよ、こんななか1500mも走るの、頭おかしいだろ。」
ぎし、と雨宮がいつもの丸椅子に腰掛ける音がする。お兄ちゃんが、おいで、と僕に手招きした。
「翼、雨宮の隣が嫌ならこっちの椅子でもいいぞ。」
「オイ。」
雨宮の、ふざけて凄む声。
ころころとお兄ちゃんの笑う声。
こんなに楽しそうなお兄ちゃんは久しぶりに見た。
こっちの椅子の方が、雨宮の顔を見れるかも、なんて下心で、お兄ちゃんが誘った窓際の椅子に、僕は腰を下ろした。
お兄ちゃんの甘いかんばせが、僕の方を向く。
「雨宮のおばさんにはきちんとお礼を言ってるか?」
うん、と僕は頷いた。
「母さんにも心配しないでって伝えてる?」
僕は、黙って首を振る。
よかった、とお兄ちゃんは笑った。
どうして、自分が傷ついているのに、自分のことじゃなくて周りの心配ばかりをするのだろう、と僕はぼんやり思った。
「佑成。」
お兄ちゃんのベッドを挟んだ向かい側で、雨宮が真剣な顔をしていた。
お兄ちゃんの顔が、雨宮の方を向く。
勿忘草色の髪がさらり、と僕の方を向く。
「俺、来月の大会出ンのやめた。」
え、とお兄ちゃんは声を出す。
「なんで。」
「だって、暑ィし。」
進路に関係ねェじゃん、と雨宮がこぼした。
「今からエントリーし直しってできないのか。」
お兄ちゃんは静かに言った。
「無理だね。」
雨宮は、きっぱりと言い切った。
「お前の退院、っていう母さんへの説明もつくし、……災難だったとは思うけど、お前の入院のおかげで俺は苦しまずに済んだってワケ。」
なァ翼、なんて雨宮はこちらに笑いかけてくる。
ああ、まただ。
また雨宮はお兄ちゃんを優先している。
「俺のせいって、何だか悪いよ。」
お兄ちゃんの横顔は、バツが悪そうだった。
蜂蜜みたいなお兄ちゃんの瞳は、窓から差す太陽の光できらきらと輝く。
「本当に俺は陸上好きじゃないんだって。」
雨宮は屈託なく笑った。
お兄ちゃんの色素の薄い瞳を通して見た世界は、きっととっても明るく見えるんだろう。
ねえ。
お兄ちゃんの形のいい後頭部が、僕の方に向けられる。雨宮と何か話し続けていた。
お兄ちゃん、どんな顔してるの。
雨宮の大事なものを奪って、どうして、そんな平気そうなの。
雨宮は、お兄ちゃんを見て楽しそうに笑っていた。赤茶けた髪が、陽の光をたっぷり吸って、いつもより赤っぽく見える。
雨宮は、どうしてそこまでしてお兄ちゃんを想うの。お兄ちゃんに気を遣われないように振る舞うの。
お兄ちゃんと僕はそんなに違うの?
僕を見てよ、お兄ちゃんなんか。
お兄ちゃんなんか見ないで──。
「いッ……!」
お兄ちゃんの声に、雨宮が勢いよく立ち上がる。
怖い顔で、雨宮が僕の腕を掴んで、上にあげる。
「なにしてんだよ。」
硬質な、雨宮の声。
僕の手から、お兄ちゃんの髪の毛が数本落ちる。
あ。
またやっちゃった。
体の中心が急激に冷えていく感じがする。
お兄ちゃん、僕、そんなつもりじゃなくて。
言い訳は、喉まで出かかって、何かにつっかえてうまく言葉にできない。
僕の両手は、情けなく空を切っていた。
お兄ちゃんが、僕の手をぎゅっと握る。
僕の名前がお兄ちゃんに呼ばれる。僕は、お兄ちゃんに助けて欲しいという顔をした。
「掴むものがなくて、思わず俺の髪を引っ張っちゃったんだろ?」
お兄ちゃんの蜂蜜色の瞳は、痛みによる涙だろうか、ゆらゆらと薄い膜が揺れていた。
「雨宮、翼の手を離してやってくれ。」
しぶしぶ、といった様子で、雨宮の手が離れていく。勢いよく掴まれたところに、雨宮の指の跡が残った。
やってしまった、また。
お兄ちゃんと、こういう突発的な衝動は、上手にコントロールしなきゃダメって約束をしたのに。
「でも、自分の気持ちを押し殺さなくなったのはすごくいいことだよ。」
お兄ちゃんは、甘く笑った。
「お兄ちゃんは、翼のそういうところが好きだから。」
同じことを、昔にも言われた気がする。
涼しい病室なのに、あの夏の蒸し暑い記憶が蘇る。
煩い蝉の声。殆ど身体が動かなくて、死んだように横たわっていた僕。
黒ぼけた畳の目には、きっと僕の汗がじんわりと染み付いているに違いなかった。
あの日、僕はお兄ちゃんに怒ったのだったかな。
ぼんやりした意識を引き戻したのは、お兄ちゃんの手の感覚だった。
お兄ちゃんに、僕の腕についた雨宮の手形をなぞられる。くすぐったかった。
「痛かったろ、大丈夫か?」
お兄ちゃんは、身体を起き上がらせて、僕の方を見た。雨宮が、心配そうにお兄ちゃんを見ている。
勿忘草色の髪が、緩く乱れて日の光に照らされている。
「く、すぐったい。」
やっと喉から出たのは、言い訳でも、謝罪でもなく、お兄ちゃんの手の感覚だった。
お兄ちゃんは、悪戯っぽく笑った。
雨宮が、お兄ちゃんの後ろで僕を警戒するように注意深く見守っている。
その目を見て、胸の奥がひやりとした。
雨宮は、僕を怒っている。
その視線は、きっと僕を責めていた。
僕の軽々な行いも、僕の子供じみた性格も。
人間ができたお兄ちゃんと、未熟な自分を比べると、毎回、僕は自分が居た堪れなくなった。
「翼?」
お兄ちゃんが、不思議そうに僕の顔を覗き込むと同時に、誰かが病室の扉を叩いた。
さっき案内してくれた看護師さんだった。
温和そうだけれども、僕とはあまり目が合わない。また雨宮に何かを話しかけていた。
「翼、帰るよ。」
雨宮はこちらに向き直って言った。
うん、と僕は従った。
いつもより時間が短い気がしたけれども、僕は席を立った。
雨宮は、またお兄ちゃんに何か耳打ちをしているようだった。
仕方ないこととわかっていても、何だか、僕だけがのけ者にされているような気がした。看護師と雨宮が、しばらくナースステーションで話すのを待つ間、僕は病院の待合室に座っていた。
昨日より遅い時間だからだろうか、数こそ少ないが、熱に浮かされぐったりとした少年と、それを心配げに見つめる母親が、待合室の端っこに座っていた。
その子の母親は、子供をとても大事そうに見つめていた。午後の光に照らされた二人は、僕にはとても眩しかった。
雨宮が戻ってきて、病院を出る。
ぶわ、と湿気と熱気に全身を包まれるのを感じる。鼻の頭に汗が滲んでくる気がした。
「あつ。」
呟けば、雨宮から名前を呼ばれる。
「暫く、お見舞いやめっか。」
僕は思わず雨宮を見つめる。
頭が冷えていくような嫌な気持ちがした。
それは、僕が思っていたよりずっと嫌な言葉だった。
なんで、と口から出そうになった言葉を、慌てて飲み込む。
どうして、なんて聞いたら、僕が雨宮に会いたがっているみたいだった。
「ン?」
雨宮が、なんでもないことのように見つめ返してくる。
「さっき、看護師さんたちに怒られちった、毎日来てねぇで勉強しろ〜って。」
雨宮は、笑っていた。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。
本当にそれだけ?と僕は聞こうとしてやめた。
雨宮が言いたくないことを、無理やり聞き出したくはなかった。
それでも、お兄ちゃんの様子が心配だ、とか、母さんの代わりに僕がきちんとお兄ちゃんを見ていなくちゃ、とか、姑息な建前ばかり頭に浮かんだ。
雨宮に会うきっかけを、このお見舞いを、どうしてもなくしたくなかった。
今の僕は、きっと酸素を求める魚のように不恰好だろう。しかしそれもお似合いかもしれない。僕はずっと自分勝手なことばかり考えていたから。
「お前も、ちょうどいいじゃん、同級生の友達と仲良くしなきゃって言ってたし。」
それはと言葉にして、それ以上の言葉は引っ込めた。
それも建前。
僕が、雨宮のことを好きじゃないって、一緒にいても、別に楽しくないって証明するための。
同級生に仲のいいやつなんか、本当は。
また、言いたいことが喉につっかかっている。
「とにかく、暫くはお見舞いはなしな、俺も他にやりてぇことあるし。」
陸上の大会に出ない雨宮に、お兄ちゃんを見舞う以外にすることなんてあるはずない。
「んま、そういうことで。とりあえず明日からは病院集合ナシで、俺の家に直接来るよ〜に!」
雨宮は、いつも通りに戻っていた。
僕はほっとする。
雨宮に会えないわけじゃない。
それだけで、胸の奥に張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
雨宮がいれば、きっと大丈夫だ。
何が大丈夫なのか、自分でもよくわからなかった。
同時に、自分の欲深さに嫌になる。
僕がお兄ちゃんのこと、心配してたわけじゃないんだって、まざまざと実感させられたような気がした。
───
俺よりずっと赤っぽい癖毛がぴょこと跳ねている。
「うわっ……!」
びっくりして思わず声を上げた。
人が風呂入ってんのがわかってんのに、脱衣所に立ってる馬鹿がいるか、と俺は思わず苛立つ。
いつもみたいに、翼と一緒に飯を食って、暗くならないうちに家に帰して、それから、俺が風呂を上がって扉を開けると、脱衣所に俺の弟が立っていた。
平静を装って裸のままバスタオルを取って風呂場に戻る。身体を拭きながら、結になんて注意しようか考えていると、今度は外から勢いよく風呂の扉を開けられる。
「うわっ!」
俺は隠しようもなく驚いて声を上げた。
「兄さん、久しぶり!」
心臓を落ち着けて、俺は弟の名前を呼ぶ。
「久しぶりもクソもあるか、人が裸の時に風呂に押しかけるのは兄弟でもおかしいだろ馬鹿。」
はあ、と俺は溜息をつく。
はっとして俺は結におそるおそる話しかける。すっと俺は股間をバスタオルで隠した。
「……もしかして、お前男が好きなんかよ?」
言いにくかったら別にいいぞ、と付け足そうとして食い気味に結は否定してくる。
「いや、女の人が好きだよ。彼女いるし。」
空手バカの結にすら彼女がいる、などという余計な情報を耳に入れたせいで若干不愉快である。
「じゃあ風呂の中まで押しかけてくんな馬鹿。」
当てつけるように俺は吐き捨てて、どけどけ、と結を押し退けて脱衣所に上がる。
「兄さんが風呂に入るのが遅いのが悪いよ。僕は早くお風呂に入りたかったのに。」
どうやら、風呂に押しかけてきたのは、てめぇが風呂に入りたかったからということらしい。
よく体育会で一年生やれてんな、と思う自己中暴君ぶりである。
辟易とした顔を隠しもしなかったので、結が不服そうにこちらを向く。
「いいんだよ、うちの部活は実力主義だ。先輩たちに僕は負けないからね。」
俺はますます面白くない。
「いーよな、天才クンは。」
結の顔が、苛立ちを見せた。
「天才天才って、兄さんだって本気を出せばなんだってできるだろう。陸上だってやっと一年続いたのに今回の大会は出ないって──。」
「はいストップ。」
語気を荒げる弟を、視線で、声で牽制する。
違う土俵に立っている人間に、凡人の器用貧乏な俺と、天才肌でのめり込みやすい結とで話しをしても、お互い、理解ができるわけがなかった。
結の、そうやって一つのことだけ考えていられるのは、俺にとっては眩しく見える。
目の前の結は不貞腐れたように話を戻した。
「そもそもの話、兄さんが夕飯の前にお風呂に入ったら済む話だよ。」
弟のガキっぽさに心配になる。本当にこいつ、部活で上手くやれてんのか。
「あのね結きゅん、お客様が来てんのに、俺だけ風呂入れねえだろ。」
俺が服を着て、リビングに向かって歩き出すと、結も付いてくる。おい、風呂入るんじゃなかったのかよ。
「翼くん?だよね、最近また来てるって母さんから聞いたよ。」
リビングでは、テレビがつけっぱなしになっていた。画面の中ではくだらないクイズに躍起になる大人たちが映っていた。
「お前、これ見てたの、つまんねェだろこれ。」
リモコンのチャンネルをいじる。
この時間なら、これが一番おもしれぇよな、と俺が最近よく見ているドラマをかける。
「話を逸らさないでよ、兄さん。」
弟の、真っ直ぐな視線。
青い瞳は、俺と同じだった。
「翼くんって、佑成さんの弟さんでしょ。」
結は、部活明けで疲れているだろうに、べらべらと話を続ける。
「お母さんが違うんだよね。」
ひやり、とする。
まだガキの結は思ったことをそのまま口に出す悪癖があった。
俺は、嗜めるように結の名前を呼ぶ。
「だから翼くんが佑成さんを突き落としたんじゃないの。」
ぞわりと胸の内に嫌な感情が込み上げる。
今日、翼が佑成の髪を引っ掴んだ記憶が蘇る。
まさかと思っても、それでも結を完全に否定できないのは、後味が悪い。
「知らねぇっつうの。」
俺は誤魔化すようにテレビのチャンネルをいじる。
「知ってるでしょう、毎日佑成さんに会っているんだよね。」
弟は、少し苛立ったように語気を荒げる。
「どうして、兄さんは翼くんをかばうの?」
かばうも何も、真相を知らないのだ。
友達にとって大事な弟を傷つけるなんてしたくなかった。鼻で笑って無視を続けていると、痺れを切らしたのだろう、結はよく通る声でこぼした。
「お兄さんを、彼は階段から落としたんだよ。」
怒りを押し殺そうとしてるんだろう、おかしいくらい声が震えている。思わず弟くんを見れば、座った身体をぶるぶると震えているようだった。
「それで?」
弟は、苛立ちを抑えきれないかのように─もちろん、翼に対してではなく、暖簾に腕押しな俺の態度に対してだろう─言葉を詰まらせる。
弟が、深く息をつく。
「……兄さんじゃ、お話にならないよ。」
テレビのチャンネルは、結が最初にかけていたくだらない番組のままになってしまった。タレントの回答は間違っていたようで、ブーという不正解を示す効果音が聞こえる。
「聞いてるの?兄さん。」
「ン?」
弟は、まだ座ったままだ。
お話にならない、と言いながらも、俺と話す席を立ち上がろうとしないのは、無意識か、それとも駆け引きをしようとしているのか。
「お話にならねぇってんなら、てめぇで直接話してこいよ、翼と佑成と。」
俺だって、わかるもんなら知りたいと思ったから言葉にしたのだが、思ったより冷たい声色になってしまって自分でも驚く。視界の端に映った弟くんは、ぎくりと身体を強張らせていた。
大人たちがふざける画面の向こうに、俺はもはや関心はない。
机に置いていたスマホを握りしめて、俺はゆっくりと弟の方を向いた。
弟は横に突っ立ったままだ。まだ何か言いたいことがあるらしい。
「どうした、結くん。」
突っ立ってないで座れ、とジェスチャーすると、何を勘違いしたのか、俺の横にぴったりとくっついて座ってくる。バカだな、と思いながら俺はスマホで動画を見始めた。
こっちもくだらない内容ばかりで、辟易とする。
ぽつり、と結が呟いた。
「兄さんたちだけ、ずるいよ。」
予想外のことを言われて、俺は思わず弟の顔を見る。
テレビは、いつのまにか終わったみたいで二十二時前のニュースを報じている。
「兄さんと、佑成さんは、それから、翼くんは、一体何を隠しているの。」
その瞳は青く、俺とそっくりだ。
違うのは、その瞳に違わず、結は尻まで青いこと。
「隠してる、ねェ。」
隠してなんかないのだ。
だって、あの日のことは『何もなかった』のだから。
「お前も俺とか母さんほっぽって、空手ばっかりやってるっしょ、だから俺たちは俺たちで楽しくやるからいいんだよ。」
煙に巻くしかない、変に突いてもきっとこいつは俺から何かを聞き出そうとするから。
「はぐらかさないでよ。」
がしり、と右手首を掴まれる。
風呂上がりで熱い手だ。握られたところが白くなっていく。骨がみしみしと音を上げそうだ。
「痛ぇな、力加減間違えてんぞ馬鹿。」
俺が大袈裟に痛がっても、弟は手を離さなかった。
「嘘をつかないでよ、兄さん。」
真っ直ぐな目だ。
俺と同じ、青い瞳。
もう一人の自分に問い詰められてるみたいで居心地が悪い。
いっそ、言ってしまった方が楽なのはわかっている。これは、俺が背負う必要があるかも、正直わからないことだ。
だからといって、将来有望な弟を巻き込むのは、絶対に避けなくてはならない。
ニュースではある母親が子供を殺した、という報道を読み上げていた。
虐待、という言葉に背が寒くなる。
去年の、佑成と座っていた公園を思い出していた。
思い出したくなんて、ねえのにな。
あの日の思い出が、じわじわと形を得て俺に近づいてくる気がした。
───
去年の夏も今年と同じくらい暑くて、高校に入って初めての夏休みは、思ったより輝かしいものではなかった。
10年前に導入されたらしい教室のエアコンは、あまりにもポンコツで教室は全くもって涼しくない。
「窓際だからだろ、俺たち。」
ギラギラと照りつける日差しが、俺の肌を刺すようだった。
その隣の席で、俺を日よけにしてるとはいえ、そこそこ太陽の被害を被っていた佑成は、机に突っ伏しながら、半ば諦めたように俺にこぼした。
分厚くてほとんど風を送れない、なんかの教科書で風を仰いでいる。
「やめだ、やめ。」
暑い上に意味がなさそうな佑成の行動をやめさせて、俺は立ち上がる。
「帰んぞ。」
佑成は、はぁとため息をついた。
「お前んち帰ったら遊んで勉強できない。」
「熱中症ンなって勉強できないよりか有意義だろ。」
一年の夏。
私立らしく手厚い補講講座があるうちの学校では、午前中の補講のあとは、各自の教室で自主勉が課されていた。
まあ、大抵のやつは部活しにどっかに行っちまってたけど。
俺は善は急げと思って、さっさと荷物を片付ける。学校の机は、机に積んでいた教科書をしまうたびに、がたがたと揺れている。
「今日も飯食っていけよ。」
ぱっと佑成の方を見た。
その蜂蜜色の瞳が、一瞬動揺する。
そして、ふっと目が伏せられた。
「いや……。」
遠慮してるんだというのは、コイツの言葉尻からわかった。
「なァに?らしくもなく遠慮でちゅか佑ちゃん?」
佑成の家は、おふくろさんが相当忙しいらしい。
俺も詳しい事情は知らない。
ただ、高校生活の幕開けと同時に隣の席になったこいつは、よく話してみると、ほとんど一人暮らしみたいな生活をしていると言った。
母親と彼の2人暮らしだが、仕事が忙しいのだろう、佑成は食事もほとんど1人でとっているのだと言う。
この頃の佑成は、笑ったときに少し寂しそうな顔をしていた気がする。それでも、寂しいとは絶対に口にしない。我慢ばかりするくせに、意外とわかりやすいやつだった。
俺の家は、父さんは単身赴任で滅多に帰らないし、弟も空手の合宿だなんだで家を空けがちだった。母さんは、そんなわけで、佑成を快く受け入れ、佑成は、雨宮家の食卓に顔を見せることが多くなった。
次第に、佑成は、ほとんど親戚みたいになっていたし、実際家も近かったからお互いにそう認識していた気がする。
そんな中だった。
ある日佑成から俺は、そこそこ衝撃的なことを聞かされる。
これも、補講の帰り道だった。
「弟が、できたんだ。」
蒸し暑い、夏。
この日は今にも雨が降り出しそうで、学校から俺の家まで続くゆったりした坂道を、二人で走っていたのだ。
俺は、思わず立ち止まった。
「あ、ぶないな、急に立ち止まるなよ。」
佑成は、俺の背中にタックルしながら、坂道を降りる脚を止めた。
「ふうん。」
俺は、何気ないふりをしながら、同級生の家族の事情を急に打ち明けられたことに、困惑していた。
佑成の父親に会った事は無いが、佑成は父親によく似ていると言われるのだという。
「どんな子なの。」
困惑したなりに、友達を紹介されたときみたいなふりをして、なんてことはないように聞いた。
「俺とよく似てると思う。」
俺は、ちらりと佑成の顔を見た。
俺とふざける時とはまた違う顔で、嬉しそうに笑っていた。
「ちょっと急にカッとなりやすいところがある、かも?」
少しだけ、佑成の顔が暗くなった。
落とされた目線の先、いっそわざとらしいくらいに、佑成の手首の甲には絆創膏が貼られていた。
俺は、何と言っていいか、やはりわからなくなっていた。そんな俺の当惑に気がついたように、佑成が笑って言った。
「でも、可愛い弟だよ。」
雨宮にも弟がいるもんね、わかるよね、なんて迫ってくるのが、いつもよりずっと語気が強く必死で、俺は、曖昧な相槌でその話を終わらせようとした。否定しない俺に気を良くしたのか、佑成は話を続ける。
「母さんは違うんだ。」
完全に気圧されていた。
一方的に話して、表情をころころ変えて。
こんな調子の佑成を俺は初めて見た。
お、おう、なんて俺は情けない声を上げて佑成の顔を見つめる。
「1歳差なんだ、来年、ここの学校に入るよ。」
佑成は、いっそう嬉しそうに話し続ける。垂れた目がさらにきゅうっと下がっている。
「一緒に住むんだ。」
見て、と陶器製の招き猫のストラップを見せられる。
鈴がついていたけれど、雨音にかき消されて聞こえない。佑成の指に引っかかった先、小さな猫の細い目は、にっこりと笑っていて、腹のところに『招福』なんてでかでかと書かれている。
ところどころに見える作りの荒さが、異国情緒を感じさせた。
「何それ。」
俺は聞いた。
佑成は、ストラップの猫みたいに目をすうっと細めてこう言った。
「弟がくれたんだ。」
ちりん、と鈴が鳴った気がしたけれど、雨が強くて確かじゃない。
いつもと調子が違うのには戸惑ったが、こいつから話し出して、こんなに遠慮せずに笑うのを初めて見た気がした。
「よかったな。」
俺は、本音で返事をした。
ああ、やっぱりこいつは寂しかったんだな、と友人の抱く孤独の答え合わせを、俺は密かに行なっていた。
雨が、強く降り出した。
まるでスコールみたいに一気に降り出す。
差してた傘も、ふきつける雨と途端にできていく水溜りの前にはほとんど無力で、俺たちの制服も運動靴もびしゃびしゃになった。長い坂には、小さな川みたいな水の流れが出来上がっていた。
俺たちは俺の家に向かって、転がるように走っていった。
それからの佑成は、俺んちに毎日寄る生活ではなくなった。なんでも、弟と一緒に夕飯を食べているのだという。
蝉がミンミンうるさいだけの補講が、唯一、佑成と顔を合わせられる機会だった。
「今日、雨宮んち行ってもいい?」
ただ教室で顔を合わせるばかりになっていた数日ののち、佑成が言った。
その日は台風が近づいていて、珍しく風が涼しかった。
「ん、いいよ。」
補講の最後の一コマが始まる。
俺が、何でもないようにスマホを開いて、すぐに母さんに連絡すると、いいよとすぐに連絡が返ってきた。
補講が終わり、俺は荷物をまとめながらなんとはなしに佑成に聞いた。
「弟くんちはどんな感じなの?」
異母弟なんだと聞いてから、易々と触れることはできない話題だった。
思うに、前日まで珍しく真面目に陸部の練習に参加していたから、連日の日差しで、頭がおかしくなっていたんだと思う。実際疲れも溜まっていたし、考えずに話し出す俺の悪い癖が出ていたみたいだった。
蝉が、一斉に鳴き出した。
「そうだな。」
ぽつんと、佑成は言った。
「あんまり、良くなかったよ。」
佑成は、いつも弟のことを話す時とは違って、悲しそうな目をした。
蝉はぴたりと鳴き止んだ。
会話は、それきりだった。
俺は聞かなきゃよかったかも、なんて柄にもない後悔をしたのだった。
いつもの帰り道も、俺は何か意味のない会話を佑成にふっかけたけれども、大体、上の空の返事が返ってきて、いつもみたいにはならなかった。
足だけは意思と関係なく、ずんずんと俺の家の方に進んでいく。佑成は、いつもより歩くのが遅かった。道のほとんどが上り坂でお互い前だけ見ていたので会話をしなくていいのは気が楽だった。
が、坂を上り切ってしまった。
謝らねぇと。
俺は、佑成の顔を見た。
息を呑んだ。
佑成は泣いていた。
「っ、おい。」
俺は、思わず近くの公園に佑成を引っ張って行った。その顔で俺の母さんに会うのは嫌だろうと思ったからだ。
ベンチに荷物を放って、佑成にタオルを投げる。
「あ、それちゃんと使ってねぇやつな。」
言い逃げをして、自販機に俺は駆け寄る。
広い公園の、誰もいない無駄に広い砂場を突っ切る。足が深く沈んで歩きにくい。
できるだけゆっくり自販機に向かって、飲みきりサイズの小さいコーラを買った。
遠くからちらりと佑成を見ると、タオルでゴシゴシ顔を擦っていた。
またゆっくり歩いてベンチに戻れば、涙こそ止まったものの、目が腫れている佑成がぼうっと座っていた。
「ん。」
コーラを渡せば、小さく礼を言われる。
佑成が抜け殻になっちゃったみたいで、俺は何と声をかけていいかわからなかった。
「弟は。」
少しだけ、沈黙。蝉が、か細く鳴き出す。
「虐待を」
蝉の合唱が始まって、佑成の声が聞き取りにくくなる。
「ていうか、ネグレクトされてて。」
自然、佑成の声が大きくなっていき、言葉も堰を切ったみたいにどんどん溢れ出す。
──弟は、翼はお風呂も、ご飯も入っていなくて、こんな暑いのに、部屋の冷房も切れてた!
母親もいないし、馬鹿な俺の親父がいるはずなんてなくて、汚い畳に、死んじゃったみたいに弟が倒れてた。
叫ぶみたいな佑成の声が止むと、蝉もけたたましい群れでの合唱をやめた。
「俺、すごい怖かったんだ。」
息を切らしながら、絞り出したように言った佑成の顔色は真っ青で、夏なのに震えていた。俺は、より何と言ったらいいかわからなかった。
その夏の熱を、臭気を、絶望を、俺は見ていないのに、それでも佑成の言葉ひとつひとつには、それらがまとわり付いてくるようだった。
今思い出しただけでも、得体の知れない嫌な感情が胸に広がる。
「ねえ、兄さん。」
結の声がした。
「聞いてるのかな。僕は真面目に話しているよ。」
クソ暑いのに、横にひっついている弟の体温に俺の意識が今に戻る。
涼しい冷房の効いた部屋、風呂上がりの石鹸の香り、テレビの音。
ニュースはとうに終わっていて、いつのまにかバラエティ番組に切り替わっている。
「俺たちは、普通の家でよかったのかも。」
なあ、と家でしか言えないことを、三上兄弟の前では絶対に言っちゃいけないことをこぼす。
弟は、訳がわからないとため息をついた。
痺れを切らしたように、俺から離れて、チャンネルを変え始める。
呑気そうな弟の頭を、俺はガシガシと撫で回す。
「まぁ、結くんにもわかるように言うと、他人様の家には他人様の事情があるってこった。」
弟の青い目は、もう俺を見なかった。
全く、自分から聞いといて勝手な弟だと、俺は静かに笑った。
「てか、結、合宿どうしたの。」
ふと、我に返って俺は聞いた。
「監督が熱中症で倒れて中止だよ。」
弟は、俺にちらりとも目線をくれずに言い放つ。
「佑成さんのお見舞い、僕も行こうかな。」
なんでもないことのように、弟は言った。
きっと、俺が何も教えてくれない、とかなんとか言って、その『隠しごと』とやらを佑成から聞き出すつもりなんだろう。
「いいけど。」
佑成がお前に教えてくれるはずねェけど、という言葉は飲み込んだ。
「昼前から夕方になっからな。具体的な時間は、俺の補講が終わってから連絡する。」
わかった、と弟は言った。
