十七時。
夕闇が迫る、名古屋駅の改札前。
「茜ちゃん、本当に楽しかったよ。またいつでも名古屋においでね!」
葵先輩はそう言って、私の身体をギュッと抱きしめた。
「葵先輩、本当にありがとうございました。私、名古屋に来て、本当によかったです」
会社に寄ってから帰るという葵先輩とはそこで別れ、私は名古屋駅のコンコースにあるお土産屋さんに向かった。
「なにがいいかなぁ……」
名古屋のご当地土産は数多くある。
その中から職場のみんなのために選んだのは、創業老舗の『ういろう』の詰め合わせ。
白、黒、抹茶、小豆、コーヒー、ゆず、さくら……。
もちもちとした独特の食感と、噛むほどに広がる素朴な甘み。派手さはないけれど、どこかホッとするその味わいは、今回の出張で出会った名古屋の人たちの温もりに似ていた。
名古屋に来たときよりも増えた荷物を抱え、十八時発の東京行きのぞみに乗り込んだ。
往路と同じ窓際の席。けれど昨日の夜の座り心地とはまるで別物のようで、世界が全く違って見えた。昨日の夕方、逃げるように東京を飛び出したときは身体中の関節が固まり、息を吸うことすら苦しかった。でも今は、穏やかに呼吸ができている。
戻の外を流れていく名古屋の街並みの明かりが、夕闇の中にポツポツト灯り始めている。
私はカバンからスマートフォンを取り出すと、会社のチームチャットを開いた。
【柴田君、チームの皆さん。名古屋支社の案件、無事にクライアントと合意が取れました! 出張中のフォロー、本当にありがとうございました。週明けの月曜日、名古屋名物のういろうを持っていきますね。今後の進め方について皆さんの意見を聞きたいので、朝一でミーティングさせてください!】
そこまで一気に打つと、深呼吸をしてから送信ボタンを押した。
その直後。スマートフォンの画面には、柴田君をはじめとするチームメンバーからのスタンプが、滝のように流れてきた。
【小野寺さん、お疲れ様です!】
【さすがです! ういろう楽しみにしてます!】
【月曜日の朝までに、アイデアまとめておきますね】
次から次へとくるメッセージを見つめていると、口元が自然と緩んだ。
頼ることは怖いことじゃない。仲間を信頼すれば、みんなが温かく応えてくれる。
そして私は、もうひとつのトーク画面を開いた。
「拓海……」
行きに送った素っ気ないやり取りのあとに、私はぽつりとメッセージを打ち込んだ。
【拓海。出張の用件が早く終わったから、今から東京に帰ります。十九時四十分に東京駅に到着予定です。もし時間があったら、会いたいな……】
素直な気持ちをつづり送信ボタンを押す。今度は強がりではない、本当の自分の気持ちだ。
でも、返事は来なかった。画面は既読にもなっていない。
やっぱり、急すぎるよね。いきなり誘われても困るだけか……。
少しだけ切ない気持ちになりながら、スマートフォンをカバンにしまう。窓の外に目線を移すと、景色は漆黒の闇にすっかり包まれていた。
新幹線は静かに、けれど確実に東京へと近づいていた。
十九時四十分。
新幹線のぞみは、定刻通りに東京駅に到着した。
ドアが開きホームに降り立つと、十一月の東京の夜風が容赦なく私の頬を撫でた。
昨日までの私なら、この冷気に身を縮めていたことだろう。けれど今の私の身体には、名古屋で食べた味噌煮込みうどんの熱気も、小倉トーストの甘さも、ひつまぶしの深い味わいも、すべてがエネルギーとなって満ちていて、首元をすり抜ける風に身体がすくむことはない。
重くなったビジネスバッグを持ち改札へ続く階段を降りると、大勢の人が行き交う東京駅の中央口改札を目指す。
週末の東京駅は、いつも以上に人で溢れ返っていた。改札を出て人の波に吞み込まれそうになりながらも歩みを進めようとした、そのときだ。
「茜!」
雑踏の中から、聞き覚えのある声が私の耳にと届いた。その場で足を止め、辺りを見渡す。
すると人混みの向こう側に、息を切らせて立っている男性が見えた。それは見慣れた黒いコートの襟を立て、前髪が濡れたままの拓海だった。
「拓海!? どうしてここに?」
メッセージは未読のままだったのに……。
拓海は呆然と立つ尽くす私のもとへと駆け寄ると、膝に手を当てて荒れた息を整えた。
「ごめん。メッセージ気づくのが遅れて……慌てて家を飛び出してきたんだけど、間に合ってよかった……」
拓海の顔をじっと見つめる。その瞳には今まで見たことのないような必死さと、温かい光が宿っていた。瞬間、胸の奥がキュッと熱くなる。
「ごめんね、拓海。私、いつも仕事ばかりで強がって、拓海のこと後回しにして……。頼るのも下手で、素直になれなくて……。本当はね、すごく会いたかった。寂しかったの……」
声が震える中、今にも溢れ出しそうな涙を堪えながら、私は拓海の目を見て必死に気持ちを伝えた。
拓海は驚いたように目を見開いたあと、ふっと柔らかく破顔した。
「そっか……。なんか茜、顔つきが変わったね。少し優しくなってというか、茜がそんな風に話してくれたの、すごく嬉しいよ。ずっと頼りにしてほしいと思ってたんだ。頑張りすぎる茜を見るのが辛かった」
拓海はそう言うと、私の手からビジネスバッグを自然な動作で取り上げた。そして空いた私の右手を、ぎゅっと優しく握りしめた。
「お帰り、茜。出張、お疲れ様。無事に終わって、よかったね」
握りしめてくれている拓海の手は、とても温かい。
夜風に晒された私の指先は、少し冷たくなっていたはず。けれど拓海の大きな手から伝わってくる熱が、じわじわと皮膚の奥まで染みこんだ。
「うん、ただいま。ねえ拓海、聞いてほしいことがたくさんあるの。名古屋でね、美味しいものをたくさん食べてね……」
胸の中には、新幹線の中で食べた天むすの旨味。栄の地下街で向き合った、味噌煮込みうどんの湯気。名古屋での朝のモーニングで、トーストの上で溶けていった小倉あんとバターの甘く温かい余韻。葵先輩と行ったひつまぶし専門店の、香ばしい匂いは、いつまでも優しく残っている。
「わかった、わかった。その話、美味しいものを食べながら、ゆっくり聞くよ」
「うん。でも、拓海……少し歩きたいな。手、繋いだままでいい?」
「もちろん。ずっと離さないよ」
拓海は嬉しそうに微笑み、握る手に少しだけ力を込めた。
冷え切っていた私の手は、もう二度と凍えることはない。
私は拓海と並んで解けた心と温かい手を重ね合わせながら、新しい明日へと向かって力強く歩き出した。
END
夕闇が迫る、名古屋駅の改札前。
「茜ちゃん、本当に楽しかったよ。またいつでも名古屋においでね!」
葵先輩はそう言って、私の身体をギュッと抱きしめた。
「葵先輩、本当にありがとうございました。私、名古屋に来て、本当によかったです」
会社に寄ってから帰るという葵先輩とはそこで別れ、私は名古屋駅のコンコースにあるお土産屋さんに向かった。
「なにがいいかなぁ……」
名古屋のご当地土産は数多くある。
その中から職場のみんなのために選んだのは、創業老舗の『ういろう』の詰め合わせ。
白、黒、抹茶、小豆、コーヒー、ゆず、さくら……。
もちもちとした独特の食感と、噛むほどに広がる素朴な甘み。派手さはないけれど、どこかホッとするその味わいは、今回の出張で出会った名古屋の人たちの温もりに似ていた。
名古屋に来たときよりも増えた荷物を抱え、十八時発の東京行きのぞみに乗り込んだ。
往路と同じ窓際の席。けれど昨日の夜の座り心地とはまるで別物のようで、世界が全く違って見えた。昨日の夕方、逃げるように東京を飛び出したときは身体中の関節が固まり、息を吸うことすら苦しかった。でも今は、穏やかに呼吸ができている。
戻の外を流れていく名古屋の街並みの明かりが、夕闇の中にポツポツト灯り始めている。
私はカバンからスマートフォンを取り出すと、会社のチームチャットを開いた。
【柴田君、チームの皆さん。名古屋支社の案件、無事にクライアントと合意が取れました! 出張中のフォロー、本当にありがとうございました。週明けの月曜日、名古屋名物のういろうを持っていきますね。今後の進め方について皆さんの意見を聞きたいので、朝一でミーティングさせてください!】
そこまで一気に打つと、深呼吸をしてから送信ボタンを押した。
その直後。スマートフォンの画面には、柴田君をはじめとするチームメンバーからのスタンプが、滝のように流れてきた。
【小野寺さん、お疲れ様です!】
【さすがです! ういろう楽しみにしてます!】
【月曜日の朝までに、アイデアまとめておきますね】
次から次へとくるメッセージを見つめていると、口元が自然と緩んだ。
頼ることは怖いことじゃない。仲間を信頼すれば、みんなが温かく応えてくれる。
そして私は、もうひとつのトーク画面を開いた。
「拓海……」
行きに送った素っ気ないやり取りのあとに、私はぽつりとメッセージを打ち込んだ。
【拓海。出張の用件が早く終わったから、今から東京に帰ります。十九時四十分に東京駅に到着予定です。もし時間があったら、会いたいな……】
素直な気持ちをつづり送信ボタンを押す。今度は強がりではない、本当の自分の気持ちだ。
でも、返事は来なかった。画面は既読にもなっていない。
やっぱり、急すぎるよね。いきなり誘われても困るだけか……。
少しだけ切ない気持ちになりながら、スマートフォンをカバンにしまう。窓の外に目線を移すと、景色は漆黒の闇にすっかり包まれていた。
新幹線は静かに、けれど確実に東京へと近づいていた。
十九時四十分。
新幹線のぞみは、定刻通りに東京駅に到着した。
ドアが開きホームに降り立つと、十一月の東京の夜風が容赦なく私の頬を撫でた。
昨日までの私なら、この冷気に身を縮めていたことだろう。けれど今の私の身体には、名古屋で食べた味噌煮込みうどんの熱気も、小倉トーストの甘さも、ひつまぶしの深い味わいも、すべてがエネルギーとなって満ちていて、首元をすり抜ける風に身体がすくむことはない。
重くなったビジネスバッグを持ち改札へ続く階段を降りると、大勢の人が行き交う東京駅の中央口改札を目指す。
週末の東京駅は、いつも以上に人で溢れ返っていた。改札を出て人の波に吞み込まれそうになりながらも歩みを進めようとした、そのときだ。
「茜!」
雑踏の中から、聞き覚えのある声が私の耳にと届いた。その場で足を止め、辺りを見渡す。
すると人混みの向こう側に、息を切らせて立っている男性が見えた。それは見慣れた黒いコートの襟を立て、前髪が濡れたままの拓海だった。
「拓海!? どうしてここに?」
メッセージは未読のままだったのに……。
拓海は呆然と立つ尽くす私のもとへと駆け寄ると、膝に手を当てて荒れた息を整えた。
「ごめん。メッセージ気づくのが遅れて……慌てて家を飛び出してきたんだけど、間に合ってよかった……」
拓海の顔をじっと見つめる。その瞳には今まで見たことのないような必死さと、温かい光が宿っていた。瞬間、胸の奥がキュッと熱くなる。
「ごめんね、拓海。私、いつも仕事ばかりで強がって、拓海のこと後回しにして……。頼るのも下手で、素直になれなくて……。本当はね、すごく会いたかった。寂しかったの……」
声が震える中、今にも溢れ出しそうな涙を堪えながら、私は拓海の目を見て必死に気持ちを伝えた。
拓海は驚いたように目を見開いたあと、ふっと柔らかく破顔した。
「そっか……。なんか茜、顔つきが変わったね。少し優しくなってというか、茜がそんな風に話してくれたの、すごく嬉しいよ。ずっと頼りにしてほしいと思ってたんだ。頑張りすぎる茜を見るのが辛かった」
拓海はそう言うと、私の手からビジネスバッグを自然な動作で取り上げた。そして空いた私の右手を、ぎゅっと優しく握りしめた。
「お帰り、茜。出張、お疲れ様。無事に終わって、よかったね」
握りしめてくれている拓海の手は、とても温かい。
夜風に晒された私の指先は、少し冷たくなっていたはず。けれど拓海の大きな手から伝わってくる熱が、じわじわと皮膚の奥まで染みこんだ。
「うん、ただいま。ねえ拓海、聞いてほしいことがたくさんあるの。名古屋でね、美味しいものをたくさん食べてね……」
胸の中には、新幹線の中で食べた天むすの旨味。栄の地下街で向き合った、味噌煮込みうどんの湯気。名古屋での朝のモーニングで、トーストの上で溶けていった小倉あんとバターの甘く温かい余韻。葵先輩と行ったひつまぶし専門店の、香ばしい匂いは、いつまでも優しく残っている。
「わかった、わかった。その話、美味しいものを食べながら、ゆっくり聞くよ」
「うん。でも、拓海……少し歩きたいな。手、繋いだままでいい?」
「もちろん。ずっと離さないよ」
拓海は嬉しそうに微笑み、握る手に少しだけ力を込めた。
冷え切っていた私の手は、もう二度と凍えることはない。
私は拓海と並んで解けた心と温かい手を重ね合わせながら、新しい明日へと向かって力強く歩き出した。
END
