バターと小倉と、冷えた心がほどけるとき

 
 翌日、土曜日の朝。午前七時。
 ホテルのベッドで目を覚ました私は、自分の身体の軽さに驚いた。昨夜あれほど疲弊していた身体は芯から温まり、すっきりと軽くなっている。
 昨夜の味噌煮込みうどんを食べたときに出た汗と一緒に、毒素も流れ落ちたかのようだ。けれどベッドの脇に置かれたバッグを目にすると、胸の奥が再びキュッと小さく縮こまる。
 今日のクライアントとの打ち合わせは、午前十時から。名古屋支社の葵先輩と共に、クライアントの役員へのお詫びと仕様の変更を再提案する。彼女とは、現場で九時半に集合することになっている。

 それまで、どうしようか……。

 ベッドの上で両腕を上げ身体を伸ばしていると、ふと昨晩葵先輩から来たメッセージを思い出す。
【名古屋の朝はホテルじゃなくて、近くの古い喫茶店に行くといいわよ。あそこは時間がゆっくりと流れているし、名古屋の真髄があるから】
 真髄の二文字に小首をかしげながらも私は手早く身支度を整え、葵先輩からのメッセージと一緒に届いたURLを頼りにホテルを出た。
 
 十一月の名古屋の朝の空気は澄んでいて、ひんやりと冷たい。栄の街を少し歩くと、大通りから一本入ったところにレトロなレンガ造りの喫茶店を見つけた。看板には『喫茶店 古時計』と書かれている。
 重厚な木製のドアを開けると、カランコロンと心地よい鈴の音が鳴り響いた。店内は深い琥珀色の木製カウンターとエンジ色のベロア地のソファとテーブルが並んでいて、昭和の時代で時間が止まったかのようなノスタルジックな空間が広がっている。
 そこに香ばしいコーヒー豆の香りが満ちていて、気持ちを落ち着かせてくれた。

「いらっしゃい」
 
 そう言いながら店の奥から出てきたのは、白いエプロンをきっちりと身につけた小柄なおばあさん店主。

「窓際の席がおすすめだけど、お好きな席へどうぞ」
 
 私は迷わず、窓際のふたり掛けのソファに腰を下ろす。ビロードのシートが、私の身体を深く包み込んでくれた。

「ご注文は?」
「ホットコーヒーをお願いします」
「はいよ。モーニングはつけるかね?」
「モーニング……ですか?」
「そう。朝はドリンク代だけで、トーストと卵がつくのよ」
「そうなんですね。じゃあ、お願いします」
 
 名古屋にモーニング文化があるって、聞いたことがあるけれど……。
 
 それがどんなものなのかはわからない。
 温かいおしぼりで手を拭うとじんわりとした熱が指先に伝わってきて、かじかんでいた関節が少しずつ柔らかくなっていく。
 少し手持無沙汰になってスマートフォンを取り出し、拓海とのトーク画面を開く。昨日私が送った【ごめんなさい】という短い返信のあと、やり取りは止まったままだ。
 
 私、拓海にも強がってばかりだったかも……。
 
 彼への配慮や思いやりが足りなかったといまさらながらに気づき、ため息が漏れる。
 そして数分後。おばあさんが運んできたトレーを見て、私は思わず息をのんだ。

「えっ……これ、注文間違えていませんか?」
 
 テーブルに置かれたのは、頼んだ深煎りのブレンドコーヒーだけではない。
 厚さが三センチ以上はあると思われる焼きたてのバタートースト。さらに小鉢に入ったミニサラダと艶やか小倉あん、まだ温かさの残るゆで卵だ。

「間違いじゃないよ。これでワンコイン、五百円」
 
 そう言って店主のおばあさんは、誇らしげに微笑んだ。

「でも、私……ホットコーヒーしか頼んでないんですが……」
「だから、それがさっき言ったモーニングだよ。名古屋の人はね、朝から仕事を頑張る人に『今日も元気にいってらっしゃい』の気持ちを込めておまけをつけるの。サービスしないと気が済まない、おもてなしの心だよ」
 
 ぽかんとしている私におばあさんは「ゆっくりしていきないさいね」と言い残し、厨房へと戻っていった。私はまだ、トーストを見つめたままだ。
 きつね色にこんがりと焼けた食パンの表面には格子状の切れ目が入っていて、そこへ溶けたバターがしゅわしゅわと泡を立てて染みこんでいる。
 
 名古屋のモーニングって、すごい!

 そう思いながお皿に添えられたスプーンで小倉あんをすくい、熱々のトーストの上にたっぷりと乗せて大きな口でかぶりついた。サクッと香ばしい食パンの表面が弾けた次の瞬間、その中に隠されていたふわふわの生地がひょっこりと顔を出す。
自由気ままに染みこんだバターの塩気とコクに、小倉あんの上品で優しい甘さが絡みついてくる。

「美味しい!」
 
 一見相反する“甘い”と“しょっぱい”ふたつの味が、口の中で見事なまでの完璧なハーモニーを奏でている。小倉あんの小豆は皮まで柔らかく炊きあげられていて、つぶつぶとした触感がなんとも心地よい。
 そして私は、すかさず温かいコーヒーを口に含んだ。苦みと酸味の効いた濃い目のブレンドが小倉あんとバターの味をさっと洗い流し、口の中をリセットしてくれる。
 サクッ、しゅわ、甘い、しょっぱい、苦い──。
 なんともいえない、この無限ループ。
 おまけという名の、名古屋の街の優しさに感服だ。
 東京での朝食といえば、時間を惜しみ効率ばかりを求め、コンビニで買ったパンをデスクで叩き込むように食べていた。でも名古屋の朝には、こんなにも豊かな時間がある。
 温かいものを食べて自分の胃と心を満たし、今日も一日がんばろうと心に余裕の時間を作る。
 
 誰かを頼ってもいい。甘えてもいいんだよ……。
 
 そう言ってもらえたような、そんな気持ちが膨らんでくる。
 バターの染みこんだトーストを噛みしめながら、私の心の中にじんわりと温かい勇気が湧いてくるのを感じた。

「ごちそうさまでした」
 
 レジで会計を済ませると店を出る。すると、朝の冷たい空気が頬を撫でていった。