おうちに帰ろう

向日葵が西陽に照らされて俯いている。
じりじりと、暑い。
皮膚が焼けるような暑さに、汗が吹き出してくる。
俺の背より少し低い枯れかけの向日葵は、不気味で、陰鬱だ。
駅の向かいすぐにあるこの大きな病院は、室内だけではなく植栽にも気を配っているらしい。あちこちに大小の向日葵が植えられて、それぞれ西陽に隠れるように、重そうに俯いていた。
遠くで、電車が過ぎていく音が聞こえる。
ちら、とスマホを見遣れば通知欄に「10分遅れる」という文字。
時間を守らない先輩を放って置いて、僕は先に病院の中に入る。
いつもの、嗅ぎ慣れた匂い。
消毒された、というか、何かの薬品の匂い。
周囲には腰が曲がったおばあちゃんや、点滴を付けたまま、ゆっくりと歩いている色白の若い男の人。熱があるのだろうか、ぐったりしながら診察の順番を待つ小さな女の子と、心配するその母親。忙しなく動き回る看護師さんたち。
飾り気のない広いロビーの、端っこのほうのソファーに僕は腰掛ける。夏休みだっていうのに、僕たちは学校と病院をほとんど毎日行ったり来たりしていた。
ぐでん、と姿勢を崩して僕はソファーにもたれかかる。
お兄ちゃんは、いつ家に戻ってくるのだろうか。
無機質な電灯の張り付く天井を見上げて考えた。
「おお、どうした。翼も具合悪い?」
突然、顔を覗き込まれる。
見知ったその顔に、僕はびっくりして声をあげそうになった。慌てて天地を元に戻して、赤茶けた髪の男を正面から見つめ直す。
「あ、めみや。」
声が上擦ってしまったのが情けない。
雨宮は、その青い瞳でじっとぼくを見つめて、そして笑った。
「なあんだ、疲れてただけかよ。」
気恥ずかしさで目を逸らしながら頷いた。
よいしょと声をあげながら、雨宮が無造作に僕の隣に鞄を置く。ずしりとソファーが沈むのを感じたから、その鞄は相当重いらしい。
「何が入ってるの。」
鞄を見つめながら問いかける。
「おい、先輩に敬語使え翼クン。」
僕が無遠慮に覗き込んだ中には、何冊も本が入っていた。
「すごい量。」
「お前の兄ちゃん、推理小説好きだろ。」
まあ、そうだねなんて無関心な返事を返してしまう。雨宮がお兄ちゃんのことを話す時、僕はどうしたってそっけない態度をとってしまっていた。
対して雨宮は呑気に肩を回している。
重かったよね、と僕が話しかけた声は、看護師さんの大きな声で掻き消されてしまう。雨宮の名前が呼ばれたのだ。
「ほいほーい。」
間の抜けた雨宮の返事に、引っ張られるように僕も席を立つ。
いつもの廊下には、いつものお米の甘い匂いと味噌汁の匂いがする。お兄ちゃんの夕飯の時間は、この後らしい。補講や部活が終わった後になると、お見舞いはどうしてもこの時間になりがちだった。
軽そうな右開きのドアを看護師がノックすると、お兄ちゃんの声が返ってくる。
開けると、日が沈みかけてオレンジ色に染まった病室に、お兄ちゃんがいた。
「翼。」
花が綻んだみたいに、お兄ちゃんは笑いかけてくる。
「おいおい、俺もいんだけど。」
雨宮と軽口をたたくお兄ちゃんの髪は、元々長かったけれども、入院した時よりもちょっとだけ伸びていた。肩につくかどうかくらいのそれは、雨宮と笑うたびに、踊るみたいに揺れている。
そっと布団の合間からのぞいた脚のギプスは、やっぱり痛々しい。笑っていても、入院着を着たお兄ちゃんは、前よりずっと頼りなさげだ。
看護師さんは、「何かあればナースコールで呼ぶように。」と雨宮に念押しをして個室を去っていった。
「どうよ、調子は?」
ベッドの横には小さな丸椅子が置いてあって、そこに雨宮がどかりと座り込んだ。僕はその隣に座る。そこが、いつもの僕たちの定位置だった。
「良さそうに見える?」
「全っ然。」
ころころと笑うお兄ちゃんは、いくらかやつれているように見える。僕は不安になってお兄ちゃんの手を握った。
「翼。」
お兄ちゃんは、雨宮の方に向けていた視線をゆっくりと僕に戻して、目を大きく見開いた。
手をきつく握り返される。
僕は少し驚いて、その手を引いたけれども、お兄ちゃんは僕の手を離さない。僕の身体が、前にぐっと倒れた。
自然、僕とお兄ちゃんだけじゃなくて、僕と雨宮の顔も近くなる。
「お、お兄ちゃん。」
離して、と伝えてもお兄ちゃんは一向に手を解かない。
「ほら佑成、翼が困ってんぞ。」
雨宮の髪が夕日に照らされて、赤く光っている。お兄ちゃんと違って硬そうな髪が、つんつんと跳ねている。
困ったように笑う、雨宮の瞳を盗み見た。
青い空みたいな目。
少しつり目気味の雨宮の目は、笑うときゅうっと下に下がって途端に優しい顔になる。
僕は、雨宮のこの顔が大好きだった。
お兄ちゃんが、僕の手を少しだけ強く握った。反射的にお兄ちゃんを見ると、普段は優しい垂れた目が、じっと僕を見つめていた。
蜂蜜色の、色素の薄い瞳から感情は読み取れない。
ぞくり。
背中に、肌が粟立つような感覚が走った。
お兄ちゃん、と名前を呼ぼうとすると、雨宮が話し出した。
強く握られていた手が、ぱっと離される。
「これが、お前が前が欲しがってたやつ。こっちが、俺のおすすめ、で、こっちが──」
言いながら雨宮は、重そうな鞄から本を取り出してお兄ちゃんの膝の上に置いていく。
いつの間にかお兄ちゃんは、いつも通りに戻っていた。
興味深そう雨宮の話を聞いていて、ひとつ説明し終わるごと、雨宮がお兄ちゃんの顔を覗き込むから、二人はよく顔を見合わせていた。
二人とも、本当に幸せそうに笑うんだ。
これ以上見ているのが辛くて、僕は目線を下げた。
視界に入った僕の腕には、赤くお兄ちゃんの手の跡がついていた。握られていた部分はどくどくと強く脈打っている。
二人の笑い声が上がって、反射で顔を上げる。
本が膝に乗りすぎて、身動きが取れなくなったお兄ちゃんが笑っていた。つられて笑っている雨宮が、肩を震わせながら静かにしろってお兄ちゃんに言いかけていた。
「お兄ちゃん。」
お兄ちゃんは、小さな声だったのに、耳聡く僕の声を拾ったらしい。なあに、と唇を動かした。
雨宮も、お兄ちゃんの視線につられてか、僕の方に顔を向ける。
心臓が、どくりと大きく脈打った。
なんて言おうか、なんて、考えてもなかったから、僕は、視線を床に落として考え込んでしまう。何か言わないと、という焦燥感に囚われて意味のない声だけがこぼれ落ちる。
「焦んなくていいよ。」
お兄ちゃんはゆったりと笑った。
「翼、もしかしてあれのこと?」
雨宮が顔を近づけてくる。
「あれって何。」
しょうがねぇな、と雨宮は僕を見つめて、お兄ちゃんの方に向き直る。
「翼、この前の学内のテスト一番だったらしいぜ。」
ああ、あれのことか、と思ってお兄ちゃんの方を見れば目をキラキラと輝かせている。
「本当か?」
お兄ちゃんの顔は、さっきのやつれていた感じが嘘みたいにぱあっと明るくなる。
ああ、綺麗な顔だなあ、とぼんやり僕は思った。
夕陽を溶かしたみたいなお兄ちゃんの目は、垂れ目だけれども、切れ長で涼しげだから、女の子によくモテてている。アクション俳優みたいで、かっこいいんだって。
「すごいなあ、翼。」
お兄ちゃんは、ひっきりなしに僕を褒めた。自分が一番をとった時なんて、おすまし顔で喜んだりなんかしないくせに。
「な、すげえよな?」
雨宮が、お兄ちゃんと顔を見合わせた。
赤っぽい硬い癖毛と、空を閉じ込めたみたいな青い瞳。お兄ちゃんを見つめるその瞳は、僕が大好きなそれだった。
窓は閉め切っていたけれども、蝉の声が室内にまでよく聞こえた。真昼間よりも気温が下がっているから、きっと、蝉だって鳴きやすいんだろう。
俺は、この病室にいる間は、どんなにいたたまれなくても、泣くのを我慢しなきゃいけないのに。
「成績表出たら、また持ってくる。」
僕は、下を向きながら、なんとか絞り出した。
お兄ちゃんに変だって思われないように。
いつもの僕だって、ちゃんと思ってもらえるように。
コンコンと、扉の向こうから控えめなノックが聞こえる。看護師さんだろう。
きっと、もうお兄ちゃんの夕飯の時間なのだ。
「早くお前も退院して、学校来いよな。」
雨宮が立ち上がってお兄ちゃんに伝えた。
お兄ちゃんは、雨宮を見上げながら、ゆっくりと頷いて、微笑んだ。
蝉は、一向に鳴き止まない。
「うーん、やっぱり病院って独特の匂いあるよなァ。」
ロビーまで戻ると、雨宮は、くんくんと自分のシャツを嗅いでいた。
「汗の匂い以外わかんないよ。」
汗臭くねぇから、と雨宮から反論が飛んでくるが、無視する。
病院の外に出ても、蝉は鳴き続けていた。
ときどき、鼻をかむみたいにジジジ、と鳴くのが不愉快だった。
「夕飯、どうすんの。」
雨宮が僕に問いかける。
また心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「……食べてく。」
こういう誘いがあった時、僕は大抵、雨宮のお家で晩御飯をご馳走になっていた。
よしと雨宮は満足そうに言って、僕の頭をぐりぐりと撫でた。心臓が、もたない。
やめろ、と雨宮の手を静止しようとしたが、調子に乗ったこいつは止まらない。
「随分と素直でいいなぁと思ってよ。」
誰と比較してるか、なんて聞かなくてもわかるから、僕は、もやもやとした気持ちを飲み込んだ。雨宮の家にあるくうち、空がだんだんと暗くなってきた。日が長かったのも束の間、盆前は、十八時を過ぎると、それなりに暗くなってくるものだ。
「で、この前さ──」
雨宮のくだらない話は続く。
おしゃべりなこの男には、相槌すら必要ない。
ただ隣にいれば話を垂れ流してくれるから、僕は心地よかった。
でも。
お兄ちゃんは違うんだよな。
ぼんやりと、病室のお兄ちゃんを思い出す。
お兄ちゃんは、雨宮が話している時、絶対に相槌を入れる。すると、雨宮はさっきよりも嬉しそうに話し出す。
二人の隣にずっといたから、わかるんだ。
ねえ、雨宮。
僕とお兄ちゃん、顔はそこそこ似てると思うんだよ。それに、頑張れば僕だってお兄ちゃんみたいに立ち振る舞えると思う、きっと。
ねえ、雨宮。
なんで。
「ん?」
その空みたいな瞳に見つめられる。
しまった、声に出ていたかもと焦って、僕は口を手で塞ぐ。が、もう遅い。
「なんでって、ばーちゃんがぎっくり腰になる理由なんか知らねぇよ。」
雨宮は、大きな声で笑った。
てか、興味持つところそこかよと突っ込まれる。
よかった、会話は全く聞いてなかったけれども、奇跡的に、──雨宮の中では──噛み合ったらしい。
僕は、ふうと胸を撫で下ろす。
この恋心は、絶対にバレてはいけないのだ。
何があっても。
さっきの病院での光景を思い出す。
お兄ちゃんの少し長い前髪を、雨宮は耳にかけて、嬉しそうに笑っていた。
お兄ちゃんと雨宮は、きっと好き同士なのだ。
お兄ちゃんの蜂蜜色の瞳を思い出す。
僕が、お兄ちゃんの幸せを邪魔をできるはずない。
「どうしたんだよ、翼。」
熱気に蒸されて濃く香る道々の緑が鬱陶しい。
相当気分が良かったのだろう、雨宮は、僕の背中に腕を回してぐいぐいと押して歩く。あと雨宮の家まで十分もかからないだろう。
その手が熱くて、けれども、僕にその手を取る資格はどうしようもないくらいになくて。
ああ、まずい。本当に泣き出しそう。
ぐにゃと視界が歪む。
泣いちゃだめだ、と思った途端に涙が溢れる。
だめだと止めようとすればするほど、涙は溢れていく。僕は背を丸めて、鼻を啜った。
「翼?」
雨宮に、顔を覗き込まれる。見ないでほしい。暫く、一人にしてほしい。
「やっぱり、か、える。」
鼻声で、やっとの思いで僕は絞り出す。雨宮の背中に置かれた手を解いた。
解かれたが早いか、僕は近くの公園に向かって走り出した。
惨めで、情けなくて、だからこそ泣き顔なんてもっと情けないものを雨宮には見せたくなかったんだ。
「おーい翼ちゃーん?」
ざりざりと砂利を踏む音。
誰もいない緑の茂った公園に、わざわざ雨宮は僕を追っかけてきたみたいだった。
「こんなとこ座ってたら、蚊に刺されんぞ。」
声が降ってくる。
ベンチに座って俯いているうちに涙が止まらなくなった僕は、顔を上げることができない。それに、鼻声で泣いているのがバレるのも恥ずかしかった。だから僕は雨宮の言葉にうんともすんとも答えずに、声を殺して泣き続けた。
「ったく。」
僕の座っているところが、僅かに揺れる。
ぎし、と木製の古ぼけたベンチが小さな悲鳴を上げた。
「おら、もっとそっち詰めろ。俺座れないだろ?」
驚いて、思わず顔を上げた。
雨宮は僕の行動を予想していたかのように、そっぽ向きながら、ティッシュを僕に差し出していた。
「ありがと。」
蚊の鳴くような声で、僕はお礼を言った。
蝉はこんな時に限って鳴かない。僕の鼻を噛む音だけが僕たちの間を満たした。
「ほら、飲めよ。」
ぬるいペットボトルの水を、雨宮は僕の膝の上に乱暴に置く。容器の中の揺れる水を、僕はじっと見つめる。
「熱中症になっちゃうかもだろ。」
ぱっと雨宮の方を向いて顔を上げた。
雨宮は至極真剣な顔をしていた。日も落ちた後に、外でちょっと泣いたくらいで熱中症になる、なんて真面目な顔で言っている雨宮はなんだかおかしかった。
少しだけ、僕の口角が上がった。
雨宮の顔が、途端に明るくなる。
「ほら、早く飲め。」
急かされるように俺はペットボトルを開けて水を飲んだ。ぬるくてまずかった。
雨宮が横でぽつりと呟いた。
「兄ちゃんと比べられんの、嫌だった?」
雨宮の言葉に、胸がすっと冷たくなる。
ナイフを当てられた時みたい。
僕は、ゆっくりと頷いた。
「お兄ちゃんは、……。」
──お兄ちゃんは、格好良くて、人気者で、雨宮にも、クラスのみんなにも優しい。でも、僕だってお兄ちゃんと顔が似てるし、僕だって、みんなに出来る限り優しくしてるし、人気者にはなれないかもしれないけど、でも。
「僕だって……。」
僕だって、お兄ちゃんみたいになりたいよ。お兄ちゃんの弟なんだから。
そんな格好悪い言葉が、喉まで出かかって、けれども僕は吐き出すことを躊躇していた。
雨宮に、これ以上格好悪いところを見せたくないと思った。
「俺もわかるよ、そういうの。」
雨宮の青い瞳が、視線が、熱い。
「兄弟の一方が超優秀ってさ、結構疲れねぇ?俺ももうお腹いっぱいなんだよなあ。」
夏の空気に、雨宮の低い声が響く。
その目は、日の落ちてきた空を見ているようで、きっと違う何かを見ている。
「陸上、もうやりたくねぇの。」
雨宮の声は、いつもみたいに明るくない。
雨宮の横顔がなんだか泣き出しそうな顔で、僕は一層不安になった。
「あめみや。」
咄嗟に名前を呼ぶと、雨宮はこちらを振り向いた。
「やべ〜真面目な話しちゃった〜。」
雨宮は、いつも通りの顔をしていた。
さっきまでの悲しそうな顔が、演技だって言われても仕方ないくらい、おちゃらけた、いつもの明るい雨宮だった。
「なんで、強がるんだよ。」
酷い鼻声で僕は呟いた。
雨宮の弱いところを、──僕のお兄ちゃんに対する劣等感とよく似ているそれを──僕は聞きたかった。
「でもまあ、こういう真面目な話はさあ、専門外だからよ。」
ベンチを立って、僕たちはのろのろと雨宮の家まで歩いていく。
家に着くまで雨宮はいつも通り、ふざけた話を延々としていた。
いつのまにか、見慣れた家に着いていた。
雨宮が鍵を開ける音を聞くうちに、僕の涙も止まってきた。
ただいま、という雨宮の声に、おばさんがどこからかお帰りと返す。
僕の家じゃないのに、この家に来ると少しだけ安心する。
それが、今は少し怖かった。
二階に上がりながら、雨宮が話し出す。
「課題多いんだよなァ、翼終わった?」
「一年はニ年と違ってそんなに多くないから。」
「すげぇ早。」
勉強なんて、やらざるを得なかったからやっただけだ。
お兄ちゃんのいる学校に行きたかったから頑張っただけ。お兄ちゃんを、がっかりさせたくなかっただけだ。
通された雨宮の部屋は、普段のだらしのない言動とは打って変わって、本棚も、ベッドの上も、綺麗に整理整頓されている。
ふと、机の上のインスタントカメラが気になった。
「それね、一時期、スマホ禁止されてたことがあって、ンで、インスタントカメラでふざけていろいろ撮ってたンだよ。」
その中のお気に入り、と言って指さしてきたのは、学ランのお兄ちゃんと、同じく学ランの雨宮が、肩を組んで変顔をしてる写真だった。
「これで撮ると、すぐに撮った内容見れねェから、どんな変顔が映ってるかも、現像するまでのお楽しみってわけ。」
面白いだろ、と同意を求められたが、僕はあやふやに誤魔化した。
コルクボードをじっと見る。面白い面白くないではなくて、お兄ちゃんのこんな顔、初めて見たなと思った。
いつも涼しげで、大人びて見えたお兄ちゃん。病院で見たのはいつものお兄ちゃんで、ここの写真の中のお兄ちゃんは、別人みたいだ。
「お兄ちゃんは、雨宮にはこんな顔をするの。」
ん?と雨宮は不意に聞き返してくる。
そうだ、とも違う、とも言われなかった。
「佑成、意外にガキっぽく笑うっしょ。」
雨宮が、こっちを見つめて笑った。
その青い瞳も、赤茶けた硬い髪も、全部、全部、好きで苦しかった。
写真の中の、はしゃぐお兄ちゃんを見つめた。
やっぱり、雨宮のことなんか好きにならなければよかった、なんて。
「本当に、そうだね。」
お兄ちゃん、早く元気になってよ。
最近の雨宮、元気がないんだ。
いつもみたいに馬鹿やって、よく笑うけど、でもたまにぼうっとしてるんだよ。
お兄ちゃん、早く、早く、戻ってきて。
おばさんが、麦茶を持って雨宮の部屋に来た。慌ててお礼を言うと、そんなのいいよ、なんておばさんは照れくさそうに笑った。
最近、──お兄ちゃんが入院してからは特に──ほとんど毎日夕飯をご馳走になっていた。
「でも、ずっとお世話になりっぱなしで。」
僕が申し訳なさそうに呟くと、おばさんに背中を叩かれる。
「翼くんと佑成くんと、おばさんの仲でしょ。」
おばさんはなおも笑っていた。
「そーそ、母ちゃん言うみたいに、俺とお前らは幼馴染、兄弟みてェなもんだろ?」
不意に肩を抱かれる。
雨宮の高い体温が、僕の肌に伝わってくる。
じわじわと広がる、遅効性の毒みたいだ。
僕は、頷くので精一杯だった。

───

「醤油とって。」
雨宮が俺に言ってくる。
僕の右手の近くにあったそれを渡すと、サンキューと小さく礼を言われた。
「揚げ物に醤油は、センスを疑うんだけど。」
うるせえよ、と雨宮は言いながら、とんかつにドバドバと醤油をかけ始める。
「なんだか、懐かしいわね。」
おばさんが言った。
「佑成くん、大丈夫だった?」
雨宮が頷く。
「ちょっと転んだだけっつってたし。」
「でも、学校の階段から落ちたんでしょ?」
おばさんの言葉に、僕はどきりとした。
あの時のお兄ちゃんは。
──果たして事故で落ちたのだろうか。
僕は、あの日隣を歩いていたお兄ちゃんを思い出す。僕には話していた途中のお兄ちゃんが、急に視界から消えていたから、酷く驚いたのを覚えている。
でも、お兄ちゃんはそんなヘマ、普段はしないのだ。
「まぁ、左脚も軽い打撲って言ってたし。」
運動神経だっていいし、ただ僕の横を歩いていて、階段を踏み外すなんて、あまりにもお兄ちゃんらしくなかった。
僕が思考を巡らせながら、雨宮は話を続ける。
「頭は大丈夫らしいし。おかけで、本は普通に読んでるみたいだし、大丈夫だろ。」
あたたかい食事の匂いが、部屋に満ち満ちていた。
「てか、母さん、来月の大会なんだけどさぁ。」
僕はいつものように黙って雨宮の言葉に耳を傾けていた。来月、うちの学校が出る陸上大会があるのだという。
僕は啜る時の音が立たないように、ゆっくりと味噌汁に口をつける。
「父さん、今月帰ってくんのは?」
「再来週よ。」
雨宮はそっか、と小さく返事をした。
単身赴任しているという雨宮のお父さんは、それでもこの家に一ヶ月に一度は帰ってくるのだと雨宮から聞いていた。優しいお父さんだ、と僕は思う。
「そういえば結は、また空手の合宿?」
「そうなのよ、あの子ったらいろんな道場の合宿に顔出すもんだから。一体どこがお家なのかしら。」
僕が毎日のように雨宮の家でご馳走になっているのに、雨宮の弟、結さんとは殆ど顔を合わせたことがなかった。
そういえば、弟さんが空手を始めたんだって雨宮言ってたっけ。雨宮とお兄ちゃんとは仲が良いけれども、僕と雨宮の弟くんはそこまで親交はない。
雨宮より柔らかそうな赤っぽい癖毛に、青い瞳はくりくりと、小動物を思わせるような印象の明るい人だった、気がする。
「お前もその方が安心だよな、なぁ、翼?」
うん、と僕は頷いた。
いけない、また何も聞いていなかった。
こうやって自分の世界に浸って、思考を続けてしまうのは、僕の悪い癖だ。
ほら、翼もこう言ってるよ、と雨宮はおばさんに何かを主張していた。
「でも、佑成くんの退院の時期と被るからって、大会を辞退するなんて。」
三年生と一緒に出られる最後の大会なんでしょう、とおばさんは言った。
僕はひやりとする。
「えなんの話。」
僕は雨宮に向けて思わず声を上げる。
「さっき、お前も賛成してくれたろ。」
雨宮は唇を尖らせる。
いや、聞いていなかったよ、と僕は主張するが、雨宮は引く気はなさそうである。
「佑成だって今、大変だろうし、父さんも結もいないなら別に。」
俺やおばさんからやんやと言われるのが嫌になったのだろうか、雨宮はそっぽを向いてしまった。少し硬くなったご飯と、ぬるくなった味噌汁を勢いよくかきこんで、雨宮はご馳走様とこぼす。
「そもそも、俺走るの好きじゃねぇし。」
おばさんは、困ったような顔をしていた。
僕は、おばさんが黙ったのにつられて、何も言えなくなってしまっていた。
雨宮が自分の意思で決めたことなんだ。
尊重してやりたい。
けれども、胸がむかむかとする。
これが大人の言う胃もたれってやつ?と食卓にのぼるとんかつを見て思ったけれども、きっとそうじゃない。
雨宮が、お兄ちゃんを優先して、自分の大会を辞退するっていうのが、どうにも許せなかった。
雨宮は、夏休みの自分の補講後の時間を使ってお兄ちゃんに会いに来ていた。重い本を何冊もお兄ちゃんに持ってきてくれていた。
どうして、お兄ちゃんばっかり、と僕は思った。
実の兄に嫉妬なんて、ちゃんちゃらおかしいのはわかっている。
それでも、僕の胸は苦しかった。
お兄ちゃんは完璧だから、お兄ちゃんと雨宮は好き同士だから。
何度も何度も、僕は腹の中で自分を納得させるための言い訳を並べ立てる。
ぬるくなった味噌汁と一緒に、僕は胸のもやもやを無理矢理飲み込んで、手を合わせたのだった。