午前十時。
クライアントである大手メーカーの会議室では重苦しい空気が漂う中、卓上に置かれた資料の山の手前で相手の営業役員である佐藤常務は腕を組み、不機嫌そうに私たちを睨みつけている。
「小野寺さん。今回の仕様の変更は、わが社としては到底納得できない。スケジュールも押しているし、これ以上のコスト増加は認められないと伝えたはずだが?」
佐藤常務の厳しい声に部屋全体を支配するピリピリした空気が加わって、隣にいる葵先輩が静かに息をのんだのがわかった。
以前の私ならこの圧倒的なプレッシャーに喉を詰まらせ、ひとりですべての責任を背負おうとして意を痛めていたことだろう。
でも、今日の私は違う。
手のひらを一度ぎゅっと握りしめ背筋をピンと伸ばすと、佐藤常務の目を真っすぐに見つめた。
「佐藤常務の、ご指摘の通りです。事前の確認不足によりご迷惑をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます」
私は深々と頭を下げそうお詫びすると、すばやく資料を開いた。
「ですが、今回ご提案する仕様の変更は、御社のエンドユーザー様がより使いやすくするための必須の修正です。スケジュールに関してはわが社の東京チームと名古屋支社が連携し開発リソースを分散させることで、当初の納期通りに納品いたします」
私は佐藤専務に自分の言葉でしっかりと説明しつつ、技術的な仕様のサポートについては隣に座る葵先輩へ迷わず視線を送る。それに気づいた彼女が力強く頷いた。
「名古屋支社の矢野が、現地でのデザイン調整をリアルタイムで行います。ひとりで抱え込まず、チーム全体で御社のプロダクトを支えさせていただきます。なので、どうかこの案で進めさせていただけないでしょうか?」
しばらく沈黙が続き、会議室を静寂が支配する。一秒が一時間にも感じられるような緊張感の中、佐藤常務の険しい表情がふっと緩んだ。
「……なるほど。小野寺さんはいつもひとりで抱え込んではテンパっていると思っていたが、ずいぶんといい顔をするようになったじゃないか。君の隣にいる矢野さんも、たいそう頼もしいかぎりだ。いいでしょう。短時間でここまで現実的なリカバリー策を練ってくれたのなら、今回はこの案で進めよう」
佐藤常務は書類に判を押すと、私に向かって手を突き出した。
「必ず、納期厳守で頼みますよ」
「はい! ありがとうございます!」
会議室を出た瞬間、私と葵先輩は顔を見合わせハイタッチを交わす。
「やったね! 茜ちゃん、完璧だったよ!」
「いえ、葵先輩が隣にいてくれたからです。 私はひとりじゃないんだって思えたから……」
緊張の糸が解け、その場にしゃがみ込む。すると、激しい空腹感が押し寄せてくる。
それもそのはず。時計を見ると、時刻は十三時を回っていた。
「さて! 大仕事を終えたんだから、ご褒美に勝利の宴よ! ちょっと奮発していきましょう!」
そう言って葵先輩が連れて行ってくれたのは、老舗料亭のような趣のある老舗のひつまぶしの専門店。
格式高い和室の個室に通され、注文して待つこと二十分。テーブルに運ばれてきたのは、漆塗りの重厚なおひつだ。
「さあ、開けてみて」
「はい!」
思いっきり蓋を開けた瞬間、香ばしいタレの焦げた匂いと、うなぎの豊かな脂の香りが部屋中に広がった。おひつの中には艶やかなタレを纏い香ばしく焼き上げられたうなぎが、ご飯が見えないほどギッシリと敷き詰められている。
「ひつまぶしは四等分にして、三通りの食べ方を楽しむのよ」
「三通りですか?」
葵先輩の教えに従いながら、木べらで重箱の中に十字の切れ目を入れる。
一杯目はそのままで──。
お茶碗に四分の一を盛って、そのまま口へと運んだ。
バリッと備長炭で焼かれた皮目の香ばしい食感のあと、ふっくらとしたうなぎの身が口の中で解けていく。コクのある甘辛いタレが染みこんだ、温かいご飯と一緒に掻き込む。
まさに、文句なしの絶品だ。
二杯目は薬味を添えて──。
次の四分の一をお茶碗に盛り、薬味ネギ、刻み海苔、すりおろしたワサビを乗せる。
ワサビの爽やかなツンとした辛みと薬味ネギのシャキシャキ感がうなぎの上質な脂と合わさり、全体がギュッと引き締まる。
一杯目とは全く違う、さっぱりとした味わいだ。
三杯目は出汁をかけて──。
さらに次の四分の一をお茶碗に盛り、薬味を乗せた上から熱々の出汁を注ぎ込む。それをサラサラと、お茶漬けのように掻き込む。昆布と鰹の優しい出汁の旨味とうなぎの脂が溶け合い、上品で優しい味わいが胃に染み渡っていく。
「美味しい……。食べ方を変えるだけで、こんなに新しい美味しさに出会えるなんて……」
「ふふ、そうでしょ?」
葵先輩はうなぎを頬張りながら、満足そうに微笑んだ。
「頑固に、ひとつの食べ方にこだわらなくていいの。それは人間だって同じ。場面に合わせて、いろんな顔を見せればいいのよ。茜ちゃんも『鉄の小野寺』だけじゃなくて、甘えん坊の茜ちゃんも出していけばいいんだからね」
「甘えん坊の茜ちゃん……ですか?」
それはそれで、小恥ずかしい気もするけれど……。
そして私は最後の一杯を、葵先輩の優しい言葉に包まれながら、一番気に入った薬味乗せで締めくくった。
店を出るころには心も身体もこれ以上ないほどの充実感と温もりで満たされていて、私は心の中で強く決心していた。
東京に戻ったら、チームのメンバーをもっと頼ろう。そして距離があった拓海とも向き合って、自分の気持ちをちゃんと伝えよう──と。
